梅雨空に『九条守れ』の女性デモ よみ人知らず
この句の裁判の判決が出たという。「理由を十分検討しないまま掲載しないことにしたと推認するのが相当だ」ということで、5万円の支払いを命じたが、「公民館だよりという特定の表現手段を制限されたにすぎない」として掲載請求は認めなかったという、まあとりあえず中を取ったという形だ。
この句をネットで調べたが、作者の名前(俳号)が見当たらなかったので、とりあえず「よみ人知らず」と記した。まあ、本当にこの俳句を世に広めたいなら、別に公民館だよりへの掲載にこだわらなくても、ネットで堂々と自分の俳号を記して公開すればいいことで、こう言っちゃ何だが、わざわざ裁判にするために作られた句なのではないかと疑いたくなる。
確かにこの句は九条デモを肯定も否定もしていない。だから、あえてこれに脇を付けるなら、同じように事実で返すのがいいだろう。
梅雨空に『九条守れ』の女性デモ
行き交う人の顔の涼しさ
この女性デモは見てないが、たまたま新宿へ行ったときに、伊勢丹前の九条デモとやらを見たが、道行く人は関わりになりたくないかのように素通りしていた。デモ隊のほとんどはいわゆる団塊世代の人たちで、いかにもプロ市民というオーラを放っていた。デモ隊は伊勢丹の交差点からビックロの前にかかるかかからないかくらいの人数で、その後ろにできた広い空きスペースで右翼と思しき人が幟を立てていた。
俳諧の言葉は基本的には多くの人が共有できるような共通の体験に根ざした言葉を作り上げることにあり、分断を煽るような言葉は好ましくない。その意味で、この句は「俳諧」としてみるなら良い句とは言えない。
まあじじいネタはこれくらいにして、『初心求詠集』の続きに行こう。
「一、物をにて付事
鳥はいづくの夜はになくらん
別をばわが心にもしる物を
末みじかきは庭の若草
出しより日影はながくなる物を」
「物を」は何々になってしまうのになぜ、というようなニュアンスになる。これは咎めてにはに近い。
咎めてにはというのは前句の作者を咎めているのではない。連句の前句にはもとより人格はない。ただ、前句の解釈の一つの思いがけない可能性を引き出すことが重要で、前句の本来作られた意味が何であったかはどうでもいい。
例に挙げられている句は、前句を惜しみ、それに対して無常な現実を突きつけるというふうに付けている。夜に鳴く鳥には朝になれば別れが来る物を、秋になって生えてきた若草は育つ前に影ばかり長くなる物を、という具合に、前句の中から惜しむべき残念なという情を引き出して付けている。
もし「薄が原は銀の輝き」という前句から「物を」で展開を図ろうとするなら、銀の輝きに何か惜しいという情を見出さなくてはならない。
薄が原は銀の輝き
木枯らしにやがては寂びて行く物を
みたいな感じか。
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