2017年5月20日土曜日

 今日も暑くてついついコーラを二本も飲んだ。左翼の人たちは今でもコーラを飲むと骨が溶けると信じているのかな?
 では「牡丹散り」の巻の続き。早く終わらせよう。

十一句目

   秋をうれひてひとり戸に倚
 目ふたいで苦き薬をすすりける   几董
 (目ふたいで苦き薬をすすりける秋をうれひてひとり戸に倚)

 食わず嫌いのものを人に食べさせる時には「目をつぶって食ってみろ」と言ったりするが、まあ飲みたくない薬を飲む時には目をつぶって一気にすするというのはわかる。
 秋はこれから寒くなる季節で、寒くなれば健康に不安もある。この冬を乗り切れるかなんて思いながら不安そうに薬をすする姿が浮かんでくる。

無季。

十二句目

   目ふたいで苦き薬をすすりける
 当麻へもどす風呂敷に文      蕪村
 (目ふたいで苦き薬をすすりける当麻へもどす風呂敷に文)

 当麻は奈良の当麻寺のあるあたりで、古くから竹内街道と長尾街道が通っている。どちらも大阪から大和行く道だ。この道は伊勢へ行く道でもある。
 当麻寺というと蓮の糸で曼荼羅を織ったという中将姫伝説が有名で、芭蕉が『奥の細道』の旅の途中山中温泉で曾良を送るために行った「山中三吟」十一句目にも、

    髪はそらねど魚くはぬなり
 蓮のいととるもなかなか罪ふかき   曾良

の句がある。神道家の曾良だから、魚は食わなくても蓮の命を奪ってるなんて突っ込みを入れたかったのかもしれない。大事なのは殺生は生きてゆくうえで避けられないもので何をやったって免罪はされない、あとは心の問題、罪の自覚の問題ということだ。
 ここではそれに関係なく、関西に住むものにとって馴染みのあるちょっと田舎の地名ということで引き合いに出しただけだろう。
 病気で薬を飲んで養生しながら、当麻から送ってきた風呂敷に手紙を添えて返してやる。蕉風というよりは大阪談林っぽい人情句だ。

無季。「当麻」は名所。「山田」から三句隔てている。

十三句目

   当麻へもどす風呂敷に文
 隣にてまだ声のする油うり    几董
 (隣にてまだ声のする油うり当麻へもどす風呂敷に文)

 江戸時代には夜の明りとして菜種油や綿実油が用いられた。油は生活の必需品となり天秤に大きな油桶を下げた油売りは各家庭に上がり込んでは油を補填するため、ご近所の噂話などにも詳しく、油を充填する間に顧客と噂話に花咲かせ、そこからだらだらおしゃべりして時間を過ごすことを「油を売る」と言うようになった。
 風呂敷包みを当麻に返しにお使いを頼もうにも、いつまでも油売りとぺちゃくちゃ油売ってる声がして、なかなかその油売りは帰ろうとしない。ありそうなことだ。

無季。「油うり」は人倫。

十四句目

   隣にてまだ声のする油うり
 三尺つもる雪のたそがれ    蕪村
 (隣にてまだ声のする油うり三尺つもる雪のたそがれ)

 油売りがなかなか帰らないのを雪のせいとした。三尺というと1メートル近いから、そりゃ帰りたくないだろう。帰るに帰れないうちに日も暮れてくる。

季題は「雪」で冬。降物。

十五句目

   三尺つもる雪のたそがれ
 餌(ゑ)にうゆる狼うちにしのぶらん 几董
 (餌にうゆる狼うちにしのぶらん三尺つもる雪のたそがれ)

 三尺の雪を山奥の田舎の景色とし、飢えた狼が家の近くに潜んでるとした。
 村人の狼に対しての生々しい感情はなく、生活感なしにさらっと描くのが蕪村流の俳諧というところか。

季題は「狼」で冬。獣類。「うち」は居所。

十六句目

   餌にうゆる狼うちにしのぶらん
 兎唇(いくち)の妻のただ泣になく  蕪村
 (餌にうゆる狼うちにしのぶらん兎唇の妻のただ泣になく)

 兎唇は「みつくち」と読むと今日では差別用語になるので、口唇口蓋裂と言わなくてはならないが、「いくち」はいいのかどうか。
 今日ではみんな手術で治してしまうため、実際に口唇口蓋裂の人を見ることはないし、いないなら差別のしようもないのだが、差別用語としては残っている。ただ今でも五百人から七百人に一人の割合で生まれているという。
 ただ、この句には殺生の因果と結び付けられて解釈されてきた歴史がある。前句を狼をひそかに飼っている狩人とみて、その因果のせいで妻が口唇口蓋裂になったというのはかなり無理な解釈に思えるが、蕪村の句もあまり付きが良くないので、そう読めといわれればそう読めてしまう。
 前句を特に取り成さずに、狼が潜んでいると思うと恐くて泣いていると読むほうがわかりやすい。単に奇をてらって「兎唇」を出してみただけではなかったか。まあ、ひょっとしたら兎唇フェチの人もいたかもしれないし。

無季。「妻」は人倫。

十七句目

   兎唇の妻のただ泣になく
 鐘鋳ある花のみてらに髪きりて  几董
 (鐘鋳ある花のみてらに髪きりて兎唇の妻のただ泣になく)

 鐘を新たに鋳造するというので、髪を切ってお寺に寄進する。兎唇(いくち)の妻も因果のことを気にしているのだろう。因果のことで泣いているのか、それともこれで救われると思って泣いているのか、蕉風の俳諧ならそれも笑いに転じてくれそうだが、蕪村流は大阪談林に近く湿っぽい。花の定座なのにあまり目出度くない。
 口唇口蓋裂差別もただ手術で直して見てわからないからなくなっただけで、それがなければ今でも何かしら深刻な事態として残っていただろう。
 同和差別にしても原発避難民差別にしても、差別の根源にあるのは感染症の恐怖の記憶で、それが本来感染らないはずのものまで拡張されてしまところに人間の無知からくる愚かさがある。
 ただ、誰も完璧な人間はいないので、それも責められないところがあって難しい。本来差別に厳しいはずの人権派の人たちが、原発となると話は別になって差別を擁護する側に回っているのは悲しいことだ。

季題は「花」で春。植物、木類。「鐘鋳」「てら」「髪きりて」は釈教。

十八句目

   鐘鋳ある花のみてらに髪きりて
 春のゆく衛の西にかたぶく    蕪村
 (鐘鋳ある花のみてらに髪きりて春のゆく衛の西にかたぶく)

 「西にかたぶく」は西方浄土を暗示させ、釈教から離れきらない。この展開の緩さも蕉門的ではない。
 花に行く春の付け合いも古典的だし、鐘鋳だけに付きすぎの感がある。

季題は「春のゆく衛(ゆく春)」で春。

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