2017年4月3日月曜日

 染井吉野の花もだいぶ開いてきたので、今日はなぜ満開の桜の花が人に感動を与えるのか考察してみよう。
 花の心が不易で普遍的だとしたら、当然その起源は生物学的な遺伝子レベルで存在しているのだろう。
 人類の祖先が果実食の類人猿だったとしたら、花と果実の間の因果関係の認識はなくても、偶然花を好む個体がいたなら花のたくさん咲くところを縄張りにして、結果的にその花の何ヵ月後かにはたくさんの果実を手にし、より多くの子孫を残すことに成功するだろう。
 花を見て、何らかの脳内快楽物質が分泌されるような遺伝子の突然変異が起これば、その個体の生存率や繁殖率はアップするに違いない。そして、そのような個体の子孫が種全体に広がってゆけば、その種は花を好む種になる。
 ただ、すべての花が食料となる果実をつけるわけではない。中には毒のある植物の花もあるだろう。ただ、どの植物が食べられて、どの植物に毒があるかというのは後天的な学習によるもので、遺伝的に難しい。というのも毒草を避ける突然変異が種内に蓄積されるのと平行して毒草も進化を続けるし、毒草に偽装した毒のない植物も進化を続ける。変化して止まぬ環境の中では遺伝子が蓄積するのを待っているわけには行かない。親が学習したことを子に伝えてゆく方が効率がいい。大概の高等哺乳類は幼い頃に親から与えられた植物を記憶し、生涯それを食べ続ける。
 だから、花を見てそれに快楽を感じるとしても、それは直接食物と結びついたものではなく、もっと漠然と花に美しさを感じる遺伝子なのだと思う。
 美というのは生物学的に考えるなら、世界の秩序に関する情報のストックを作ることに与えられる快楽報酬なのだと思う。
 因果関係のはっきりしない、役に立つかどうかわからないような秩序の発見に関しても、一応情報としてストックしておいた方が、何かの時に役に立つかもしれない。
 花が美しい色彩や幾何学的構造を持っていることに関して、それが役に立つかどうかわからなくても、それを見出した時に何らかの感動を覚え、脳内快楽物質が分泌されるなら、結果的に花を好むことになる。そして、花を好めば、花と果実の因果関係を知らなくても結果的に多くの果実を手にすることになる。
 ただ、稀に副作用として綺麗な花が咲いているからといってその植物を食べて、実はそれが毒草でということは起こりえただろう。それでも確率的に多くの果実を手にすることのほうが多いなら、その遺伝子は容易に種全体に広がってゆくだろう。
 美に関しては昔から「意図せざる野の花は美しい」というようなことが言われている。有用性から切り離された純粋な美が存在することは多くの美学論の中で論ぜられてきたことだし、近代美学の基礎とも言える。
 美の感覚の進化それ自体は、有用かどうかに関わらず、何らかの秩序を持ったものを美しいと感じることにあったのだと思う。ただ、それが進化し強化されていったのは、結果的にそれが有用性に結びついたからではないかと思う。
 梅や桃や杏と違って、染井吉野や山桜の美しさは果実の有用性から切り離されている。もちろん梅や桃や杏の花を美しいと感じるのは、別に果実が有用だからではない。庭で梅を育てている人は多いが、梅の実を利用している人は少ないと思う。公園の杏の木も誰かが実を取るわけではない。バラを愛する人も別にローズヒップをとるために愛しているのではないだろう。有用性は結果にすぎない。だからこそ純粋な観賞用の花を愛する所に人間の美意識が証明される。
 ただ、花の心に関しては、もう一つの有用性が考えられる。それは有用かどうかを越えて純粋に美を共有する集団を形成することで、それが社会の結束力を高め、多くの人の平和共存につながるという点では、花の心を持たない者よりも花の心を持つ者の方が生存率や繁殖率を高めることが出来ただろう。
 芭蕉の『笈の小文』の、

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

の言葉は科学的に言うなら、花や月に美を見出し、その美を共有するものは、そうでないものよりも無益な争いごとを減らすことができ、生存率と繁殖率を高めることができ、生物種としての繁栄をもたらすということを言っているのではないかと思う。
 おそらくホモサピエンスがホモエレクトスやホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスより優れていたのはその点だったのだろう。

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