今日も一日雨降りだった。
それでは宗砌『初心求詠集』の続き。
「一、ながらにて付事
関こそやがて遠くなりぬれ
秋風の山吹こゆる声ながら
柴の戸さむく秋ぞしぐるる
露のもる軒ばの松の風ながら
一、とがめながらにて付事
又時雨行秋にこそなれ
嵐ふく雲まの月の影ながら
苔の衣の春としもなし
桜さく山の陰には住ながら」
「ながらにて」の方の「ながら」は「とともに」というような意味で、秋風の山を越える音とともに関所も遠くなる、露漏る軒端の松風とともに柴の戸は時雨れる、と付く。
これに対し「とがめながら」の方の「ながら」は「なのに」というような意味で、前句に対して否定するような状況が付く。月の影はあるのに又時雨行く、桜咲く山陰に住んでいるのに苔の衣には春もない、と逆説的に展開させるあたりは、咎めてにはの一種といえよう。
「咎めてには」については、二条良基の『知連抄』には、
「六、咎てには、たとへば(下句に)、
こころのままによしやつらかれ
ちかづけばとをざかるぞときくものを
身をしらでさのみにしたふものあらじ
しのぶには月さへ人の関路にて
此三句、みな心のままに付侍也、」
といった例が記されている。恋のつらい心に対し、近づけば遠ざかるというのに、身の程を知らずに恋なんかするから、お忍びで通うにも月明かりは関所のようなもの、と「よしやつらかれ」の原因を咎めて付けている。
また、
「つれなき人のなどやとひこぬ
ならぶ木の花に風ある庭の松
有明の月いづるまで待つるに
あふ事も後の世まではいざしらず」
の例をも挙げて、「庭の松」は「咎めぬてには」とし、「有明」の方は「咎めてには」としている。「有明の月が出るまで待っているというのに」という言葉には、つれなき人を咎める意味が含まれている。
梵灯庵主の『長短抄』には、
「六、咎テニハト云は、例エバ
恋セヌ人ヨナニヲモフラン ト云ニ
待テコソウキ夕暮ト成ニケレ
又云 ワレノミゾキク庭ノ松風 ト云ニ
捨人ノ跡ニウキ身ヤノコルラン
此等ハ咎テニハナリ、恋セヌ人ヨナニヲ思ゾ、我ハ待コソ憂ケレト咎メタルテニハ也、又我ノミ松カゼヲ聞トアルニ、身ハ捨人ノ跡ニ残リタリト咎メタルナリ」
とある。
現代語ならこういう感じか。
今日も一日雨降りだった
暇だから借りた漫画を読みながら
では咎めてないが、
今日も一日雨降りだった
思いつく楽しいこともありながら
だと咎めたことになるか。
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