2017年10月25日水曜日

 今日も一日雨だった。なんかいろいろ事件のあった平成二十九年も、「雨」の一文字で片付けられてしまいそうだな。
 遠藤賢司さんは中学高校の頃よく聞いたな。1stアルバムのniyagoはなかなか入手困難だったが、銚子電鉄に乗りに行った時、銚子のレコード屋でたまたま見つけて買ったのを覚えている。「夜汽車のブルース」は良かったね。2ndアルバムの「満足できるかな」は今で言えばちょっとブルータルの入ったデスメタルだな。あのころはハードフォークと言ってたけど。「KENJI」は名盤だった。だけど、「気をつけろよベイビー」は今となってはマスコミの影響力もなくなっちゃったからな。いるのは下痢気味の気弱な、官僚と財界にめっぽう弱いヒットラー?だけだ。「宇宙防衛軍」辺りまでは聞いてたかな。
 まあ、エンケンについて語りだすときりがないのでこの辺で「猿蓑に」の巻にいくことにしよう。

九句目

   昼寝の癖をなをしかねけり
 聟(むこ)が来てにつともせずに物語 支考

 場面は変って、昼寝の癖が抜けないのは嫁に行った娘のことか。婿が家にやってきて、いかにも不満げにそのことを滔々と訴える。
 前句を物語の内容とした付け。

 聟が来てにつともせずに物語「昼寝の癖をなをしかねけり」

といったところか。

十句目

   聟が来てにつともせずに物語
 中國よりの状の吉左右(きっそう)  惟然

 ここで言う中国は唐土(もろこし)のことではなく、今日の中国地方と思われる。ウィキペディアで「中国地方」を調べると、

 「文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった(岸田裕之執筆「中国」の項、『日本史大事典4』平凡社、1993年)。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。」

とある。
 これでいくと、「中国」という言葉は南北朝期から戦国時代までの今で言う中国地方を指す言い方で、おそらく前句の「につともせずに物語」からこの婿を、みだりに笑ってはいけないと教育されている武家の位と定め、武士が使いそうな「中国」という言葉を用いたのであろう。
 あるいは戦国時代の設定で、中国戦線から吉報がもたらされたということか。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は大内家か毛利家へ士官の決まった牢人の句としているという。

十一句目

   中國よりの状の吉左右
 朔日の日はどこへやら振舞れ     芭蕉

 朔日(ついたち)は吉日で、特に八月の朔日は「八朔」と呼ばれ、日ごろお世話になっている人に贈り物をしたりした。
 ここでは八月という指定はないので、八朔を匂わせてはいるが無季になる。いろいろご馳走になったりしたのだろう。
 中国からの吉報に加えて、めでたい朔日の接待とお目出度つながりで、これは響き付けになる。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)も「吉左右の状にひびき合せたる詞の栞也」としているという。

十二句目

   朔日の日はどこへやら振舞れ
 一重羽織が失てたづぬる       支考

 「柳小折」の巻の七句目に、

   小鰯かれて砂に照り付
 上を着てそこらを誘ふ墓参      酒堂

とあり、夏場などには羽織だけ着て簡単な礼装としたようだ。
 朔日の振る舞いに招かれ一応一重の羽織だけは羽織って行き形を整えていったものの、いつしか無礼講になり酔っ払った挙句羽織をどこかになくしてしまったと、いかにもありそうな話だ。
 さんざん捜した挙句、実は畳んで懐に入れてあったなんてこともあったかも。『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、『こと葉の露』の「いさみたつ」の巻に、

   伏見の橋も今日の名残ぞ
 懐へ畳て入ル夏羽織         馬莧

という句があるという。

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