2017年10月31日火曜日

 朝鮮通信使に関する資料と上野三碑が世界記憶遺産に登録が認められた、というニュースがあった。
 朝鮮通信使は芭蕉の時代だと天和二年の秋に来ている。ただし、俳諧のネタにはならなかったようだ。この頃の芭蕉は深川に隠棲し、発句も興行も限られている。春には古池の句の着想を得、新たな俳諧を模索していた時期で、冬には「詩あきんど」の巻を巻くが、直後八百屋お七の大火に見舞われ命からがら隅田川に逃れ、第一次芭蕉庵を失った芭蕉は、その後しばらくは甲斐で過ごすことになる。
 貞享元年の『冬の日』「狂句こがらし」の巻の五句目、

    かしらの露をふるふあかむま
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき    杜国

は何か関係あるのかもしれないが、よくわからない。
 朝鮮通信使は日本の朱子学の発展に大きく貢献したから、それが朱子学神道の大家吉川惟足の門下生である岩波庄右衛門(曾良)を通じて、芭蕉の不易流行説にも影響を与えたと言えなくもない。そういうわけで、不易流行の起源は韓国にあるニダと、芭蕉を韓国に広めてほしいものだ。芭蕉の句には「恨(ハン)」の心に通じるものもあると思う。
 上野三碑は正直初めてその名前を聞いた。ほとんどの日本人はそうなのではないかと思う。群馬の方では学校で郷土史として習うのかもしれないが、全国的にはまったくの無名だ。
 そういうわけで急遽ググってみて、ようやく高崎市に山上碑(六八一年)、多胡碑(七一一年)、金井沢碑(七二六年)の三つの碑の古い碑があるというのがわかった。
 芭蕉が「壺の碑」として感動の涙を流した多賀城碑が七六二年だから、それよりも古い。
 で、何を記した碑なのかというと、ニュースでは書いてない。ネット上に熊倉浩靖さんの「古典としての上野三碑」という論文のPDFに、詳しい解説があった。

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