今朝の新聞に芭蕉のことが書いてあった。
まあ、学校の授業で習ったイメージしかない人には新しいかもしれないが、ある程度芭蕉に興味を持っていろいろな本を読んでいる人には、そんな新しい情報はないだろう。
芭蕉の『奥の細道』の野坡本が発見されたのはずいぶん前のことで、一応私も上野洋三・櫻井武次郎編の『芭蕉自筆 奥の細道』(一九九七、岩波書店)を出た頃に買った。
鈴呂屋書庫にもアップされていて、確か二○〇二年頃に書いた『奥の細道─道祖神の旅─』にも一応、室の八島の場面に関しては、
「大神神社(おおみわじんじゃ)だけは徳川家光の命により、立派な社殿へと再興されていたので、神道家の曾良はさぞかし感動したことであろう。だが、神道よりはむしろ仏教の芭蕉は退屈して、ただ曾良に言われたままのことを書き記したという感じだ。」
と書いておいた。
「夏草や」の句に関しても、
「『兵どもが夢』とは一体何だったのだろうか。国を守るため、民族を守るため、家族・同胞を守るために闘い、果てた人の夢はただ一つ、平和だったに違いない。」
と書いておいた。まあ、どうせ矢島さんのような俳壇の巨匠には、ネットの片隅の私の文章など知るすべもないだろうけど。
嵐山光三郎さんの説にしても、芭蕉が小石川・関口の神田川治水事業に関わっていたことは、既に『芭蕉二つの顔』(田中善信、一九九八、講談社)で知っていた。その治水技術が伊賀藤堂藩時代に学んだものだったというのは、何か史料が出てきたのだろうか。
芭蕉忍者説は昔からある陳腐な説で、これを今更焼きなおして一体何が言いたいのかはよくわからない。まあ、新聞に載ったくらいだからマスコミ受けを狙ったか。
芭蕉ではなく、同行の曾良が吉川惟足を介して水戸光圀とつながりがあり、調査を命じられてたのではないかという説は、『旅人曾良と芭蕉』(岡田喜秋、一九九一、河出書房新社)で読んだ。これを塗り替えるだけの説が出たのだろうか。
古池の句に関しても、古池が八百屋お七の大火で焼け出された時の焼け跡の古池だという説は、あったかもしれないけど、古池の句が大流行し、社会現象にまでなったことを説明できるものではない。というのも、芭蕉が焼け出されたということも、そこに古池があったということも当時どれくらいの人がそれを認識していたかという問題があるからだ。
結局こういう解釈は「芸術は個の表現である」という近代芸術論のバイアスを一歩ものがれてはいない。芭蕉は自分自身の古池体験などどうでもよかった。むしろ、当時至る所に荒れ果てた古池が残っていて、古池が当時の人たちにとっての共通体験だったことの方が重要だというのが私の持論だ。俳諧は個の表現ではない。多くの人のいかにもありそうな体験や思考や行動を掘り起こし、それを笑いにすることが重要だった。その伝統は今の芸人の「あるあるネタ」に生きている。
とにかく今更という説ばかりで、わろた。
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