2017年8月31日木曜日

 ワールドカップの出場が決まった。
 ジョホールバルの歓喜の時は夜中まで起きていて、勝った瞬間には声を上げてガッツポーズをしたものだが、何となくワールドカップに出れるのが当たり前になってしまったのか、試合中1-0でうとうとして、気づいたら勝っていた。
 次々と新しい選手が出てきて、まだしばらく常連国でいられるかな。後続の中国がいまひとつ延びなかったし、北朝鮮もスポーツどころではないようだし。
 さて、俳諧のほうだが、表六句二つ読んでウォーミングアップも終わりということで、歌仙の方へ行ってみよう。『椎の葉』の「立出て」の巻。底本は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)。

 発句。

   秋興
 立出て侍にあふや稲の原     才麿

 姫路まで旅したときの一場面だろう。宿を出て少し行くと収穫を前にした黄金色の田んぼが一面に広がっていて、そこでなぜかお侍さんに遭う。紀行文を見ても特にお侍さんに遭ったという記述はないから、特に誰ということはないのだろう。空我や千山も商人のようだし、一座にお侍さんがいてという挨拶の意味でもなさそうだ。蕉門には結構名だたる武士がいたりするが、ここは庶民の大阪談林だ。
 特定の誰かを指すのでないなら、ここは単に早朝の田んぼの真っ只中、こんな所になぜお侍さんが、というだけの句ではないかと思う。

 何事ぞ花みる人の長刀     去来

の句だと、身分分け隔てなく楽しみ花見の席で何で無風流なという風刺が込められているが、そうはいっても去来は元武士。才麿の句はそうした風刺も含まれず、日常の意外な風景としてお侍さんが描かれている。

 脇

   立出て侍にあふや稲の原
 眠リをゆづる鵙の雲櫓(とまりぎ) 尚列

 鵙(モズ)というとモズのはやにえで、秋になると捕らえた獲物を枝に刺して、そのまま食べずに放置したりする。殺生をする罪深いモズは武士の姿にも重なる。その意味でもこの脇は、お侍さんはゆっくり寝ててください、私どもは旅立ちます、という意味でいいのだろう。
 武士というと、宮本武蔵の描いた『枯木鳴鵙図』は有名だ。そういえば宮本武蔵は播磨の人だとも言われている。

 第三

   眠リをゆづる鵙の雲櫓
 後の月その窓程に照ぬきて     海牛

 「後の月」は九月の十三夜のこと。月が明るくてその光が窓一杯に広がっている。月その物の大きさが窓程もあるというのでは大げさになる。ここは田毎の月だからといって月がたくさん写っているのではなく、あくまで月で明るくなった空を写しているというのと同じに考えた方がいいだろう。
 月が明るいから止まり木に眠っているモズの姿も映し出される。

 四句目

   後の月その窓程に照ぬきて
 夜習(よならひ)仕まふ時に成けり 千山

 千山さんはよほど勤勉な人だったのか。表六句の発句、

 秋の夜や明日の用をくり仕廻    千山

とかぶっている。月が明るいからそろそろ勉強も終わりにしようか。

2017年8月30日水曜日

 今日もあちこちでゲリラ豪雨が降ってる。
 海の向こうではテキサスの水害で、トランプさんもミサイルどころではなかったようだ。あえてそのタイミングを狙ったのか。

 四句目

   薄月の舼にのせず漕出て
 土堤に長柄鑓(ながえ)の打つづきけり 空我

 前句を、薄月の中漕ぎ出すと取り成し、渡し舟に乗せなかったものを付け、薄月の中、長柄鑓を渡しに乗せずに漕ぎ出して土手に打つづきけり、となる。
 長柄鑓は足軽が集団戦で用いるもので長さ二間半(約4.5メートル)を越えるものもあったという。船に乗せるには長すぎたのだろう。

 五句目

   土堤に長柄鑓の打つづきけり
 心ある勧進的(まと)の小屋高く    空我

 勧進的は江戸時代に神社仏閣などで開催された、寄付を募るための射的会で、見物人も多くて大きな観覧席(見物小屋)が作られた。足軽の一団も参加しようと土手に鑓を置いてやってきたのだろう。

 挙句

   心ある勧進的の小屋高く
 湯茶をきらさぬ手廻しぞよき      才麿

 湯茶はお湯やお茶をという意味。大勢の人で賑わう勧進的興行で、お湯やお茶を切らさずにというのは、なかなか大変なことだ。そんなねぎらいの気持ちを込めてこの表六句は終わる。
 蕉門の句に比べると、平板な情景描写に終始し、いわゆる「あるあるネタ」にはなっていない。蕉門だったら「勧進的あるある」に持っていって笑いを取る所だろう。こうした作風はむしろ後の蕪村の俳諧に近いようにも思える。
 勧進的ではなく壬生念仏のネタだが、「むめがかに」の巻の十八句目に、

   町衆のつらりと酔て花の陰
 門で押るる壬生の念仏     芭蕉

の句がある。
 勧進的の小屋が高いのは単なる情景だし、それに「心ある」と人情に触れるところが大阪談林なら、都会の連中が桟敷を独占して花の陰で酔いしれているのに対し、地元の人たちは門のところで押し合いへし合いしているという「あるあるネタ」でちくりと風刺を込めるのが蕉門の風といえよう。
 発句の松茸に熱燗の取り合わせも、蕉門ならそれこそベタ(付きすぎ)だといって避けるネタだろう。元禄七年の秋は芭蕉が関西で過ごしたため、松茸の句が多い。

 松茸に交る木の葉も匂ひかな   鷗白
 松茸や都に近き山の形(な)り  素牛
 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉

 いずれも意図的に、松茸の美味しさやこれで熱燗をきゅーーっとやりたいなあなんて庶民の情を避けているように思える。
 松茸があればその周りの木の葉も松茸の香ばしい匂いがする。都の近くの山を見ると赤松がたくさん生えていてそれ見ているだけで松茸が思い浮かぶ。取ってきた松茸をよく見ると必ず関係ない木の葉がへばりついていたりする。こういうネタの取り方が蕉門らしさだ。
 松茸というと、同じ元禄七年の夏の興行「夕がほや」の巻の七句目に、

   稗に穂蓼に庭の埒なき
 松茸に小僧もたねば守られず   鳳仭

の句もある。この句は一般に松茸をとられないように見張る小僧がいないから松茸がみんな村人に取られてしまった、という意味に介されることが多いが、江戸時代の山林は寺社の所有ではあっても共有地(コモンズ)としての性格が強く、そこで取れる松茸はみんなのものだったのではないかと思う。むしろこの句は、柴刈りしたりして山をきちんと手入れしてくれる小僧がいないから、山が荒れ果てて松茸が生えてこない、という意味ではなかったかと思うのだがいかがだろうか。

2017年8月29日火曜日

 ミサイルは予告なしに飛んできても、鈴呂屋俳話は予告通り、もう少し才麿編『椎の葉』の俳諧を見ていくことにする。
 二つ目の表六句は才麿と空我との両吟になっている。空我についても姫路の人ということくらいしかわかっていない。『二葉集』『花の雲』にも登場しない。空我というと仮面ライダークウガが漢字では空我と書くらしい。オダジョーが演じていたという。なかなか今でもかっこいい名前だ。
 さて、姫路の俳諧師の空我の発句を見てみよう。

   終日寝山
 茸(たけ)焼やそばにかけたる酒のかん 空我

 千山の勧学とは対称的に、こちらは日がな一日山で昼寝をしては、焼いた採れたての松茸を肴に熱燗を飲むという、酒飲みなら一度はやってみたいという句だ。これで時折談笑する仲間たちがいれば、絵に描いたようなリア充だ。
 前の表六句の月夜の風呂といい、奇をてらわず、わりかし誰もが思うような庶民的な楽しみを句にするのが大阪談林流か。

 脇。

   茸焼やそばにかけたる酒のかん
 尾ごしの鴨に礫(つぶて)こころむ   才麿

 「尾ごしの鴨」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注に「秋の終わりに尾根を越えて北方から渡ってくる鴨」とある。
 松茸に熱燗だけでは物足りないのか、鴨に礫を投げて落とそうとするが、なかなかうまくは行かないだろう。
 こころむだけとはいえ殺生を大胆に肯定するあたりも蕉門との違いか。
 脇句の挨拶としては、松茸を詠んだ見事な発句に鴨肉のような脇をお付けしたいが、なにぶん才能がないものでというへりくだった内容だ。才能がないわけない。才麿というくらいだから。

 第三。

   尾ごしの鴨に礫こころむ
 薄月の舼(わたし)にのせず漕出て   才麿

 春は朧月だが、秋は薄月。大きな沼か湖の景色だろう。月が水に映るさまは、あたかも月が沖に向って漕ぎ出しているかのようだ。それを渡し舟にも乗せずという所に巧がある。ほのかに月の照る水の上には、鴨の姿も見え、礫を投げてみる。

2017年8月28日月曜日

 暑くなったり涼しくなったり、相変わらずはっきりしないが、ツクツクホウシがまだあまり鳴いてない所を見ると、まだまだ残暑は続くのかな。ジージー、ミンミン、ショワショワばかりだ。
 さて、「秋の夜や」の表六句の続き。第三。

   月影よこにはいる引窓
 漸(やや)寒き旅籠の宿に湯をたてて 才麿

 労働の場面から旅体に転じて、宿屋で風呂につかりながら名月を見るのはなかなか乙なものだ。
 特に隠士だとか侘び人とかの風流というわけではなく、こういう庶民的な楽しみを特にひねりもなく詠むのも、案外蕉門では見られないことかもしれない。

 四句目

   漸寒き旅籠の宿に湯をたてて
 近くにきこゆ波の鳴ル音      海牛

 月夜の和んだ様子から、波の音のすさまじい不安な風景へと転じる。
 二年後の元禄七年の蕉門の俳諧、『紫陽花や』の巻の八句目、

   住憂て住持こたへぬ破れ寺
 どうどうと鳴浜風の音    杉風

にも似ている。ただ、「どうどうと」というオノマトペの使い方や、波の音ではなく風の音としたあたりも杉風の力量を感じさせる。
 逆に海牛のようなひねらない素直さが大阪談林の風とも言えよう。
 海牛という作者についてはよくわからない。姫路あたりの人か。

 五句目。

   近くにきこゆ波の鳴ル音
 窃(しのび)武者樵のかよふ道に馴レ 尚列

 表六句だから、ここらで盛り上げなくてはいけない所だろう。ここで忍者を登場させる。
 忍びの者にふさわしく、樵くらいしか通らないような細い獣道のような道にも通暁し、今日もそこを通って情報収集に出かける。波の音も足音をかき消してくれて好都合だ。
 尚列も姫路の人らしい。詳しいことはわからない。占立、海牛、尚列の三人の名は、後の『二葉集』や『花の雲』には見られない。

 挙句

   窃武者樵のかよふ道に馴レ
 光のちがふ燐(きつねび)の色   執筆

 執筆は連歌や俳諧の興行の際の筆記係で、挙句などに一句だけ詠むことが多い。「主筆」ともいう。
 燐(きつねび)は自然界での原因不明の火を顕すもので、鬼火とも呼ばれる。それを人間の霊魂ではないかと解釈して「人魂」と呼ばれたりもする。
 『鳥獣人物戯画』巻一には狐が尻尾の先に火を灯す絵が描かれていて、こうした火は古くから狐の仕業だと思われていたようだ。
 近代では井上円了が骨に含まれているリンが低温で自然発火したのではないかという説を唱え、今日広く人魂の正体として流布している。
 「燐」という文字は左右に開いた足の上に炎の並ぶ形象から来ていて、そこからよろよろと歩くように移動する火や、しばしば列になって現れる火を表していた。つまり狐火という現象が存在していて、それに当てられた字と思われる。近代に入って、この字はおそらく狐火の原因と思われるphosphorus、元素記号Pの訳語に用いられたと思われる。
 ただ、狐火は今日では現れることがないので、果して狐火がリンなのかは検証できない。狐火はやはり謎だ。
 ただ、この句でいう狐火は「光のちがふ」というから、本物の狐火ではなく、忍者が作り出す似せ物の狐火ではないかと思われる。蕪村の時代には怪奇趣味が俳諧に取り入れられたりしたが、元禄の頃はまだ妖怪ブームもなく、案外現実的だった。
 『椎の葉』の俳諧は蕉門とは違った面白さがあるので、もう少し読んでみたい。

2017年8月27日日曜日

 ここのところ閏五月の年という縁で、芭蕉の最晩年の軽みの風が中心となっていたが、今日はちょっと目先を変えて才麿編の『椎の葉』から拾ってみようと思う。
 才麿は談林時代の芭蕉と交流はあったが、大和国宇多郡の出身で山本西武、井原西鶴、西山宗因に俳諧を学び、元禄二年に大阪に住むようになった以来、小西来山とともに大阪談林の中心人物となった。『椎の葉』は元禄五年に姫路へ旅したときの紀行文、姫路の連衆と巻いた発句、俳諧を収めたもので、芭蕉の軽みの時代に重なる。
 そのなかでまず、後の元禄十五年、『花の雲』を編纂し、惟然とともに超軽みの俳諧を作った千山の発句による表六句を見てみようと思う。

 まずは発句。

   勿謂今日不学而
 秋の夜や明日の用をくり仕廻(しまひ) 千山

 千山は播州姫路の人。千山が惟然と出会うのは元禄十五年のことで、この頃の千山はまだ小西来山に師事し、大阪談林の作風に近かった。
 前書きは朱子の「勧学文」で、

 勿謂今日不學而有來日
 勿謂今年不學而有來年
 日月逝矣 歳不延我
 嗚呼老矣 是誰之愆

 今日学ばないで明日があるなんて言ってちゃ駄目だ。
 今年学ばないで来年があるなんて言ってちゃ駄目だ。
 日月は逝っても寿命は延びない。
 年取ったと嘆いても誰のせいでもない。

 今でも林修先生が言っているように、「いつ学ぶの?今でしょ! 」というわけだ。
 発句の方も、秋の夜が長いので明日やることを今日繰り上げてやってしまったというもので、確かに蕉門ではこういう発句はない。
 芭蕉の『笈の小文』に、

 日は花に暮れてさびしやあすならう  芭蕉

という句はあるが、これは花見を明日に先延ばしせずに今を楽しもうという意味で、どっちかというと「いつ遊ぶの?今でしょ! 」の句になっている。
 日々の労働に励み、蓄財し、家を繁栄させるだとか、あるいは地位や名声を得るだとかいうことは仏教的には煩悩であり、芭蕉はそうした煩悩を抑えて、日々花月を愛で、風雅に遊ぶことが俳諧風流の道だと考えていたし、西行の和歌、宗祇の連歌もまたそういう道だった。
 中世は戦乱の時代でもあり、生きることに貪欲になる事は様々な戦乱に巻き込まれかえって命を縮めることでもあった。だから、あれもこれも煩悩と悟り、質素にして風雅に遊ぶことを求めた。
 ただ、江戸時代の太平の世が長く続くと、人々が勤勉に働き財をなそうとしても、それが戦乱に発展することはなく、平和の内に豊かになれるということになれば、勧学も勤勉も俳諧のテーマにしていいではないかということにもなる。
 貞徳の俳諧も基本的には庶民の学習意欲を高めるための補助教材としての俳諧だったから、その考え方は貞門や談林の俳諧には基本としてあったのだろう。芭蕉の方がむしろ、中世の風雅の精神に逆行したといってのいいのかもしれない。
 ただ、その分芭蕉の俳諧は庶民の本音の俳諧で、より人間としての生の肉声に近いがために「不易」の力を持つ。一生懸命勉強しろと、それは確かにそうかもしれないけど、やはりどこかそれは建前であって本心ではない。芭蕉の俳諧はそれを嫌う。
 そういう意味で、千山のこの発句は蕉門的ではない。大阪談林の句だと言っていいだろう。

 脇句。

   秋の夜や明日の用をくり仕廻
 月影よこにはいる引窓      占立

 占立も姫路の人らしいが詳しいことはわかっていない。
 「秋の夜」に「月影」とわかりやすい付けで、物付けというだけでなく、月の光があるから仕事もはかどるという心付けの面も具えている。
 匂い付けに移行していった蕉門の俳諧とは違い、古典的なシンプルな付け方をしている。
 「引窓」は三省堂「大辞林」によると、「屋根の勾配に沿って設け,綱を引いて開閉する窓。」だという。ネットの辞書にはみなこれが引用されている。いわば天窓だ。
 「双蝶々曲輪日記」の「引窓」は寛延二年(一七四九)なので、これよりかなり後。

2017年8月25日金曜日

 元禄七年の今頃の芭蕉の動向を知るには、今栄蔵著『芭蕉年譜大成』(一九九四、角川書店)が役に立つ。そこには「七月上旬」とあって、「ひやひやと」の発句のことがあり、「同」とあって、「道ほそし」の発句のことが記されている。
 その一つ前に「七月一日」とあって、里東書簡の、

 粘になる肴も夜の暑かな   里東

の発句のことで、「この句添削して、後に『続猿蓑』に選入」とある。
 岩波文庫の『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六)にこの里東書簡が載っている。

 「粘になる肴も夜の暑かな
 めつた萬申出シ、懸御目申事御座候。御直し被成可被下候。尚、重而可申上候。
 恐惶謹言
   七月朔日       里東」
        (『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫p.379)

 里東は膳所の人なので、この手紙はすぐに届いたのだろう。この句は『続猿蓑』の盛夏のところに、

 粘になる鮑も夜のあつさかな  里東

の形で収められている。
 夏場は物が傷みやすく魚介などの生ものはいつの間にかねばねばになってしまう。昨日の夜の酒の肴も一夜経てばもう食べられたものではない。ただ単に「肴」というのではなく、より具体的に高級な「鮑(あわび)」を持ち出すことで、いかにも勿体なく残念な情が強調される。
 なお、『続猿蓑』の夏之部には

   晋の淵明をうらやむ
 窓形(なり)に昼寝の臺や簟(たかむしろ) 芭蕉
 粘ごはな帷子かぶるひるねかな    惟然

の「昼寝」二句があり、「雑夏」の所には、

 昼寝して手の動やむ団扇かな     杉風

の句がある。杉風の句は「団扇」という別の夏の季語が入っていて、団扇の句として扱われているが、このころ「昼寝」は夏の季語なっていたことは明らかだった。ただし、芭蕉七部集では『続猿蓑』のみ。
 『芭蕉年譜大成』には七月六日の所に、「当日付の素覧書簡を受信。露川・素覧・左次の発句各一を報ずる(断簡)。この内、左次発句「秋立つや中に吹かるる雲の峯」を『続猿蓑』に選入。」(p.436)とある。
 岩波文庫の『芭蕉書簡集』には、

 「被成可被下候。
  砂畑に秋立風や粟のから    露川
  秋立や竹の中にも蝉の声    素覧
  秋たつや中に吹るる雲の峯   左次
   七月六日      素覧」

とある。
 立秋の句も芭蕉七部集では『続猿蓑』で初めて登場する。おおむねこの頃の人は、旧暦が生活の中心で太陽暦に基づく二十四節季にはそれほど関心がなかったと思われる。
 『続猿蓑』でも立秋は秋の巻頭を飾るものではなく、七夕の後に来ている。そこには二句記されている。

   立秋

 粟ぬかや庭に片よる今朝の秋     露川
 秋たつや中(ちゅう)に吹るる雲の峯 左次

 露川の句は「砂畑に」の句の添削なのか本人の改作なのかはよくわからない。粟は夏に種を蒔いて二ヶ月くらいで収穫できる。秋風に頃には脱穀した後の粟の殻が風に吹かれていたのだろう。「粟ぬか」も脱穀した後の粟の殻を言う。粟ぬかの「庭に片よる」と具体的な景色を出すことで、完成度を増している。ただし、「秋立つ風」の「秋立つ」の文字が消えてしまい、「立秋」その前に書いてなければ単なる秋風の句になる。
 左次の句も基本的には秋風の句で、夏の象徴ともいえる入道雲の雲の峯が今日は秋風に吹かれている、ということで立秋の句にしたもの。
 没になった、

 秋立や竹の中にも蝉の声    素覧

の句のみ、秋風の句ではない。ただ、竹の中にも蝉の声‥‥よくわからん。
 秋の部の巻頭に秋風の句を連ねることはこれまでも普通にあった。秋風という季題ももとはと言えば、

   秋立つ日よめる
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
              藤原敏行朝臣

から、「秋風」という言葉自体の中に立秋の意味が込められていたのかもしれない。ただ、俳諧では特に立秋に限らず「秋風」「秋の風」は多用されてきたので、『続猿蓑』の立秋二句はあえて秋風の句をその原点に戻そうとしたのかもしれない。

2017年8月24日木曜日

 今日は三日月が見えた。旧暦七月三日。
 芭蕉の元禄七年の七月初めの句というと、「道ほそし」の句のほかに、

   大津の木節亭に遊ぶとて
 ひやひやと壁をふまへて昼寝哉   芭蕉

の句がある。
 昼寝は多分この頃はまだ季語にはなってなかったのか。「ひやひや」が秋の季語になる。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部兼三夏物のところに「昼寝」の項目があるから、江戸後期には夏の季語になっていたのだろう。ただ、内容は芭蕉のこの句についての支考『笈日記』の引用だけで、そのほかのことは記されてない。

 「ひやひやと壁をふまへて昼寝かな 翁、支考評曰、此句はいかに聞やと翁の申されしかば、是は只残暑とこそ承り候へ。かならず蚊帳の釣手などとらまへゐながら、おもふべきことをおもひゐける人ならん、と申侍れば、此謎は支考にとかれたりとて、笑ひてのみはてぬるかし。云々。」(『増補 俳諧歳時記栞草(上)』曲亭馬琴編、二〇〇〇、岩波文庫、p.510)

 もちろんこの句が秋の句だということは百も承知だろう。ただ、夏の季語と定まっても、「昼寝」という季語の本意はこの芭蕉の残暑の句にあるということが言いたかったのではないかと思う。
 芭蕉が支考に「この句をどう理解したか」と尋ねる。それに対し支考は「ただ残暑の句だと思った。」と答える。そして付け加える。「これはまず、蚊帳の釣手を掴んだりしながら、あれこれ思案する人だろう。」と付け加える。
 「けふばかり」の巻の六句目にある、

   宿の月奥へ入るほど古畳
 先工夫する蚊屋の釣やう   主筆

の句が思い浮かぶ。
 蚊帳の吊り方にはみんな結構悩んだのだろうか。部屋のどの場所に吊るかは重要だ。風通しがよく日が当たらず、そんな快適な場所に吊りたいものだ。月のある夜には月の見える所に吊りたい。そうやってあれこれ考えているうちに壁を背にしていると、壁がひんやりして気持ちがいいもんだから、結局そのまま寝てしまったというのが、支考の答ではないかと思う。芭蕉は「やっぱ支考にはわかっちゃったな」と言って笑い、それ以上は何も言わなかった。
 結局この句は「蚊帳吊りあるある」だったのだろう。「蚊帳」という言葉はどこにもないが、昼寝をするのに蚊帳を吊るのは当時は普通のことで、その蚊帳の吊り様に悩むのもよくあることで、壁を背に昼寝という経験もいかにもありそうなことだったのではなかったかと思う。
 芭蕉の句は個人的な体験の告白ではない。絶えず誰もが経験しているような誰もが理解できる言葉を探ってゆく。そうやって誰もが用いることのできる共通の言葉を作り出してゆくのが俳諧の「俗語を正す」ということだった。
 並みの作者ならそれはただのあるあるネタで笑いは取れるものの、それ以上の深みもなくやがて時間がたてば忘れ去られてゆく。
 芭蕉が違ってたのは、一見ただのあるあるのようでいて、それが古典から受け継がれている不易の情にも通じさせてしまうことだった。
 芥川龍之介の『続芭蕉雑記』には、

 「壁をふまへて」と云ふ成語は漢語から奪つて来たものである。「踏壁眠(かべをふまへてねむる)」と云ふ成語を用ひた漢語は勿論少くないことであらう。

とある。実際の漢文の例文は知らないが、何か出典があったのかもしれない。

2017年8月22日火曜日

 今日は旧暦の七月一日。四ヶ月の長い夏が終わりようやく秋になった。
 それに合わせるかのように、今朝はツクツクホウシの声を聞いた。涼しい日が続いてたが、これからまた暑くなるらしい。残暑にはツクツクホウシがよく似合う。
 元禄七年の芭蕉は、この時期を膳所(今の大津)にある義仲寺の無名庵で過ごしたという。この無名庵は芭蕉が元禄二年から近江を訪れた時に度々滞在している。
 そこでの元禄七年七月はじめの発句、

   文月の初め、再び旧草に帰りて
 道ほそし相撲取草の花の露     芭蕉

 「相撲取草(すもうとりぐさ)」と呼ばれる草はいくつかある。子供が草を使ってどっちの草が強いかを競う遊びを草相撲といい、それに用いられる草はそう呼ばれるようだ。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「兼三秋物」のところに「相撲草」の項目がある。

 相撲草 [和漢三才図会]野原湿地にあり。葉、地に布(しい)て叢生す。忍凌(じゃうがひげ)に似て微扁(ちとひらた)く、石菖に似て浅く、秋、茎を起(たつ)て嶺に穂をなす。青白色。細子あるべけれどもみえず。其茎、扁く強健、長さ六七寸。小児、茎を取て穂を綰(わげ)、結て繦(ぜにさし)の如くし、二箇を用ひ、一は其襘(むすび)めにさしはさみ、両人、茎を持て相引く。切たる方、輪(まけ)とす。(『増補 俳諧歳時記栞草』曲亭馬琴編、二〇〇〇、岩波文庫、p.295)

 忍凌はジャノヒゲのことで、石菖はそのままセキショウで、それに似ているという。今日ではオヒシバのこととされている。
 ただ、オヒシバの穂に小さな花をつけるとはいうものの目立たないし、あまり花という感じがしない。そのため相撲取草はスミレではないかという説もある。スミレも花首を引っ掛けて遊ぶところからこの名前があるという。
 スミレは通常春のものだが、秋に帰り花を咲かすこともあり、そこであえて春の季語ではない「相撲取草」の名前で詠んだ可能性もある。「相撲」は秋の季語だ。
 芭蕉は貞享二年の春、『野ざらし紀行』の旅の途中、

   大津にでる道、山路を越えて
 山路来て何やらゆかしすみれ草    芭蕉

の句を詠んでいる。あるいはその時のことをふと思い出したのかもしれない。
 ネットでもevianさんがスミレではないかと言っている。

2017年8月18日金曜日

 文化を維持するのに人数が必要なのは、たとえば歌舞伎を保存するにはただ歌舞伎役者がいればいいというだけの物ではないということだ。
 もちろん歌舞伎の衣装や小道具を作る人、音楽を演奏する人なども必要だが、そうしたものが全てそろっていても、保存されたものはあくまで形だけのものだ。
 歌舞伎が生き生きとした形で未来へ継承されてゆくには、大勢の歌舞伎ファンがいなくてはいけない。たくさんいるファンの中からはその価値を深く理解する通がたくさん現れ、彼らに認められたり批評されたりしながら舞台は磨かれてゆく。
 現在の歌舞伎にはまだそれがあるが、戦後の近代化の中で波に乗れず取り残されてしまったのが文楽だった。ひとたびファン層を失ってしまうと舞台を重ねてもそれに拍手する人もなければ、つまらなかった時にブーイングする人もいない。ただ博物館の展示品のように昔と同じものを演じ続けるしかなくなってゆく。
 当事者たちは一生懸命努力して、よりよい舞台を作ろうとしているのだけど、それに対して拍手をする大勢の大衆を失った後だと、その努力も空回りしてしまう。公的な補助金があれば、客がいなくても形だけの舞台は続けられるかもしれないが、それでは保存するだけで精一杯で、もはや未来はない。文楽を再生するには、もう一度文楽の創生の時代に戻って、ファンの獲得から再出発しなくてはならない。
 どんな天才でもたった一人ですばらしい芸術作品を作ることなんてできやしない。その天才の作った作品を正当に評価できる大衆がいて初めて天才は天才になる事ができる。それがなければ天才と何とかは紙一重ということで、ただの変人で誰からも省みられることなく生涯を閉じることになる。
 ゴッホだって、生きている時は売れなくても死後に高く評価されたのは、常によい絵を求めて止まないたくさんの油絵ファンがいたからだ。生きている時はたまたま見落としていただけで、発見されれば多くの人に礼賛される。
 ただ、そのジャンルそのものが衰退してしまうと、再発見そのものも難しくなる。探す人がいなければ発見もない。多くの人の目があればあるほど、天才はもれなく発見される。
 芭蕉の俳諧だって、俳諧に熱狂する大勢の大衆がいる時代を生きたから、芭蕉は芭蕉になることができた。俳諧の衰退は同時に俳諧人口の衰退でもあった。
 芸術に限らず、様々な社会の理念や思想にしても、あるいは生活に便利な発明品にしても、それを評価できる大衆がいてこそ成立する。一つの文化が正常に発展してゆくためには、その文化を守り育ててくれる大衆の存在が何よりも必要だ。

2017年8月17日木曜日

 「南泉斬猫」という公案はそんなに難しく考えるようなものではなく、単純に「何でもいいから答を出せ」ということなのだと思う。
 このときはたまたま猫だったが、世の中には一刻も早く決断を下さないと多くの人の命が失われるような事態がいつでも生じうる。そのときに思考停止に陥ることが結局最悪の事態を招く。何でもいいから答を出して行動せよ、そうすればたとえ結果が悪くても何かしら得るものはある。
 禅問答というのも、そういうとにかく答を出すという訓練だったのではないかと思う。大体禅問答の答というのはあまり合理的ではなく、ほとんどその場の連想で自動記述的に導かれたようなシュールな答が多い。ただ、そういう答は「つっこみ」を入れにくい。一瞬何を言ってるんだと考え込んでしまうからだ。ある意味で煙に巻くわけだが、答あぐねて思考停止に陥るよりは、とにかく何らかの答を出すという訓練なのだろうと思う。
 連歌・俳諧もと本来はあまり考え込むべきものではなく、とにかく即座に付けよ、というものだったのだと思う。それは後のお笑い芸の中でも行き続け、大喜利などもそうだし、今日でいうリアクションというのもその流れを受け継いでいる。
 世の中いろいろと難しいわけのわからない問題がたくさんあるが、とにかく笑いに持っていってその場を和ませることができれば、争いごともなくなるだろう。西洋の理性はこういうとき、とにかく議論せよと教える。でも議論を始めるとたいていは頭に血が上り、大体最後には人格攻撃になって罵倒し合い、終いには手が出る。
 とかく世の中難しい問題はたくさんあるけど、とにかく最後には笑いにもって行ってほしい。戦争はないほうがいい。
 人それぞれ考え方は違うし、文化や民族や宗教の違いは仕方ないものだから分断はいつの時代でもあることだと思う。ガチに議論するのではなく、最後にどこかで笑いに持ってくことができれば、世界は平和になると思う。
 昨日の続きだが、世界を一つにするのではなく、様々な文化が独自に発展できるだけの一定の集団を「国家」として確保すると同時に、中世の公界のようなさまざまな集団の人間が平等になれる場所というのをその境界領域に作れればいいと思う。それはそれぞれの民族国家から独立した公界国家のようなもので、民族国家と公界国家との間を自由に行き来できるようにすればいい。
 公界国家はできれば、何となく一つの民族文化の枠組みに飽き足らなくなった人たちや、あるいはそこからあぶれてしまった人たちが集まって、自然発生的にできるのがいい。強制されるべきものではない。
 世界は多様であることによって、より強く豊かになる。ただ、多様な文化を単にごちゃ混ぜにするだけだと、相互に抑制しあって、それぞれの文化の長所が打ち消されてしまう。それぞれの文化が正常に進化し続けるには、その文化の担い手たちが他からの干渉を受けずにその文化を発展させる領域が必要だ。ただそれだと世界は分断されてしまう。そのための公界のような交流地帯を作る。
 とりあえずそれが世界の多様性へ向けての、ヘテロトピアに向けての一つの答になると思う。
 今一番その公界国家に近いのは、ドバイかもしれない。香港はもう駄目だ。沖縄は将来可能かもしれない。

2017年8月16日水曜日

 追悼復興花火のあと、十三日は家で休み、十四日の夕方には映画「銀魂」を見に行った。アニメとそれほど違和感がなく、なかなか飽きさせない映画だった。十五日には横浜みなとみらいへピカチュウ大量発生チュウを見に行ったが、雨が降りだしてすぐに帰って来た。
 今日は仕事でやはり雨、気温も低くほとんど飲み物もいらないくらいで、旧暦6月25日だというのにまったく夏という気がしない。何だか季節がわからなくなる。
 昨日は終戦の日で、戦争が終わったのはいいが、戦後の知識人はあたかも日本が負けて西洋が勝利したかのような反応をして、日本の伝統文化を悉く破壊していった。
 もっともこれは初めてのことではない。明治維新の頃も西洋列強の脅威の前に、日本も西洋のようにならなければ植民地に落ちるとばかりに伝統文化を悉く破壊していった。そして、この破壊を日本が併合した地域全てに押し付けていった。それは近代化の輸出であると同時に、固有の文化の破壊でもあった。その意味では、やはり韓国には謝らなければならないだろう。
 日本は西洋の植民地になる前に、西洋化を推進することで、一部の西洋かぶれの知識人による自己植民地化を断行した。そして、それをアジア全体に押し付けていった。
 こうした自己植民地化政策は、結局周辺国にも影を落としている。北朝鮮の政治は戦前の日本そのものだし、韓国の戦後も長いこと軍政に支配され、未だにその影を落としている。中国の文化大革命も、基本的には西洋の思想による自己植民地化に他ならなかった。韓国や北朝鮮や中国に対して、批判すべきことはたくさんあるだろうけど、それらは全て日本がたどってきた道だった。
 敗戦後の日本も、基本的に自己植民地化の流れを変えるものではなかった。西洋化と伝統破壊はそれまでよりも更に徹底したものとなった。
 和辻哲郎の『倫理学』の戦後に書かれた最終節「国民的当為の問題」では、やがて世界は一つにならなければならず、それが「世界国家」であるかぎり、国民国家はその主権を放棄しなければならないことを説いている。いうなれば、日本は国家としての主権を放棄する先鞭となれというわけだ。
 「しかるに、日本の伝統を捨てるといふ努力は、日本人のみのなし得る特殊な体験である。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.588)
 「要はヨーロッパ文化の摂取によっておのれを新しくすること、新しい国民的性格の創造、新しい文化の創造に邁進することである。」(和辻哲郎『倫理学』(下)一九四九、岩波書店、p.589)
 このような戦後思想が戦後の日本を動かしてきた。
 もちろん、私自身も若い頃アルベール・カミュやマルチン・ハイデッガーやミシェル・フーコーの影響で作り上げてきた西洋哲学の基礎があって、さらにその後の霊長類学や脳科学の影響の下に、俳諧をはじめとする日本の文化に向き合おうとしてきたのだから、別に和辻が目指したことと矛盾はしてない。
 ただ、「一つの世界」の方に重点を置きすぎる人たちからすれば、伝統文化の復興はすぐさま国家主義の復活、軍国主義の復活に結び付けられ、危険思想とみなされてしまう。まあ、そういう人たちは所詮は少数派だからそれほど気にしなくてもいいのだろう。
 世界中が国家主権を放棄して世界国家を形成する時代はまだ来ていないし、それが本当に人類にとっての望ましい世界なのかはわからない。主権国家の中でも民主主義がきちんと機能すれば多様性の維持は可能だと思う。
 多様性は様々に変化する複雑な社会や国際情勢に対応するのに欠かせないもので、単一なものでは行き詰るものでも、別のものがあれば活路が開かれるかもしれない。
 多様性の一つとしての日本文化は生き残るべきだし、残さなくてはいけないと思う。そして、その日本文化を生きた状態で保存するには、その文化を共有する大人数による集団を維持しなければいけない。そこにまだ「国家」の意味はあると思う。
 それはたとえば、アメリカの社会の中でも白人固有の文化というのは残るべきだと思う。他の有色人種を排除するのではなく、棲み分けが十分確保されるなら。
 固有の文化のそれぞれのコア集団が棲み分け、その境界に複数の文化の融合した世界が形成される。それが多文化共存の一番いいやり方なのではないかと思う。何でもかんでもまぜこぜにすればいいというものではない。

2017年8月13日日曜日

 昨日は南相馬の追悼復興花火を見に行った。小雨が降る肌寒い中の花火だった。とはいえ、雲霧に霞む花火もまた一興で、花火の前にはライブもあり、復興への熱いメッセージも聞け、遠くまで行っただけのことはあった。
 そういうわけで、今日は花火の発句を見てみよう。
 今でこそ花火は夏の風物と言われるが、本来は旧暦七月の初めで、秋の季語だった。
 松永貞徳の『俳諧御傘』には、「花火 正花を持也。春に非ず、秋の由也。夜分也。植物をきらはず。」とある。似せ物の花だが正花として扱われ、花の定座を飾ることができる。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「花火 [和漢三才図会]烽燧(のろし)に代ふべきもの也。又夏月河辺の遊興とす。[御傘]正花を持也。」とある。「夏月河辺」だけど秋の所に記されている。
 烽燧が起源だという説は、今日でもウィキペディアに「花火の起源については諸説ある。一般的には花火のルーツは古代中国の狼煙(のろし)とされ、煙による通信手段であり、火薬の技術の発達とともに花火が誕生することとなった。」とあるとおりだ。
 そのウィキペディアによると、花火はヨーロッパで発達し、戦国時代には日本に伝来し、国産化され、一六一三年にはイギリス人のジョン・セーリスが国王ジェームズ一世の使者として駿府城を訪れた際、花火を見せたという。
 江戸時代初期の庶民の花火はおもちゃ花火で、しばしば禁止令が出ている。万治二年(一六五九)には両国橋が完成したときに、鍵屋弥兵衛が葦のくだの中に火薬を練って入れた玩具花火を売り出し、大型の打ち上げ花火への道を開いたとも言われている。ただ、後に名物になる両国川開きの花火は享保十八年(一七三三)からだとされている。
 とはいえ、それ以前にも花火の句は詠まれている。

   盆前後
 落る時川さへ匂ふ花火哉   岩翁(『伊達衣』)
 名を呼で買ん去年の花火売  亀翁(『伊達衣』)

 「盆前後」という前書きから、花火がお盆の迎え火送り火に結び付けられた側面もあったのだろう。それは今日の追悼復興花火にも通じる。川が匂うというのは、川まで花火の色に染まるという意味で、火薬の匂いではないだろう。
 「名を呼で」の句は、去年の花火がよかったからその花火売りの名を呼んでまた買おうということか。ひょっとしてそれは鍵屋弥兵衛さんか。

   両国橋
 人声を風の吹とる花火かな  凉菟(『皮籠摺』)
 扇的花火たてたる扈従かな  其角(『皮籠摺』)
 橋杭の股に見得たる花火哉  沾洲(『皮籠摺』)

 凉菟の句には「両国橋」と前書きがあるが、この頃はまだ両国橋は江戸っ子の花火遊びの場という意味で、川開きの花火ではなかった。花火が上がるとそれまでざわざわしていた橋の上が一瞬静かになったのだろう。
 其角の句の「扈従」は貴人に付き従う人のことで、多分鍵屋弥兵衛の売り出した初期の葦の管の花火はロケット花火のようなものだったのだろう。扇の的を花火で狙ってみて主君を面白がらせたか。
 沾洲の句は、橋杭の間から花火が見えるということか。

   華火
 鐘のねを聞デ散行花火哉   蓑笠(『庭竈集』)

 花火はあっという間に消えてゆくので、鐘の音を待つことはない。この頃から花火の楽しさだけでなく、その儚い美しさに関心が行くようになった。

 はかなさは槿のうへに花火哉 三語(『鵲尾冠』)
 賑ひの場でさび返る花火哉  芝響(『鵲尾冠』)

 「はかなさは」の句は、花火を槿の一日花に喩えている。「賑ひの」の句は、先の凉菟の句とかぶるが、花火の後というのは寂しいものだ。

   舟興
 壱両が花火間もなき光哉   其角(『五元集』)

 花火の中には高価なものの出てきたのか。それとも舟遊びが高かったのか。いずれにせよ花火のようにあっという間に消えてゆく。

 月白と雲にぬかりし花火かな 浪化(『続有磯海』)

 花火を上げてはみたが、月に白んだ明るい空だったり雲があったりするとその明るさが引き立たない。油断するなということ。
 昔は雲に隠れるほど高くは打ち上げなかっただろうから、これは単に雲の白さに花火が引き立たないという程度の意味だろう。
 今の打ち上げ花火は雨でもできるほど進歩している。ただ、雨雲が低いと雲の中で打ちあがり、雲に隠れてよく見えなかったりする。朧の光があたりの雲を白く染め、独特な色合いになる。それはそれでまた面白い。
 南相馬の追悼復興花火もあいにくの雨となってしまったが、それでも空の上の犠牲者の魂に、熱い思いは届けられたと思う。そしてそれは、避難して帰ってこれない人にも、僅かに残った人や戻ってきた人が復興の桜を植えたり復興の花火を打ち上げることで、いつでも帰って来いよというメッセージになる。
 心から「お帰りなさい」が言える日に向けて、被災地に花が溢れますように。花火もまた正花だから。

2017年8月11日金曜日

 今日は市ヶ尾のフクロウカフェ「ふわふわ」へ行った。餌やり体験もあり、癒されるひとときだった。
 俳諧では梟、木菟は冬の季語で、秋や春に詠むこともあるがさすがに夏の梟はない。
 ただ、「梟」という字は「けう」と読むため、

   蝶蜂を愛する程の情にて
 水のにほひをわづらひに梟(け)る 土芳

のように用いられる。「梟」の一字だ「けり」と読ませる例もいくつかある。

 下戸達の曲水也梟瓜流し    越人(『鵲尾冠』)

 曲水の宴は杯に汲んだ酒を水に浮かべるのだが、下戸だから瓜を流す、と本当かいな。

   和漢の調度数多、親より譲り侍る
   人の出して風入ル迚、終日側に有
   を見て
 親が子に苦をとらせ梟土用干  越人(『鵲尾冠』)

 土用干は衣類書籍などの虫干しのことで、「苦をとらせ梟(けり)」というのは、虫干しが苦になるほどたくさんの物を譲ってくれたということ。

 鵜づかひを喩へ出シ梟猿廻シ  若水(『鵲尾冠』)

 夏の風物の鵜飼を猿回しに喩える人がいた。ちょっと違うが動物を働かせるというのは一緒か。
 夏の「梟」というと、こんなところか。

2017年8月9日水曜日

 今日は長崎原爆の日。近代俳句では秋の季語だが、俳諧では少なくとも今年は夏になる。
 核兵器はないにこしたことはないけど、日本やアメリカが核兵器禁止条約に批准したからといって北朝鮮の核がなくなるという保証はないし、逆に付け上がったりしそうで恐い。
 かといって武力介入ということになると、今すぐにでも広島長崎に続く三番目の核が日本に降り注ぐ危険が大きい。
 核兵器の恐ろしさを世界に伝えるのはいいが、その恐ろしさを利用しようという奴にはどうしようもない。恐ろしいからやめるのではなく、恐ろしいからこそ持ちたがるわけだし。
 とにかく、目の前の恐怖から目を背けてはいけない。どうすれば核戦争を防げるのか。
 「たけきもののふのこころをなぐさめる」我国の言の葉の道も、西洋の論理に押されて今は機能していない。

2017年8月8日火曜日

 今日はworld cat day(世界ネコの日)だそうだが、国際動物福祉基金によって二〇〇二年に制定されたということ以外にほとんど情報がない。
 国際動物福祉基金のホームページを見ると、他にも三月三日世界野生生物の日、二月十六日世界センザンコウの日、九月二十二日世界サイの日、八月十一日世界ゾウの日、八月二十六日世界イヌの日などを定めていて、その趣旨が説明されているが日付には特に意味はなさそうだ。
 まあ、この日に何をして祝うかは世界中のネコ好きに任されているようなもので、鈴呂屋俳話でも昨日に続き猫ネタでいってみよう。
 元禄七年六月、支考を伴って大津四の宮の能大夫本間主馬(丹野)を尋ねた時の興行、「ひらひらと」の巻の十八句目に猫が登場する。

   月花を糺の宮にかしこまる
 ああらけうとや猫さかり行   丹野

 「糺の宮」は京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社の河合社のことだという。

 君を祈るこころの色を人問はば
    ただすの宮のあけの玉垣
              前大僧正慈円

の歌でも知られている。この場合の「君」は後鳥羽院だという。
 月花そろって目出度い糺の森のこの神社でかしこまっていると、それをぶち壊すように猫のさかりの声が聞こえる。「けうと」は気疎で疎遠という意味だが、興ざめという意味もある。
 前の支考の句が月花の目出度さと糺の宮の厳粛さを具えた句だったので、バランスを取るためにあえて卑俗に落とした句と見ていいだろう。

2017年8月7日月曜日

 台風が近づいていて、時折強い雨が降る。
 未明には部分月食があるらしいが、見えないだろうな。
 月食があるということは満月だが、まだ水無月の満月。立秋だがそれと関係なく俳諧ではまだまだ夏が続く。そこが近代俳句と違う所だ。近代俳句だと立秋で区切るから広島の原爆が夏で長崎の原爆が秋になる。以前詩人会議にいた頃、「原爆は夏でも秋でもいらないよ」なんて書いたこともあったか。
 元禄七年六月二十一日の興行の発句、

 秋ちかき心の寄や四畳半    芭蕉

の句も、立秋がとっくにすぎたのになかなか俳諧の秋にならないことから、「秋ちかき」で秋ではないけど秋の心を詠んだのかもしれない。
 その「秋ちかき」の巻で久しぶりに猫ネタを。

   桶もたらいもあたらしき竹輪(たが)
 投うちをはづれて猫の迯(にげ)あるき 木節

 桶や盥の修理をやっているのか。直ったばかりの桶や盥には早速猫が入りたがる。お客さんから預った大事な商品だからと物を投げつけて猫を追っ払うものの、猫も素早くそれをかわす。

   投うちをはづれて猫の迯あるき
 首(つぶり)にものをかぶる掃除日   支考

 表向きはほっかぶりをして掃除をしていると猫がやってきたので、それを追っ払ってという光景だが、これは幻術で、言外に首にものをかぶった猫、つまり手拭をかぶって踊る猫又を連想させる。芭蕉が「小蓑をほしげ也」という言葉から蓑笠着た猿を連想させたのと同じ手法だ。さすが支考さん。

2017年8月6日日曜日

 今日は広島原爆投下の日で、あれから72年経った今が平和なのは何よりだ。現実的にはすぐに核兵器をなくすことなんてできないだろうけど、使用できない状況を今後も続けてゆくことが大事だ。世界がこれからもよりいっそう豊かで自由になりますように。戦争は独裁と貧しさから生まれる。
 大谷篤蔵さんの『芭蕉連句私解』(一九九四、角川書店)が届いたのでぺらぺらとめくっている。
 「牛流す」の巻の二十二句目、

   売に出す竹の子掘ておしむらん
 茶どきの雨のめいわくな隙      諷竹

 ここで『日次紀事(ひなみきじ)』(黒川道祐編、延宝四年)の四月の条を引用している。

 「此ノ月茶ヲ製ス。家々茶ヲ蒸シ、且ツ葉ヲ択ル。‥‥凡ソ茶ヲ製スルコト前後ノ次第有リ、故ニ摘茶ノ時、蒸茶ノ時、培炉ノ時、択茶ノ時ト謂フ」

 ここで、当時は四月に摘茶、蒸茶、焙炉、択茶を行っていたのがわかる。

 蝸牛(ででむし)も共に熬らるる新茶哉 有隣(『ばせをだらひ』)

の句は、この焙炉の過程と思われる。
 これとともに大谷さんは『萬金産業袋』(三宅也来著、享保十七年)も引用している。

 「せんじ茶の製しやうは、三月下旬四月へかけ、その所々の薗のはりの時節を見てつむ。摘てよく葉撰して、笊甑にてむしたて、それを、もみ盤とて、竹に縄をあミ付たるあり、是にてよく力をいれてもミて、筵にひろげ日にほし、焙炉にかくる。また、ふと蒸茶に懸り、俄に雨天に成たる時ハ、蒸かけたる茶そのままにて置がたけれバ、むし上ゲて揉て、ぬれながらほいろにかけて焙じ仕あぐる也」

 『日次紀事』は碾茶の製法で、『萬金産業袋』は永谷宗円が元文三年(一七三八)に煎茶の製法を確立する直前の揉み茶の製法と思われる。
 『日本茶の歴史』(橋本素子、2016、淡交社)は、この「俄に雨天に成たる時」の製法が、煎茶の製法につながったという。

 「宇治製法が葉茶を蒸して、焙炉の上で揉みながら乾燥させて仕上げるものであることからみれば、違いは焙炉の上で揉むことだけになる。」(『日本茶の歴史』p.145)

 この煎茶以前の揉み茶の製造工程に、「是にてよく力をいれてもミて、筵にひろげ日にほし」とあるところから、「茶筵」がそのときの筵だと説明されてきたのだろう。ただ、芭蕉の時代、元禄七年以前にどの程度揉み茶が浸透していたかという問題になる。
 『農業全書』(宮崎安貞著、元禄十年)には、「唐茶」に関して、「そこには、鍋で炒る作業と、茣蓙・筵などの上で揉む作業とを交互に行う」(『日本茶の歴史』p.143)とあるらしい。また、その後、「茶を俵に収納しておく」(『日本茶の歴史』p.144)とあるあらしいから、「茶俵」も唐茶だった可能性がある。
 俳諧風流の徒は流行の先端を行っているから、いち早く隠元和尚の持ち込んだ揉み茶を受け入れていた可能性は十分にある。
 なお、「唐茶」の用例は、

 或ハ唐茶に酔座して舟ゆく蓮の梶 素堂(『虚栗』天和三年)
 江を汲て唐茶に月の湧夜哉    素堂(『其袋』元禄三年)

と思われる。
 なお、茶筵に関しては、

 茶むしろの中にたてたるのぼり哉  芦本『皮籠摺』
 茶筵や坊主あたまを振まはし    千船『一幅半』

の句がある。どういう情景なのか今の所わからない。茶は奥が深い。

2017年8月5日土曜日

 今朝の新聞に芭蕉のことが書いてあった。
 まあ、学校の授業で習ったイメージしかない人には新しいかもしれないが、ある程度芭蕉に興味を持っていろいろな本を読んでいる人には、そんな新しい情報はないだろう。
 芭蕉の『奥の細道』の野坡本が発見されたのはずいぶん前のことで、一応私も上野洋三・櫻井武次郎編の『芭蕉自筆 奥の細道』(一九九七、岩波書店)を出た頃に買った。
 鈴呂屋書庫にもアップされていて、確か二○〇二年頃に書いた『奥の細道─道祖神の旅─』にも一応、室の八島の場面に関しては、

 「大神神社(おおみわじんじゃ)だけは徳川家光の命により、立派な社殿へと再興されていたので、神道家の曾良はさぞかし感動したことであろう。だが、神道よりはむしろ仏教の芭蕉は退屈して、ただ曾良に言われたままのことを書き記したという感じだ。」

と書いておいた。
 「夏草や」の句に関しても、

 「『兵どもが夢』とは一体何だったのだろうか。国を守るため、民族を守るため、家族・同胞を守るために闘い、果てた人の夢はただ一つ、平和だったに違いない。」

と書いておいた。まあ、どうせ矢島さんのような俳壇の巨匠には、ネットの片隅の私の文章など知るすべもないだろうけど。
 嵐山光三郎さんの説にしても、芭蕉が小石川・関口の神田川治水事業に関わっていたことは、既に『芭蕉二つの顔』(田中善信、一九九八、講談社)で知っていた。その治水技術が伊賀藤堂藩時代に学んだものだったというのは、何か史料が出てきたのだろうか。
 芭蕉忍者説は昔からある陳腐な説で、これを今更焼きなおして一体何が言いたいのかはよくわからない。まあ、新聞に載ったくらいだからマスコミ受けを狙ったか。
 芭蕉ではなく、同行の曾良が吉川惟足を介して水戸光圀とつながりがあり、調査を命じられてたのではないかという説は、『旅人曾良と芭蕉』(岡田喜秋、一九九一、河出書房新社)で読んだ。これを塗り替えるだけの説が出たのだろうか。
 古池の句に関しても、古池が八百屋お七の大火で焼け出された時の焼け跡の古池だという説は、あったかもしれないけど、古池の句が大流行し、社会現象にまでなったことを説明できるものではない。というのも、芭蕉が焼け出されたということも、そこに古池があったということも当時どれくらいの人がそれを認識していたかという問題があるからだ。
 結局こういう解釈は「芸術は個の表現である」という近代芸術論のバイアスを一歩ものがれてはいない。芭蕉は自分自身の古池体験などどうでもよかった。むしろ、当時至る所に荒れ果てた古池が残っていて、古池が当時の人たちにとっての共通体験だったことの方が重要だというのが私の持論だ。俳諧は個の表現ではない。多くの人のいかにもありそうな体験や思考や行動を掘り起こし、それを笑いにすることが重要だった。その伝統は今の芸人の「あるあるネタ」に生きている。
 とにかく今更という説ばかりで、わろた。

2017年8月3日木曜日

 今日も涼しい一日だった。
 ようやく「柳小折」の巻もラスト三句。行ってみよう。

 三十四句目

   咲花の片へら残スしほ鰹
 彼岸をかけてお隙ささやく    丈草
 (咲花の片へら残スしほ鰹彼岸をかけてお隙ささやく)

 花も咲き正月の塩鰹もまだ残っている。こりゃ花見するっきゃないというわけで、彼岸のお墓参りを口実に休暇をとろうとひそかに相談する。まだ飛鳥山などの公園の整備されてなかったこの頃は、花見というとお寺ということになる。

 三十五句目

   彼岸をかけてお隙ささやく
 白粉をぬれども下地くろい顔   支考
 (白粉をぬれども下地くろい顔彼岸をかけてお隙ささやく)

 お彼岸に墓参りをというその女は、日焼けした顔を白く塗って、さながらコープスメイクだ。実は蘇った死者だったりして。

 挙句

   白粉をぬれども下地くろい顔
 役者もやうの衣の薫       去来
 (白粉をぬれども下地くろい顔役者もやうの衣の薫)

 前句を役者の芝居の時のメイクとし、着るものに薫物をして、なかなかお洒落に一巻は終了する。花の定座を繰り上げることで無季の上げ句になり、挙句は何が何でも春の目出度さというマンネリをのがれている。
 さて、『炭俵』や「紫陽花や」の巻の江戸の連衆の「軽み」を読んだ後だと、やはり京の連衆は何か違う。
 ネタの新しさやリアリティーという点では、やはり江戸の方に軍配が上がるような気がするが、二表の展開にはやはり今日の歴史の重みを感じさせる奥行きが感じられる。特に二十七句目から三十句目あたりの展開は秀逸だ。

2017年8月1日火曜日

 今日は台風の影響で前が見えないほどの土砂降りの雨になった。
 さて、「柳小折」の巻は二の裏に入る。

 三十一句目

   岩にのせたる田上の庵
 正月もいにやれば淋し廿日過   酒堂
 (正月もいにやれば淋し廿日過岩にのせたる田上の庵)

 サザエさん症候群というのがひところはやった。日曜の夜のサザエさんを見ると、休みももう終わりかと憂鬱になるというわけで、昔の人も正月も廿日過ぎるとそろそろ農作業が待っているというので憂鬱になったりもしたのだろう。
 一句の意味としてはそれでいいが、問題は前句との関係だ。一句として完成された感じなので若干手帳(あらかじめ句を作って用意しておくこと)臭い感じもするが、芭蕉さんの前でさすがにそれはないだろうし、前句からの発想だと連衆のみんなが納得したから、手帳の疑いはなかったのだろう。
 問題は付け筋だが、意味がわかりにくいので心付けではなさそうだし、付け合いとなるような単語の組み合わせもはっきりしないから物付けでもなさそうだ。ということは匂い付けになる。
 正月の二十日過ぎの寂しさは、特に庵に暮らす人に特長的なことではないので、庵の主の位で付けたとは思えない。となると、単なる寂しさつながりで付けた響き付けか。
 ただでさえ淋しい岩の上の庵は、正月も二十日過ぎればなおさら淋しい。一応そういうことにしておこう。

 三十二句目

   正月もいにやれば淋し廿日過
 種漬に来るととの名代      去来
 (正月もいにやれば淋し廿日過種漬に来るととの名代)

 種漬けはコトバンクによれば、「発芽を促すため、苗代にまく前に種籾(たねもみ)を水に浸すこと。種浸し。」
 ととの名代というのは父親の代理ということか。正月二十日過ぎでそろそろ農作業が始まるという意味では、苗代作りの前に苗代に蒔く種を水につけておく作業の始まりということになる。正月二十日と種漬けがこの場合物付けになる。そうなると、なぜ「ととの名代」ということになる。「名代」と「苗代」を掛けたのか。

 三十三句目

   種漬に来るととの名代
 咲花の片へら残スしほ鰹     素牛
 (咲花の片へら残スしほ鰹種漬に来るととの名代)

 春の句が二句続いたので、春の句を強制的に五句引っ張るよりは、ここで定座を繰り上げて花を出すのが正解だろう。
 ここはまず「とと」を魚の意味に取り成して塩鰹を出す。塩鰹は「しほがつお」が「しょうがつお」に通じるというので本来正月のご馳走だったという。今でも西伊豆の名物だという。
 「名代」は「なだい」と読むと有名だとか名高いという意味になる。種漬けの頃後れて送られてきた正月の名高い魚はどうすればいいかというと、花見の頃までとっておいて食べればいい、ということになる。