さて、最初に紹介した四十句からなる「木のもとに」の巻1は、『花はさくら』秋屋編、寛政十三年(一八〇一)刊、『十丈園筆記』天然居士編、文政年間刊、『一葉集』古学庵仏兮・幻窓湖中編、文政十年(一八二七)刊と、百年以上も後になってから発表されている。
この中で気になるのが、『一葉集』で、
「元禄三年三月廿七日 伊賀上野風瀑亭にて」
と前書きがあり、末尾に、
「以下四十句
元禄庚午の春、木のもとに汁も鱠もさくら哉の立句にて歌仙有。此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」
と記されていることだ。
まず日付の三月二十七日だが、今日一般的には三月下旬には伊賀を離れ膳所へ行き、『ひさご』に収録されている形での「木のもとに」の巻3が作られた頃だとされている。しかし、『ひさご』には特に日付は明記されていない。
おそらくこういう推測によるものだろう。
1、「木のもとに」の巻3は春の発句だから当然三月までに作られているはずである。
2、芭蕉は三月十一日に上野東郊荒木村白髭神社で「畑打つ」の巻の興行を行っている。四月六日には幻住庵に入っている。ゆえに、芭蕉はこの間に伊賀から膳所へと移ったと考えられる。
また、芭蕉には、
四方より花吹き入れて鳰の波
草枕まことの華見しても来よ
行く春や近江の人と惜しみける
といった元禄三年三月の近江で詠まれた句が存在している。ゆえに三月末までに近江に移ったのは明らかである。
3、「木のもとに」の巻3は膳所で作られたものだから、三月十一日から三月末の間に作られたと考えられる。
4、故に三月中旬から下旬に作られたと想定できる。
三月二十七にというのは、それゆえ「木のもとに」の巻1ではなく、「木のもとに」の巻3の作られた日付に近いと思われる。
それと気になるのは、「此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。」という件で、言うまでもなく「木のもとに」の巻1と「木のもとに」の巻3は発句のみしか一致してないから、「木のもとに」の巻2を念頭に置いて言っているとしか思えない。「木のもとに」の巻2は『一葉集』の三年前の文政七年(一八二四)の猪来編『蓑虫庵小集』で発表されている。そこには、「右一巻之連句ハ柳下生ノ家ニ蔵ス、乞テ世ニ披露ス」とある。
「木のもとに」の巻1の初出は、寛政十三年(一八〇一)刊の秋屋編『花はさくら』で、その二十三年後に『蓑虫庵小集』の「木のもとに」の巻2が発表されたとき、真贋論争が起こったことは想像できる。そのさい、「木のもとに」の巻1の方は作風がもっと後の風に近いことと、四十句という半端さ、それに一の懐紙と二の懐紙で筆記者が異なるという弱点があった。
そこで、こちらのほうは確かに真偽不明だがとことわった上で、「然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」再提起したのではなかったか。
どっちが本物により近いかといわれれば、おそらく「木のもとに」の巻2の方であろう。こちらの方が三月二日からそう遠くない日に作られた可能性が高い。だからこそ、あえてそれより後の三月二十七日という日付を入れたのではなかったか。
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