そういえば蕪村の花(桜)の句って何があったかなというと、なかなか思いつかない。菜の花や春の海は有名だが、ただでさえ多作な蕪村のことだから、花の句もたくさん詠んでいたはずだ。
芭蕉の時代が俳諧の確立期であるとともに頂点でもあることから、どうしても関心が芭蕉やその周辺に向かってしまうが、別に蕪村が嫌いなわけではない。「ゆきゆき亭」には春風馬蹄曲について書いた文章をアップしていたし、「鈴呂屋書庫」でも復活させたい。
そこで書いたことは、要は芭蕉は死(タナトス)が隠し味になっているのに対し蕪村は性(エロス)が隠し味になっているということだった。
蕪村は熱烈な芭蕉崇拝者で、発句の多くは芭蕉の模倣なのだが、芭蕉が年代を追って変化していった様々な風は蕪村の中では年代とは関係なしに共時的に捉えられていて、同じような時期に天和っぽいのも作れば軽みに近いのも作ったりする。そしてどう真似しても結局芭蕉の死を常に暗示させる冷え寂びた句にはならず、どこか脂ぎった中年の句になってしまう。
まあ、一応岩波文庫の『蕪村俳句集』くらいは持っているので、そこから桜の句を拾ってみよう。
暁台が伏見・嵯峨に遊べるに伴ひて
夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人 蕪村
芭蕉の天和の破調を真似た字余りの句だが、やはり何かが違う。芭蕉の天和調のような貧乏自慢的な自虐的な調子がどこにもない。ただ「伏見・嵯峨に遊べる」を桃の名所の伏見を「桃林」と呼び、夜伏見に行って暁に嵯峨野で花見をしたというだけの句だ。夜中の内に伏見から嵯峨野へ移動したわけだが、ようするに夜遊びしてその酒の勢いのまま嵯峨野まで行って、朝日に匂う山桜を鑑賞したわけだ。
芭蕉の時代の伏見は荒れ果てていたが、元来宇治川の水運の要衝で享保あたりから活気を取り戻し、蕪村の時代には港町として栄え、たくさんの旅籠屋が並び、遊郭もたくさんあったようだ、とここが重要。
銭買て入るやよしのの山ざくら 蕪村
これは一転して卑近な経済ネタで、『炭俵』あたりの風を意識したものか。芭蕉も付け句では経済ネタを得意としていた。
江戸時代は金(大判・小判)、銀(一分銀)、銭(いわゆる寛永通宝など、銭形平次が投げるやつ)とが変動相場で動いていて、そのときの相場で両替しなくてはならなかった。吉野山に入るにも、海外旅行みたいに金銀を銭に替える必要があったのだろう。きっと当時の人にはわかるあるあるネタだったに違いない。
歌屑の松に吹れて山ざくら 蕪村
これは、『新古今和歌集』の、
冬の来て山もあらはに木の葉降り
残る松さへ峰に寂しき
祝部成茂
が歌屑だと言われていたことが『徒然草』第14段に記されていることを元に、歌屑に詠まれた松はいつもと変わらぬ姿だが山桜の方は春風に散ってしまっている、と詠んだのだろう。
出展に頼った詠み方は其角の亜流という感じだ。
一片花飛滅却春
さくら狩美人の腹や減却す 蕪村
これも杜甫の詩を前書きにしながら換骨奪胎するという、其角が得意とした手法だ。ただ、「美人の腹の減却」の意味がよくわからないし、面白さがいまいち伝わってこない。そのあたりも其角らしい企画倒れの句だ。
花に暮て我家遠き野道かな 蕪村
これはいかにも蕪村らしい。花見の帰り道はどうしたって足取りは重いだろうし、そんなあるあるネタを笑いにするというよりはややノスタルジックに描いている。
花散りて木間の寺と成にけり 蕪村
これもいかにも蕪村らしいが、花が散ったから花の寺でなくただの木の間の寺になったと、いかにも理屈っぽい。
鶯のたまたま啼や花の山 蕪村
これも梅に鶯なら付け合いだが、桜に鶯は付け合いではない。だから「たまたま」というそれだけのこと。
要するに、蕪村の句は玉石混淆で、蕪村自身は新たな風を切り開いたわけではなく、それまでのいろいろな風の寄せ集めの感があり、その意味では子規の写生説以前の句に似ている。まあ、それは子規が蕪村を真似たんだから当然だが。
それでも蕪村のいいところは、どこか性が隠し味になっていて、それを見つけると何となく嬉しいということだ。
花の香や嵯峨のともし火消る時 蕪村
傾城は後の世かけて花見かな 同
花の幕兼好を覗く女あり 同
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