2017年8月27日日曜日

 ここのところ閏五月の年という縁で、芭蕉の最晩年の軽みの風が中心となっていたが、今日はちょっと目先を変えて才麿編の『椎の葉』から拾ってみようと思う。
 才麿は談林時代の芭蕉と交流はあったが、大和国宇多郡の出身で山本西武、井原西鶴、西山宗因に俳諧を学び、元禄二年に大阪に住むようになった以来、小西来山とともに大阪談林の中心人物となった。『椎の葉』は元禄五年に姫路へ旅したときの紀行文、姫路の連衆と巻いた発句、俳諧を収めたもので、芭蕉の軽みの時代に重なる。
 そのなかでまず、後の元禄十五年、『花の雲』を編纂し、惟然とともに超軽みの俳諧を作った千山の発句による表六句を見てみようと思う。

 まずは発句。

   勿謂今日不学而
 秋の夜や明日の用をくり仕廻(しまひ) 千山

 千山は播州姫路の人。千山が惟然と出会うのは元禄十五年のことで、この頃の千山はまだ小西来山に師事し、大阪談林の作風に近かった。
 前書きは朱子の「勧学文」で、

 勿謂今日不學而有來日
 勿謂今年不學而有來年
 日月逝矣 歳不延我
 嗚呼老矣 是誰之愆

 今日学ばないで明日があるなんて言ってちゃ駄目だ。
 今年学ばないで来年があるなんて言ってちゃ駄目だ。
 日月は逝っても寿命は延びない。
 年取ったと嘆いても誰のせいでもない。

 今でも林修先生が言っているように、「いつ学ぶの?今でしょ! 」というわけだ。
 発句の方も、秋の夜が長いので明日やることを今日繰り上げてやってしまったというもので、確かに蕉門ではこういう発句はない。
 芭蕉の『笈の小文』に、

 日は花に暮れてさびしやあすならう  芭蕉

という句はあるが、これは花見を明日に先延ばしせずに今を楽しもうという意味で、どっちかというと「いつ遊ぶの?今でしょ! 」の句になっている。
 日々の労働に励み、蓄財し、家を繁栄させるだとか、あるいは地位や名声を得るだとかいうことは仏教的には煩悩であり、芭蕉はそうした煩悩を抑えて、日々花月を愛で、風雅に遊ぶことが俳諧風流の道だと考えていたし、西行の和歌、宗祇の連歌もまたそういう道だった。
 中世は戦乱の時代でもあり、生きることに貪欲になる事は様々な戦乱に巻き込まれかえって命を縮めることでもあった。だから、あれもこれも煩悩と悟り、質素にして風雅に遊ぶことを求めた。
 ただ、江戸時代の太平の世が長く続くと、人々が勤勉に働き財をなそうとしても、それが戦乱に発展することはなく、平和の内に豊かになれるということになれば、勧学も勤勉も俳諧のテーマにしていいではないかということにもなる。
 貞徳の俳諧も基本的には庶民の学習意欲を高めるための補助教材としての俳諧だったから、その考え方は貞門や談林の俳諧には基本としてあったのだろう。芭蕉の方がむしろ、中世の風雅の精神に逆行したといってのいいのかもしれない。
 ただ、その分芭蕉の俳諧は庶民の本音の俳諧で、より人間としての生の肉声に近いがために「不易」の力を持つ。一生懸命勉強しろと、それは確かにそうかもしれないけど、やはりどこかそれは建前であって本心ではない。芭蕉の俳諧はそれを嫌う。
 そういう意味で、千山のこの発句は蕉門的ではない。大阪談林の句だと言っていいだろう。

 脇句。

   秋の夜や明日の用をくり仕廻
 月影よこにはいる引窓      占立

 占立も姫路の人らしいが詳しいことはわかっていない。
 「秋の夜」に「月影」とわかりやすい付けで、物付けというだけでなく、月の光があるから仕事もはかどるという心付けの面も具えている。
 匂い付けに移行していった蕉門の俳諧とは違い、古典的なシンプルな付け方をしている。
 「引窓」は三省堂「大辞林」によると、「屋根の勾配に沿って設け,綱を引いて開閉する窓。」だという。ネットの辞書にはみなこれが引用されている。いわば天窓だ。
 「双蝶々曲輪日記」の「引窓」は寛延二年(一七四九)なので、これよりかなり後。

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