今日は久しぶりに富士山が良く見えた。山頂から北の斜面が白くなって、富士山らしくなった。
それでは「猿蓑に」の巻の続き。
十三句目
一重羽織が失てたづぬる
きさんじな青葉の比の椴楓(もみかえで) 惟然
これはなかなかわかりにくいが、おそらく前句の「一重羽織」を一重羽織を着た人に取り成し、それが急にふらっといなくなって青葉の頃の樅や楓を見に行った、ということだろう。まあ、なんともお気楽(きさんじ)なことか。
きさんじな一重羽織が青葉の頃の樅楓を失せてたづぬる、の倒置になる。
十四句目
きさんじな青葉の比の椴楓
山に門ある有明の月 芭蕉
『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)の註によれば、「きさんじ」には「法師程世にきさんじなる物はなし」(西鶴『男色大鑑』貞享四年刊)という用例があるという。芭蕉もまた「きさんじ」から法師を連想したか。芭蕉さんのことだから『男色大鑑』を読んでいたかもしれないが、まあ、芭蕉さんのそれはあくまで噂ですから。
山はおりしも青葉の頃で、有明の月に夜も白んでくると樅や楓の若葉が次第に姿を現し、その中からお寺の門とおぼしきものも見えてくる。こんな所に暮らすお坊さんはさぞかしきさんじなことだろう。上句は「きさんじな、青葉の頃の‥‥」と切って読んだ方がいいだろう。
十五句目
山に門ある有明の月
初あらし畑の人のかけまわり 支考
「初あらし」は秋の初めに吹く秋風の強いやつだと思えばいいのだろうか。風の音に驚かされるのもこの風だろう。
山に門あるから山村の風景とし、早朝からせわしく駆け回る農民の姿を付けている。特にひねりのない素直な展開だ。「畑の人の」は「畑を人が」ということ。
十六句目
初あらし畑の人のかけまわり
水際光る濱の小鰯 惟然
畑を海辺の風景とし、人がせわしく駆け回っていると思ったら浜にはイワシの大群が来て海が光って見える。こりゃ大騒ぎするはずだ。鰯も秋の季語。
十七句目
水際光る濱の小鰯
見て通る紀三井は花の咲かかり 芭蕉
紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れている。
行く春にわかの浦にて追付たり 芭蕉
の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、
見あぐれば桜しまふて紀三井寺 芭蕉
の句もある。
実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。
十八句目
見て通る紀三井は花の咲かかり
荷持ひとりにいとど永き日 支考
紀三井寺に花が咲き、主人は花見に興じているのだろう。荷物持ちの男はただ一人、主人の花見が終わるまで荷物の番をして、ただでさえ春の長い一日が余計長く感じられる。
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