2017年10月31日火曜日

 朝鮮通信使に関する資料と上野三碑が世界記憶遺産に登録が認められた、というニュースがあった。
 朝鮮通信使は芭蕉の時代だと天和二年の秋に来ている。ただし、俳諧のネタにはならなかったようだ。この頃の芭蕉は深川に隠棲し、発句も興行も限られている。春には古池の句の着想を得、新たな俳諧を模索していた時期で、冬には「詩あきんど」の巻を巻くが、直後八百屋お七の大火に見舞われ命からがら隅田川に逃れ、第一次芭蕉庵を失った芭蕉は、その後しばらくは甲斐で過ごすことになる。
 貞享元年の『冬の日』「狂句こがらし」の巻の五句目、

    かしらの露をふるふあかむま
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき    杜国

は何か関係あるのかもしれないが、よくわからない。
 朝鮮通信使は日本の朱子学の発展に大きく貢献したから、それが朱子学神道の大家吉川惟足の門下生である岩波庄右衛門(曾良)を通じて、芭蕉の不易流行説にも影響を与えたと言えなくもない。そういうわけで、不易流行の起源は韓国にあるニダと、芭蕉を韓国に広めてほしいものだ。芭蕉の句には「恨(ハン)」の心に通じるものもあると思う。
 上野三碑は正直初めてその名前を聞いた。ほとんどの日本人はそうなのではないかと思う。群馬の方では学校で郷土史として習うのかもしれないが、全国的にはまったくの無名だ。
 そういうわけで急遽ググってみて、ようやく高崎市に山上碑(六八一年)、多胡碑(七一一年)、金井沢碑(七二六年)の三つの碑の古い碑があるというのがわかった。
 芭蕉が「壺の碑」として感動の涙を流した多賀城碑が七六二年だから、それよりも古い。
 で、何を記した碑なのかというと、ニュースでは書いてない。ネット上に熊倉浩靖さんの「古典としての上野三碑」という論文のPDFに、詳しい解説があった。

2017年10月30日月曜日

 今日は台風一過のいい天気だったが、なぜか富士山は黒い姿に戻っていた。地上では木枯らしが吹いているというのに。
 さて、「猿蓑に」の巻、二の裏に入り、一気に挙句の果てまで。

三十一句目

   寝汗のとまる今朝がたの夢
 鳥籠をづらりとおこす松の風    惟然

 松風のシューシュー言う悲しげな音は無常の音。それは悟りの音でもある。

  深くいりて神路のおくをたづぬれば
     また上もなき峯の松風
                 西行法師

の歌もある。無常を悟った時に無明の悪夢から目覚める。
 それだけだと説教臭くなるので、夢から醒めて悟りを得る心を裏に隠しながらも、鳥籠の鳥の鳴き声に目覚める普通の朝の情景に作っている。
 惟然は俳号としては「いぜん」と読むが僧侶としては「いねん」と読む。その僧侶としての「いねん」を覗かせる一句だ。

三十二句目

   鳥籠をづらりとおこす松の風
 大工づかひの奥に聞ゆる      芭蕉

 かごの鳥たちが鳴き出す頃、大工さんも朝早くから仕事を始める。まさに朝飯前の仕事だ。

三十三句目

   大工づかひの奥に聞ゆる
 米搗もけふはよしとて帰る也    支考

 「米搗」は精米作業のことで、臼に玄米を入れて杵で叩く。昔は玄米のまま保管し、その日使用する分だけを搗いていた。都市ではお米屋さんが来て搗いてくれたりもしたのだろう。
 大工さんもトントントン、米搗きもトントントンで、文字通り響きで搗く。

三十四句目

   米搗もけふはよしとて帰る也
 から身で市の中を押あふ      芭蕉

 ここで順番が変って、惟然が付けるべき所に芭蕉さんが来ている。おそらく花の定座を惟然に譲るためだろう。これまで芭蕉は花一句月二句を詠み、支考が月を一句詠んでいるが、惟然はどちらも詠んでいない。
 句は米搗きを終えて帰るお米屋さんが手ぶらで市場の中を通り過ぎるというだけのやり句で、花呼び出しと言えよう。賑わう市はまさに人の花。さあ、惟然さん、どんな花を咲かしてくれるのか。

三十五句目

   から身で市の中を押あふ
 此あたり弥生は花のけもなくて   惟然

 ちょっ、待てよ、そりゃないだろうって、花を出さないの?
 まあ、この肩透かし感は斬新だったのかもしれない。
 陸奥の方の花の遅い地方をイメージしたのだろう。花は咲かなくても市場は人で賑わっている。人の花にやがて咲くべき桜の花の匂いだけを付けたこの意外な展開に、芭蕉さんも「これもありか」と驚いたかもしれない。利休の水盤の一枚の花びらのような句だ。

挙句

   此あたり弥生は花のけもなくて
 鴨の油のまだぬけぬ春       支考

 春の遅い地方ということで、鴨の油も抜けない春と結ぶ。
 鴨は冬にたっぷり脂肪をつけ、春になると減らしてゆく。
 この句に春の目出度さが欠けているという人がいるみたいだが、とんでもない。春になってもまだたっぷり油の乗った鴨が食べられるって、目出度いじゃないか。
 最後の二句は伝統的なパターンを思いっきりはずした実験的な終わり方で、芭蕉はこの二人に後の俳諧を託したのであろう。
 ただ、芭蕉亡き後、待っていたのは分裂だった。「大せつな日が二日有暮の鐘」の咎めてにはは結局芭蕉の弟子たちには効果なかったようだ。
 これから大阪へ酒堂と之道の喧嘩の仲裁に行くのだが、これも芭蕉さんのいる時だけは仲直りしたふりして、結局不調に終わる。幸いなのは、芭蕉さんが弟子たちの分裂の中で衰退してゆく俳諧の姿を見ずにすんだことくらいか。

2017年10月29日日曜日

 今日は旧暦九月十日。今週ももうすぐ台風が来る。今日も一日雨だった。
 それでは「猿蓑に」の巻の続きを。

ニ十三句目

   喧嘩のさたもむざとせられぬ
 大せつな日が二日有暮の鐘     芭蕉

 これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。
 ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日、その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。
 今日なら喧嘩は戦争に置き換えてもいいかもしれない。みんな親に大切に育てられた子供たちだ。無駄に殺しあうことなかれ。ただ、いろいろな家庭があって虐待された子供たちもいたりするから世の中難しい。ちなみに江戸時代は幼児虐待は死刑だった。

ニ十四句目

   大せつな日が二日有暮の鐘
 雪かき分し中のどろ道       支考

 さて、しんみりした後の展開は難しいが、ここは気分を変えたいところだ。
 とりあえず「暮れの鐘」は年末の除夜の鐘のことにして、参道の雪かきをしたが、多くの人が残った雪を踏みしめて通るため、かえって泥道になって歩きにくくなるという「あるある」で展開する。

二十五句目

   雪かき分し中のどろ道
 来る程の乗掛はみな出家衆     惟然

 「乗掛」は乗り掛け馬で、ネットで調べた所、児玉幸多『宿場と街道』の引用で、

「(二)乗掛(乗懸)というのは、人が乗って荷物をつけたものをいう。馬の背の両側に明荷(つづら)を二個つけ、その上に蒲団をしいて乗る。明荷は今では相撲が場所入りの時にまわしや化粧まわしを入れて持ち運ぶために使われている。その荷を乗懸下とか乗尻という。乗掛荷人共というのは、人と荷物がある場合ということである。乗尻の荷物は、慶長七年の規定では十八貫目ということになっていたが、後には二十貫目までとなり、ほかに蒲団・中敷・跡付・小付などで、三、四貫目までは許された。それと人の目方を合わせれば四十貫ぐらいになるわけで、その賃銭は本馬と同じであった。」

とあった。
 北国の大きなお寺の法要だろうか。大荷物を抱えたお坊さんたちが馬で次々とやってくる。そのせいで雪かきした道は泥道になる。

二十六句目

   来る程の乗掛はみな出家衆
 奥の世並は近年の作        芭蕉

 陸奥の作柄は近年にない豊作だという。寺領の豊作でお寺関係はさぞかし潤ったことだろう。

二十七句目

   奥の世並は近年の作
 酒よりも肴のやすき月見して    支考

 前句が秋に転じたところで、ここで遠慮せずにすかさず月を出すのがいい。
 前句を商人などの噂話とし、それとは関係なく月見の情景を付ける。
 何かと見栄を張りがちな武家の月見と違い、商人は質素な肴で酒を楽しむ。「やすき」は廉価と気軽の両方の意味を掛けている。

二十八句目

   酒よりも肴のやすき月見して
 赤鶏頭を庭の正面         惟然

 芭蕉が福井の洞哉の所を尋ねた時の『奥の細道』に、、

 「市中でひそかに引入て、あやしの小家に夕貌・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。」

とある。路地裏の小さな家の庭など、どこにでもある花だったのだろう。「肴のやすき」の貧相なイメージから、貧相つながりで付けたのだろう。
 薄だったら農家の風情で、菊だったら武家の立派な庭、商人には鶏頭が似合うというところか。
 なお、鶏頭は食用にもされていたか、

 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花  嵐雪

の句もある。嵐雪のような風流人が知らなかったのだから、この時代には既に廃れていたのだろう。

二十九句目

   赤鶏頭を庭の正面
 定まらぬ娘のこころ取しづめ    芭蕉

 この巻にはなかなか恋の句が出ず、このまま終わるのも寂しいというのか、やや強引に恋に持ってゆく。
 ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。

三十句目

   定まらぬ娘のこころ取しづめ
 寝汗のとまる今朝がたの夢     支考

 前句の興奮を夢魔のせいとする。あるいは嫉妬に狂った生霊を飛ばす人でもいるのか。

 鈴呂屋書庫の方もよろしく。http://suzuroyasyoko.jimdo.com/

2017年10月27日金曜日

 今日もいい天気だった。明日からはまた台風が来るのかな。
 それでは「猿蓑に」の巻、二表に入る。

十九句目

   荷持ひとりにいとど永き日
 こち風の又西に成北になり     惟然

 東風(こち)が吹いたかと思えば西風になったり北風になったり、春の天気は変りやすい。雨になったりすると困るし、荷持ちもそのつどいろいろ気を使うことがあるのだろう。

二十句目

   こち風の又西に成北になり
 わが手に脈を大事がらるる     芭蕉

 昔ニッポン放送のラジオで人間寒暖計と呼ばれている人がいて、持病で天気予報をするコーナーがあったが、天候の定まらない時に持病持ちというのは結構ありがたがられたりするのかもしれない。

二十一句目

   わが手に脈を大事がらるる
 後呼(のちよび)の内儀は今度屋敷から 支考

 前句の「脈」を人脈のことと取り成す。「後呼(のちよび)の内儀」は後妻のこと。コネでもなければなかなか後妻を立派な武家屋敷からなんてことにはならない。大事がられるはずだ。

ニ十二句目

   後呼の内儀は今度屋敷から
 喧嘩のさたもむざとせられぬ    惟然

 立派な屋敷から来た妻だし、ばついちという負い目もあって、こいつあおちおち喧嘩もできん。超軽みの頃なら、そんな付け句になったかもしれない。

2017年10月26日木曜日

 今日は久しぶりに富士山が良く見えた。山頂から北の斜面が白くなって、富士山らしくなった。
 それでは「猿蓑に」の巻の続き。

十三句目

   一重羽織が失てたづぬる
 きさんじな青葉の比の椴楓(もみかえで) 惟然

 これはなかなかわかりにくいが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだろう。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なことか。
 きさんじな一重羽織が青葉の頃の樅楓を失せてたづぬる、の倒置になる。

十四句目

   きさんじな青葉の比の椴楓
 山に門ある有明の月         芭蕉

 『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるという。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したか。芭蕉さんのことだから『男色大鑑』を読んでいたかもしれないが、まあ、芭蕉さんのそれはあくまで噂ですから。
 山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいだろう。

十五句目

   山に門ある有明の月
 初あらし畑の人のかけまわり     支考

 「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強いやつだと思えばいいのだろうか。風の音に驚かされるのもこの風だろう。
 山に門あるから山村の風景とし、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けている。特にひねりのない素直な展開だ。「畑の人の」は「畑を人が」ということ。

十六句目

   初あらし畑の人のかけまわり
 水際光る濱の小鰯          惟然

 畑を海辺の風景とし、人がせわしく駆け回っていると思ったら浜にはイワシの大群が来て海が光って見える。こりゃ大騒ぎするはずだ。鰯も秋の季語。

十七句目

   水際光る濱の小鰯
 見て通る紀三井は花の咲かかり    芭蕉

 紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
 和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れている。

 行く春にわかの浦にて追付たり   芭蕉

の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺   芭蕉
   
の句もある。
 実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。

十八句目

   見て通る紀三井は花の咲かかり
 荷持ひとりにいとど永き日     支考

 紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じているのだろう。荷物持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられる。

2017年10月25日水曜日

 今日も一日雨だった。なんかいろいろ事件のあった平成二十九年も、「雨」の一文字で片付けられてしまいそうだな。
 遠藤賢司さんは中学高校の頃よく聞いたな。1stアルバムのniyagoはなかなか入手困難だったが、銚子電鉄に乗りに行った時、銚子のレコード屋でたまたま見つけて買ったのを覚えている。「夜汽車のブルース」は良かったね。2ndアルバムの「満足できるかな」は今で言えばちょっとブルータルの入ったデスメタルだな。あのころはハードフォークと言ってたけど。「KENJI」は名盤だった。だけど、「気をつけろよベイビー」は今となってはマスコミの影響力もなくなっちゃったからな。いるのは下痢気味の気弱な、官僚と財界にめっぽう弱いヒットラー?だけだ。「宇宙防衛軍」辺りまでは聞いてたかな。
 まあ、エンケンについて語りだすときりがないのでこの辺で「猿蓑に」の巻にいくことにしよう。

九句目

   昼寝の癖をなをしかねけり
 聟(むこ)が来てにつともせずに物語 支考

 場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことか。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴える。
 前句を物語の内容とした付け。

 聟が来てにつともせずに物語「昼寝の癖をなをしかねけり」

といったところか。

十句目

   聟が来てにつともせずに物語
 中國よりの状の吉左右(きっそう)  惟然

 ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われる。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、

 「文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。」

とある。
 これでいくと、「中国」という言葉は南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につともせずに物語」からこの婿を、みだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのであろう。
 あるいは戦国時代の設定で、中国戦線から吉報がもたらされたということか。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているという。

十一句目

   中國よりの状の吉左右
 朔日の日はどこへやら振舞れ     芭蕉

 朔日(ついたち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりした。
 ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になる。いろいろご馳走になったりしたのだろう。
 中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになる。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているという。

十二句目

   朔日の日はどこへやら振舞れ
 一重羽織が失てたづぬる       支考

 「柳小折」の巻の七句目に、

   小鰯かれて砂に照り付
 上を着てそこらを誘ふ墓参      酒堂

とあり、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようだ。
 朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話だ。
 さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかも。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『こと葉の露』の「いさみたつ」の巻に、

   伏見の橋も今日の名残ぞ
 懐へ畳て入ル夏羽織         馬莧

という句があるという。

2017年10月24日火曜日

 「猿蓑に」の巻の続き。

五句目

   篠竹まじる柴をいただく
 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉

 昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。
 鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
 路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く

を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。

六句目

   鶏があがるとやがて暮の月
 通りのなさに見世たつる秋    支考

 舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾の「秋」はいわゆる放り込みで、とってつけたような季語だが、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。

初裏
七句目

   通りのなさに見世たつる秋
 盆じまひ一荷で直(ね)ぎる鮨の魚 惟然

 盆仕舞いはお盆の前の決算のことで、年末の決算に対する中間決算のようなものか。
 馴れ寿司を仕込むために魚屋に声かけて、天秤棒に背負っている魚を全部買うから負けてくれと交渉する。人通りのないところで他に売れそうもないので魚屋もしぶしぶ承諾し、今日は店じまいとなる。
 鮨は夏の季語だが、お盆(旧盆)の頃でもまだ暑いので十分醗酵させることが出来る。

八句目

   盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚
 昼寝の癖をなをしかねけり    芭蕉

 この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、

「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」

と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。
 だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。
 ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。
 前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。

2017年10月23日月曜日

 雨風が強かったのは朝の五時頃までで、そのあとは台風一過で久しぶりに晴れた。
 それでは「猿蓑に」の巻、行ってみようか。
 まずは発句。

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

 沾圃(せんぽ)は能役者で芭蕉に弟子入りしたのは遅く、元禄六年と言われている。
 五月晦日の、

 其富士や五月晦日二里の旅    素堂

を発句とする興行で、

   家より庭の広き住なし
 晨朝(ありあけ)は汀の楼の水にあり 沾圃

などの句がある。この句は五句目の月の定座ということもあって、庭の広い家から、汀の楼の有明を付けている。
 『炭俵』の「雪の松」の巻の興行にも参加し、

   二三畳寝所もらふ門の脇
 馬の荷物のさはる干もの     沾圃

   わざわざわせて薬代の礼
 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃

のニ句を詠んでいる。
 「猿蓑に」の発句もおそらくこの頃のものだろう、「霜」という冬の季語と「松露」という秋の季語が使われているが、芭蕉の脇から冬の句と扱われていたことがわかる。
 「松露」は近代では春の季語になっているようだが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では秋の八月の所に、

 「松露 [和漢三才図会]麦蕈(ばくしん)、俗云、松露。沙地、松樹ある陰処に生ず。松の津液と秋湿と相感じて菌となる。繖(かさ)、柄なく、状ち零余子(ぬかご)に似て円く大きし。外褐色、内白く、柔に淡く甘し。香あり。」

とある。
 芭蕉の「軽み」の風の確立される『炭俵』の頃の入門ということもあって、一躍「軽み」の推進者として『炭俵』の次の集、『続猿蓑』の撰者に抜擢される。
 その、『続猿蓑』のタイトルの由来となる句が、この「猿蓑に」の句だと思われる。
 松露は美味で香りも良く、それに霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
 沾圃としては、ぜひこの霜の松露を救うべく『続猿蓑』が編纂されたと、そういう物語を描きたかったのだろう。
 ただ、さすがにこの句を巻頭に据えるのはためらわれたか。この句は沾圃のいない伊賀の地で、芭蕉自身とこれからの蕉門を担う期待の星、支考と惟然との三人で句を付け、『続猿蓑』の飾りとすることで入集することとなった。
 まずは芭蕉がこの句に脇を付ける。

   猿蓑にもれたる霜の松露哉
 日は寒けれど静なる岡      芭蕉

 冬の句の脇ということで「寒けれど」と冬の季語を入れて、霜の松露の背景を添える。あまり自己主張せずに謙虚に発句を引き立てている。
 第三は支考が担当する。

   日は寒けれど静なる岡
 水かるる池の中より道ありて   支考

 これも穏やかな、連歌のような趣向だ。『水無瀬三吟』の八句目、

   鳴く虫の心ともなく草枯れて
 垣根をとへばあらはなる道    肖柏

の句を髣髴させる。肖柏の句は草が枯れて道があらわになるという趣向だが、支考の句は水が枯れて池の中に道が現れるとする。かつては道だったところにいつしか水が溜まり池になっていたのだろうか。
 「道」はもちろん単なる道路ではなく、この世の「道」の含みも感じさせる。
 四句目は惟然。後に超軽みの風を打ち出すが、この頃は普通。

   水かるる池の中より道ありて
 篠竹まじる柴をいただく     惟然

 山に柴刈りに行くと、そこに笹も混じってくる。芭蕉の『奥の細道』の途中山中温泉で詠んだ、「馬かりて」の巻六句目、

    青淵に獺(うそ)の飛こむ水の音
 柴かりこかす峰のささ道     芭蕉

をより穏やかに流した感じか。

2017年10月22日日曜日

 今日は旧暦の九月三日。これから大きな台風が来る。台風は来ても選挙は無風。まあ、予想通りだが。
 元禄七年のこの頃は、芭蕉はまだ伊賀にいる。九月三日には支考と斗従が伊勢からやってきた。

   伊勢の斗従に山家を訪はれて
 蕎麦はまだ花でもてなす山路かな  芭蕉

の句を詠む。「夏蒔きの蕎麦も山奥となればさらに遅く、旧暦九月にようやく花が咲く。」と以前、2017年6月24日の鈴呂屋俳話に書いたのでそちらの方をよろしく。
 九月四日の夜には支考、斗従を交えて、

 松茸や知らぬ木の葉のへばりつき  芭蕉

の発句で九吟歌仙興行を行う。松茸に熱燗なら大阪談林だが、松茸にへばりつく木の葉というあるあるネタに走るのが蕉風だ。
 支考の『芭蕉翁追善日記』によると、この興行は九月四日だが、同じ日に、

   戌九月四日会猿雖亭
 松風に新酒をすます夜寒哉     支考

を発句とする五十韻興行が行われている。一日に二つの興行、それも一つは五十韻となるとかなりハードで、「松茸や」の方は別の日だったのではないかと思う。「松茸や」の興行が夜だったなら、「松風に」の五十韻興行は昼間行われたことになる。
 そして、この日に芭蕉は松茸の句と酒の句を別々に詠んだことになる。

 花にうき世我が酒白く飯黒し    芭蕉

は天和三年の句で、この頃は白い濁り酒を飲んで、玄米の飯を食っていたのだろう。その後、もろみを原酒と酒粕に分けることで透き通った酒を造る「清酒」が広まったのであろう。ただ、今日のような炭素濾過を行わないので、まったくの無色透明ではない。
 九月四日よりは多分少し後だろう。

 猿蓑に漏れたる露の松露かな    沾圃

を発句を基にした、芭蕉、支考、惟然の三吟歌仙興行が行われている。こちらの方は『猿蓑』に収録されている。
 さて、そろそろまた俳諧を読もうと思うが、「猿蓑に」の巻は『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)だけでなく、『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説があるので、まずこれを読んでみようかと思う。

2017年10月20日金曜日

 宗砌『初心求詠集』の最初の方に、こう書かれている。

 「一、連歌は言葉かかりを元にして、心をもとむる事なかれ、いかに心面白くとも詞下賤(げす)しく、かかり幽玄ならずば徒事なり、されば摂政殿も、レンガは先かかり第一也、かかりは吟なり、吟はかかりなりと仰せられけるにや、」

 摂政殿というのは二条良基公のことで、確かに二条良基の『連歌十様』には、

 「一、連歌ハカカリ・姿ヲ第一トスベシ、イカニ珍敷事モ、姿カカリ悪クナリヌレバ、更ニ面白モ不覚、譬ヘバ微女ノ麻衣キタルガゴトシ、ヤサシク幽玄ナルヲ先トス、雪月花ノ景物ナリトモ、コハゴハシキハ徒事ナリ、是ヲ心得分ベキ物ナリ、」

とある。ただし、「心をもとむる事なかれ」とは言っていない。『連歌十様』の方はこう続く。

 「ニ、連歌は心ヲ第一トスベシ、古事ヲ新クスルヲ吉トスベキニヤ、強チニ珍敷事不可好、一字二字ニテ新シクナル也、是第一用心也、‥略‥」

 また、同じく二条良基の『連理秘抄』には、

 「一、心を第一とすべし、骨のある人は意地によりて句柄の面白き也、ただ寄合ばかりを多くおぼえて、古材料をさし合わせて取立てたるばかりにて、我が力の入ぬは返々面白き所のなき也、」

とある。
 「心」という言葉は多義で、かつては単に「意味」という意味でも用いられた。更には日本の心だとか風雅の心だとか、精神論にも用いられる。
 宗砌が『初心求詠集』で言おうとしたのは、連歌は先ず言葉の続き具合が正しく、上句下句合わせたときの文法的なつながりの正しさを第一とし、それが内容として面白いかどうかというのはその次だという意味ではないかと思う。
 先ずは繋ぐことが肝心。それは蹴鞠に近いかもしれない。蹴鞠はいかに鞠を蹴るテクニックを競おうとも、基本的にはパス回しで、相手が取れないような球を蹴ってはいけない。サッカーのシュートではなく、あくまで輪になってみんなで鞠を落とさないように蹴る一種のリフティングにすぎない。そのなかでテクニックを競う。
 戦後の高度成長期には会社や学校の休み時間にバレーボールの円陣パスをするのがはやった時期があったが、あれに似ている。あくまでパスをつなぎ、いかに落とさないように続けるかが大事で、テクニックは二の次になる。
 連歌も基本的には百韻・千句続けることがメインで、一句一句の面白さはその次ということが肝心だったのだろう。だから、ネタとしての面白さにこだわらずに、先ずはきちんと意味が通っているかどうかだったのだろう。
 文法的に正しく意味がきちんと通れば、とりあえずは合格点で、あとはまず続ける。百韻・千句興行ともなれば、一句付けるのに考える時間はない。その中で時折面白い句が生まれればそれで良かったのだろう。
 おそらく、江戸時代でも延宝の頃の談林俳諧までは百韻興行が主流で、井原西鶴の大矢数興行などもあったように、一句一句の意味よりも、どれだけ早く長く続けられるかの方に重点が置かれていた。
 おそらく書物の普及がこうした連句の本来のあり方を変えていったのだろう。書物にするには紙を節約したい。少ない紙面でいかに面白くするかということに知恵を絞れば、自ずと一句一句のネタとしての面白さが要求される。早く長くということに意味がなくなり、一句の意味が重視されれば、歌仙のような短い形式にならざるを得ない。
 蕉門は一句一句の意味の濃さという点では、俳諧を一つの頂点にまで導いたが、結局は俳諧の衰退の始まりになった。バレーボールでも円陣を組んでパスを廻すだけなら誰でも気軽に参加できる。ところが試合となるとそうはいかない。上手い下手がはっきり分かれてしまう。
 俳諧興行も、すばやくさくさくとつけて行きあまり内容にこだわらない興行なら、誰でも気軽に参加できた。それが一句一句に何か面白いネタだとか、深い精神性なんかを要求されるようになると、みんな一句毎にうんうん呻って考え込んでしまう。本来楽しく談笑する場であった興行の席が、みんな俯いて呻ってばかりでちっと進まず、歌仙一つ巻くのに何日もかかってしまうような状況が、蕉風確立期の蕉門に既に生じていたのではないかと思う。これでは興行は楽しくない。興行というよりは苦行だ。
 そうなってくると、今度は言葉のかかりや文法なんてどうでもよく、とにかくネタとして面白ければいいのなら、別に句を連ねなくてもいいんじゃない?ってことになる。こうして前句付けが流行し、それがやがて川柳の流れを生んでゆくことになる。
 芭蕉はこうした動きに対抗するために、『奥の細道』の旅を終えたあと、「軽み」を提唱して、何とか句を楽につけられるようにと工夫をしてゆくのだが、結果としては文法的にあやふやな、付いているのか付いてないのかわからないような句が多くなってゆくことになった。
 江戸中期になると、句と句とのつながりはほとんどどうでも良くなり、だんだんと近代連句のような連想ゲームに陥ってゆく。江戸後期の蕉門俳諧の注釈は、そうした混乱の中で書かれている。
 宗砌はこうした三百年後の連句の行方を読んでいたかのように、「心をもとむる事なかれ」と言い捨てている。連歌は続けることに意味があるのであり、意味に固執すると衰退することをあたかも知っていたかのようだ。
 ただ、宗砌のこの考え方は一般的ではなかった。一般的には二条良基公のように、かかりも心も両方第一だったのだろう。あまり奇抜なネタに走るのは「心」ではなく「意地」によるものだと認識していた。

2017年10月19日木曜日

 今日も一日雨ざあざあ降っていた。だいぶ冷えてきた。

 「一、韻てにはの事
     しめぢが原はのこるかれ草
   そのちかひちちの仏をただたのめ
  ただたのめしめぢが原のさしも草我世の中にあらんかぎりは
     衣やうすき鳴くらす蝉
   月にをく霜には秋のよやさむき
  夜やさむき衣やうすきかたそぎの行合のまより霜やをくらん
     もろく成行花の夕風
   うきをしる袖の涙の日にそへて
  嵐ふく峯のもみぢの日にそへてもろくなり行我涙かな
     床のうづらをたつるかり人
   はし鷹のつかれの草を犬がみや
  犬がみや床の山なる不知川いさとこたへて我名もらすな
     いなばのうへに風わたる也
   月になる夕の雲の立わかれ
  たちわかれ因幡の山の峯におふる松としきかば又かへりこん
 ただ頼めしめぢと続け、夜さむき衣うすきと言ひかけ、日に添へてもろくとなづらへ、犬がみや床とつらね、たち別れいなば、いづれもやさしく心ありて、真実羨ましくおぼえて候也、いづれもいづれも心にかけられ候はば、自然とかかるてにはも寄りくる事もあるべく候也」

 「韻てには」は「歌てには」ともいう。下句の頭が「しめぢが原」だったら、『沙石集』の、

 ただ頼めしめぢが原のさしも草
    われ世の中にあらん限りは

の歌を思い浮かべ、上句の末尾を「ただ頼め」にして上句下句が「ただ頼めしめぢが原の」と歌の一説で繋がるように詠む。
 「もろく成行」に「日にそへて」を付ける例は、二条良基の『知連集』にも「歌てには」の例として挙げられている。
 現代的にするなら、

   皇帝ペンギンつらい絶食
 突然にプリンセス脱出したし

 さて本歌は何でしょう?

2017年10月16日月曜日

 今日は旧暦八月二十七日で葉月ももうすぐ終わり。今日も一日雨だった。

 「一、重付事
     いたくな吹そ山の夕かぜ
   露のぼる草の庵の板びさし
     しめぢが原はただ秋の草
   うき夕袖を涙になをしめて
     とひてやゆかんさ夜の中山
   さやかにも道はおぼえずふる雪に
     あまりにうきは深山べの里
   袖はよもほすひまあらじ雨そそぎ
     いくたびおしむ命なるらん
   これぞ此人のたづねし生田山
     もしやと後をたのむ玉づさ
   あま人のかくとはこれかもしほ草」

 「重付事」は「重ねてには」とも言う。上句の末尾と下句の頭とで同じ音を重ねて付ける付け方で、「板びさし→いたくな」「なをしめて→しめぢが原」と付く。
 三番目の例は上句の頭の「さやかにも」に下句の末尾の「さ夜の中山」と付く変則的な重ねてにはになっている。
 あとは「雨そそぎ→あまりに」「生田山→いくたび」「もしほ草→もしや」と付く。
 これは和歌の序詞から来たものと言えよう。

 かくとだにえやは伊吹のさしも草 
    さしも知らじな燃ゆる思ひを
               藤原実方朝臣
 みかの原わきて流るる泉川
    いつ見きとてか恋しかるらむ
               中納言兼輔

 現代的にするなら、筆者が昔作った歌だが、

 寝ころべば凍りつくよなアスファルト
    明日のことなどわすれていよう

のようなものか。

 「一、かけてにはの事
     山にかかりて雲やたつらん
   是までは遠きをきつるけふの道
     とくなる御法みな人のため
   これや此たえなるはちす花のひも
     ひく心こそうき中にあれ
   とほるべき暮をいつとかしらま弓
     涙こぼるる袖の上かは
   秋さむき戸ぼその雨のはらはらと」

 重付(重ねてには)は言葉の音の一致または類似でつなぐが、掛けてにはは意味のつながりの縁でつなぐ。「けふの道→山にかかりて」「ひも→とく」「弓→ひく」「はらはらと→涙こぼるる」

2017年10月15日日曜日

 今日も一日雨降りだった。
 それでは宗砌『初心求詠集』の続き。

 「一、ながらにて付事
     関こそやがて遠くなりぬれ
   秋風の山吹こゆる声ながら
     柴の戸さむく秋ぞしぐるる
   露のもる軒ばの松の風ながら
  一、とがめながらにて付事
     又時雨行秋にこそなれ
   嵐ふく雲まの月の影ながら
     苔の衣の春としもなし
   桜さく山の陰には住ながら」

 「ながらにて」の方の「ながら」は「とともに」というような意味で、秋風の山を越える音とともに関所も遠くなる、露漏る軒端の松風とともに柴の戸は時雨れる、と付く。
 これに対し「とがめながら」の方の「ながら」は「なのに」というような意味で、前句に対して否定するような状況が付く。月の影はあるのに又時雨行く、桜咲く山陰に住んでいるのに苔の衣には春もない、と逆説的に展開させるあたりは、咎めてにはの一種といえよう。
 「咎めてには」については、二条良基の『知連抄』には、

 「六、咎てには、たとへば(下句に)、
     こころのままによしやつらかれ
   ちかづけばとをざかるぞときくものを
   身をしらでさのみにしたふものあらじ
   しのぶには月さへ人の関路にて
 此三句、みな心のままに付侍也、」

といった例が記されている。恋のつらい心に対し、近づけば遠ざかるというのに、身の程を知らずに恋なんかするから、お忍びで通うにも月明かりは関所のようなもの、と「よしやつらかれ」の原因を咎めて付けている。
 また、

    「つれなき人のなどやとひこぬ
   ならぶ木の花に風ある庭の松
   有明の月いづるまで待つるに
   あふ事も後の世まではいざしらず」

の例をも挙げて、「庭の松」は「咎めぬてには」とし、「有明」の方は「咎めてには」としている。「有明の月が出るまで待っているというのに」という言葉には、つれなき人を咎める意味が含まれている。
 梵灯庵主の『長短抄』には、

 「六、咎テニハト云は、例エバ
     恋セヌ人ヨナニヲモフラン  ト云ニ
   待テコソウキ夕暮ト成ニケレ
  又云 ワレノミゾキク庭ノ松風  ト云ニ
   捨人ノ跡ニウキ身ヤノコルラン
 此等ハ咎テニハナリ、恋セヌ人ヨナニヲ思ゾ、我ハ待コソ憂ケレト咎メタルテニハ也、又我ノミ松カゼヲ聞トアルニ、身ハ捨人ノ跡ニ残リタリト咎メタルナリ」

とある。
 現代語ならこういう感じか。

   今日も一日雨降りだった
 暇だから借りた漫画を読みながら

では咎めてないが、

   今日も一日雨降りだった
 思いつく楽しいこともありながら

だと咎めたことになるか。

2017年10月14日土曜日

 昨日今日と小雨がしとしと降り続けた。こんな日がしばらく続くのかな。
 とりあえず、宗砌『初心求詠集』の続き。

 「一、上下らんを付てちがふ事
     袖や涙のはてをしるらん
   別ては又あふことをたのむ身に
     人の心はさらにたのまず
   しら菊やうつろふ中にのこるらん
     暁しれと鳥やなくらん
   寺遠き里には鐘の音もなし
     人の心のなき世なりけり
   散のこる花をば風やおしむらん
     うきやあしたの別れなるらん
   夕暮はまつに心のなぐさみて
     ふりぬる橋は末もつづかず
   その名をば富士の煙やのこすらん」

 これは、下句の「らん」に上句を付けるときは「らん」を疑問に取り成し、下句に上句の「らん」を付けるときには「らん」を反語として用いることをいう。
 「別ては又あふことをたのむ身に」つまり未練が残る身には袖に涙が果てることがあるだろうかと疑問に取り成し、「人の心はさらにたのまず」に「らん」で上句を付けるときには、白菊は残るだろうか残るはずもない、人の心はさらに、と付く。
 暁知れと鳴く鳥も、鐘の音がないから鳥で知るのだろうかとなり、人の心のなき世は、風も散る花に容赦なく吹くはんとなり、「惜しむらん」は反語になる。
 朝には別れになるだろうか、という前句には夕暮れは待つに心の慰めてと違えて付け、古い橋は富士の煙の消えてゆくように後に残らないと付く。
 ただ、実際の連歌では、下句が疑問、上句が反語と決まっているわけではない。ただ初心者にはその方がつけやすいということだろう。
 文和千句第一百韻の九句目

   里こそかはれ衣うつ音
 旅人のまたれし比や過ぬらん   救済

は上句を疑問で付けている。み
 水無瀬三吟の五句目、

   船さす音もしるき明け方
 月やなほ霧渡る夜に残るらん   肖柏

は反語の「らん」で付けている。
 水無瀬三吟の四十三句目、

   月日のすゑやゆめにめぐらん
 この岸をもろこし舟のかぎりにて  宗長

の前句の「らん」は疑問になっている。
 文和千句第一百韻の四十七句目、

   我が家々も春やきぬらん
 老らくの身にあらたまる年はなし 救済

の場合は前句を春なんて来やしないと反語にして、あらたまる年もなしと展開する。

 「一、もにもにて付事
     入あひの鐘もけふは聞えず
   花散し後には風も別にて
     人のたもとも露やをくらん
   うき秋は身にもかぎらぬ夕にて」

 これは「はにはをもて付事」と似ている。何々も何々なら何々も何々だ、という付け方だ。
 いがらしみきおの漫画『ぼのぼの』のアライグマの父さんの台詞「青い空も嫌いなら白い雲も嫌いだ」を連句にするなら、

   雲の白きも嫌うべきなり
 青い空それを厭うも道理なら

って感じか。

2017年10月13日金曜日

 梅雨空に『九条守れ』の女性デモ よみ人知らず

 この句の裁判の判決が出たという。「理由を十分検討しないまま掲載しないことにしたと推認するのが相当だ」ということで、5万円の支払いを命じたが、「公民館だよりという特定の表現手段を制限されたにすぎない」として掲載請求は認めなかったという、まあとりあえず中を取ったという形だ。
 この句をネットで調べたが、作者の名前(俳号)が見当たらなかったので、とりあえず「よみ人知らず」と記した。まあ、本当にこの俳句を世に広めたいなら、別に公民館だよりへの掲載にこだわらなくても、ネットで堂々と自分の俳号を記して公開すればいいことで、こう言っちゃ何だが、わざわざ裁判にするために作られた句なのではないかと疑いたくなる。
 確かにこの句は九条デモを肯定も否定もしていない。だから、あえてこれに脇を付けるなら、同じように事実で返すのがいいだろう。

   梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
 行き交う人の顔の涼しさ

 この女性デモは見てないが、たまたま新宿へ行ったときに、伊勢丹前の九条デモとやらを見たが、道行く人は関わりになりたくないかのように素通りしていた。デモ隊のほとんどはいわゆる団塊世代の人たちで、いかにもプロ市民というオーラを放っていた。デモ隊は伊勢丹の交差点からビックロの前にかかるかかからないかくらいの人数で、その後ろにできた広い空きスペースで右翼と思しき人が幟を立てていた。
 俳諧の言葉は基本的には多くの人が共有できるような共通の体験に根ざした言葉を作り上げることにあり、分断を煽るような言葉は好ましくない。その意味で、この句は「俳諧」としてみるなら良い句とは言えない。

 まあじじいネタはこれくらいにして、『初心求詠集』の続きに行こう。

 「一、物をにて付事
     鳥はいづくの夜はになくらん
   別をばわが心にもしる物を
     末みじかきは庭の若草
   出しより日影はながくなる物を」

 「物を」は何々になってしまうのになぜ、というようなニュアンスになる。これは咎めてにはに近い。
 咎めてにはというのは前句の作者を咎めているのではない。連句の前句にはもとより人格はない。ただ、前句の解釈の一つの思いがけない可能性を引き出すことが重要で、前句の本来作られた意味が何であったかはどうでもいい。
 例に挙げられている句は、前句を惜しみ、それに対して無常な現実を突きつけるというふうに付けている。夜に鳴く鳥には朝になれば別れが来る物を、秋になって生えてきた若草は育つ前に影ばかり長くなる物を、という具合に、前句の中から惜しむべき残念なという情を引き出して付けている。
 もし「薄が原は銀の輝き」という前句から「物を」で展開を図ろうとするなら、銀の輝きに何か惜しいという情を見出さなくてはならない。

   薄が原は銀の輝き
 木枯らしにやがては寂びて行く物を

みたいな感じか。

2017年10月12日木曜日

 今日も引き続き宗砌の『初心求詠集』から、連歌の「てには」について見てみよう。

 「一、はににをもて付事
     うらの夕はけぶりなりけり
   霞たつ春のあしたとおもひしに
     月にはいとふ秋のむら雲
   花を見る春はのこれと思ひしに
     春は猶ある入あひの鐘
   身をなげく心も今はつきぬ日に」

 前回の「はにはをもて付事」だと、何々は何々で、何々は何々と並列する形になるので展開としてはそれほど大きくならない。大きく展開させたい時には、「何々だというのに、何々は何々」というふうに展開させる。
 たとえば、前回の「薄が原は銀の輝き」だったら、

   薄が原は銀の輝き
 荒涼とした風景と思いしに

みたいな感じか。現代語だとあまり「しに」という結びはないので、

   薄が原は銀の輝き
 荒涼とした風景と思ったが

の方がいいか。
 『初心求詠集』の例句の方も、朝の霞かと思ったら夕べに漂う煙だった、と違えて付けている。月には嫌う雲も花の雲なら残れという、も同様に月に花と違えて付けている。もう一つも、嘆きが尽きないというのに春は、と付く。
 違え付けにするのなら、

   薄が原は銀の輝き
 夕暮れの菜の花の土手俤に

なんてのはどうだろうか。

 月にはいとふ秋のむら雲
 春は猶ある入あひの鐘

 この二つの「は」は単なる主格の「は」ではなく、係助詞になっている。係助詞というと学校では「や」「か」「ぞ」「こそ」の四つしか習わないが、「は」も「も」も係助詞になる。
 この二句は、

 月にいとふは秋のむら雲
 春猶あるは入あひの鐘

と言い換えることが出来る。
 「も」の場合も、たとえば、「春立つらしも」は「春もたつらし」に替えることができる。

 今日ばかり人も年寄れ初しぐれ  芭蕉

の句も、「今日ばかり人年寄るも初しぐれ」が「今日ばかり人も年寄る初しぐれに」なり、それをさらに「年寄れ」と力強く命令形に変えた形になっている。並列の「も」ではなく強調の「も」、いわゆる「力も」はこうした係助詞的用法がもとになっている。

2017年10月11日水曜日

 今日は宗砌の『初心求詠集』の続き。岩波文庫『連歌論集 上』(伊地知鉄男編、一九五三)より引用。
 係助詞「ぞ」も基本的には「こそ」と同じように否定の句を付けることが出来る。「何々ではなく何々ぞ」という風に繋がる。

 「一、ぞ付の事、こそ付と同心なり。
     霞をわけて水ぞながるる
   花さそふ風は心もなかりしに
     月の夜さむく風ぞきこゆる
   千鳥鳴くしほひは浪の音もなし
     露にぞもとの袖はぬれける
   捨る身は物おもふべき秋もなし」

 風は心無いが水は流れて心ある。
 波の音はないが風は聞こえる。
 世を捨てるのだから涙なんかない(はずだが)、露に袖は濡れる。
 どれもわかりやすい付けだ。初心者はこれを覚えておくだけである程度連歌に参加できたのだろう。

 「一、そにて付事
     程なく行や舟路なるらん
   くるしきぞ野山を分る心なる
     秋の時雨はふるとしもなし
   今夜又月にぞ袖をぬらしつる」

 これも「こそ」の時と同じで、苦しいのは野山を踏み分けてゆくのと同じで、船路だと程なく行くのだろうか、そんなことはない、と前句を反語に取り成す。
 時雨は降らないというのを受けて、月にぞ袖をぬらしと付くのも、同様に、否定に対し肯定で付ける。
 江戸時代になると係助詞の使用頻度はかなり減る。こうしたてにはで付ける技法は廃れてしまったようだ。

 「一、はにはをもて付事
     草の庵りはあり明の月
   岩屋にはいかが吹らん秋の風
     よそなる里は又鐘の声
   野を行ば露と霜とに袖ぬれて
     月はいづくの空を行らん
   秋の夜は時雨に成て明にけり
     しほひの雪はのこるともなし
   影うすき朝の月はなを見えて」

 これは「何々は何々、なら何々は何々だろうか」という並列する付け方になる。
 たとえば、「薄が原は銀の輝き」だったら、

   薄が原は銀の輝き
 夕暮れは金の光になるだろか

みたいな付け方だ。

2017年10月10日火曜日

 昨日は箱根千石原へ薄を見に行った。昔(70年代)遠足でバスで通ったときには随分広いところだと思っていたが、今見ると山の麓のほんの一角に過ぎなかった。大人になったせいで小さく見えるのか、それとも薄が原が縮小したのかはよくわからない。それでもきちんと保存されているせいか、他の雑草もなく見事な薄が原だった。
 薄は青い葉と白い穂が日の光に輝いていて銀の野原だった。きれいなのは穂だけでなく、葉に反射する光も大事だとわかった。これが一ヶ月もすると枯れ薄となって金の野原に変るのだろう。
 江戸時代の人は薄が原は当たり前の景色だったのか、

 面白さ急には見えぬ薄かな     鬼貫

という句もある。失われてみると、まとまった薄の群生を見るだけで圧倒される。
 揺れる薄は手招きするが如くで、

 何ごとも招き果てたる薄かな    芭蕉

 風に揺れれば、

 ぞっとするほどそよかかる薄かな  額翁『伊達衣』
 一通り風道見する薄かな      等盛『伊達衣』
 秋の野をあそびほうけし薄かな   李由『韻塞』

 ただ、昔は川原などに野ざらしが落ちていたりしたせいか、死を暗示するものでもあった。月や鹿は付き物。

2017年10月8日日曜日

 今日はちょっと趣向を変えて、中世連歌の付け筋を見てみようと思う。
 宗砌の『初心求詠集』はタイトルのとおり、初心者向けの解説で、今日の連歌に興味持つ者が学ぶにはちょうどいい。
 そのなかで「てには」の使い方について、いかに中世の人が研究していたかを見てみよう。

 「一、こそ付の事
     風こそのこる花をたづぬれ
   山里を春に契し人はこで
     霜こそむすぶ枕なりけれ
   寒夜の鐘の音には夢もなし
     あまりあるこそうらみなりけれ
   あふ夜はのやかてはなどや明ぬらん
 是は各々、こそに当りて付たるなり、口伝あり、」

 前句が「こそ」でもって強調されているときは、「何々ではなく、何こそが」という風に、前句に否定するべき内容を持ってくる。
 「風こそのこる花をたづぬれ」、残った花を尋ねてくるのは風だけとなれば、何かが尋ねてこなくて風だけがと展開できる。そこで「契りし人はこで、風こそ」となる。
 「霜こそむすぶ枕なりけれ」、枕に結ぶのは霜だけとなれば、何が結ばずにということを付ければいい。寒い夜の夜明けを告げる鐘の音には、すっかり夢も醒めてしまい、霜だけが、となる。
 「あまりある」は度を越えたということで、この場合は度を越えてない、常のことを付ければいい。愛しい人と逢う夜半は何ですぐに明けてしまうのだろうか、それにしても短すぎる、と付く。
 湯山三吟の十三句目に、

   世にこそ道はあらまほしけれ
 何をかは苔のたもとにうらみまし   肖柏

という句があるが、これもまた、「こそ」に否定の「うらみまし」を付け、夜を捨てた苔の袂にではなく世にこそ道は、と付く。

 「一、こそをもて付事
     霜にみゆるや枯野なるらん
   雪にこそ山の遠きはしられけれ
     雲の残るや又時雨らん
   我をこそふりぬる身とはおもひしに
     あまや衣をなをぬらすらむ
   心ある人こそうきをしるべきに」

 これは逆に「こそ」を付ける方法で、前句が「らん」止めで疑問だった場合には、反語に取り成して「何々だろうか、そうではない、何々こそ」と付ける。
 霜が降りているように見えるのは枯野だろうか、そうではない、雪だからこそ山がまだはるか遠くだとわかる。
 雲が残っているが又時雨になるのだろうか、そうではない、雲は煩悩の雲で自分自身にこそ時雨がふっているからだ。
 海女は衣をさらに濡らすのだろうか、そうではない、衣を濡らすのは心ある都人でなくてはならない。
 ただ、『水無瀬三吟』の十三句目、

   移ろはむとはかねて知らずや
 置きわぶる露こそ花にあはれなれ   宗祇

の場合は前句の「や」を反語ではなく疑問に取り成し、「花に置きわぶる露こそあはれなれ、移ろはむとはかねて知らずや」としている。「あわれなれ」「かねて知らずや」で、ちゃんと繋がっている。これは「初心」ではなく高度な付け方だ。
 どちらも、上句と下句がきれいに繋がるように工夫されている。

 山里を春に契し人はこで風こそのこる花をたづぬれ
 寒夜の鐘の音には夢もなし霜こそむすぶ枕なりけれ
 あふ夜はのやかてはなどや明ぬらんあまりあるこそうらみなりけれ
 雪にこそ山の遠きはしられけれ霜にみゆるや枯野なるらん
 我をこそふりぬる身とはおもひしに雲の残るや又時雨らん
 心ある人こそうきをしるべきにあまや衣をなをぬらすらむ

 こういう上句下句合わせてすらすらと読み下せる付け方を中世連歌では良しとした。そのために「こそ」は否定か反語で受け、「らん」は反語にして「こそ」で付けるというのが、一つの付け筋とされていた。

2017年10月5日木曜日

 今日は日系イギリス人のカズオ・イシグロさんのノーベル文学賞受賞ということで何かコメントしてみたいけど、正直このごろはラノベ以外の小説はほとんど読んでないので、カズオ・イシグロの名前も実は初めて聞いた。代表作の「わたしを離さないで」も、そう言われてみればそんな映画があったかなくらいの認識だ。
 ただ、テレビのニュースを聞いていると、しつこく「臓器移植の提供者となるために育てられた若者たちが」を繰り返してたが、こういうのって本来なら一体どんな施設なんだろうなんてあれこれ考えわくわくしながら読むもので、最後になってそうだったのかと驚き感動するはずなのに、メディアの報道ってなんでこうネタバレに無関心なのか。
 まあ、大体文学者というのはネタバレに関しては無神経なもので、大事なのは内容で、展開の仕方についてはほとんど関心がない。
 俳諧でも、

 うらやまし思い切るとき猫の恋   越人

の句が、何で「思い切るときうらやまし猫の恋」ではいけないのかわからないなどと言う。
 越人の原案はまだ最後に「猫の恋」で落ちにしているが、これが「猫の恋思い切るときうらやまし」では面白くもなんともない。

 斬られたる夢はまことか蚤の跡   其角

 こういう句も順番は大事で、これが「蚤の跡斬られたる夢まことなり」では目も当てられない。
 だが、かつてほんのちょっとネットの現代連句のサイトにお邪魔した時、

 ダッチオーブン棚にはばかる    春蘭

なんて句が出てきたとき、ちがうでしょ、「棚にはばかるダッチオーブン」でしょと言ってみたものの、なにやら分けのわからない理屈をこねて自分を正当化していた。

 今年竹面妖な皮ぬぎにけり     ゆうゆ

という発句もあったが、これも惜しい。何で、

 面妖な皮ぬぎにけり今年竹

にしないんだ、と思ったが、ネタバレに無関心なのはこういう自称文学者気取りの連中なのだろう。
 イシグロさんのようなノーベル賞を貰うような世界的なベストセラー作家は、こういう過ちはしないし、それを人を煙に巻くような理屈でごまかしたりはしない。所詮は売れない連中のすることだ。
 『源氏物語』でも「末摘花」巻は、本来どんな女の人なんだろうかとあれこれ想像しながら読むから、あの落ちが利いてくるのだが、今じゃ学校の授業のせいでみんな落ちを知ってしまっている。
 野村美月さんの『ヒカルが地球にいたころ……』の「末摘花」はその点よくできていた。最後まで正体は誰だろうとはらはらさせる展開で、オリジナルの『源氏物語』の「末摘花」巻をよく理解しているという感じだった。
 自慢じゃないが学校の古典の時間は大体居眠りしていたので、こやん源氏を訳す時に、「夕顔」巻や「若紫」巻は結末を知らなかったから、結構楽しく読むことが出来た。「末摘花」巻はその点ではがっかりだ。

2017年10月3日火曜日

 明日は十五夜だが、今日の月はまだ満月にはまだまだだ。うっすらと雲がかかり、雲の中を月が通り過ぎてゆく眺めは悪くはない。
 お月見というと、

 盲より唖のかはゆき月見哉    去来

の句をふと思い出す。「かはゆ」は本来の「可哀相」の意味で、今日の「可愛い」の意味ではない。
 目の不自由な人よりも発話に不自由な人のほうが可哀相だというこの句は、一般的には、名月を見れない人よりも名月を見て何も言えない人のほうがかわいそうだ、という意味に解されている。
 今日のように月見が個人的なもので、いわゆる天体ショーとして捉えられる場合は、月そのものが大きな感動を与えるかのように錯覚するかもしれない。
 しかし近代化の前の人たちにとって、月はもっと身近なもので、月の明るさは生活を左右するものだった。月が明るければ夜通し起きて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしたり、平安貴族の若者たちは、ここぞとばかりに恋人のもとへと通い、楽器を共に演奏したりするいわゆる「あそび」を行ったり、時にライバルとかち合ったりした。
 月の夜はみんなで起きていて音楽や物語などを楽しんだりしたならば、耳が研ぎ澄まされていて音楽に類稀なる才能を発揮する目の不自由な人や、文字に頼らない記憶力でたくさんの物語を記憶している琵琶法師など、案外月見の席で目の不自由な人はスターだったのではないかと思う。
 芭蕉も貞享三年に、

 座頭かと人に見られて月見哉   芭蕉

の句を詠んでいる。これも俳諧興行の席で古の風雅から最新の流行まで雄弁に語る芭蕉さんに、そんなに口が上手いなら琵琶法師にでもなれよと言われたとか、そういうことだったのではないかと思う。そうやって座を盛り上げている時というのはえてして月を見ている暇がないものだ。
 だが、だからと言って月見の席で終始無言な人が可哀相かというと、そんなこともないだろう。去来の「唖のかはゆき」の句は『去来抄』に「事新敷(ことあたらしく)感ふかしといへど、句位を論ずるに至てハ甚(はなはだ)下品也。」とあるように、その場の流行の句としては受けたけど、句としてはたいしたことない。(「下品」という言葉は今日でいうお下劣という意味での下品げひんではなく、『文選』の上品、中品、下品という分類によるもの。)
 この句の疵は月夜の座頭の意外な活躍を見出したまでは良かったが、「唖のかはゆき」は余計だったという所にある。芭蕉の風雅勝れり。