ミサイルは予告なしに飛んできても、鈴呂屋俳話は予告通り、もう少し才麿編『椎の葉』の俳諧を見ていくことにする。
二つ目の表六句は才麿と空我との両吟になっている。空我についても姫路の人ということくらいしかわかっていない。『二葉集』『花の雲』にも登場しない。空我というと仮面ライダークウガが漢字では空我と書くらしい。オダジョーが演じていたという。なかなか今でもかっこいい名前だ。
さて、姫路の俳諧師の空我の発句を見てみよう。
終日寝山
茸(たけ)焼やそばにかけたる酒のかん 空我
千山の勧学とは対称的に、こちらは日がな一日山で昼寝をしては、焼いた採れたての松茸を肴に熱燗を飲むという、酒飲みなら一度はやってみたいという句だ。これで時折談笑する仲間たちがいれば、絵に描いたようなリア充だ。
前の表六句の月夜の風呂といい、奇をてらわず、わりかし誰もが思うような庶民的な楽しみを句にするのが大阪談林流か。
脇。
茸焼やそばにかけたる酒のかん
尾ごしの鴨に礫(つぶて)こころむ 才麿
「尾ごしの鴨」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(一九九四、岩波書店)の注に「秋の終わりに尾根を越えて北方から渡ってくる鴨」とある。
松茸に熱燗だけでは物足りないのか、鴨に礫を投げて落とそうとするが、なかなかうまくは行かないだろう。
こころむだけとはいえ殺生を大胆に肯定するあたりも蕉門との違いか。
脇句の挨拶としては、松茸を詠んだ見事な発句に鴨肉のような脇をお付けしたいが、なにぶん才能がないものでというへりくだった内容だ。才能がないわけない。才麿というくらいだから。
第三。
尾ごしの鴨に礫こころむ
薄月の舼(わたし)にのせず漕出て 才麿
春は朧月だが、秋は薄月。大きな沼か湖の景色だろう。月が水に映るさまは、あたかも月が沖に向って漕ぎ出しているかのようだ。それを渡し舟にも乗せずという所に巧がある。ほのかに月の照る水の上には、鴨の姿も見え、礫を投げてみる。
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