2017年4月30日日曜日

 昨日は6号線で福島の立ち入り制限区域を通り抜け、飯舘村の復興の桜を見に行った。季節が3週間くらい戻ったみたいで、桜は満開で散り始め、水仙や雪柳なども咲いていた。
 大変なことがあった場所だからこそ、単なる花見でもいいからみんな尋ねていってほしい。人が集まって観光地になれば、そこに産業が生まれ、多くの人が暮らせるようになる。人が増えれば、それを当て込んでまた集客力のある店が集まってくるし、それを目当てにまた人も集まる。こうした相乗効果が起きればいいなと思う。
 他にも天神岬、はやま湖などいい場所がたくさんあるし、昔からの相馬の野馬追いもある。福島浜通りを盛り上げよう。

 さて、「木のもとに」の巻の二裏、一気に行きます。

三十一句目

   露こひしがる人はみのむし
 しらぎくの花の弟(おとと)と名をつけて 半残
 (しらぎくの花の弟と名をつけて露こひしがる人はみのむし)

 「花の弟」というのは、花のいろいろある中で一番最後に咲くという意味で、「梅は花の兄菊は花の弟」とも言うらしい。出典は、

 百草(ももくさ)の花の弟となりぬれば
     八重八重にのみ見ゆる白菊
               藤原季経(『夫木和歌抄』)

のようだ。

 秋の色の花の弟と聞きしかど
     霜のおきなとみゆる白菊
               藤原基家(『夫木和歌抄』)

という用例もある。花の末っ子ではあっても霜の花からすれば大先輩(翁)だという。凡河内躬恒の「初霜のおきまどはせる白菊の花」の歌のように、白菊は霜にも喩えられた。
 露恋しがる人は白菊を花の弟と呼ぶようなそんな人だという付け。

季題は「しらぎく」で秋。植物、草類。「花」も植物。三十五句目の花の定座からぎりぎり三句隔てている。

三十二句目

   しらぎくの花の弟と名をつけて
 能見にゆかん日よりよければ   雷洞
 (しらぎくの花の弟と名をつけて能見にゆかん日よりよければ)

 これは謡曲『菊慈童』のことか。

無季。

三十三句目

   能見にゆかん日よりよければ
 乗いるる二歳の駒をなでさすり  三園
 (乗いるる二歳の駒をなでさすり能見にゆかん日よりよければ)

 宮本三郎の註に「能見物に乗入れる若駒と見たか。」とあるが、二の裏の終わりに近いところなのでそれだけの意味の軽い遣り句か。

無季。「駒」は獣類。

三十四句目

   乗いるる二歳の駒をなでさすり
 躙書(にじりがき)さへならぬ老の身 良品
 (乗いるる二歳の駒をなでさすり躙書さへならぬ老の身)

 「にじる」というのは座ったまま膝を使って歩くことで、「にじり書き」は比喩として膝で進むのに喩えられるようなゆっくりと筆を押し付けるようなたどたどしい書き方をいう。
 歳を取ると手が思うように動かず、にじり書きになりやすいが、それすらもできなくなるというと相当なものだ。
 前句の二歳の駒の若々しさに対して付ける「相対付け(向かえ付け)」の句。

無季。「身」は人倫。

三十五句目

   躙書さへならぬ老の身
 降かかる花になみだもこぼれずや   風麦
 (降かかる花になみだもこぼれずや躙書さへならぬ老の身)

 これは反語で、降りかかる花、つまりはらはらと散ってゆく花に涙がこぼれないことがあるだろうか、ありやしない、という意味。歳取ると涙もろくなる上に、散る花が我が事のように思えてくる。

季題は「花」で春。植物、木類。

挙句

   降かかる花になみだもこぼれずや
 雉やかましく家居しにけり      土芳
 (降かかる花になみだもこぼれずや雉やかましく家居しにけり)

 前句の反語を疑問に取り成すのは定石と言えよう。雉は散る花に涙もこぼれないのだろうか、けんけんとやかましく鳴いている。そんな長閑な春を家に籠って過ごす。

季題は「雉」で春。鳥類。

2017年4月28日金曜日

「木のもとに」の巻2の続き。

二十七句目

   源氏をうつす手はさがりつつ
 ひちりきの音をふきいれるよもすがら  風麦
 (ひちりきの音をふきいれるよもすがら源氏をうつす手はさがりつつ)

 前句の源氏物語の写本が進まないのを、源氏物語にしばしば登場する雅楽の方に魅せられてしまって、篳篥(ひちりき)にはまってしまったからだとする。もっとも、源氏の君が得意とするのは七弦琴と竜笛・高麗笛の横笛類で、篳篥はお付きのもの(惟光?)が吹いていた。

無季。「よもすがら」は夜分。そのため二十九句目の月は夜以外の月になる。

二十八句目

   ひちりきの音をふきいれるよもすがら
 燕子楼のうち火の気たえたり    芭蕉
 (ひちりきの音をふきいれるよもすがら燕子楼のうち火の気たえたり)

 宮本三郎の註には、「前句の『ひちりき』から、杜甫の夔(キ)州での淋しい生活を詠じた『秋興八首』の七律を連想した付。」とある。その詩は以下のものだ。

   秋興八首之二 杜甫
 夔府孤城落日斜 毎依北斗望京華
 聽猿實下三聲涙 奉使虚隨八月槎
 畫省香爐違伏枕 山樓粉堞隱悲笳
 請看石上藤蘿月 已映洲前蘆荻花

 夔府の孤城に日は斜めに落ちて行き、いつものよう北斗七星が指し示す京華の方角を眺める。
 たびたび鳴くテナガザルの声を聞いては涙が落ちて、使いを奉じては空しく八月の筏は天の川を流れる。
 尚書省の香炉に背いて病の枕に伏せば、山の上の楼閣の女墻(ひめがき)は悲しい蘆笙の音に覆われる。
 見てくれよ石の上の藤蘿の月、既に中洲の前の蘆や荻の花を照らせる。

 テキストによっては「北斗」が「南斗」になっているものもあるが、杜甫が赴任された夔から見ると長安の都は北に位置するので「北斗」でなければいけないと思う。
 また、ここに登場する「笳」は蘆笙のことで、篳篥ではなく笙の方で、江南地方には大小さまざまな蘆笙がある。パイプオルガンやバグパイプの親戚とも言える。
 また、付け句の燕子楼は徐州で夔州とは方角が違う。燕子楼というとむしろ白居易の詩で有名だ。

   燕子楼   白居易
 滿窗明月滿簾霜 被冷燈殘払臥床
 燕子樓中霜月夜 秋來只爲一人長

 窓を満たす明月に簾を満たす霜
 冷えた着物、残る灯りに払いのける臥床(ふしど)
 燕子樓の中は霜の月夜
 それは秋の到来、ただ一人のために長い

 この句はむしろ、前句の秋の夜長から白居易の「燕子楼」で付けた句で、ただ「燈殘」を「火の気たえたり」に代えたと見た方がいいのではないかと思う。

二十九句目

   燕子楼のうち火の気たえたり
 ゆふ月を扇に絵がくあきの風   三園
 (ゆふ月を扇に絵がくあきの風燕子楼のうち火の気たえたり)

 打越に「よもすがら」があるため、ここでは夜分の月を出せない。そのため「夕月」にして、それも絵に描いた月にして夜分をのがれている。「火の気たえたり」に「秋の風」が付く。

季題は「ゆふ月」「あきの風」で秋。

三十句目

   ゆふ月を扇に絵がくあきの風
 露こひしがる人はみのむし    土芳
 (ゆふ月を扇に絵がくあきの風露こひしがる人はみのむし)

 月に露、秋風に蓑虫と四手(よつで)に付ける。
 秋風の頃、扇に夕月の絵を描く人は、露を恋しがる人で、それは誰かと尋ねたら‥‥当然芭蕉さんということになる。

 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵  芭蕉

は貞享四年の句。これにちなんで土芳は自らの草庵を「蓑虫庵」にしたという。

2017年4月26日水曜日

 こうやって文章を書いている立場から言えば、やはり言論の自由が脅かせるということには敏感にならざるを得ない。
 基本的に失言に関しても善意無罪の原則はあると思う。相手を貶めようとしいて言った言葉かどうかをきちんと判断することは大事だ。
 ただ一つの言葉だけを抜書きしてということになると、言葉なんてのは本来取りようによってはどうとでも取れるもので、特に連句を読んでいると、思いがけない取り成しに出会うことも少なくない。
 元々言葉は単なる音声の振動にすぎず、意味はそれを話す人の意図によって決まるもので、言葉を話者から切り離してしまったら、どのような意味にでもなる。
 だから、こういう意味にも取りうるという理由でその発言の是非を問うことはできない。あくまでどのような意図で発せられた言葉かが問われなくてはならない。
 ヘイトスピーチにしても、極端なことを言えば、日本の文化や四季の美しさを賛美するだけで、他国の文化を貶めているだとか他国の四季を貶めているだとか曲解され、ヘイトではないかと言われる可能性はある。
 それを気にしていたのでは日本の文化について何も書くことができなくなる。だが現実には日本の文化を否定的に論じることが国際化だと思っている人がたくさんいる。多分それは日本だけではないだろう。だからどこの国でも極右が力をつけている。
 まあ、それはそれとして、とにかく俳諧を読んでいきましょう。たくさん俳諧を読んで、いつか俳諧研究の第一人者になって、目指すは文化勲章www。
 「木のもとに」の巻2の続き。

二十三句目

   ひとへのきぬに蚤うつりけり
 賤(しづ)の屋もかひこしまへば広くなり 良品
 (賤の屋もかひこしまへば広くなりひとへのきぬに蚤うつりけり)

 「かひこしまへば」というのは「お蚕上げ」のことであろう。旧暦の3月の終わり頃から養蚕が始まり、飼育台に孵化したお蚕さんと桑の葉を入れ、旧暦五月になるころには蛹になり繭を作るためお蚕さんを取り出し、飼育台を片付ける。それから八日くらいで繭かき(収繭)になる。
 零細な農家では蚕の飼育台が部屋を占領していたが、お蚕上げになると部屋が片付いて急に広くなったように感じられたのだろう。ここで養蚕の方も繭が出来上がるまで一休みとなるのだが、ちょうどその頃は蚤の出てくる季節でもあった。

季題は「かひこしまふ」で夏。虫類。養蚕の開始が旧暦三月の終わり頃なので、「蚕」は春の季語になるが、「蚕蛹(かひこのまゆ)」は旧暦四月の終わりで夏の季語となる。「かひこしまふ」も「蚕蛹」と同様になる。「賤の屋」は居所。

二十四句目

   賤の屋もかひこしまへば広くなり
 またあたらしき麦うたをきく    風麦
 (賤の屋もかひこしまへば広くなりまたあたらしき麦うたをきく)

 お蚕上げの季節は同時に麦の収穫の季節でもある。収穫した麦を臼に入れて杵で搗いて脱穀する時には麦搗き歌を歌う。録音技術のなかった時代のこうした歌は、その年によって新しく作られていたか。

季題は「麦うた」で夏。夏は三句まで続けることができる。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「麦秋」「麦の秋風」「麦刈」「麦藁笛」の項目はあるが「麦うた」はない。ただ、意味からいって麦刈りの季節のことなので夏として良いと思う。

二十五句目

   またあたらしき麦うたをきく
 御仏につかゆる日よりまづしくて  土芳
 (御仏につかゆる日よりまづしくてまたあたらしき麦うたをきく)

 これを夏行(夏安居)のことだとすると夏の句が四句続いてしまうことになるが、ここでは夏行に限定せず、普通に仏道に入った人のこととして、貧しい草庵でのくらしを詠んだものとした方がいいのであろう。
 麦が実れば米にその新しい麦を混ぜて、半分新米の気分だったのか。

無季。「御仏につかゆる」は釈教。

二十六句目

   御仏につかゆる日よりまづしくて
 源氏をうつす手はさがりつつ    半残
 (御仏につかゆる日よりまづしくて源氏をうつす手はさがりつつ)

 「手」は書の意味もある。だが、この場合の「手はさがり」は書が下手になるのではなく、おそらく書くのが遅くなるという意味だろう。貧しければいろいろこまごまとやることも多く、源氏物語の書写にまで手が回らないということか。
 木版印刷がなかった時代は源氏物語も写本をとるしかなったが、江戸時代になって木版印刷ができても本は高価で、お金のない人は書き写したのだろう。

無季。

2017年4月25日火曜日

 「木のもとに」の巻の三つのバージョンの内、『花はさくら』の方は終わった。
 宮本三郎の註に「『花はさくら』『十丈園筆記』にこの巻の末に『木白あとよりきたりければ、興に乗じて付延し侍る。されど、とり(雞)鐘に筆をとどむ』と付記する。」とあるので、これに従えば、途中からきた木白の句が二十六句目と三十三句目の二句だけで、もっと詠ませてあげたいからということになるが、ただ結局木白の句はこの二句だけで、延長した意味がない。多分後から推測でつけた理由だろう。
 初の懐紙が同じで二の懐紙が異なるもう一つのバージョン(「木のもとに」の巻2)は、宮本三郎の註によれば「猪来編『蓑虫庵小集』(文政七年刊)に、「右一巻之連句ハ柳下生ノ家ニ蔵ス、乞テ世ニ披露ス」と付記して収める。」とある。

「木のもとに」の巻2

二表

十九句目

   日長きそらに二日酔ざけ
 かげろふのみぎりに榻(しぢ)をひきづられ 芭蕉
 (かげろふのみぎりに榻をひきづられ日長きそらに二日酔ざけ)

 「榻(しぢ)」は牛車の牛の引く取っ手部分を停車する時に載せて置く台で、『源氏物語』葵巻の車争いでは、「しぢなどもみなおしをられて、すずろなる車のどうにうちかけたれば、又なう人わろくくやしう」とある。訳すと「榻がへし折られて、車軸の出っ張りにだらしなくぶら下げられていて、これ以上ないくらいに無残な状態で、くやしくて」となる。まあ、これも旧暦四月の賀茂祭で酔っぱらった若い衆の仕業だった。
 この句も、そうした酔った衆が牛車の榻を陽炎の立つ水際に押しやった結果だろう。翌日になってその惨状を見ながら二日酔いで頭が痛い、といったところか。
 本説というほど原典に忠実ではなく、俤付けに近い。
 「かげろう」が春の季語なのは、元々は野焼きから来たものではないかと思う。野の草が燃えても炎が高く上がることはなく地面をくすぶるため、その上にめらめらと陽炎が生じる。
 ただ、古代には陽炎はもっと多義的に用いられ、砌に立つ陽炎は単に水面に反射した光が水面から立ち上る湯気に映ったものではなかったかと思う。

季題は「かげろふ」で春。「みぎり」は水辺。

二十句目

   かげろふのみぎりに榻をひきづられ
 すげなくせいのたかきさげ髪    良品
 (かげろふのみぎりに榻をひきづられすげなくせいのたかきさげ髪)

 「すげなく」は「素気なく」で今だと「そっけなく」と言う。髪を結い上げない「さげ髪」は古風だ。芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』の西行谷の芋洗う女はさげ髪で描かれているから、この頃の田舎の女性はまださげ髪だったのだろう。
 「せいのたかき」は『源氏物語』末摘花巻の「ゐだけのたかうせながに見えたまふに」で末摘花のイメージか。これも本説ではなく俤に近いが、同じ源氏の別の場面で逃げるあたり、やや展開が重い。

無季。

二十一句目

   すげなくせいのたかきさげ髪
 しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもと  雷洞
 (しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもとすげなくせいのたかきさげ髪)

 「蝋燭おとす」というのは蝋燭の火を消すこと。橋はこの場合建物と建物の間に渡すもので「水辺」ではない。恋に展開するのはいいが大宮人のイメージから離れきれず、展開が重い。
 明確な本説ではないけど、古典趣味と重い展開は、四十句の巻の二表よりも古いように思える。あるいはこちらの方が元禄三年三月二日に近い日に巻いた二表だったのかもしれない。

無季。「しのぶ」は恋。「夜」は夜分。

二十二句目

   しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもと
 ひとへのきぬに蚤うつりけり   三園
 (しのぶ夜の蝋燭おとす橋のもとひとへのきぬに蚤うつりけり)

 「蚤」が出てくるあたりでようやく俳諧らしくなる。ただ、蝋燭は当時高級品で一般には紙燭が用いられていた。
 ここでは普通の橋で、遊女を買いに行って蚤をうつされた。まだ蚤でよかった。
 宮本三郎の註には、「前句の『橋』を普通の橋に見替えて、下等の辻君などと転じた付か。」とある。

季題は「ひとへのきぬ」で夏。衣装。「蚤」も夏。虫類。

2017年4月24日月曜日

 昨日は上野の東京学芸大学美術館に雪村展を見に行った。そのあと谷中を散歩したが、やはりここも猫に会わなくなった。前に猫の恋のところでも書いたが、猫のエンクロージャーは進行中。
 藤の花が見頃だったが、根津神社の躑躅はまだ咲きはじめだった。
 それでは今日も「木のもとに」の巻の続き。一気に挙句まで。

三十五句目

   けやき碁盤のいたの薄さよ
 老ながら廿日鼠の哀にて    半残
 (老ながら廿日鼠の哀にてけやき碁盤のいたの薄さよ)

 ハツカネズミは江戸後期になると趣味で飼われたりもするが、この時代は普通に家の中をちょろちょろ這い回った迷惑な存在だっただろう。欅の碁盤も齧られてしまったのだろう。年寄りの唯一の楽しみが奪われて哀れということか。
 本来なら花の定座で、次は挙げ句になるところだが、なぜかまだ続く。

無季。「廿日鼠」は獣類。

三十六句目

   老ながら廿日鼠の哀にて
 石菖(せきしゃう)青くめをさましつつ 良品
 (老ながら廿日鼠の哀にて石菖青くめをさましつつ)

 「石菖」はショウブ科の多年草で、葉は細く群生する。初夏に小さな花をつけるので夏の季語になっている。
 宮本三郎の註には「青々とした石菖の葉はよく眼病を治すともいう(和漢三才図会)。」とある。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「臞仙、神隠書に云、石菖蒲一盆を几上に置、夜の間書を視る時、煙を収て目を害するの患なし。」とある。
 あたりをハツカネズミの這い回る家で、老人は石菖の青々したのを盆の上に置いて、行灯の明りで書を読んでいるのだろう。

季題は「石菖」で夏。植物、草類。

三十七句目

   石菖青くめをさましつつ
 着かゆれば染物くさき単物(ひとへもの) 芭蕉
 (着かゆれば染物くさき単物石菖青くめをさましつつ)

 前句の「めをさましつつ」を朝起きる意味に取り成して、初夏の衣更えにふさわしく一重の小袖に着替える。今だったら防虫剤の匂いのするところだが、昔は染液の匂いが残ってたりしたか。多分当時の人ならわかるあるあるネタだったのだろう。

季題は「単物」で夏。衣装。

三十八句目

   着かゆれば染物くさき単物
 おくの座敷へ膳すゆる也      土芳
 (着かゆれば染物くさき単物おくの座敷へ膳すゆる也)

 単衣を着た人を女中の位と見たか。

無季。「座敷」は居所。

三十九句目

   おくの座敷へ膳すゆる也
 花あればいやしき家にとどめられ  三園
 (花あればいやしき家にとどめられおくの座敷へ膳すゆる也)

 「いやしい」といっても奥座敷があるくらいだからそこそこの家だろう。商人の家なら身分的には士農工商だから賤しいといえるかもしれない。
 奥座敷の前に桜の木があるからそこで花見ができるというので、外へ花見に行くこともなく家に閉じ込められている、といったところか。そのうえ給仕までさせられて。
 ここでようやく花の定座となり、次が挙句となる。

季題は「花」で春。植物、木類。「家」は居所。

四十句目

   花あればいやしき家にとどめられ
 終に出来たる燕(つばくろ)の土 雷洞
 (花あればいやしき家にとどめられ終に出来たる燕の土)

 ツバメは泥と枯れ草で巣を作るが、そのときに泥が下に落ちたりする。

 盃に泥な落しそむら燕   芭蕉

という貞享の頃の句もある。
 燕も花に惹かれてこの賤しい家に来たのだろうか、巣作りを始め土が落ちている。
 ツバメが巣を作る家は繁栄すると言われていて、この一巻も「終に」目出度く終わる。「終に出来たる燕の土」とは、この一巻も燕が落とす泥のようなものと謙遜の意味を込めているのだろう。

季題は「燕」で春。鳥類。

2017年4月22日土曜日

 「木のものに」の巻の続き。二裏に入る。

三十一句目

   髪筋よりもほそき秋風
 鶴の夢すすきの中にまどろみて  雷洞
 (鶴の夢すすきの中にまどろみて髪筋よりもほそき秋風)

 鶴の夢というと鶴の恩返しを連想するが、当時この物語があったのかどうかはわからない。夢から醒めてススキの中というと何か狐に化かされたような感じだ。
 「鶴の恩返し」を検索すると「唐代のものとされる『鶴氅裒(かくしょうほう)』の寓話からきたもの、という一説もある」という一文がかなりの数出てきているが、肝心なその寓話はどこにもなく、裏を取らずに拡散されている感じだ。
 横井見明『源翁和尚と殺生石』が一応その出典らしい。これは国立国会図書館デジタルで読むことができる。儒者の着る鶴氅衣の起源の物語だ。
 ただそこには「昔の唐土のさる田舎に」という物語上の設定は書かれているが、物語自体がいつ成立したのかはわからない。
 そういうわけで「鶴の夢」が鶴の恩返しに関係があるかどうかは不明。単なる吉祥の夢かもしれない。いずれにせよ夢から醒めたらススキの中にいて、現実は「髪筋よりもほそき秋風」だったというわけだ。

季題は「すすき」で秋。植物、草類。「鶴」は鳥類。

三十二句目

   鶴の夢すすきの中にまどろみて
 冬のかがしの弓を失ふ    三園
 (鶴の夢すすきの中にまどろみて冬のかがしの弓を失ふ)

 前句を案山子の夢と取り成す。
 ススキの中に立つ案山子が鶴の夢を見て、醒めると薄が原はすっかり冬になり、案山子の持っていた弓がなくなっていた。ちょっと『俳諧次韻』っぽい展開。
 宮本三郎の註には参考として、

 道のべにまねく薄にはかられて
     今宵もここに旅寝をやせん
              『夫木抄』

の歌を記している。これを本歌として、旅人ではなく案山子の夢としたと思われる。

季題は「冬」で冬。

三十三句目

   冬のかがしの弓を失ふ
 房は留守仏はうににふすぼりて 木白
 (房は留守仏はうににふすぼりて冬のかがしの弓を失ふ)

 「うに」は「雲丹」で泥炭のことだという。芭蕉の貞享五年の句に、

   伊賀の城下にうにと云ものあり、わるくさき香なり
 香ににほへうにほる岡の梅のはな   芭蕉

の発句がある。
 「ふすぼる」は「くすぶる」のことだと古語辞典にある。
 お寺の坊は留守で、誰もいないお寺のご本尊には付近の泥炭のにおいが染み付いていて、庭の畑の案山子の弓もいつしかなくなっている。「弓を失う」に「うににふすぼる」と響きで付けている。

無季。「仏」は釈教。

三十四句目

   房は留守仏はうににふすぼりて
 けやき碁盤のいたの薄さよ    風麦
 (房は留守仏はうににふすぼりてけやき碁盤のいたの薄さよ)

 碁盤には榧(カヤ)、桂、銀杏などが用いられる。欅は碁石を入れる碁笥にはよく用いられるが、碁盤にはあまり用いられない。「いたの薄さよ」というのは卓上碁盤か。留守がちな坊には、そんな立派なものも置いてないということか。
 宮本三郎の註にも、「前句の坊にある粗末な碁盤と見た」とある。

無季。

2017年4月21日金曜日

 俳句を国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産にという動きが主要俳句四協会と伊賀市を中心にあるらしい。近代俳句はますます世界で盛んになることだろう。その一方で俳諧は様々な誤解や偏見の中で未だに見向きもされず、そのうち似て非なる現代連句を世界遺産になんてなるんだろうな。
 不肖鈴呂屋こやんただ一人、今日も俳諧の復興に努めたいと思う。本当に世界遺産の価値があるのは俳句ではなく俳諧だと信じるから。
 そういうわけで、「木のもとに」の巻の続き。

二十五句目

   気おもに見ゆる脇息のうへ
 かけがねのひとりはづれし夕嵐  三園
 (かけがねのひとりはづれし夕嵐気おもに見ゆる脇息のうへ)

 前句に恋の雰囲気を読み取っての付けで、脇息に寄りかかって物憂げに待っていると、門の掛け金がはづれたので、思う人が来たのかと思ったら風のせいだったというところか。

無季。

二十六句目

   かけがねのひとりはづれし夕嵐
 香(かをり)しみたるちんの首たま 木白
 (かけがねのひとりはづれし夕嵐香しみたるちんの首たま)

 掛け金が外れたのは狆(ちん)が帰ってきたからとした。猫でも自分でドアを開けたりするように、狆も賢いから自分で掛け金をはずすことを知っているのだろう。
 「首たま」は首輪のこと。浮世絵など見ても狆は布製のひらひらした首輪をつけて描かれている。大奥でも飼われていたし、吉原でも飼われていたという。ひらひらした首輪には香が焚き込んであったりしたのだろう。

無季。「狆」は獣類。「首たま」は衣装。

二十七句目

   香しみたるちんの首たま
 はり道を傘(からかさ)指てひとひつき 良品
 (はり道を傘指てひとひつき香しみたるちんの首たま)

 「はり道」は「墾道」と書く開墾された道のことだが万葉時代の言葉で、伊賀の方ではそういう古い言葉が生きていたのか。土芳も十六句目で「わぎもこ」という言葉を使っている。
 「はり道」というと『万葉集』の、

 信濃道は今のはり道刈りばねに
    足踏ましむな沓はけ我が背

しか思い浮かばないが、他に用例はあるのだろうか。
 古代の駅路は幅6メートルから12メートルの舗装道路だったが、こうした帰化人などによって担われてきた道路技術は次第に失われ、時代が下って新しく開かれた道は切り払った枝や何かが残っていて靴がなければ歩けなかったのだろう。
 この句では多分そういうこととは関係なく、新しい綺麗な道を粋な唐傘を差して一日過ごす貴人のイメージで詠んだのだろう。前句の首輪に香を炊き込めた狆から、それを連れて歩く人の位で付けている。
 当時唐傘はまだ高級品で、一般に普及するのは江戸中期からだった。

無季。「唐傘」は衣装。

二十八句目

   はり道を傘指てひとひつき
 飯のこわきをこのまれにける    土芳
 (飯のこわきをこのまれにけるはり道を傘指てひとひつき)

 前句の「はり道」から古代の旅人に転じたか。だったら飯といえば甑で蒸した強飯だろう。土芳は「判官の烏帽子」の句といい「わぎもこ」の句といい、古代史マニアだったか。
 ここまで無季の軽い句の連続は『炭俵』の「雪の松」の巻の二表を髣髴させる。あるいは、この懐紙自体が元禄三年ではなく、かなり後になって付け足された可能性もある。

無季。

二十九句目

   飯のこわきをこのまれにける
 月影に燈籠張て泣暮し     三園
 (月影に燈籠張て泣暮し飯のこわきをこのまれにける)

 月の定座だが、「燈籠」が出てくるようにこの月は旧暦七月のお盆の月だ。姫飯(釜で炊いた飯)など軟弱なものが食えるか、と言っていた昔かたぎの祖父のことでも思い出して、涙していたのだろう。

季題は「月影」で秋。夜分、天象。

三十句目

   月影に燈籠張て泣暮し
 髪筋よりもほそき秋風    芭蕉
 (月影に燈籠張て泣暮し髪筋よりもほそき秋風)

 さて、久しぶりの芭蕉さんの登場だ。特に目新しいものを付けず、前句の泣き暮らす人を女性に取り成し、その髪の毛よりも心細い秋風として、さらっと流している。この辺の展開の仕方は手馴れたものだ。

季題は「秋風」で秋。

2017年4月20日木曜日

 さて、「木のもとに」の巻も二表に入る。

十九句目

   日長きそらに二日酔ざけ
 かねかすむ喰さき紙を飛つきて  風麦
 (かねかすむ喰さき紙を飛つきて日長きそらに二日酔ざけ)

 「かねかすむ」は遠くから聞こえてくる鐘の音が、春の湿気の多い空気の中を通って来るため、どことなくくぐもって聞こえてくることを言う。『源氏物語』「末摘花」でも、朧月の夜に謎の姫君の七弦琴を聞きに行こうと誘うと、大輔の命婦が「ものの音すむべき夜のさまにも侍らざめるに」と気乗りのしないふうに言う場面がある。昔の人は春と秋で音の伝わり方の違いに敏感だったようだ。
 問題は次の「喰さき紙」だが、ネットで検索すると紙の切り方で、カッターなどで裁断すると切り口の境目がはっきり出てしまうため、紙をあらかじめ湿らせて引き裂くことで切り口を毛羽立ったファジーなものにして、貼った所を目立たなくする技法だということがわかる。
 ここでいう「喰いさき紙」は、はそうやって切断した紙のきれっぱしのことだろう。風で飛んでしまったのだろうか。鐘霞む日長き空に消えてゆく、そんな二日酔いの日、と付く。

季題は「かねかすむ」で春。聳物(そびきもの)。

二十句目

   かねかすむ喰さき紙を飛つきて
 荷ひ夾(まぜ)たる番匠のごき   芭蕉
 (かねかすむ喰さき紙を飛つきて荷ひ夾たる番匠のごき)

 「番匠」は「ゑびす講」の巻の第三のところで触れたが、建築現場で大工の下働きをする人。律令時代は建築だけでなく、材木の伐採などに携わる者も含む建築一般に従事する人を指していた。ここでは前者だろう。大工さんの食事を運んだりもしていたか。
 飛んできた喰い裂き紙が背負っている食品の上に落ちて混ざってしまう。芭蕉らしい発想だ。
 軽みの風のようにも見えるが、「鐘」と「番匠」は付け合いなので物付けになる。

無季。「番匠」は人倫。

二十一句目

   荷ひ夾たる番匠のごき
 何事にいそぐめくらのひずむらん  土芳
 (何事にいそぐめくらのひずむらん荷ひ夾たる番匠のごき)

 番匠が御器を運ぶのではなく、番匠の御器を運ぶ人物として目の不自由な人を付ける。「ひずむ」は曲がるということ。

無季。「めくら」は人倫。

二十二句目

   何事にいそぐめくらのひずむらん
 かざすあふぎのかなめはしりし   雷洞
 (何事にいそぐめくらのひずむらんかざすあふぎのかなめはしりし)

 これも何の事だかさっぱりわからなかったが、「扇 盲人」で検索したら「心で学ぶ人間福祉入門: 実践ワーク」というのが出てきた。

 「例えば軍談語りですが、これは盲人と密接な関係にありました。俳諧師の野々口立園の『盲人画卷』には、軍談語りが閉じた扇を突き出し、膝立ちの身を乗り出している法師姿の男として描かれています。その姿は琵琶法師の変身か、その流れを引く盲人たちの‥‥」

とあるので、この可能性はある。
 軍談語りは辻講釈と呼ばれる大道芸の一つで、やがて常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。「講釈師見てきたような嘘をつき」と川柳にも詠まれている。明治になってそれが「講談」と呼ばれるようになったという。以上はウィキペディアの「講談」を参照。
 講釈も芭蕉の時代はまだ大道芸で、琵琶法師の流れを汲んでいたため目の不自由な人も多く、それが扇を様々に使って面白おかしく物語をしたのだろう。扇を使うというのは、落語の扇子にも受け継がれている。
 前句の目の不自由な人は大道芸の講釈師で、一体何を急いでひずんでいるのか、と問いかけて扇の要を走らすという落ちに持っていっているのだろう。つまり本当に急いで走ってたのではなく、扇をさっと広げる仕草のことを「走る」というだけのことだったというわけだ。

無季。「めくら」は人倫。

二十三句目

   かざすあふぎのかなめはしりし
 おかしきは鼓の拍子打のべて   風麦
 (おかしきは鼓の拍子打のべてかざすあふぎのかなめはしりし)

 これは簡単。かざした扇をさっと開く仕草を講釈師ではなく能の舞いに取り成し、そこは鼓をポンポン打ち鳴らして盛り上がるところだ。

無季。

二十四句目

   おかしきは鼓の拍子打のべて
 気おもに見ゆる脇息(けふそく)のうへ 良品
 (おかしきは鼓の拍子打のべて気おもに見ゆる脇息のうへ)

 
 鼓は立って打つ場合でも座って打つ場合でも背筋をピンと伸ばすもので、それがいかにも気だるそうに脇息(肘掛)に肘を突いて叩いていたら、そりゃあおかしいわな。でもそういう人、いそうだ。
 二の懐紙に入ってから、本歌本説の重い句はなく、こういうあるあるネタが続いている。芭蕉も初の懐紙が重くなりすぎたので、このあたりで付け句の方でも「軽み」を試そうとしたのかもしれない。

無季。

2017年4月19日水曜日

 今日はかなり気温が上がり、汗ばむ陽気だった。
 染井吉野や山桜はすっかり葉の桜になったが、八重桜は見頃になった。春はまだ終わらない。

 それでは「木のもとに」の巻の続き。

十六句目

   ねて居かおかしく犬の尾をすべて
 神事見たつるわぎもこがたち   土芳
 (ねて居かおかしく犬の尾をすべて神事見たつるわぎもこがたち)

 これはまた難しいというか意味が全然わからない。でも近代連句のようなただの連想ゲームではないだろう。近代連句だとただ連想したことを自動記述的に付けるシュール付けが多いが。
 宮本三郎の註によると、「犬→神前」は『類船集』の付け合いだから、物付けと思われる。物付けの場合はかなり強引に辻褄を合わせてたりする。
 とりあえず、「神事 太刀」とかで検索してみると、いろいろ太刀にまつわる神事が出てくる。
 ただ、太刀を振るのはたいてい男なので、検索項目に「女」を加えてみると、島田大祭というのが目に止まった。安産祈願の祭で、元は女性が帯を披露していたのだが、やがてそれが大奴(男)が太刀に帯をかけて練り歩くようになったという。
 安産祈願という所で犬と神事は結びつく。句の方は「神事見たつる」だから神事ではないが神事を真似てということで、寝ている犬の脇で模造の太刀を持ってきて神事っぽく安産祈願を行ったということか。

無季。「神事」は神祇。「わぎもこ」は恋、人倫。

十七句目

   神事見たつるわぎもこがたち
 饅頭のべにつけちらすはなざかり  半残
 (饅頭のべにつけちらすはなざかり神事見たつるわぎもこがたち)

 宮本三郎の註によると、「饅頭→祭」が『類船集』の付け合いなので、これも物付けになる。
 花の定座ということで、前句を花見の余興に取り成したのだろう。天和の頃の、

 花に酔へり羽織着て刀さす女   芭蕉

の発句もある。この種のコスプレは花見の時にはよくあることだったのか。
 花見というと普通は酒だが女の「わぎもこ」の花見なので饅頭になる。紅で染めた饅頭というと紅白饅頭のようなものか。
 塩瀬総本家のHPによると、十四世紀に塩瀬の始祖・林淨因が紅白饅頭を作っていたという。
 桜というと桜餅だが、ウィキペディアによると、「南方熊楠によれば、桜餅の知られている出現は天和三年(一六八三年)である。太田南畝の著『一話一言』に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。」とある。
 餅を桜の葉で包んだものだが、当時の桜の主流は山桜で白かったから、桜餅も今みたいなピンク色ではなかった。長命寺の桜餅は享保二年(一七一七年)だから、この頃はまだなかった。その長命寺の桜餅も白い。桜餅がピンクになったのは染井吉野が広まってからのことだ。

季題は「はなざかり」で春。植物、木類。

十八句目

   饅頭のべにつけちらすはなざかり
 日長きそらに二日酔ざけ     三園
 (饅頭のべにつけちらすはなざかり日長きそらに二日酔ざけ)

 前句の花見の饅頭を二日酔いのせいだとする。「もう酒なんて見たくもない」なんて言いながら饅頭食っているのか。それでも次の日になるとまた飲んじゃうのが酒飲みの性。
 この句の「日長きそら」はいかにも長閑で桜とあいまって目出度い感じなので、本来は半歌仙の挙句だった可能性がある。

季題は「日長」で春。

2017年4月18日火曜日

 「木のもとに」の巻の続き。

十二句目

   売庵をみせんと人の道びきて
 井どのはたなるゆぶききる也   雷洞
 (売庵をみせんと人の道びきて井どのはたなるゆぶききる也)

 「ゆぶき」はイブキのことで、白槇(柏槇、百槇:びゃくしん)ともいう。「ねずの木」も白槇(柏槇、百槇)の一種。大木になる。お寺や神社などに植えられたりするし、生垣にも用いられる。「きる」というのは剪定して形を整えるということか。
 庵の価値を高めるために、井戸の脇にあるイブキを剪定して、形を整えたのだろう。

無季。「ゆぶき」は植物、木類。

十三句目

   井どのはたなるゆぶききる也
 すずしさのはだかになりて月を待つ 良品
 (すずしさのはだかになりて月を待つ井どのはたなるゆぶききる也)

 夏の夕涼みに転じる。イブキが茂ってて、月を隠しているので剪定したのだろう。剪定作業に一汗かいて裸になって月を待つ。何だか蚊に刺されそうだな。木を切るのに月のためという理由をつけているので心付けになる。

季題は「すずしさ」で夏。「すずしさ」と組み合わせることで「月」は夏の月になる。夜分、天象。

十四句目

   すずしさのはだかになりて月を待つ
 筵をたてにはしりとびする     はせを
 (すずしさのはだかになりて月を待つ筵をたてにはしりとびする)

 これは曲芸だろうか。筵を縦に立ててそこを飛び越えるという大道芸か。
 「見世物興行年表」というサイトに、小鷹和泉・唐崎龍之助の芸として、「竹籠口の径(わた)し尺半、長さ七八尺檈(だい)の上に横たへ、高さ五六尺の菅笠を被(かつ)ぎ、走り跳び、籠の中を潜り出でて地に立つ。」とある。
 月待つ夕暮れに裸になっている人を大道芸人の位として付けたか。だとすると「位付け」で匂い付けの一種となる。

無季。

十五句目

   筵をたてにはしりとびする
 ねて居(ゐる)かおかしく犬の尾をすべて 風麦
 (ねて居かおかしく犬の尾をすべて筵をたてにはしりとびする)

 「すべて」はすぼめてということか。岩波古語辞典に「す・べ【窄べ】[下二]すぼめる。ちぢめる。「尾を─・べ、頭(かしら)を地につけて申すは」<天草本伊會保>」とある。
 走り跳びする脇では犬が眠っている。要するに全然受けてないということか。
 十一句目までは本歌や本説のある重い付けが続いたが、それ以降は一転して軽くなる。あるいは最初から十八句で終わる半歌仙の予定で、そろそろ終りということか。

無季。「犬」は獣類。

2017年4月17日月曜日

 昨日は山梨の笛吹の桃の花を見に行った。桃だけではなく桜もまだ散ってなかった。天気も良く南アルプスや八ヶ岳も見えた。富士山は勝沼の方へ行った時、先っぽだけ見えた。
 桃というと『続猿蓑』に、

 伏見かと菜種の上の桃の花   雪芝

の句がある。
 笛吹でも桃園の周りに菜の花が綺麗に咲いていたが、江戸時代の伏見もこんなだったのか。菜の花には緑肥としての効果もあったのだろう。
 花鳥山に一瓜という人の句碑があった。

 一木づつ奥ある花の山路可那  一瓜

 地元御坂の人で文政八年(一八二五)の生まれだというから、活躍したのは幕末期だろうか。ただ、このあたりで桃の栽培が始まったのは大正時代らしく、一瓜さんの頃は桜の山だったか。
 自生する山桜は点在しているから、一本の木を尋ねるとその向こうにまた別の木が見えてくる。これはそんな句だろう。
 このあたりの桜は花が小いのがあったり、葉のない白い桜が咲いてたり、いろいろな品種があるようだ。桜も奥が深い。

 さて、「木のもとに」の巻の続き。

十句目

   判官の烏帽子ほしやと思ふらん
 木わたあたりの雪の夕ぐれ    風麦
 (判官の烏帽子ほしやと思ふらん木わたあたりの雪の夕ぐれ)

 「木わた」は伏見の木幡山か。
 『平治物語』によると、平治の乱の時、常盤御前が今若、乙若、牛若の三人を連れて六波羅を脱出して大和に向かう途中木幡山を歩いて越え、ようやく大和国宇多郡龍門に辿り着くも宿もなく、夜もふける頃から雪になった。
 前句に「判官」が登場する以上、牛若丸からなかなか離れられない。本説を逃れるには別の本説を付けるというのは定石とでもいうもので、同じ牛若丸でも奥州ではなく、常盤御前に手を引かれての六波羅から大和へ向かう情景へと転じた。
 本説の時は必ずオリジナルを少し変えなくてはいけないので、夜更けから雪になったのを「雪の夕ぐれ」に変える。
 前句の「思ふらん」も反語から推量に取り成される。これも定石と言えよう。木幡の雪の夕暮れのあの子供は後の判官になって「烏帽子ほしや」と思うようになるのだろう、と付く。
 付け句だけを見ると、

 駒とめて袖うちはらふかげもなし
    佐野のわたりの雪の夕暮れ
              藤原定家『新古今集』

のパロディーになっている。難しい本説からの逃げ句にこの技はなかなかのものだ。

季題は「雪」で冬、降物。「木わた」は名所。

十一句目

   木わたあたりの雪の夕ぐれ
 売庵をみせんと人の道びきて  はせを
 (売庵をみせんと人の道さびて木わたあたりの雪の夕ぐれ)

 木幡は木幡山の周辺の地域全体も指し、今の京都市伏見区だけでなく、宇治市にもまたがっている。宇治といえば都の巽(たつみ)、

 わが庵は都のたつみしかぞすむ
     世をうぢ山と人はいふなり
            喜撰法師『古今集』

だ。
 これは本歌というよりは宮本三郎の註にあるように、「雪→冬籠る庵」「宇治→我庵」という『類船集』の付け合いによるもので、物付けと見た方がいい。
 宇治でただ庵で隠棲する人を付けても俳諧ではないので、あえて「売り庵」として、隠棲やーめたって人の句にしている。

無季。「庵」は居所。「人」は人倫。

2017年4月15日土曜日

 今日は暖かい一日だったが昼過ぎに雲が出て、ポツリポツリと雨が降った。
 桜もかなり葉に変わり、明日は最後のお花見のチャンスになるか。
 さて、それでは「木のもとに」の巻の続き。初裏に入る。

七句目

   猿のなみだか落る椎の実
 石壇の継目も見へず苔の露   風麦
 (石壇の継目も見へず苔の露猿のなみだか落る椎の実)

 「涙」に「露」が付く。古来、涙は露に喩えられてきた。

 鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ
     物思ふ宿の萩の上の露
            よみ人しらず(『古今和歌集』)

を本歌と見ることもできる。雁を猿に、萩を苔に変えている。椎のみを猿の涙に喩えた前句に対し、ここでは苔の露が「猿のなみだか」となり、「落る椎の実」はそれに添えた景色となる。
 苔むして石壇の継ぎ目も見えずという姿に一興ある。「石壇」は石で作られた祭壇。

季題は「露」で秋。「苔」は植物。

八句目

   石壇の継目も見へず苔の露
 㒵(かほ)よごれたる賤(しづ)の子供ら 良品
 (石壇の継目も見へず苔の露㒵よごれたる賤の子供ら)

 長く用いられず放置され、苔むした石の祭壇は、近所の子供たちの格好の遊び場となる。

無季。「顔」「子供」は人倫。

九句目

   㒵よごれたる賤の子供ら
 判官の烏帽子ほしやと思ふらん   土芳
 (判官の烏帽子ほしやと思ふらん㒵よごれたる賤の子供ら)

 宮本三郎の註には、

 「謡曲『烏帽子折』に金売吉次に伴われ奥州に下る牛若を、田舎の子と見立てた付か。同曲中にその途次、牛若が烏帽子屋に左折の烏帽子を所望し、烏帽子屋の主に身分を知られる条がある。或はそれを踏まえたか。」

とある。おそらく間違いないだろう。ただ、ここで登場するのは牛若丸ならぬ田舎の子供たちで、この子達はさすがに判官の烏帽子を欲しいとは思わないだろう、という意味になる。「らん」は反語になる。
 金売吉次はウィキペディアによれば、「奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けした」という。
 金売吉次の墓は壬生から鹿沼に向かう途中にあり、曾良の奥の細道の『旅日記』にも、

 「ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」

と記されている。芭蕉も見ているはずだ。

無季。「判官」は人倫。「烏帽子」は衣装。

2017年4月14日金曜日

 さて、それでは「木のもとに」の巻の、まず元禄三年三月二日の日付のある四十句から読んでみよう。
 発句は昨日読んだので今日は脇から。

   木の本に汁も脍も櫻哉
 明日来る人はくやしがる春   風麥
 (木の本に汁も脍も櫻哉明日来る人はくやしがる春)

 昔の字だとこう書くようだが、うざいので以後今の字に直す。風麥は風麦と書くことにする。「脍(なます)」も「膾」で統一する。
 脇の内容はそのまんまの意味で、特に解説を加える必要はないだろう。
 付け方という点では、前句の既に桜の散り始めた情景を受けて、特に付け合いとなる景物を出すこともなく、ただ思ったことをそのまま句にする。これは意味で付く「心付け」といっていいだろう。「こころ」という日本語は特に心情と関係なく、単に「意味」を意味する場合もある。
 末尾の「春」は「放り込み」と呼ばれるもので、季題が入らない内容のときに、こうやって無理やり後付の季語を放り込んだりする。

季題は「春」で春。「人」は人倫。

第三。

   明日来る人はくやしがる春
 蝶蜂を愛する程の情(なさけ)にて 良品
 (蝶蜂を愛する程の情にて明日来る人はくやしがる春)

 「明日来る人は蝶蜂を愛する程の情にてくやしがる、春」と付く。これも心

付け。第三なので発句の桜のことは忘れて読もう。
 とはいえ、これは結構難しい。前句を暮春の情として、「くやしがる春」を「春が行くのを悔しがる」と取って、蝶や蜂を愛するような風雅の情を持つ人だから、という意味か。
 蝶はともかく、蜂はかなり特殊だ。ただ、漢詩では蜂と蝶は対として用いられるので、漢籍に通じた人ということか。
 『校本芭蕉全集』第四巻の宮本三郎の註には、次の四句目のところに補注として、

 蝶蜂随香 参考、唐の玄宗時代の長安の銘姫、蘇連香は容色無双で、一度出づれば、蜂長その香を慕うて集まり随ったという(開元天保遺事)。

とある。
 ネットで検索する時には「蘇連香」ではなく「楚連香」で検索しないと出てこない。中国のネット辞書には、

 「五代·王仁裕《开元天宝遗事》:“都中名妓楚莲香,国色无双。时贵门子弟,争相诣之。莲香每出处之间,则蜂蝶相随,盖慕其香也。”

とある。

 【解释】:蜜蜂和蝴蝶跟随花香而追逐。旧时比喻那些纨绔子弟追逐女色。

とあるから、これは比喩で、美人には男どもがいつも取り巻いてるということか。
 ここはまだ第三なので、恋の句ではない。蝶蜂を愛する漢文かぶれの風流人ということでいいだろう。

季題は「蝶」と「蜂」で両方とも春。虫類。

 四句目。

   蝶蜂を愛する程の情にて
 水のにほひをわづらひに梟(け)る 土芳
 (蝶蜂を愛する程の情にて水のにほひをわづらひに梟る)

 「梟」は「ケウ」と読むので音を借りて「梟る」を「ける」と読ませたのだろう。フクロウはこの際関係なさそうだ。
 「水の匂い」は近代だと悪臭を連想させるが、本来は水の景色の美しさを言う。「わづらひ」も病気ではなく、「ほとんど病気」という言葉が昔はやったが、英語でもillという言葉にはかっこよくて惹きつけられるという意味があるように、水辺の景色のすばらしさに釘付けになるくらいに取っておいた方がいいだろう。
 これも心付け。漢詩に通じた風流人だから美しい風景には病的になる。四句目だからそれほど深く考える必要はないだろう。

無季。「水」は水辺。

 五句目。

   水のにほひをわづらひに梟る
 草枕此ごろになき月の晴    雷洞
 (草枕此ごろになき月の晴水のにほひをわづらひに梟る)

 旅体の句に転じる。前句の水の美しさを月の光のせいだとした。月明かりに波立つ水のきらきら光る様は、それこそ「わずらひ」になる。しかも、旅をしていて久々に晴れたならなおさらだ。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「草枕」は旅。

 六句目。

   草枕此ごろになき月の晴
 猿のなみだか落る椎の実   はせを
 (草枕此ごろになき月の晴猿のなみだか落る椎の実)

 ここで芭蕉さんの登場。
 「月」に「猿」は付け合いなので、これは物付けになる。ただ、猿そのものを登場させるのではなく、落ちてくる椎の実を猿の涙かと疑う。
 猿といえば、前年の冬に、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

の句を詠んだばかりだ。
 旅の途中、山越えの道に入ると猿と遭遇することも珍しくはなかったのだろう。「猿の声」は漢詩では古人を断腸の思いにさせる物悲しいものとされている。漢文ではニホンザルのようなマカクは「猴」の字を書き、「猿」の字はテナガザルを表す。テナガザルは夜明け前にロングコールを行い、それが哀調を帯びているのだが、残念ながら日本で聴くことはできない。
 猿の声の悲しさはそれゆえ日本では想像上のもので、俳諧のようなリアルさを追及するものでは、声でないもので猿の物悲しさを言い換える必要があった。
 猿の涙は、『奥の細道』の旅の途中、那須黒羽での興行で、

    洞の地蔵にこもる有明
  蔦の葉は猿の泪や染つらん       芭蕉

の句にも見られる。これも月に猿を付けた句で、しかも猿そのものを登場させるのではなく、蔦の葉が染まるのを見て猿の涙が染めたのかと疑う所も一緒だ。
 そういうわけで、悪い句ではないが使いまわしの感がなくもない。

季題は「椎の実」で秋。植物。「猿」は獣類。

2017年4月13日木曜日

 染井吉野はだいぶ散ったが、今年は咲く時も散る時も木によってばらつきがあって、まだ散ってない木も所々にある。それに加えて山桜がようやく満開になった。山桜が散る頃には今度は八重桜が満開になるから、まだまだ花の日々は続く。
 さて、「木のもとに」の巻の先ず発句から行ってみよう。

 木のもとに汁も鱠(なます)もさくら哉  芭蕉

 土芳の『三冊子』「あかさうし」にこうある。

 「木のもとに汁も鱠(なます)もさくら哉  芭蕉
この句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,114)

 「かかり」は岩波古語辞典によれば、「歌などの語句の掛かりかた。また、詞のすわり。風体。」とある。語句の繋がり方、前後との関係での詞の収まりのよさ、といった所か。
 花見の句で汁・鱠をと、料理なのかではむしろ脇役ともいえるものに心寄せることで、実景(虚)としては汁や鱠に散った花が降りかかり、何もかもが桜に見えることを詠み、その裏(実)に主役脇役関係なく、老いも若きも偉い人も庶民も等しく花の下では酒を酌み交わして盛り上がれる世界、身分を越えた公界の理想を隠している。
 「花見の句のかかりを少し得て」というのは、桜と汁・鱠という取り合わせの面白さにふと気づいてというような意味で、出典のある言葉をはずして「軽み」の句にした、というのが、師の言いたかったことであろう。
 ならば、それまでの花見の句はどうだったか見てみよう。
 この句の詠まれた元禄三年の前年、芭蕉は深川にいて『奥の細道』に旅立つ直前で、この年には花見の句はない。
 その前年の貞享五年は『笈の小文』の旅の途中で、伊賀では、

 さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉

の句を詠んでいる。
 この句は今ちょうどJCBのCMに用いられていて「皆さんは春に何を思いますか?」と視聴者に問いかけている。
 この句は旧主家藤堂探丸邸の花見の際の発句で、

   さまざまの事おもひ出す桜かな
 春の日はやく筆に暮れ行く     探丸

の脇がある。
 当座の意味としては、芭蕉伊賀藤堂藩に仕えていた頃、主君藤堂良精の息子藤堂蝉吟の俳席に招かれたことが俳諧師としての道を歩むきっかけとなり、そのほかにも様々な形で蝉吟にはお世話になって、たくさんの思い出があり、今こうしてその今はなき蝉吟の息子である探丸にこうして招かれ、さまざまなことを思い出します、という挨拶だったと思われる。
 それに対し、探丸の脇は春の日は長いとは言いながらも、こうして俳諧を楽しんでいるうちにあっという間に暮れて行きます、と返す。裏には「時の流れというのは本当に早いものです」という感慨が込められていたと思われる。
 この芭蕉の発句は特に取り合わせというものはない。ただ、桜が古来様々な形で歌われたり物語りになったりしたことを思い起こし、それをそのまんま述べたにすぎない。
 探丸邸での興行のことを知らない読者に対しては、この句はあのCMの通り、私は様々なことを思い出しますが、あなたもそうでしょう、と問いかける句になる。基本的に「桜」は様々な古典に登場することを踏まえながら、読者にそれぞれの桜の思い出を思い起こさせる展開になっている。
 このあと芭蕉は吉野へと旅立つ。その途中薬師寺での句、

 初桜折しも今日はよき日なり   芭蕉

 この句も特に取り合わせはない。

 花を宿に始め終りや二十日ほど  芭蕉

 この句も単に瓢竹庵を訪れた時にちょうど二十日頃だったことを詠んだ挨拶句。

 このほどを花に礼いふ別れ哉   芭蕉

 これは瓢竹庵を出るときの挨拶。

 吉野にて桜見せうぞ檜木笠    芭蕉

 これは、万菊丸(杜国)と一緒に吉野へ行こうという句。
 こうした句も桜や花がもつ長い伝統を踏まえた上で、それを慣用的に挨拶の中に織り込んだだけのものだ。

   龍門
 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん 芭蕉
 酒飲みに語らんかかる滝の花     同

 花見に酒は付き物ということでの取り合わせの句。李白の

 両人対酌山花開
 一杯一杯復一杯
 二人向かい合って酒を酌めば山の花も開き、
 一杯一杯また一杯。

の連想を誘うが、古典に密着した作り方で、「汁も鱠も」といったリアルな情景にかかることはない。「滝」もまた李白観瀑図として、何度となく画題にされてきたものだ。こういう出典との密着した関係を、『奥の細道』から帰った頃から「重い」と感じるようになり、出典をはずした「軽み」へと向かうことになる。
 ある農夫の家での句。

 花の陰謡(うたひ)に似たる旅寝哉  芭蕉
 扇にて酒くむ陰や散る桜       同
 声よくば謡(うた)はうものを桜散る 同

 これも「花」に「謡(うたひ)」「花」に「酒」という古典に根ざして慣用句かした付け合いによる言葉のかかりにすぎない。

 六里七里日ごとに替える花見哉    芭蕉
 桜狩り奇特や日々に五里六里     同

 これも花を求めての旅の風狂の句で、「花」のイメージ自体は古典に立脚している。

 日は花に暮てさびしやあすならう   芭蕉

 これも、花を見ながらその日を終えると、「あすなろう」という植物に掛けて花見を明日に明日にと先送りしている忙しそうな人を戒めた句。

   芳野
 花盛り山は日ごろの朝ぼらけ

 これは芳野で呼んだ句だが『笈の小文』には載せなかった句で、自分でもこの句の凡庸さに嫌気が差したのだろう。
 このように芭蕉は花(桜)の句で、中々古典的な趣向から脱却できずに悩んでいたのだろう。
 元禄三年、ようやく「汁も鱠も」というリアルな花見の情景の掛かりを見出した時、さぞかし長いトンネルを抜けたような気分だったに違いない。

2017年4月12日水曜日

 今朝は穏やかな天気でまさに学校で習った、

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
               紀友則

の歌の通り、桜の花がはらはらはらはら散っていた。
 午後になるとあまり散らなくなったなと思ったら、夕方に一転俄にかき曇りではないが、東西に長い真っ黒雲が現れ、あの下は雨だろうなと思ったら本当に雨が降り出した。
 家に帰ると、『校本芭蕉全集』の第三巻と第四巻が届いていた。これでいよいよ「木のもとに」の巻に入れる。
 前にも述べたが、

 木のもとに汁も膾も桜かな   芭蕉

を発句とする俳諧連歌は三つある。
 一つは「元禄三年三月二日、ハイ(言偏に炭)諧之連歌」の端書のある四十句からなるもので、『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注)によると、

 「端書の日付の通り、伊賀上野の藤堂家の藩士、小川風麦亭で催されたもので、前半(初折十八句)を風麦、その後を芭蕉筆によるとする(『花はさくら』序)懐紙が伝存する(天理図書館蔵)。秋屋編『花はさくら』(寛政十三年刊)や天然居士編『十丈園筆記』(文政年間刊)、『一葉集』初収。」

とある。
 脇は

   木のもとに汁も膾も桜かな
 明日来る人はくやしがる春   風麦

 もう一つは初の懐紙、つまり十八句目までは一緒だが、その後が異なる歌仙(三十六句)。『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注)によると、

 「猪来編『蓑虫庵小集』(文政七年刊)に、「右一巻之連句ハ柳下生ノ家ニ蔵ス、乞テ世ニ披露ス」と付記して収める。」

とある。
 三つ目が珍碩編の『ひさご』(元禄三年八月刊)に収録された、よく知られている歌仙で、脇は、

   木のもとに汁も膾も桜かな
 西日のどかによき天気なり   珍碩

 『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注)によると、

 「三月中旬(または下旬)、近江膳所に出た芭蕉が、珍碩(酒堂)・曲水と巻いた三吟」

とある。
 ふつうならこの三番目のだけを読む所だが、あえて他の二つのも読んでみて、その違いを確かめてみたい。

2017年4月10日月曜日

 そういえば蕪村の花(桜)の句って何があったかなというと、なかなか思いつかない。菜の花や春の海は有名だが、ただでさえ多作な蕪村のことだから、花の句もたくさん詠んでいたはずだ。
 芭蕉の時代が俳諧の確立期であるとともに頂点でもあることから、どうしても関心が芭蕉やその周辺に向かってしまうが、別に蕪村が嫌いなわけではない。「ゆきゆき亭」には春風馬蹄曲について書いた文章をアップしていたし、「鈴呂屋書庫」でも復活させたい。
 そこで書いたことは、要は芭蕉は死(タナトス)が隠し味になっているのに対し蕪村は性(エロス)が隠し味になっているということだった。
 蕪村は熱烈な芭蕉崇拝者で、発句の多くは芭蕉の模倣なのだが、芭蕉が年代を追って変化していった様々な風は蕪村の中では年代とは関係なしに共時的に捉えられていて、同じような時期に天和っぽいのも作れば軽みに近いのも作ったりする。そしてどう真似しても結局芭蕉の死を常に暗示させる冷え寂びた句にはならず、どこか脂ぎった中年の句になってしまう。
 まあ、一応岩波文庫の『蕪村俳句集』くらいは持っているので、そこから桜の句を拾ってみよう。

   暁台が伏見・嵯峨に遊べるに伴ひて
 夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人    蕪村

 芭蕉の天和の破調を真似た字余りの句だが、やはり何かが違う。芭蕉の天和調のような貧乏自慢的な自虐的な調子がどこにもない。ただ「伏見・嵯峨に遊べる」を桃の名所の伏見を「桃林」と呼び、夜伏見に行って暁に嵯峨野で花見をしたというだけの句だ。夜中の内に伏見から嵯峨野へ移動したわけだが、ようするに夜遊びしてその酒の勢いのまま嵯峨野まで行って、朝日に匂う山桜を鑑賞したわけだ。
 芭蕉の時代の伏見は荒れ果てていたが、元来宇治川の水運の要衝で享保あたりから活気を取り戻し、蕪村の時代には港町として栄え、たくさんの旅籠屋が並び、遊郭もたくさんあったようだ、とここが重要。

 銭買て入るやよしのの山ざくら    蕪村

 これは一転して卑近な経済ネタで、『炭俵』あたりの風を意識したものか。芭蕉も付け句では経済ネタを得意としていた。
 江戸時代は金(大判・小判)、銀(一分銀)、銭(いわゆる寛永通宝など、銭形平次が投げるやつ)とが変動相場で動いていて、そのときの相場で両替しなくてはならなかった。吉野山に入るにも、海外旅行みたいに金銀を銭に替える必要があったのだろう。きっと当時の人にはわかるあるあるネタだったに違いない。

 歌屑の松に吹れて山ざくら     蕪村

 これは、『新古今和歌集』の、

 冬の来て山もあらはに木の葉降り
     残る松さへ峰に寂しき       
               祝部成茂

が歌屑だと言われていたことが『徒然草』第14段に記されていることを元に、歌屑に詠まれた松はいつもと変わらぬ姿だが山桜の方は春風に散ってしまっている、と詠んだのだろう。
 出展に頼った詠み方は其角の亜流という感じだ。

   一片花飛滅却春
 さくら狩美人の腹や減却す     蕪村

 これも杜甫の詩を前書きにしながら換骨奪胎するという、其角が得意とした手法だ。ただ、「美人の腹の減却」の意味がよくわからないし、面白さがいまいち伝わってこない。そのあたりも其角らしい企画倒れの句だ。

 花に暮て我家遠き野道かな     蕪村

 これはいかにも蕪村らしい。花見の帰り道はどうしたって足取りは重いだろうし、そんなあるあるネタを笑いにするというよりはややノスタルジックに描いている。

 花散りて木間の寺と成にけり    蕪村

 これもいかにも蕪村らしいが、花が散ったから花の寺でなくただの木の間の寺になったと、いかにも理屈っぽい。

 鶯のたまたま啼や花の山      蕪村

 これも梅に鶯なら付け合いだが、桜に鶯は付け合いではない。だから「たまたま」というそれだけのこと。
 要するに、蕪村の句は玉石混淆で、蕪村自身は新たな風を切り開いたわけではなく、それまでのいろいろな風の寄せ集めの感があり、その意味では子規の写生説以前の句に似ている。まあ、それは子規が蕪村を真似たんだから当然だが。
 それでも蕪村のいいところは、どこか性が隠し味になっていて、それを見つけると何となく嬉しいということだ。

 花の香や嵯峨のともし火消る時   蕪村
 傾城は後の世かけて花見かな    同
 花の幕兼好を覗く女あり      同

2017年4月9日日曜日

 今日は一日雨。桜はまださほど散っていない。ヤマザクラはまだこれからだ。

 花を見ば人なき雨の夕哉    宗祇

の句もあるように、西行の「桜の咎」ではないが、人混みがきらいな人は今日のような日に花見をすればいいのだろう。
 今まで何度か引用してきた、

 木のもとに汁も膾も桜哉    芭蕉

で始まる歌仙、そろそろ読んでみようかなと思う。ただ、この歌仙には実は三つのバージョンがあり、先ずそれに目を通したくて、昨日『校本芭蕉全集〈第4巻〉連句篇』を注文した。これが届き次第始めたい。

2017年4月8日土曜日

 昨日一昨日と風は強かったが花はさほど散らなかった。今日ははらはらはらはら、桜吹雪になった。散る時が来るとあとはあっという間に葉の桜になってゆく。

   木の本に汁も膾も桜哉
 明日来る人はくやしがる春   風麦

 この脇句は結構好きだ。
 発句は二重の意味があり、一方では比喩としてメインディッシュではない汁や膾も桜の木の下では花見のご馳走であるように、金持ちも貧乏人も武士も町人も花の下では見た身分わけ隔てなく平等になる、という理想が込められている。
 その一方でそのまんまの意味としては、花の下では散った桜の花が汁にも膾にも落ちてきてみんな桜混じりになってしまう、という花見あるあるの句になる。
 風麦の脇は後者の花見あるあるの方から既に花が散り始めてはらはらはらはら落ちてくる様を読み取り、そこに明日になればかなり散ってしまうから、明日来る人はさぞかし悔しがるだろうな、と付ける。逆説的に、今日がいかに花見日和のすばらしい日であるか、こんな日に芭蕉さんをお迎えして俳諧興行ができることを誇りに思います、という気持ちが込められている。
 ただ、この日の歌仙は結局没になり、芭蕉は故郷の伊賀から近江の膳所へ行き、そこで珍碩(後の洒堂)、それに曲水(『幻住庵記』では「勇士」と称されている膳所藩の中老)の三人で作り直した歌仙が芭蕉七部集の一つ、珍碩編の『ひさご』に収録され、こちらの方がよく知られることとなった。そのときの脇は、

   木のもとに汁も膾も桜哉
 西日のどかによき天気なり   珍碩

 確かにこちらの方が無難な句といえよう。
 今日は午前中は雨だったが午後からは止んだ。どんより曇っていて「西日のどかに」ではなかったが、お花見日和だった。
 明日が雨の予報だから(関東の話で他の地域は知らないが)、きっと明日花見をしようと思ってた人は悔しがるだろう。

2017年4月6日木曜日

 今日は暖かく、桜もかなり咲きそろってきた。となると、もう散り始めか。
 この前の日曜日にまだ一分咲きか二分咲きくらいで花見をしていた人がいたが、それはそれで正解だったのかもしれない。次の日曜日は雨予報が出てるし、天気はしばらく安定しない。花見というのは本当に決断力が試される。
 芭蕉の『笈の小文』に、

 日は花に暮てさびしやあすならう   芭蕉

という句があった。暖かくなったら、天気がよければ、休みになったら、と言いながら先延ばしにし、今日は無理だから明日に、と思っているうちに桜の季節はあっというまに終わってゆく。「あすなろう」は植物の名であるとともに、なんでも明日に先延ばしにしがちな我々のことを戒めてくれている。
 『奥の細道』の旅の途中の加賀山中温泉での「馬かりて」の巻の興行で、

   寺に使ひをたてる口上
 鐘ついてあそばん花の散かゝる   芭蕉

の句もある。お寺の和尚さんへの挨拶のために使いを立てるという前句から、その口上の内容を付けた句だ。
 それはお花見への誘いで、朝の鐘を撞き終えたら一日遊びましょうよ、花はすぐに散ってしまいますよ、という内容だ。
 芭蕉のこの句を「遊びで鐘を撞きましょう」という意味にとる解釈もあるが、お寺の鐘は時刻を知らせたり、時には緊急事態をみんなに知らせる大事なもので、戯れに撞いてはいけない。「鐘ついて(から)あそばん」と取った方がいい。
 そうは言っても実際忙しくて、なかなか花見には踏み切れないものだ。ただ、「花」というのも一つの比喩として、そうやって忙しい忙しいと言いながらいつの間にか何の楽しみもなく人生を終わってしまうのもつまらないものだ。芭蕉の句は戒めとして心に刻んでおこう。
 これから先何があるかわからない。自分自身にしても、日本という国にしても。花は見れるうちに見ておいた方がいい。

2017年4月3日月曜日

 染井吉野の花もだいぶ開いてきたので、今日はなぜ満開の桜の花が人に感動を与えるのか考察してみよう。
 花の心が不易で普遍的だとしたら、当然その起源は生物学的な遺伝子レベルで存在しているのだろう。
 人類の祖先が果実食の類人猿だったとしたら、花と果実の間の因果関係の認識はなくても、偶然花を好む個体がいたなら花のたくさん咲くところを縄張りにして、結果的にその花の何ヵ月後かにはたくさんの果実を手にし、より多くの子孫を残すことに成功するだろう。
 花を見て、何らかの脳内快楽物質が分泌されるような遺伝子の突然変異が起これば、その個体の生存率や繁殖率はアップするに違いない。そして、そのような個体の子孫が種全体に広がってゆけば、その種は花を好む種になる。
 ただ、すべての花が食料となる果実をつけるわけではない。中には毒のある植物の花もあるだろう。ただ、どの植物が食べられて、どの植物に毒があるかというのは後天的な学習によるもので、遺伝的に難しい。というのも毒草を避ける突然変異が種内に蓄積されるのと平行して毒草も進化を続けるし、毒草に偽装した毒のない植物も進化を続ける。変化して止まぬ環境の中では遺伝子が蓄積するのを待っているわけには行かない。親が学習したことを子に伝えてゆく方が効率がいい。大概の高等哺乳類は幼い頃に親から与えられた植物を記憶し、生涯それを食べ続ける。
 だから、花を見てそれに快楽を感じるとしても、それは直接食物と結びついたものではなく、もっと漠然と花に美しさを感じる遺伝子なのだと思う。
 美というのは生物学的に考えるなら、世界の秩序に関する情報のストックを作ることに与えられる快楽報酬なのだと思う。
 因果関係のはっきりしない、役に立つかどうかわからないような秩序の発見に関しても、一応情報としてストックしておいた方が、何かの時に役に立つかもしれない。
 花が美しい色彩や幾何学的構造を持っていることに関して、それが役に立つかどうかわからなくても、それを見出した時に何らかの感動を覚え、脳内快楽物質が分泌されるなら、結果的に花を好むことになる。そして、花を好めば、花と果実の因果関係を知らなくても結果的に多くの果実を手にすることになる。
 ただ、稀に副作用として綺麗な花が咲いているからといってその植物を食べて、実はそれが毒草でということは起こりえただろう。それでも確率的に多くの果実を手にすることのほうが多いなら、その遺伝子は容易に種全体に広がってゆくだろう。
 美に関しては昔から「意図せざる野の花は美しい」というようなことが言われている。有用性から切り離された純粋な美が存在することは多くの美学論の中で論ぜられてきたことだし、近代美学の基礎とも言える。
 美の感覚の進化それ自体は、有用かどうかに関わらず、何らかの秩序を持ったものを美しいと感じることにあったのだと思う。ただ、それが進化し強化されていったのは、結果的にそれが有用性に結びついたからではないかと思う。
 梅や桃や杏と違って、染井吉野や山桜の美しさは果実の有用性から切り離されている。もちろん梅や桃や杏の花を美しいと感じるのは、別に果実が有用だからではない。庭で梅を育てている人は多いが、梅の実を利用している人は少ないと思う。公園の杏の木も誰かが実を取るわけではない。バラを愛する人も別にローズヒップをとるために愛しているのではないだろう。有用性は結果にすぎない。だからこそ純粋な観賞用の花を愛する所に人間の美意識が証明される。
 ただ、花の心に関しては、もう一つの有用性が考えられる。それは有用かどうかを越えて純粋に美を共有する集団を形成することで、それが社会の結束力を高め、多くの人の平和共存につながるという点では、花の心を持たない者よりも花の心を持つ者の方が生存率や繁殖率を高めることが出来ただろう。
 芭蕉の『笈の小文』の、

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

の言葉は科学的に言うなら、花や月に美を見出し、その美を共有するものは、そうでないものよりも無益な争いごとを減らすことができ、生存率と繁殖率を高めることができ、生物種としての繁栄をもたらすということを言っているのではないかと思う。
 おそらくホモサピエンスがホモエレクトスやホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスより優れていたのはその点だったのだろう。

2017年4月2日日曜日

 今日二子玉川のあたりの多摩川を散歩したら、土手一面に白い花が咲いていた。何の花かと思って帰ってからネットで調べたら、どうやらハマダイコンだったようだ。
 ハマダイコンはネットで普通に目に付く項目だけを見ていると、栽培種の大根の野生化したものだということだが、ネット上では一番目に付く説が必ずしも正しい説とは限らない。
 いろいろ調べているうちにわかったのは、ハマダイコンはかつては栽培品種が逸出したものだと考えられてきたが、一九九一年に農学者の青葉高が大陸から古い時代に渡来した野性ダイコンの後代だという説を唱え、一九九六年、一九九八年に総合生命科学部生命資源環境学科の山岸博教授が、ミトコンドリアDNAの解析から、ハマダイコンが栽培ダイコンから逸出したものではないことを証明した、ということだった。
 また、二〇〇二年には許萬奎(フウ・マンキュウ)の「韓国及び日本におけるハマダイコン野生集団の遺伝学的研究」では、韓国と日本のハマダイコンがきわめて近縁で韓国や日本の栽培ダイコンとは別のグループに属し、韓国日本のハマダイコンよりカザフスタンのハマダイコンと栽培ダイコンの方がヨーロッパの野生ダイコンにより近いことから、栽培ダイコンの起源がヨーロッパにあり、ヨーロッパの野生ダイコンが大きく関与しているとした。
 ヨーロッパの野生ダイコンが、一方ではハマダイコンとして大陸から日本に入っていたのに対し、それと平行してヨーロッパで野生ダイコンから栽培ダイコンが作られ、それが大陸を経て伝わり日本の栽培ダイコンになったと考えていいのだろう。
 恵泉女学園大学人間環境学科の藤田智教授も、「日本のダイコンは、時代は特定できないが、かなり古い時代に中国大陸から野生ダイコンと栽培ダイコンが伝搬し、これらの栽培化や交雑後代の選抜などで多様な品種が成立した」としている。
 ウィキペディアによると、平安時代中期の『和名類聚抄』には於保禰(おほね)とハマダイコンまたはノダイコンと見られる古保禰(こほね)が栽培されてた、とある。
 春の七草の「すずしろ」がどちらなのかはよくわからないが、野に自生してる菜摘の対象だったとしたら、栽培種の大根ではなくハマダイコンだったのかもしれない。
 大根の花を詠んだ句は『続猿蓑』に一句ある。

 ふみたふす形(なり)に花さく土大根  乃龍

 多摩川には他にも菜の花も咲いていたし、雪柳(小米花)はたくさん植えてあった。桜の下では花見する人が多数来ていたが、花は一分咲きにも満たない程度。
 テレビでは上野公園の桜が満開になったことが大々的に伝えられてたが、同じ東京でもこうも違うのか。家の近くでも三分くらいは咲いているから、多摩川河川敷の桜は遅い。冷たい風が通り抜けるせいなのか。
 桜は一斉に咲いて一斉に散るものというイメージがあったが、近頃は桜も分断されているのか。

2017年4月1日土曜日

 今日はエイプリルフールということで、今日ここに書くことは全部嘘です。
 ということは「全部嘘」というのも嘘だということになるので、まあ、古典的なパラドックスになるわけだ。
 まあ、今の時代はいろいろな情報が氾濫していて、ネット上はもとよりマスコミ報道にしてもネット上の匿名の書き込みやツイッターのどこの誰とも知れぬ呟きをろくに裏も取らずにニュースとして流したり、どこぞのオバサン同士のメールのやり取りを槍玉に挙げてデマだのフェイクニュースだの騒いだり、一体どっちの言うことが本当やらさっぱりわからない。
 まあ、この世の中、全知全能の人間なんていないのだから、人間の認識なんてのは少なからず嘘が混じってるもので、嘘か本当かではなく、どちらがより本当に近いかという程度の問題にすぎない。科学も99パーセントではなく100パーセント仮説で、ただ検証の繰り返しによって限りなく真実の近似値になるだけのことだ。だからといって完全に矛盾のない体系というのも存在しないから、論理的にも絶対的な真理なんてものは存在しない。帰納法は真理の近似値に過ぎず演繹法は必ず矛盾する。それがこの世界だ。
 人間の記憶は時が経つとともに変容するから、記憶も当てにならない。まして歴史は検証することが出来ないから、それぞれ政治的に都合のいいようにゆがめてお互いののしりあうのは歴史の常だ。
 それに加えて「嘘も方便」という思想がある。嘘ついて騙して入信させても、それで人が幸せになるならいいではないかという思想だ。今でも大衆扇動のためなら嘘も許されると思っている人たちがたくさんいる。
 まあとにかく、こんなけ嘘に満ち溢れている世の中だから、いまさらエイプリルフールもないだろう。
 嘘が多い中で、許される嘘があるとしたら、それは文学的虚構だろう。このことは洋の東西を問わず昔から言われている。物語の嘘は人を楽しませるためのもので誰かを傷つけるためのものではない。
 そういうわけで、このへんでようやく「風流日記」らしい本題に入る。つまり芭蕉の虚実論だ。
 各務支考の『二十五箇条』に、「そもそも、詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。」とある。
 これは詩歌連俳が今日で言う「虚構」だというのとはちょっと違う。
 近代文学では正岡子規の始めた「写生文」やその末端とも言える「私小説」に至るまで、虚構を否定する文学というのがある。ただ、それは単に意図的な虚構がないというだけの話で、そもそも論になるが、言葉というのは本当に真実を正確に伝えられるのかどうかという問題はある。
 たとえば、

 鶏頭の十四五本もありぬべし    子規

という句が、本当に子規が見たものをありのまま詠んだとしても、われわれは子規が実際に見たその鶏頭を見ることができない。この句から想起されるのは、あくまで各自それぞれの記憶の中にある鶏頭にすぎない。
 言葉は見たものそのものを伝えることは出来ない。言葉に出来るのはただ聞く人の記憶を呼び覚ますだけだ。
 どんなに精密な描写が行われた写生文であっても、読者はあくまでその言葉から各自の記憶をもとにそれぞれ独自なイメージを再構成しているだけだ。同じ文章を読んでも、思い浮かべていることは十人十色、一人として同じものを思い浮かべることはないだろう。
 そう考えてゆくと、言葉は真実を伝えているのではない。各自が持っている真実の記憶を呼び起こすだけだ。
 たとえば、

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

の句にしても、本当は芭蕉は古池に飛び込む水の音を聞いてなかったのかもしれない。単に頭の中で思い描いた虚構だったのかもしれない。その真偽を証明する手段はない。ただ、読者がそれを読んで自分の記憶を呼び覚まし、何らかの感動を得たならそれは読者にとって真実になる。
 『風俗文選』の各務支考「陳情表」にある「言語は虚に居て実をおこなふべし」というのは、まさにそういうことだと思う。「実」というのは作品にあるのではない。作品はあくまで虚にすぎない。ただ、それが読者の記憶を呼び起こし、そこに真実を感じることが出来たなら、虚は実になる。