さて、季節のほうも夏になったし、次は何を読もうかと思って「木のもとに」の巻3でお世話になった小学館の『連歌俳諧集 日本古典文学全集32』をめくっていたら、蕪村の「牡丹散り」の句を発句とする一巻があった。芭蕉の俳諧と比較する意味で面白いかもしれないと思った。
ただ、この一巻はどうも興行された俳諧ではないようだ。作品解説によると、蕪村と几董との書簡のやり取りから生まれたものだという。
まずこの「ももすもも」には「俳諧桃李序」という序文が付いている。ちなみに漢和辞典によると「桃李」には自分が引き立てたり推薦したりした者、立派な人物という意味や、顔色の美しいことのたとえという意味も出てくる。ネットで検索すると松坂桃李がトップに来る。蕪村もなかなか気負ったタイトルをつけたものだ。
この序にはまず、
「いつのほどにか有けむ、四時四まきの可仙有。春秋はうせぬ、夏冬はのこりぬ。」
とあるが、これは嘘だという。いかにも興行があったかのように偽装しているだけだ。
「壱人請て木にゑらんと云。壱人制して曰、この可仙ありてややとし月を経たり。」
一人がこれを木版印刷しようと言うと、一人が随分前のものなのでやめようよと言うという意味だが、これも作りに決まっている。別に蕪村と几董がこう話し合ったというわけではあるまい。というのも、「とし月を経たり」というのも嘘だからだ。昔こういう興行があったという偽装にすぎない。
「おそらくは流行におくれたらん。余笑て曰、夫俳諧の活達なるや、実に流行有て実に流行なし、たとはば一円廓に添て、人を追ふて走るがごとし。先ンずるもの却て後れたるものを追ふに似たり。」
こういう一文があると、流行に疎い今の俳句爺さんたちは泣いて喜びそうだ。
まあ、確かに流行は繰り返すという側面もある。60年代にはやったミニスカートは80年代に復活したし、60年代後半から70年代にはやった「長髪」は80年代のパンク・ニューウエーブで急にダサいものになったが、90年代のグランジあたりからまた復活し、いわゆる「ロンゲ」という言葉を生んだ。
ただ、たまたま流行が戻ってきたからといっても、以前にはやった時とは微妙に違うものになっているので、時代遅れなやつは所詮時代遅れなのには変わりない。
「流行の先後何を以てわかつべけむや。」
俳諧に限らず、一つのジャンルが確立されてゆく時期にはいろいろな試行錯誤が為され、そのつど新しい試みが為されるが、ひとたび完成されてしまうと後は今までやったパターンをちょっとアレンジし直す程度で、大体同じようなパターン繰り返しに陥る。
芭蕉の時代は俳諧はまだ未完成でこれから作ってゆくものだったから、次から次へと新しい実験がなされ、そのつど流行していった。
しかし、蕪村の時代ともなると俳諧は芭蕉のリバイバルみたいなもので、芭蕉が年次を追って作り上げてきたさまざまな風を、ただいろいろ並べ替えるだけに終始する。蕪村の時代には芭蕉の時代のような顕著な流行はなかったのだろう。それはどちらかというと俳諧そのものが時代遅れになっているという意味なのだが。
蕪村も会心の俳諧興行ができず、書簡で時間をかけて両吟をやるという形で、わずか二巻を「木にゑらん」としたのも、そのせいだと思われる。
だから、今の俳人も流行を気にする必要など何もない。俳句そのものが時代遅れなのだから。
「ただ日々におのれが胸懐をうつし出て、けふはけふのはいかいにして、翌は又あすの俳諧也。題してももすももと云へ、めぐりよめどもはしなし。是此集の大意也。」
「ももすもも」というタイトルは上から読んでも下から読んでも横から読んでもももすももなので、終わりがないというわけだ。でも本当は、司馬遷『史記』の「桃李不言下自成蹊」や日蓮の「桜梅桃李」を踏まえているんでしょ?って言いたくなる。この二つは松坂桃李の名前の由来らしい。
そういうわけで、ようやく発句に辿り着く。
発句
牡丹散て打かさなりぬ二三片 蕪村
まずこの句は興行の当座の興で詠んだ句ではない。安永二年(一七七三)刊の『あけ烏』に収録されている。少なくとも七年前の句だ。
句の内容については説明の必要はないだろう。そのまんまの句だ。
季題は「牡丹」で夏。植物、草類。
脇
牡丹散て打かさなりぬ二三片
卯月廿日のあり明の影 几董
(牡丹散て打かさなりぬ二三片卯月廿日のあり明の影)
この脇は一応発句に対する返礼の形になっている。だが、卯月廿日もあくまで架空の興行の日付だろう。牡丹の散った庭に夜も白み有明の月の光にその姿がほの見えて来る。「影」はここでは「光」の意味。
発句の景を生かすためか、あえて月の定座を引き上げている。
季題は「卯月」で夏。「有明」はここでは夏の月になる。夜分、天象。
第三
卯月廿日のあり明の影
すはぶきて翁や門をひらくらむ 几董
(すはぶきて翁や門をひらくらむ卯月廿日のあり明の影)
中世連歌や芭蕉の時代には「らん」とはねるのが普通だが、あえて「らむ」とするのは国学の影響か。
「すはぶきて」は「しはぶきて」に同じ。咳をすること。明け方に何で翁が門を開くのか、そん辺の設定は不明。何となく雰囲気で付けたという所か。
無季。「翁」は人倫。
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