雨風が強かったのは朝の五時頃までで、そのあとは台風一過で久しぶりに晴れた。
それでは「猿蓑に」の巻、行ってみようか。
まずは発句。
猿蓑にもれたる霜の松露哉 沾圃
沾圃(せんぽ)は能役者で芭蕉に弟子入りしたのは遅く、元禄六年と言われている。
五月晦日の、
其富士や五月晦日二里の旅 素堂
を発句とする興行で、
家より庭の広き住なし
晨朝(ありあけ)は汀の楼の水にあり 沾圃
などの句がある。この句は五句目の月の定座ということもあって、庭の広い家から、汀の楼の有明を付けている。
『炭俵』の「雪の松」の巻の興行にも参加し、
二三畳寝所もらふ門の脇
馬の荷物のさはる干もの 沾圃
わざわざわせて薬代の礼
雪舟でなくバと自慢こきちらし 沾圃
のニ句を詠んでいる。
「猿蓑に」の発句もおそらくこの頃のものだろう、「霜」という冬の季語と「松露」という秋の季語が使われているが、芭蕉の脇から冬の句と扱われていたことがわかる。
「松露」は近代では春の季語になっているようだが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では秋の八月の所に、
「松露 [和漢三才図会]麦蕈(ばくしん)、俗云、松露。沙地、松樹ある陰処に生ず。松の津液と秋湿と相感じて菌となる。繖(かさ)、柄なく、状ち零余子(ぬかご)に似て円く大きし。外褐色、内白く、柔に淡く甘し。香あり。」
とある。
芭蕉の「軽み」の風の確立される『炭俵』の頃の入門ということもあって、一躍「軽み」の推進者として『炭俵』の次の集、『続猿蓑』の撰者に抜擢される。
その、『続猿蓑』のタイトルの由来となる句が、この「猿蓑に」の句だと思われる。
松露は美味で香りも良く、それに霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
沾圃としては、ぜひこの霜の松露を救うべく『続猿蓑』が編纂されたと、そういう物語を描きたかったのだろう。
ただ、さすがにこの句を巻頭に据えるのはためらわれたか。この句は沾圃のいない伊賀の地で、芭蕉自身とこれからの蕉門を担う期待の星、支考と惟然との三人で句を付け、『続猿蓑』の飾りとすることで入集することとなった。
まずは芭蕉がこの句に脇を付ける。
猿蓑にもれたる霜の松露哉
日は寒けれど静なる岡 芭蕉
冬の句の脇ということで「寒けれど」と冬の季語を入れて、霜の松露の背景を添える。あまり自己主張せずに謙虚に発句を引き立てている。
第三は支考が担当する。
日は寒けれど静なる岡
水かるる池の中より道ありて 支考
これも穏やかな、連歌のような趣向だ。『水無瀬三吟』の八句目、
鳴く虫の心ともなく草枯れて
垣根をとへばあらはなる道 肖柏
の句を髣髴させる。肖柏の句は草が枯れて道があらわになるという趣向だが、支考の句は水が枯れて池の中に道が現れるとする。かつては道だったところにいつしか水が溜まり池になっていたのだろうか。
「道」はもちろん単なる道路ではなく、この世の「道」の含みも感じさせる。
四句目は惟然。後に超軽みの風を打ち出すが、この頃は普通。
水かるる池の中より道ありて
篠竹まじる柴をいただく 惟然
山に柴刈りに行くと、そこに笹も混じってくる。芭蕉の『奥の細道』の途中山中温泉で詠んだ、「馬かりて」の巻六句目、
青淵に獺(うそ)の飛こむ水の音
柴かりこかす峰のささ道 芭蕉
をより穏やかに流した感じか。
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