2017年10月5日木曜日

 今日は日系イギリス人のカズオ・イシグロさんのノーベル文学賞受賞ということで何かコメントしてみたいけど、正直このごろはラノベ以外の小説はほとんど読んでないので、カズオ・イシグロの名前も実は初めて聞いた。代表作の「わたしを離さないで」も、そう言われてみればそんな映画があったかなくらいの認識だ。
 ただ、テレビのニュースを聞いていると、しつこく「臓器移植の提供者となるために育てられた若者たちが」を繰り返してたが、こういうのって本来なら一体どんな施設なんだろうなんてあれこれ考えわくわくしながら読むもので、最後になってそうだったのかと驚き感動するはずなのに、メディアの報道ってなんでこうネタバレに無関心なのか。
 まあ、大体文学者というのはネタバレに関しては無神経なもので、大事なのは内容で、展開の仕方についてはほとんど関心がない。
 俳諧でも、

 うらやまし思い切るとき猫の恋   越人

の句が、何で「思い切るときうらやまし猫の恋」ではいけないのかわからないなどと言う。
 越人の原案はまだ最後に「猫の恋」で落ちにしているが、これが「猫の恋思い切るときうらやまし」では面白くもなんともない。

 斬られたる夢はまことか蚤の跡   其角

 こういう句も順番は大事で、これが「蚤の跡斬られたる夢まことなり」では目も当てられない。
 だが、かつてほんのちょっとネットの現代連句のサイトにお邪魔した時、

 ダッチオーブン棚にはばかる    春蘭

なんて句が出てきたとき、ちがうでしょ、「棚にはばかるダッチオーブン」でしょと言ってみたものの、なにやら分けのわからない理屈をこねて自分を正当化していた。

 今年竹面妖な皮ぬぎにけり     ゆうゆ

という発句もあったが、これも惜しい。何で、

 面妖な皮ぬぎにけり今年竹

にしないんだ、と思ったが、ネタバレに無関心なのはこういう自称文学者気取りの連中なのだろう。
 イシグロさんのようなノーベル賞を貰うような世界的なベストセラー作家は、こういう過ちはしないし、それを人を煙に巻くような理屈でごまかしたりはしない。所詮は売れない連中のすることだ。
 『源氏物語』でも「末摘花」巻は、本来どんな女の人なんだろうかとあれこれ想像しながら読むから、あの落ちが利いてくるのだが、今じゃ学校の授業のせいでみんな落ちを知ってしまっている。
 野村美月さんの『ヒカルが地球にいたころ……』の「末摘花」はその点よくできていた。最後まで正体は誰だろうとはらはらさせる展開で、オリジナルの『源氏物語』の「末摘花」巻をよく理解しているという感じだった。
 自慢じゃないが学校の古典の時間は大体居眠りしていたので、こやん源氏を訳す時に、「夕顔」巻や「若紫」巻は結末を知らなかったから、結構楽しく読むことが出来た。「末摘花」巻はその点ではがっかりだ。

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