2017年8月25日金曜日

 元禄七年の今頃の芭蕉の動向を知るには、今栄蔵著『芭蕉年譜大成』(一九九四、角川書店)が役に立つ。そこには「七月上旬」とあって、「ひやひやと」の発句のことがあり、「同」とあって、「道ほそし」の発句のことが記されている。
 その一つ前に「七月一日」とあって、里東書簡の、

 粘になる肴も夜の暑かな   里東

の発句のことで、「この句添削して、後に『続猿蓑』に選入」とある。
 岩波文庫の『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六)にこの里東書簡が載っている。

 「粘になる肴も夜の暑かな
 めつた萬申出シ、懸御目申事御座候。御直し被成可被下候。尚、重而可申上候。
 恐惶謹言
   七月朔日       里東」
        (『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫p.379)

 里東は膳所の人なので、この手紙はすぐに届いたのだろう。この句は『続猿蓑』の盛夏のところに、

 粘になる鮑も夜のあつさかな  里東

の形で収められている。
 夏場は物が傷みやすく魚介などの生ものはいつの間にかねばねばになってしまう。昨日の夜の酒の肴も一夜経てばもう食べられたものではない。ただ単に「肴」というのではなく、より具体的に高級な「鮑(あわび)」を持ち出すことで、いかにも勿体なく残念な情が強調される。
 なお、『続猿蓑』の夏之部には

   晋の淵明をうらやむ
 窓形(なり)に昼寝の臺や簟(たかむしろ) 芭蕉
 粘ごはな帷子かぶるひるねかな    惟然

の「昼寝」二句があり、「雑夏」の所には、

 昼寝して手の動やむ団扇かな     杉風

の句がある。杉風の句は「団扇」という別の夏の季語が入っていて、団扇の句として扱われているが、このころ「昼寝」は夏の季語なっていたことは明らかだった。ただし、芭蕉七部集では『続猿蓑』のみ。
 『芭蕉年譜大成』には七月六日の所に、「当日付の素覧書簡を受信。露川・素覧・左次の発句各一を報ずる(断簡)。この内、左次発句「秋立つや中に吹かるる雲の峯」を『続猿蓑』に選入。」(p.436)とある。
 岩波文庫の『芭蕉書簡集』には、

 「被成可被下候。
  砂畑に秋立風や粟のから    露川
  秋立や竹の中にも蝉の声    素覧
  秋たつや中に吹るる雲の峯   左次
   七月六日      素覧」

とある。
 立秋の句も芭蕉七部集では『続猿蓑』で初めて登場する。おおむねこの頃の人は、旧暦が生活の中心で太陽暦に基づく二十四節季にはそれほど関心がなかったと思われる。
 『続猿蓑』でも立秋は秋の巻頭を飾るものではなく、七夕の後に来ている。そこには二句記されている。

   立秋

 粟ぬかや庭に片よる今朝の秋     露川
 秋たつや中(ちゅう)に吹るる雲の峯 左次

 露川の句は「砂畑に」の句の添削なのか本人の改作なのかはよくわからない。粟は夏に種を蒔いて二ヶ月くらいで収穫できる。秋風に頃には脱穀した後の粟の殻が風に吹かれていたのだろう。「粟ぬか」も脱穀した後の粟の殻を言う。粟ぬかの「庭に片よる」と具体的な景色を出すことで、完成度を増している。ただし、「秋立つ風」の「秋立つ」の文字が消えてしまい、「立秋」その前に書いてなければ単なる秋風の句になる。
 左次の句も基本的には秋風の句で、夏の象徴ともいえる入道雲の雲の峯が今日は秋風に吹かれている、ということで立秋の句にしたもの。
 没になった、

 秋立や竹の中にも蝉の声    素覧

の句のみ、秋風の句ではない。ただ、竹の中にも蝉の声‥‥よくわからん。
 秋の部の巻頭に秋風の句を連ねることはこれまでも普通にあった。秋風という季題ももとはと言えば、

   秋立つ日よめる
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
     風の音にぞおどろかれぬる
              藤原敏行朝臣

から、「秋風」という言葉自体の中に立秋の意味が込められていたのかもしれない。ただ、俳諧では特に立秋に限らず「秋風」「秋の風」は多用されてきたので、『続猿蓑』の立秋二句はあえて秋風の句をその原点に戻そうとしたのかもしれない。

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