2017年5月27日土曜日

 今日は楚常・北枝編の『卯辰集』から蕪村の「牡丹散て」の句の縁から、牡丹の句を拾ってみよう。

 牡丹ちり芍薬ひらく旦(あした)かな 桃英

 俳号のところに「少人」とある。これは少年と同じと考えていいだろう。ただ、数えで十五歳くらいで元服する時代だから、今でいう中一、中二くらいか。
 牡丹と芍薬はよく似ているが、牡丹は草で芍薬は低木だし、咲く時期も芍薬の方が遅い。句としては咲く時期の違いを詠んだだけだが、発句として、挨拶として読むなら、華麗な牡丹の花が散って惜しいけど、芍薬がこうして開けば寂しくもありません、というようなかなり立派な挨拶となる。

 一輪のぼたんやちりてそこら内    其糟

 「そこら内」は「そこらうちじゅう」「そこらじゅう」ということ。牡丹の散る時は花びらがはらはらとそこらじゅうに広がって落ちる。全体としてみれば「そこら内」その中の一点だけに目を留めれば蕪村の句にあるように「打かさなりぬ二三片」になる。

 何事ぞぼたんをいかる猫の様     南甫

 唐獅子牡丹といえば健さんの背中の刺青だが、獅子に牡丹は定番の画題の一つにもなっている。猫が何に怒っているのかは本当に知らないが、牡丹の下で耳を倒して、いわゆるイカ耳になった猫の姿は獅子のようでもある。
 もう少し時代が下ると猫と牡丹の取り合わせも定番の画題となる。

 牡丹や白金の猫黄金の蝶       蕪村

の句もある。

   四睡が武府にゆくおり
 牡丹散て心もおかずわかれけり    北枝

 これは送別の句。牡丹が散って寂しくなるというのに、この心も癒えぬままにお別れとはそれに重ねても寂しく辛いことです、といったところか。

 ちる事は催しに似ぬ牡丹かな     牧童

 「催しに似ぬ」は兆しも見せず突然に、ということか。
 蕪村の「牡丹散て」の句の前身として、このような句があったことも気に留めておこう。季題の心というのは用例の積み重ねでもある。

 話は変わるが、貞徳の句として伝えられている、どんな五七五にも付けられる万能の付け句というのがある。

 それにつけても金のほしさよ

という句だ。「つけても」が付け句の「付けても」にかかるあたりは芸が細かい。「それにつけても」は話題の転換の言葉なので、前にどんな話題が来てもいい。それに「金のほしさ」と言われれば、誰だっていつだってお金はあったほうがいい。だから万能の付け句になる。
 カールおじさんの歌(『いいもんだな故郷は』高杉治朗作詞)もこれにヒントを得たのだろう。付け句にすればこんな所か。

   故郷はいいな娘と盆踊り
 それにつけてもおやつはカール

   故郷は狐啼きたる里の秋
 それにつけてもおやつはカール

 万能の付け句だから何に付けてもいい。

   牡丹散て打ちかさなりぬ二三片
 それにつけてもおやつはカール

 明治製菓のカールは関東地区では終売になるという。

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