昨日は6号線で福島の立ち入り制限区域を通り抜け、飯舘村の復興の桜を見に行った。季節が3週間くらい戻ったみたいで、桜は満開で散り始め、水仙や雪柳なども咲いていた。
大変なことがあった場所だからこそ、単なる花見でもいいからみんな尋ねていってほしい。人が集まって観光地になれば、そこに産業が生まれ、多くの人が暮らせるようになる。人が増えれば、それを当て込んでまた集客力のある店が集まってくるし、それを目当てにまた人も集まる。こうした相乗効果が起きればいいなと思う。
他にも天神岬、はやま湖などいい場所がたくさんあるし、昔からの相馬の野馬追いもある。福島浜通りを盛り上げよう。
さて、「木のもとに」の巻の二裏、一気に行きます。
三十一句目
露こひしがる人はみのむし
しらぎくの花の弟(おとと)と名をつけて 半残
(しらぎくの花の弟と名をつけて露こひしがる人はみのむし)
「花の弟」というのは、花のいろいろある中で一番最後に咲くという意味で、「梅は花の兄菊は花の弟」とも言うらしい。出典は、
百草(ももくさ)の花の弟となりぬれば
八重八重にのみ見ゆる白菊
藤原季経(『夫木和歌抄』)
のようだ。
秋の色の花の弟と聞きしかど
霜のおきなとみゆる白菊
藤原基家(『夫木和歌抄』)
という用例もある。花の末っ子ではあっても霜の花からすれば大先輩(翁)だという。凡河内躬恒の「初霜のおきまどはせる白菊の花」の歌のように、白菊は霜にも喩えられた。
露恋しがる人は白菊を花の弟と呼ぶようなそんな人だという付け。
季題は「しらぎく」で秋。植物、草類。「花」も植物。三十五句目の花の定座からぎりぎり三句隔てている。
三十二句目
しらぎくの花の弟と名をつけて
能見にゆかん日よりよければ 雷洞
(しらぎくの花の弟と名をつけて能見にゆかん日よりよければ)
これは謡曲『菊慈童』のことか。
無季。
三十三句目
能見にゆかん日よりよければ
乗いるる二歳の駒をなでさすり 三園
(乗いるる二歳の駒をなでさすり能見にゆかん日よりよければ)
宮本三郎の註に「能見物に乗入れる若駒と見たか。」とあるが、二の裏の終わりに近いところなのでそれだけの意味の軽い遣り句か。
無季。「駒」は獣類。
三十四句目
乗いるる二歳の駒をなでさすり
躙書(にじりがき)さへならぬ老の身 良品
(乗いるる二歳の駒をなでさすり躙書さへならぬ老の身)
「にじる」というのは座ったまま膝を使って歩くことで、「にじり書き」は比喩として膝で進むのに喩えられるようなゆっくりと筆を押し付けるようなたどたどしい書き方をいう。
歳を取ると手が思うように動かず、にじり書きになりやすいが、それすらもできなくなるというと相当なものだ。
前句の二歳の駒の若々しさに対して付ける「相対付け(向かえ付け)」の句。
無季。「身」は人倫。
三十五句目
躙書さへならぬ老の身
降かかる花になみだもこぼれずや 風麦
(降かかる花になみだもこぼれずや躙書さへならぬ老の身)
これは反語で、降りかかる花、つまりはらはらと散ってゆく花に涙がこぼれないことがあるだろうか、ありやしない、という意味。歳取ると涙もろくなる上に、散る花が我が事のように思えてくる。
季題は「花」で春。植物、木類。
挙句
降かかる花になみだもこぼれずや
雉やかましく家居しにけり 土芳
(降かかる花になみだもこぼれずや雉やかましく家居しにけり)
前句の反語を疑問に取り成すのは定石と言えよう。雉は散る花に涙もこぼれないのだろうか、けんけんとやかましく鳴いている。そんな長閑な春を家に籠って過ごす。
季題は「雉」で春。鳥類。
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