「木のもとに」の巻3の続き。二裏に入る。
三十一句目
月夜月夜に明渡る月
花薄あまりまねけばうら枯て 芭蕉
(花薄あまりまねけばうら枯て月夜月夜に明渡る月)
月にススキは付き物で、今でも十五夜にはススキが欠かせない。
風にそよぐススキの穂が手招きしているように見えることは、
秋の野の草の袂か花薄
穂に出でて招く袖と見ゆらむ
在原棟梁『古今和歌集』
我が心ゆくとはなくて花すすき
招くを見れば目こそとどまれ
和泉式部
ゆく人を招くか野辺の花すすき
こよひもここに旅寝せよとや
平忠盛『金葉和歌集』
などの古歌に歌われている。
毒海長老、我が草の戸にして身まかり侍るを葬りて
何ごとも招き果てたる薄哉 芭蕉『続深川集』
は貞享の頃の句とされている。招きすぎて招き果ててしまうと、あとは枯れて逝くのみ。月夜が続き月に夜を明かしているうちにも死は忍び寄ってくる。まあ、人生短いから精一杯楽しもう。
季題は「花薄」で秋。植物、草類。
三十二句目
花薄あまりまねけばうら枯て
唯四方なる草庵の露 珍碩
(花薄あまりまねけばうら枯て唯四方なる草庵の露)
「四方」という言葉は「方丈」という言葉を連想させる。おそらく「方丈」というとあまりに鴨長明の『方丈記』に結びついてしまうため、似た言葉に言い換えて俤にしたのであろう。「方丈」なら本説、「四方」なら俤といったところか。
元禄三年の八月から九月頃の興行で『猿蓑』に収録された「灰汁桶の」の巻の十七句目の、
何を見るにも露ばかり也
花とちる身は西念が衣着て 芭蕉
もまた、西行を西念に変えることで俤にしている。
ただ、平安時代後期に西念という僧が実在したらしい。ウィキペディアによると、「明治39年(1906年)11月、京都の松原通(現在の京都市東山区小松町)において、仏事供養目録および極楽往生にまつわる和歌(極楽願往生歌)が発見され、その内容から元は彼の所有物であったと考えられている。」とのこと。また、埼玉県吉川市に西念法師塔というのがあり、鎌倉時代の親鸞の弟子だという。江戸初期に奥州伊達之郡にも西念という僧がいたという。
芭蕉の句はそれとは関係なく、西行に似ていていかにもありそうな名前として用いただけと思われる。
ちなみに方丈は約3メートル四方で、四畳半よりは少し大きい。
季題は「露」で秋。降物。「草庵」は居所。
三十三句目
唯四方なる草庵の露
一貫の銭むつかしと返しけり 曲水
(一貫の銭むつかしと返しけり唯四方なる草庵の露)
一貫は銭一千文。江戸時代は金銀銭がそれぞれ変動相場で動く三貨制度が取られていた。芭蕉の時代の銭一貫は五分の一両くらいだったと思われる。元禄後期になると四分の一両くらいになり、銭高金安になったらしい。
それほどの大金ではないから、ただ細かくて面倒(むつかし)なので一分金にしてくれという所か。
まあ、別に草庵の住人に限らず、銭一貫はかさばるし重いし「むつかし(面倒な、うざい)」という感覚はあったのだろう。ただ、凡人はやはり貰えるものは貰っておこうとなりがちだ。それを面倒だからときっぱり断る所はやはり物に執着しない風流人なのだろう。
古註に兼好法師と頓阿法師との借金のエピソードによるとする説があるが、それだと二裏に入ってからの展開がやや重い感じになる。
無季。
三十四句目
一貫の銭むつかしと返しけり
医者のくすりは飲ぬ分別 芭蕉
(一貫の銭むつかしと返しけり医者のくすりは飲ぬ分別)
前句の「返しけり」をお金ではなく薬のこととする。
薬の値段が一貫だったため、ちょっと高いなと思い、それなら薬に頼らなくても自然に治るんじゃないかと思い、一貫はちょっと面倒だなとばかりに薬を返したのだろう。
江戸後期の文政期だと大工さんの年収なんかがわかっているようだが、元禄期の一般的な庶民の収入はよくわからない。多分銭一貫は今の感覚だと数万円といったところで、ちょっと二の足を踏む値段ではなかったかと思う。芭蕉の句はそのあたりの機微を感じさせる。
芭蕉さんの得意な経済ネタだ。
無季。「医者」は人倫。
0 件のコメント:
コメントを投稿