昨日は「日本ダービー(東京優駿)も三歳馬によって争われる。」なんて書いたが、考えてみると昔は数え年で今の満年齢とは違うから、芭蕉の句の三歳馬はいまの二歳馬に相当する。こんなことに気づかなかったなんて面目ない。
まあ、気を取り直して次へ。
十一句目
中にもせいの高き山伏
いふ事を唯一方へ落しけり 珍碩
(いふ事を唯一方へ落しけり中にもせいの高き山伏)
「中にもせいの高き」を「中にも勢の高き」に取り成したか。「居丈高」なんて言葉もあるように、上から目線で高飛車に物を言う人間はいつの時代にもいた。
あるあるネタだが皮肉が利いていて面白い。
無季。
十二句目
いふ事を唯一方へ落しけり
ほそき筋より恋つのりつつ 曲水
(いふ事を唯一方へ落しけりほそき筋より恋つのりつつ)
ここで恋に転じる。
ほんのちょっとしたことから妄想を膨らまし「もしかしてだけどー、もしかしてだけどー」なんてどぶろっくのネタではないが、自分に気があると勘違いして、相手の言うことをことごとくそういう意味にゆがめてしまう。
一時的な麻疹みたいなので済めばいいが、こじらすとストーカーへと一直線。あぶないあぶない。
無季。「恋つのる」は恋。
十三句目
ほそき筋より恋つのりつつ
物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉
(物おもふ身にもの喰へとせつかれてほそき筋より恋つのりつつ)
ストーカーから一転して拒食症。「ほそき」を痩せ細ると掛けているあたりも芸が細かい。前句の男の体を女の体の取り成すのは定石。
こうした盛り上がりは「木のもとに」の前の二つの巻にはなかったから、やはり名作とされている一巻は違う。
無季。「物おもふ」は恋。
十四句目
物おもふ身にもの喰へとせつかれて
月見る顔の袖おもき露 珍碩
(物おもふ身にもの喰へとせつかれて月見る顔の袖おもき露)
これは恋離れの逃げ句だが、
嘆けとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな
西行法師
の歌あたりをイメージしたもの。本歌とまでは密接に寄っているわけではなく、西行の俤と言っていいだろう。「涙」と言わずに「袖おもき露」に留めた所で、次の展開が楽になる。
季題は「月」で秋。夜分、天象。「顔」は人倫。「袖」は衣装。「露」は降物。
連句を残すというのは一体何なのか、何の意味があるのか。
談笑ならその場で言い捨てるべきことで、残すべきものではないというのが近代文学の立場だった。
それは「真実」とは何かという根本的な問いなのだろう。
近代文学は事実をありのままに書いたものが真実だと考えた。だが、どんな客観的に物を書いても、その題材は主観的に選択され、そこには一定の思想のバイアスがかかっている。近代文学はむしろより激しいバイアスのかかった「思想のあるもの」を良しとしてきた。
つまり一定の思想的な見地からこれが真実だと信じて記したバイアスのかかった事実、それが文学だった。今日の十一句目ではないが「いふ事を唯一方へ落しけり」だ。
いふ事を唯一方へ落しけり
思想なくては成らぬ文学
とでも言うべきか。
芭蕉の時代の人が真実だと考えてたのは、そういう近代的真実ではなかった。それは「心の花」とでも言うべきものだった。
季節が循環するように人は生まれては死んで行き、それを果てしなく繰り返してゆく。その営みの中で真実というのは、その営みを続けてゆくための「花」と「実」だった。
厳しい生存競争の中にあっても、つかの間の人と人とのふれあいがあり、そこで親しく談笑し、一時の平和で長閑なひと時を過ごす瞬間は何にも変えがたいものだった。
人は戦うために生まれてきたのではないし、歴史を作るために生きているのでもない。それぞれに人が思い描く夢や野望はどんなに永久平和への情熱に溢れていたとしても、結局互いに衝突しあって終わりのない戦いの修羅の道に迷い込むことになる。
真実だと思って記述したものも、言葉なんてどういう意味にも取れるもので、解釈によってまた争いが生じるし、人間の記憶なんてのもあやふやなものだし、時間が立てば無意識の内に自分の都合のいいように「構造化」されてゆくものだから、立場が違えば記憶もまったく違ったものになる。歴史認識は平和をもたらすどころか、いつでも戦争をもたらすばかりだ。
そんなあいまいな「事実」の記述に血眼になった近代文学に、一体何ができただろうか。ただ分断をもたらしただけだった。文壇だけに、なんちゃって。
大事なのは心の花だけ。それを知ってた昔の風流人は、ただ一つ、みんなが和気藹々と平和な時間を過ごした、その真実だけを書き残す。それが連歌であり俳諧だったのではなかったか。
世界はまたそれぞれの国の相容れない歴史認識の違いから再び戦争への道を歩み始めている。風流人にできるのは、ただそんなことよりもっと大切な時間があったということを書き残すだけだ。
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