今日はエイプリルフールということで、今日ここに書くことは全部嘘です。
ということは「全部嘘」というのも嘘だということになるので、まあ、古典的なパラドックスになるわけだ。
まあ、今の時代はいろいろな情報が氾濫していて、ネット上はもとよりマスコミ報道にしてもネット上の匿名の書き込みやツイッターのどこの誰とも知れぬ呟きをろくに裏も取らずにニュースとして流したり、どこぞのオバサン同士のメールのやり取りを槍玉に挙げてデマだのフェイクニュースだの騒いだり、一体どっちの言うことが本当やらさっぱりわからない。
まあ、この世の中、全知全能の人間なんていないのだから、人間の認識なんてのは少なからず嘘が混じってるもので、嘘か本当かではなく、どちらがより本当に近いかという程度の問題にすぎない。科学も99パーセントではなく100パーセント仮説で、ただ検証の繰り返しによって限りなく真実の近似値になるだけのことだ。だからといって完全に矛盾のない体系というのも存在しないから、論理的にも絶対的な真理なんてものは存在しない。帰納法は真理の近似値に過ぎず演繹法は必ず矛盾する。それがこの世界だ。
人間の記憶は時が経つとともに変容するから、記憶も当てにならない。まして歴史は検証することが出来ないから、それぞれ政治的に都合のいいようにゆがめてお互いののしりあうのは歴史の常だ。
それに加えて「嘘も方便」という思想がある。嘘ついて騙して入信させても、それで人が幸せになるならいいではないかという思想だ。今でも大衆扇動のためなら嘘も許されると思っている人たちがたくさんいる。
まあとにかく、こんなけ嘘に満ち溢れている世の中だから、いまさらエイプリルフールもないだろう。
嘘が多い中で、許される嘘があるとしたら、それは文学的虚構だろう。このことは洋の東西を問わず昔から言われている。物語の嘘は人を楽しませるためのもので誰かを傷つけるためのものではない。
そういうわけで、このへんでようやく「風流日記」らしい本題に入る。つまり芭蕉の虚実論だ。
各務支考の『二十五箇条』に、「そもそも、詩歌、連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。」とある。
これは詩歌連俳が今日で言う「虚構」だというのとはちょっと違う。
近代文学では正岡子規の始めた「写生文」やその末端とも言える「私小説」に至るまで、虚構を否定する文学というのがある。ただ、それは単に意図的な虚構がないというだけの話で、そもそも論になるが、言葉というのは本当に真実を正確に伝えられるのかどうかという問題はある。
たとえば、
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
という句が、本当に子規が見たものをありのまま詠んだとしても、われわれは子規が実際に見たその鶏頭を見ることができない。この句から想起されるのは、あくまで各自それぞれの記憶の中にある鶏頭にすぎない。
言葉は見たものそのものを伝えることは出来ない。言葉に出来るのはただ聞く人の記憶を呼び覚ますだけだ。
どんなに精密な描写が行われた写生文であっても、読者はあくまでその言葉から各自の記憶をもとにそれぞれ独自なイメージを再構成しているだけだ。同じ文章を読んでも、思い浮かべていることは十人十色、一人として同じものを思い浮かべることはないだろう。
そう考えてゆくと、言葉は真実を伝えているのではない。各自が持っている真実の記憶を呼び起こすだけだ。
たとえば、
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
の句にしても、本当は芭蕉は古池に飛び込む水の音を聞いてなかったのかもしれない。単に頭の中で思い描いた虚構だったのかもしれない。その真偽を証明する手段はない。ただ、読者がそれを読んで自分の記憶を呼び覚まし、何らかの感動を得たならそれは読者にとって真実になる。
『風俗文選』の各務支考「陳情表」にある「言語は虚に居て実をおこなふべし」というのは、まさにそういうことだと思う。「実」というのは作品にあるのではない。作品はあくまで虚にすぎない。ただ、それが読者の記憶を呼び起こし、そこに真実を感じることが出来たなら、虚は実になる。
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