今日は近所の早野にヒマワリを見に行った。
七夕といえば芭蕉は『奥の細道』の旅で、
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
の二句を詠んでいる。この二句については、既に鈴呂屋書庫にある『奥の細道─道祖神の旅』の第五章、一、七夕の二句でも触れているが、「荒海や」の句に関して、これを二物衝突の写生句とするのは近代的解釈で、本来は「荒海は佐渡によこたふ天河(なる)や」の倒置で、流刑の地である佐渡島の前に冷酷に横たわっているこの荒海を、織姫彦星の仲を引き裂いている天の川に喩えたものだ。
こう考えることで、この時期の天の川が佐渡の方に懸からないことも説明できる。
この文章で拉致被害者のことにも思いをはせて、「荒海は今も横たう天の川なのか」と書いたが、未だに歴史は動いてない。二つの異なる体制の間で、多くの人が行き来を許されないままになっている。
さて、もう一句の、
文月や六日も常の夜には似ず 芭蕉
だが、この句は直江津で七月六日に行われた興行の発句だった。
この句も「文月の六日も常の夜には似ずや」の倒置で、これは興行の行われた特別な日であり七夕の前日でもある。織姫彦星も明日の逢瀬の前にきっと特別な気分でいることであろう、ということも含まれている。
この日の曾良の『旅日記』には、
「聴信寺ヘ弥三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。」
とある。当初は聴信寺を予定していたが忌中のため変更になったようだ。持病で身動き取れない芭蕉のために曾良も大変だったようだ。
この日は古川市左衛門方での興行だったのだろう。この宿は「上越タウンジャーナル」によれば、「古川屋」(有限会社古川屋旅館)として二〇一二年一月末まで営業してたという。
脇は左栗が付ける。曾良の『俳諧書留』には石塚喜衛門と記している。どういう人なのかは浴わからない。
文月や六日も常の夜には似ず
露をのせたる桐の一葉(ひとつば) 左栗
桐の葉に夜露が降りて、六日の月の光にきらめいてます。露は客人である芭蕉さんの比喩でもある。
第三は曾良が付ける。
露をのせたる桐の一葉
朝霧に食焼(めしたく)烟立分て 曾良
朝の景色に転じる。「烟立分(けぶりたちわけ)て」は万葉集の国見の歌を髣髴させる。
四句目。
朝霧に食焼烟立分て
蜑(あま)の小舟をはせ上る磯 眠鴎
眠鴎は曾良の『俳諧書留』に聴信寺とあるところから、そこのお坊さんであろう。
句の方は、やはり万葉時代のイメージで漁から帰って来た海人の小舟を海から担ぎ上げて陸に持ってゆく姿が描写されている。
五句目。
蜑の小舟をはせ上る磯
烏啼むかふに山を見ざりけり 此竹
此竹は石塚善四郎とある。石塚喜衛門の一族であろう。
カラスは啼いても帰って行くような山は見えない。比喩として須磨明石に流された流人が帰る所を失ったのを嘆く趣向になる。
このあたりは、ある意味では近代の文士が付けそうな句でもある。古代の風雅に憧れて、特にひねりもなくそのまま景物で繋いでゆき、ある意味写生のようでもある。ネタに走る都会の俳諧に対し、田舎の俳諧はこういう調子のものが多かったのかもしれない。ただ、貞門や談林のような古い体ではなく、やはり蕉風確立期の体ではある。
六句目。
烏啼むかふに山を見ざりけり
松の木間(こま)より続く供やり 布嚢
布嚢も「同源助」とある。石塚家の一族であろう。
「供やり」は「供槍」で、槍を担いだ従者で、大名行列の時には大勢の供槍が続く。「下にー、下にー」と言って飾りのついた長い槍を、時雨にも負けず振り立てる槍持ちとはまた別物のようだ。
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