この頃暑い日が続く。昼は飲み物がたくさん必要になって、出費が増える。
さて、「木のもとに」の巻3も佳境に入る。
十五句目
月見る顔の袖おもき露
秋風の船をこはがる波の音 曲水
(秋風の船をこはがる波の音月見る顔の袖おもき露)
これは「秋風の波の音に船をこはがる」の倒置。上句下句合わせると、「秋風の波の音に船をこはがる月見る顔の袖おもき露」となる。
これは『源氏物語』「須磨」の俤か。
「すまには、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、せきふきこゆるといひけむうらなみ、よるよるはげにいとちかくきこえて、又なくあはれなる物は、かかる所の秋なりけり。
御前にいと人すくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、枕をそばだててよものあらしをきき給ふに、なみただここもとに立ちくる心ちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。」
須磨では今まで以上に気を滅入らすような秋風が吹き、海は少し遠いものの在原行平中納言の「関吹き越ゆる」と詠んだ浦に寄る波は夜ともなるとすぐそばのように聞こえて、これ以上悲しくない所はないような秋となりました。
お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。
このあと沖を船が通る場面がある。
「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ。」
沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。
そして光が差し込み十五夜だったと知る場面が来る。
「月のいとはなやかにさし出でたるに、こよひは十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御あそびこひしく、所所ながめ給ふらんかしとおもひやり給ふにつけても、月のかほのみまもられ給ふ。」
月の光が煌々と差し込んでくると、「今夜は十五夜だったな」とふと思い出して、宮廷にいた頃の楽器の演奏に耽ったのが恋しく、みんなじっとあの月を見ているのかなと思うと、みんなの顔が月になって見守っているかのようです。
源氏の君の御一行は岸にいるが、それを船で旅する趣向に変えれば、何となくこんな感じの句になる。
季題は「秋風」で秋。「船」「波の音」は水辺。
十六句目
秋風の船をこはがる波の音
雁ゆくかたや白子若松 芭蕉
(秋風の船をこはがる波の音雁ゆくかたや白子若松)
次は花の定座ということで、春の帰る雁にも取り成せるように配慮された「花呼び出し」の一句。
白子若松は東海道四日市宿から鈴鹿の方へ行かずに南へ行ったところにある伊勢若松とその先の白子のこと。昔は伊勢街道が通っていた。今は近鉄名古屋線が通っている。
ここでは東海道七里の渡しのこととしたか。帰る雁は北へ行くが、秋の雁は南へ向かう。ちょうどその方向に伊勢若松や白子がある。芭蕉も何度となく通っている道だ。芭蕉の「杖つき坂詞書」、
「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。
漸々桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やや起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、
かちならば杖つき坂を落馬哉
終に季の言葉いらず。」
にある、飛脚がガン飛ばして怒ってたのもこの七里の渡しか。別の意味で恐い。
『三冊子』「あかさうし」には、「前句の心の余りを取て、気色に顕し付たる也、」とある。船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。
季題は「雁」で秋。鳥類。「白子若松」は名所。
十七句目
雁ゆくかたや白子若松
千部読(よむ)花の盛の一身田(いしんでん) 珍碩
(千部読花の盛の一身田雁ゆくかたや白子若松)
一身田は伊勢街道を更に南へ向かい、志登茂川にかかる江戸橋を渡ったあたりの田園地帯で、本山専修寺がある。春になると桜が咲き、千部読経の声が聞こえてきたのだろう。
白子若松の南になるから、春の帰る雁は北にある白子若松へ向かう。
季題は「花」で春。植物、木類。「千部読」は釈教。
十八句目
千部読花の盛の一身田
巡礼死ぬる道のかげろう 曲水
(千部読花の盛の一身田巡礼死ぬる道のかげろう)
前句を定例の千部会ではなく千部供養に取り成したか。死者を弔うのに千部読経を行うのは、『源氏物語』「御法」の紫の上の葬儀でも見られる。
「かげろう」はしばしば死者の霊に喩えられる。おそらく火葬と結びついてのことだと思う。
今では陽炎というと夏の暑い時にアスファルト上にゆらゆらゆれて見えるあれのことだが、本来は焚き火や野焼きなどをした際の炎が上がらず燻った状態の時に現れるゆらゆら(シュリーレン現象)のことを言ったのであろう。春の野焼きに結び付けられていたために春の季語になったと思われる。
季題は「かげろう」で春。「巡礼死ぬる」は哀傷。
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