2017年8月17日木曜日

 「南泉斬猫」という公案はそんなに難しく考えるようなものではなく、単純に「何でもいいから答を出せ」ということなのだと思う。
 このときはたまたま猫だったが、世の中には一刻も早く決断を下さないと多くの人の命が失われるような事態がいつでも生じうる。そのときに思考停止に陥ることが結局最悪の事態を招く。何でもいいから答を出して行動せよ、そうすればたとえ結果が悪くても何かしら得るものはある。
 禅問答というのも、そういうとにかく答を出すという訓練だったのではないかと思う。大体禅問答の答というのはあまり合理的ではなく、ほとんどその場の連想で自動記述的に導かれたようなシュールな答が多い。ただ、そういう答は「つっこみ」を入れにくい。一瞬何を言ってるんだと考え込んでしまうからだ。ある意味で煙に巻くわけだが、答あぐねて思考停止に陥るよりは、とにかく何らかの答を出すという訓練なのだろうと思う。
 連歌・俳諧もと本来はあまり考え込むべきものではなく、とにかく即座に付けよ、というものだったのだと思う。それは後のお笑い芸の中でも行き続け、大喜利などもそうだし、今日でいうリアクションというのもその流れを受け継いでいる。
 世の中いろいろと難しいわけのわからない問題がたくさんあるが、とにかく笑いに持っていってその場を和ませることができれば、争いごともなくなるだろう。西洋の理性はこういうとき、とにかく議論せよと教える。でも議論を始めるとたいていは頭に血が上り、大体最後には人格攻撃になって罵倒し合い、終いには手が出る。
 とかく世の中難しい問題はたくさんあるけど、とにかく最後には笑いにもって行ってほしい。戦争はないほうがいい。
 人それぞれ考え方は違うし、文化や民族や宗教の違いは仕方ないものだから分断はいつの時代でもあることだと思う。ガチに議論するのではなく、最後にどこかで笑いに持ってくことができれば、世界は平和になると思う。
 昨日の続きだが、世界を一つにするのではなく、様々な文化が独自に発展できるだけの一定の集団を「国家」として確保すると同時に、中世の公界のようなさまざまな集団の人間が平等になれる場所というのをその境界領域に作れればいいと思う。それはそれぞれの民族国家から独立した公界国家のようなもので、民族国家と公界国家との間を自由に行き来できるようにすればいい。
 公界国家はできれば、何となく一つの民族文化の枠組みに飽き足らなくなった人たちや、あるいはそこからあぶれてしまった人たちが集まって、自然発生的にできるのがいい。強制されるべきものではない。
 世界は多様であることによって、より強く豊かになる。ただ、多様な文化を単にごちゃ混ぜにするだけだと、相互に抑制しあって、それぞれの文化の長所が打ち消されてしまう。それぞれの文化が正常に進化し続けるには、その文化の担い手たちが他からの干渉を受けずにその文化を発展させる領域が必要だ。ただそれだと世界は分断されてしまう。そのための公界のような交流地帯を作る。
 とりあえずそれが世界の多様性へ向けての、ヘテロトピアに向けての一つの答になると思う。
 今一番その公界国家に近いのは、ドバイかもしれない。香港はもう駄目だ。沖縄は将来可能かもしれない。

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