2017年8月18日金曜日

 文化を維持するのに人数が必要なのは、たとえば歌舞伎を保存するにはただ歌舞伎役者がいればいいというだけの物ではないということだ。
 もちろん歌舞伎の衣装や小道具を作る人、音楽を演奏する人なども必要だが、そうしたものが全てそろっていても、保存されたものはあくまで形だけのものだ。
 歌舞伎が生き生きとした形で未来へ継承されてゆくには、大勢の歌舞伎ファンがいなくてはいけない。たくさんいるファンの中からはその価値を深く理解する通がたくさん現れ、彼らに認められたり批評されたりしながら舞台は磨かれてゆく。
 現在の歌舞伎にはまだそれがあるが、戦後の近代化の中で波に乗れず取り残されてしまったのが文楽だった。ひとたびファン層を失ってしまうと舞台を重ねてもそれに拍手する人もなければ、つまらなかった時にブーイングする人もいない。ただ博物館の展示品のように昔と同じものを演じ続けるしかなくなってゆく。
 当事者たちは一生懸命努力して、よりよい舞台を作ろうとしているのだけど、それに対して拍手をする大勢の大衆を失った後だと、その努力も空回りしてしまう。公的な補助金があれば、客がいなくても形だけの舞台は続けられるかもしれないが、それでは保存するだけで精一杯で、もはや未来はない。文楽を再生するには、もう一度文楽の創生の時代に戻って、ファンの獲得から再出発しなくてはならない。
 どんな天才でもたった一人ですばらしい芸術作品を作ることなんてできやしない。その天才の作った作品を正当に評価できる大衆がいて初めて天才は天才になる事ができる。それがなければ天才と何とかは紙一重ということで、ただの変人で誰からも省みられることなく生涯を閉じることになる。
 ゴッホだって、生きている時は売れなくても死後に高く評価されたのは、常によい絵を求めて止まないたくさんの油絵ファンがいたからだ。生きている時はたまたま見落としていただけで、発見されれば多くの人に礼賛される。
 ただ、そのジャンルそのものが衰退してしまうと、再発見そのものも難しくなる。探す人がいなければ発見もない。多くの人の目があればあるほど、天才はもれなく発見される。
 芭蕉の俳諧だって、俳諧に熱狂する大勢の大衆がいる時代を生きたから、芭蕉は芭蕉になることができた。俳諧の衰退は同時に俳諧人口の衰退でもあった。
 芸術に限らず、様々な社会の理念や思想にしても、あるいは生活に便利な発明品にしても、それを評価できる大衆がいてこそ成立する。一つの文化が正常に発展してゆくためには、その文化を守り育ててくれる大衆の存在が何よりも必要だ。

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