昨日の入試の話だが、正確には二浪までの男子に大きな加点をし、三浪以上の男子には少し加点し、女性は加点なしで差をつけてたようで、減点ではなかったようだ。まあそれにしても三浪男子より女子が下とは困ったもんだ。しかも昔からの習慣ではなく2011年くらいから始まったというから、伝統でも何でもない。
台風が近づいていて今日も曇りがちでぱらぱらと雨が降ったりもした。インドネシアでは地震もあったし、いろいろなことが起こる。
今日広島原爆の日だが、北朝鮮の核廃絶はどんどん遠のいてゆく。核廃絶は万人が一致しても、どこから廃絶するかとなるといろいろ政治が絡んで結局分けのわからないことになる。
それでは「秋ちかき」の巻の続き。
二表
十九句目。
足袋ぬいで干す昼のかげろふ
年頭にちいさきやつら共させて 芭蕉
正月に転じる。おそらく僧侶とお稚児さんだろう。芭蕉の得意のネタだ。「足袋」からそれと言わずして匂わす匂い付けになる。
二十句目。
年頭にちいさきやつら共させて
隠すたよりを立ながらきく 木節
「たより」は消息のこと。みんな隠していてなかなか喋ってくれない愛しい人の消息も、子供なら喋っちゃったりする。
二十一句目。
隠すたよりを立ながらきく
行燈の上より白き額つき 惟然
よく肝試しのときに幽霊役の人は懐中電灯で顔をしたから照らしたりするが、行燈の上の白い額はまさにそれだ。「み~た~な~~」とか言いそうだ。
最近だと、夜スマホを見ながら歩いてる女の人が恐い。
二十二句目。
行燈の上より白き額つき
畳に琵琶をどつかりと置 芭蕉
前句を一転して琵琶法師の額にする。夜に物語しに呼ばれてきた時の情景なのだろう。
二十三句目。
畳に琵琶をどつかりと置
半蔀は四面に雨を見るやうに 支考
「半蔀(はじとみ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「上半分を外側へ吊(つ)り上げるようにし、下半分をはめ込みとした蔀戸(しとみど)。」
とある。謡曲の『半蔀』もあるように、この言葉は『源氏物語』の夕顔巻の最初の部分を連想させる。
「御車(みくるま)いるべき門はさしたりければ、人してこれみつ(惟光)めさせて、またせ給(たま)ひけるほど、むつかしげなるおほぢのさまをみわたし給(たま)へるに、この家のかたはらに、ひがきといふ物(もの)あらたしうして、かみははじとみ四五けん斗(ばかり)あげわたして、すだれなどもいとしろうすずしげなるに、をかしきひたひつきのすきかげ、あまたみえてのぞく。」
(車を入れようとすると門は錠が鎖されていて、人に惟光を呼んで来させて、来るのを待ちながら、ごちゃごちゃとした大通りの様子を眺めていると、乳母の家の隣に真新しい檜を編んで作った檜垣があり、その上半分は半蔀(はじとみ)という外開きの窓になっていて、それが四五軒ほど開いた状態になり、そこに掛けてある白い簾がとても涼しげで、女の可愛らしい額が透けて見えて、みんなで外を覗いているようでした。)
普通の家屋の半蔀は一方しか見えない。「四面に雨を見る」というのはひょっとしたら能の舞台で用いられる人一人入れるようなボックスのことだろうか。前面が半蔀になっているが、役者がちゃんと見えるように四面は柱だけで何も覆われていない。
そうなると、前句の琵琶は謡曲『絃上』だろうか。ここではシテの老翁が雨の降る須磨の塩屋で琵琶を弾く。
この句はわかりにくいが、畳の上に置かれた琵琶から、これで謡曲の『絃上』を真似て、雨に琵琶を弾く雰囲気を出すとしたら、謡曲『半蔀』にあるような小さな小屋の作り物があるといいな、というそういう句だったのかもしれない。
二十四句目。
半蔀は四面に雨を見るやうに
竹の根をゆく水のさらさら 惟然
「さらさら」という擬音の使い方は、惟然の後の作風を連想させる。
半蔀から窓の外に植えられた竹を出し、「雨を見る」を四面から流れてきた雨水としてそれが竹の根元をさらさらと流れるとする。四つ手付けで単純な景色に転じて遣り句する技術はなかなかだ。
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