2017年10月11日水曜日

 今日は宗砌の『初心求詠集』の続き。岩波文庫『連歌論集 上』(伊地知鉄男編、一九五三)より引用。
 係助詞「ぞ」も基本的には「こそ」と同じように否定の句を付けることが出来る。「何々ではなく何々ぞ」という風に繋がる。

 「一、ぞ付の事、こそ付と同心なり。
     霞をわけて水ぞながるる
   花さそふ風は心もなかりしに
     月の夜さむく風ぞきこゆる
   千鳥鳴くしほひは浪の音もなし
     露にぞもとの袖はぬれける
   捨る身は物おもふべき秋もなし」

 風は心無いが水は流れて心ある。
 波の音はないが風は聞こえる。
 世を捨てるのだから涙なんかない(はずだが)、露に袖は濡れる。
 どれもわかりやすい付けだ。初心者はこれを覚えておくだけである程度連歌に参加できたのだろう。

 「一、そにて付事
     程なく行や舟路なるらん
   くるしきぞ野山を分る心なる
     秋の時雨はふるとしもなし
   今夜又月にぞ袖をぬらしつる」

 これも「こそ」の時と同じで、苦しいのは野山を踏み分けてゆくのと同じで、船路だと程なく行くのだろうか、そんなことはない、と前句を反語に取り成す。
 時雨は降らないというのを受けて、月にぞ袖をぬらしと付くのも、同様に、否定に対し肯定で付ける。
 江戸時代になると係助詞の使用頻度はかなり減る。こうしたてにはで付ける技法は廃れてしまったようだ。

 「一、はにはをもて付事
     草の庵りはあり明の月
   岩屋にはいかが吹らん秋の風
     よそなる里は又鐘の声
   野を行ば露と霜とに袖ぬれて
     月はいづくの空を行らん
   秋の夜は時雨に成て明にけり
     しほひの雪はのこるともなし
   影うすき朝の月はなを見えて」

 これは「何々は何々、なら何々は何々だろうか」という並列する付け方になる。
 たとえば、「薄が原は銀の輝き」だったら、

   薄が原は銀の輝き
 夕暮れは金の光になるだろか

みたいな付け方だ。

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