さて、それでは「木のもとに」の巻の、まず元禄三年三月二日の日付のある四十句から読んでみよう。
発句は昨日読んだので今日は脇から。
木の本に汁も脍も櫻哉
明日来る人はくやしがる春 風麥
(木の本に汁も脍も櫻哉明日来る人はくやしがる春)
昔の字だとこう書くようだが、うざいので以後今の字に直す。風麥は風麦と書くことにする。「脍(なます)」も「膾」で統一する。
脇の内容はそのまんまの意味で、特に解説を加える必要はないだろう。
付け方という点では、前句の既に桜の散り始めた情景を受けて、特に付け合いとなる景物を出すこともなく、ただ思ったことをそのまま句にする。これは意味で付く「心付け」といっていいだろう。「こころ」という日本語は特に心情と関係なく、単に「意味」を意味する場合もある。
末尾の「春」は「放り込み」と呼ばれるもので、季題が入らない内容のときに、こうやって無理やり後付の季語を放り込んだりする。
季題は「春」で春。「人」は人倫。
第三。
明日来る人はくやしがる春
蝶蜂を愛する程の情(なさけ)にて 良品
(蝶蜂を愛する程の情にて明日来る人はくやしがる春)
「明日来る人は蝶蜂を愛する程の情にてくやしがる、春」と付く。これも心
付け。第三なので発句の桜のことは忘れて読もう。
とはいえ、これは結構難しい。前句を暮春の情として、「くやしがる春」を「春が行くのを悔しがる」と取って、蝶や蜂を愛するような風雅の情を持つ人だから、という意味か。
蝶はともかく、蜂はかなり特殊だ。ただ、漢詩では蜂と蝶は対として用いられるので、漢籍に通じた人ということか。
『校本芭蕉全集』第四巻の宮本三郎の註には、次の四句目のところに補注として、
蝶蜂随香 参考、唐の玄宗時代の長安の銘姫、蘇連香は容色無双で、一度出づれば、蜂長その香を慕うて集まり随ったという(開元天保遺事)。
とある。
ネットで検索する時には「蘇連香」ではなく「楚連香」で検索しないと出てこない。中国のネット辞書には、
「五代·王仁裕《开元天宝遗事》:“都中名妓楚莲香,国色无双。时贵门子弟,争相诣之。莲香每出处之间,则蜂蝶相随,盖慕其香也。”
とある。
【解释】:蜜蜂和蝴蝶跟随花香而追逐。旧时比喻那些纨绔子弟追逐女色。
とあるから、これは比喩で、美人には男どもがいつも取り巻いてるということか。
ここはまだ第三なので、恋の句ではない。蝶蜂を愛する漢文かぶれの風流人ということでいいだろう。
季題は「蝶」と「蜂」で両方とも春。虫類。
四句目。
蝶蜂を愛する程の情にて
水のにほひをわづらひに梟(け)る 土芳
(蝶蜂を愛する程の情にて水のにほひをわづらひに梟る)
「梟」は「ケウ」と読むので音を借りて「梟る」を「ける」と読ませたのだろう。フクロウはこの際関係なさそうだ。
「水の匂い」は近代だと悪臭を連想させるが、本来は水の景色の美しさを言う。「わづらひ」も病気ではなく、「ほとんど病気」という言葉が昔はやったが、英語でもillという言葉にはかっこよくて惹きつけられるという意味があるように、水辺の景色のすばらしさに釘付けになるくらいに取っておいた方がいいだろう。
これも心付け。漢詩に通じた風流人だから美しい風景には病的になる。四句目だからそれほど深く考える必要はないだろう。
無季。「水」は水辺。
五句目。
水のにほひをわづらひに梟る
草枕此ごろになき月の晴 雷洞
(草枕此ごろになき月の晴水のにほひをわづらひに梟る)
旅体の句に転じる。前句の水の美しさを月の光のせいだとした。月明かりに波立つ水のきらきら光る様は、それこそ「わずらひ」になる。しかも、旅をしていて久々に晴れたならなおさらだ。
季題は「月」で秋。夜分、天象。「草枕」は旅。
六句目。
草枕此ごろになき月の晴
猿のなみだか落る椎の実 はせを
(草枕此ごろになき月の晴猿のなみだか落る椎の実)
ここで芭蕉さんの登場。
「月」に「猿」は付け合いなので、これは物付けになる。ただ、猿そのものを登場させるのではなく、落ちてくる椎の実を猿の涙かと疑う。
猿といえば、前年の冬に、
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
の句を詠んだばかりだ。
旅の途中、山越えの道に入ると猿と遭遇することも珍しくはなかったのだろう。「猿の声」は漢詩では古人を断腸の思いにさせる物悲しいものとされている。漢文ではニホンザルのようなマカクは「猴」の字を書き、「猿」の字はテナガザルを表す。テナガザルは夜明け前にロングコールを行い、それが哀調を帯びているのだが、残念ながら日本で聴くことはできない。
猿の声の悲しさはそれゆえ日本では想像上のもので、俳諧のようなリアルさを追及するものでは、声でないもので猿の物悲しさを言い換える必要があった。
猿の涙は、『奥の細道』の旅の途中、那須黒羽での興行で、
洞の地蔵にこもる有明
蔦の葉は猿の泪や染つらん 芭蕉
の句にも見られる。これも月に猿を付けた句で、しかも猿そのものを登場させるのではなく、蔦の葉が染まるのを見て猿の涙が染めたのかと疑う所も一緒だ。
そういうわけで、悪い句ではないが使いまわしの感がなくもない。
季題は「椎の実」で秋。植物。「猿」は獣類。
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