2019年1月31日木曜日

 久しぶりにまとまった雨が降っている。これが雪に変わるのかどうか、今はまだわからない。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「人先に医者」の句は、あえて想像するなら、医者は自由業だから、世俗のしきたりに無頓着な所があって、四月一日にならなくても暖かくなったら勝手に袷を引っ張り出して着てたりしたのではなかったかと思う。
 蕉門でも医者は多い。洒堂がそうだし、凡兆、尚白、木節、荷兮、不玉、史邦も医者だ。園女も医者の家に嫁ぎ、自身も目医者だったという。其角の父も医者で、其角自身も医者の修行をしている。去来は医者ではないが父と兄は医者だった。芭蕉の周辺で医者には事欠かない。
 今は大病院などで、ほとんどサラリーマンのような医者もいるが、当時は資格も要らず、占い師のように簡単に開業できる。ただ、成功するにはそれなりの実績と信用が必要だが、話芸やはったりも必要だ。この自由気ままさが俳諧師との親和性を生んでいたのだろう。
 ただ、許六のこの句が本当に瞬時に作ったかどうかはわからない。自分の才能をアピールするための多少の脚色はあったのではないかとおもう。
 たとえば普段からあれこれ俳諧のネタを集めている中で、仕損じになるために没にしていたネタを覚えていて、芭蕉が仕損じでも良いと言ったことで、それを思い出して句にした可能性はある。

 「予此時の意趣を曾てわすれず。間に髪を不入して、今日ニ案じつめたり。
 予が大悟発明するといふ所ハ、去先生の論じ給ふ不易・流行の二ツニハ非ズ。翁の父母より相続し給ふ血脈の所也。
 我あら野・猿ミのの二集を眼にさらし、工夫をつよくめぐらして、昼夜わするる隙なくて、自然に此血脈の端をうかがひ置侍るゆへ、言下に血脈の所を大悟し、俳諧の底を打破て眼のさやをはづす。
 師の血脈を大悟したるものハ、全ク不易・流行の所を不論、一向に血脈を失なハざる所を本意とす。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96~97)

 これまで許六が芭蕉とのことをいろいろ語ってきたのは、結局このことが言いたかったわけだ。
 ただ、血脈については、芭蕉が「人先に医者」の句に対し、「此句、秀たる句ニあらずといへ共、血脈の正敷所より出て」と言ったことが根拠になっているが、芭蕉のどういう意図で「血脈」と言ったかはこれだけではよくわからない。ましてそれを「相続」するというのは、許六の勝手な解釈なのではないかと疑いたくなる。
 ただ、芭蕉がこの頃不易流行を説かなくなっていたのは確かだろう。芭蕉は元来理論家ではない。不易流行にしても『奥の細道』の旅をともにした曾良の影響だろうし、血脈についても体系的な理論はない。ただ、芭蕉が追及したのは人間の本性であり、様々な人情の根底にあるその核のようなものだったのだろう。これは朱子学の言葉を借りれば「性」であり「誠」ということになる。そしてそれが不易だというのも確かだろう。
 去来に不易流行を説いた頃には、蕉風確立期の古典回帰がまだ残っていて、現代の情も古典の情も、その根底にある物が一つなら、それは古典から学べるということだったのだと思う。このことが基と本意本情の重視として去来に伝わったのだと思う。
 許六に教える頃には、芭蕉はこの根源的なものをもはや現代と古典を区別せずに、今日の概念でいえば表現の初期衝動のようなものに至っていたのではなかったかと思う。
 どちらが正しいということではない。ただ目指す所は人間の情の根源ではなかったかと思う。そこに近づくための道筋を変更しただけではないかと思う。
 これは西洋のような肉体に対する精神だとか理性だとかいうものではない。肉体と精神が混然となったような朱子学でいうなら「性理」であり、惜しむのは、芭蕉がここに治世の根底となるような理論を求めなかったことであろう。
 西洋が理性を中心に人権思想を打ち立てたように、東洋では人情の根底にある性理に至ることで、そこから別の思想や政治理念が可能だったかもしれない。今からでもその可能性を考える価値はあると思う。

2019年1月30日水曜日

  安倍首相が施政方針演説で韓国を無視したと言うが、別に安倍首相だけでなく野党も一貫して無視しているのではないかと思う。そこが韓国の計算違いだったのか。普通だったらここぞとばかりに韓国側に立って首相を糾弾しそうなのだが、なぜか厚労省の方に専念している。
 多分国防省の公開した動画に対して、それを覆すだけのインパクトのある証拠を韓国が提示できなかったため、野党も韓国側に立とうにも立てないのだろう。だから動画を安倍が公開させたという所に突っ込むばかりだ。あの動画はそれだけ利いているということだ。
 まあ、政治ネタはそれくらいにして、『俳諧問答』の続き。

 「おそらくハ向後予が句、仕損の場所ならでハ一句もあるまじ、きき給へと高言を放ツ。
 予あやふきつり合ハさぐりあてたりといへ共、心中仕損まじき心あくまであり。此一言に寄て、仕損ずる所を決定せり。
 于時
 人先に医者の袷や衣がへといふ句、即時ニいひ出す。師掌を打て云ク、奇なる哉奇なる哉、是也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96)

 これから仕損ないを恐れない句なんて一句もないぞ、と強がってはみても、やはり仕損じたらどうしようという気持ちは消えない。とりあえず仕損じてもいいという感じで詠んだ句が、

 人先に医者の袷や衣がへ

だった。一見仕損じた様子はないが。
 人より先に医者の袷(あはせ)が衣更えする。
 「袷」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「裏をつけて仕立てたきもののこと。表と裏との布地の間に空気層をつくって保温効果を高めた。着用時期は単 (ひとえ) と綿入れの中間期。昭和初頭以来一般に綿入れを着用しなくなったが,江戸時代はきものには着る時節の定めがあり,袷は4月1日のころもがえから5月5日の端午の節供前日まで,それ以後は単となり,9月1日から9日の重陽の節供前日まで再び袷を着た。」

とある。
 そういうわけで四月一日になると昔は一斉に綿入れから袷に変えたわけだが、医者が「人先に」というのはどういうことだったのか。
 当時の人なら多分すぐ分かる「あるある」だったのだろう。
 仮に医者が三月にフライングして袷を着ていたというなら、衣更の句なのに春の句になり仕損じということになる。それで、芭蕉も仕損じだけど面白いと思って手を打ったということは考えられる。

 「俳諧の底、此句にてぬけたり。一言下に大悟するものハあれ共、一言下に句をするものハなしと、感じられたり。
 此句、秀たる句ニあらずといへ共、血脈の正敷所より出て、第一衣更に気をよく付て、人の及ばざる所を感ぜられたり。
 其角ニ語れバ、晋子もよくききつけて、気のよく付たる所を感じ、則句兄弟ニ可入とて書付たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96~97)

 「底をぬく」というのは、いわばタブーに挑戦するという意味だったの

かもしれない。たとえば、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて    荷兮
 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

は後に荷兮自身が言うように発句の体ではない。ただ、その常識を破る所が、「底をぬく」だったのかもしれない。それなら、惟然の、

 梅の花あかいハあかいハあかいハな 惟然

も底をぬいたということか。
 其角も「人先に医者」の句は気に入ったのか、元禄七年刊の『句兄弟』に載ったという。

2019年1月29日火曜日

 夜明け前の東の空に光る金星と木星に、欠けた月が加わるようになった。この月が朔になれば旧正月になる。今日は旧暦の十二月二十四日。旧暦のクリスマス‥‥なんてものはない。
 それでは『俳諧問答』の方に戻って、続きと行こう。

 「其後三月尽の日より卯月の三・四日まで、予が宅に入て逗留し給ふ。昼夜俳談を聞く。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95)

 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)によれば、二月二十九日からだという。この頃芭蕉は甥の桃印を失い、かなりがっくり来ている頃だった。ただ、それでも俳諧への情熱は失せることはなかった。

 「其時翁ノ云、明日衣更也。句あるべし、きかむといへり。
 かしこまつて、三・四句吐出スといへ共、師の本意に叶ハず。
 師の云ク、当時諸門弟並ニ他門、共に俳諧慥ニして畳の上に座し、釘かすがいを以てかたくしめたがるがごとし。これ名人の遊ぶ所にあらず。許子が案ずる所もこれ也。風雅の外に子が得たる芸能を察せよ。
 名人ハあやふき所ニ遊ぶ。俳諧かくのごとし。仕損まじき心あくまであり。是レ下手の心ニして、上手の腸にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95)

 芭蕉は許六にちょうど明日から衣更えだから衣更えの句を詠んでみろという。許六が三・四句詠んだが芭蕉の気に入るものではなかった。
 芭蕉が言うには、蕉門でも他門でも、畳の上に座って釘やかすがいで固定したような句を作るものが多いと。要するにその場で言葉をこねくり回したこしらえものだというわけだ。
 許六が今詠んだ句もその類で、「風雅の外に」、つまり俳諧以外で許六は絵も描けば、漢詩も作る。六芸に通じているから許六の名があると言われているから、そのほかにも音楽や武芸にも通じていたのだろう。
 特に得意だったのが絵だから、ただ筆先で拵えるだけでは良い絵は描けないだろう、もっと筆遣いの勢いとか、大事なものがあるのではないか、というわけだ。
 それは結局、これを表現したいという根本的な初期衝動の不足で、ただ言われたから作っているだけになっている、ということではないかと思う。
 「月並」という言葉も、元は俳書が月刊の定期刊行物になってから、作者は毎月ノルマで句を作らされ、とりあえず作りましたというおざなりな句が多くなったことから来ている。こうした句は、何となく形にはなっているけど、何が言いたいのかよくわからない句が多い。
 「名人ハあやふき所ニ遊ぶ」というのは、今なら「冒険せよ」ということだろう。可もなく不可もない句なんて読んでも面白くない。失敗を恐れずに思い切った表現を試みてみろ、というところだ。
 失敗したらいけないと思うのは「下手の心ニして、上手の腸にあらず」とこのあたりの言葉は迷いがなく心地いい。
 そこで芭蕉も失敗談を持ち出す。

 「師が当歳旦ニ
 としどしや猿にきせたる猿の面
といふ句、全ク仕損の句也。ふと歳旦ニ猿の面よかるべしとおもふ心一ツにして、取合たれバ、仕損の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95~96)

 歳を重ねるというのは、結局猿の顔の上に猿の面を被せるようなもので、変わった様でいて何も変わってない、という自戒の句だが、季語を取りこぼしたという点では仕損じだろう。「としどし」と強引に正月のことだとすればできなくはないが。
 ただ、句としては言いたいことがはっきりとしているし、猿の面のたとえも面白い。決して悪い句ではない。
 これは「洗足に」の巻の、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

にしてもそうだと思う。
 今流行の衣装に身を包み、颯爽と若い衆が粋がって歩いていても、いざ粋を極めたお奉行様が来ると、とたんに恥ずかしそうに身を隠そうとする。
 ただ、「誰」の文字は前句の内容そのままだし、これだと登場人物が複数いなくてはいけないから展開が制限される。
 本来の芭蕉なら、ここで案じて直すところだったが、それをしなかったのは多分この句が当座であまりにも受けたからではなかったかと思う。つまり、許六も洒堂も嵐蘭も思わず吹いたのではなかったか。
 細かく見れば失敗だけど、句が面白ければそれも忘れる。それが言いたかったのではないかと思う。

 「予が云、名人師の上ニ仕損ジありや。
 答テ云、毎句あり。
 予此一言を聞て、言下に大悟ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96)

 許六のこの言葉は、まあ別に仕損じてもいいではないかという開き直りとして理解したのか、それとも、こまかなミスしないよりももっと大事なことが何なのか理解して「大悟ス」と言ったのか、やや不安が残る。

2019年1月27日日曜日

 まだまだ寒い日が続くのかな。今日は旧暦12月22日。
 それでは「洗足に」の巻、挙句まで。

 二裏
 三十一句目。

   高観音にから崎を見る
 今はやる単羽織を着つれ立チ   嵐蘭

 「単羽織」は夏用の裏地のない羽織を言う。「猿蓑に」の巻の十二句目にも、

   朔日の日はどこへやら振舞れ
 一重羽織が失てたづぬる       支考

の句がある。「柳小折」の巻の七句目に、

   小鰯かれて砂に照り付
 上を着てそこらを誘ふ墓参      洒堂

とあるのも、一重羽織であろう。一応上着を着ているということで略式の礼装になる。
 高観音に参拝するということで、一応きちんとした格好をしてきたのだろう。
 「はやりの」というのは京都大阪から来た都会っ子の集団か。
 三十二句目。

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

 江戸には南北の町奉行が置かれていた。奉行の下に与力・同心がいて、実際に槍を持ってパトロールしてたのは同心であろう。
 同心はなかなか粋な人が多く、人気があったという。そこいらの粋がっているチンピラはそれを見てこそこそと隠れる。「やべっ、奉行だっ」ってとこか。
 芭蕉らしい面白い展開ではあるが、『俳諧問答』には、

 「此巻出来て師の云ク、此誰の字、全ク前句の事也。是仕損じ也といへり。今此句に寄て見る時、右両句前句ニむづかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.134)

とある。「誰も」の誰は「今はやる単羽織を着つれ立チ」たむろしていた衆そのもので、重複になるというわけだ。「さっとかくるる」くらいでも良かったということか。
 細かいことのようだが、「誰も」だと登場人物が複数いなくてはいけないが、なければ一人でもいいことになり次の句の展開の幅が広がる。
 『山中三吟評語』に、「馬かりて」の巻の四句目、

   月よしと角力に袴踏ぬぎて
 鞘ばしりしをやがてとめけり   北枝

の句の時、

  鞘ばしりしを友のとめけり   北枝
 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

と言ったのと同じであろう。この場合も相撲を取る場面では人が何人か集まっているさまが想像できるから、「友」と言わなくても意味は伝わる。
 友の字がなければ次の句の登場人物は単体でもよくなり、

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵に獺の飛こむ水の音     曾良

という展開が可能になる。詳しくは鈴呂屋書庫の蕉門俳諧集、「馬かりて」の巻の方をどうぞ。

 三十三句目。

   奉行の鑓に誰もかくるる
 葭垣に木やり聞ゆる塀の内      洒堂

 「葭垣(よしがき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 杉丸太を立て、胴縁(どうぶち)の上に葦簀(よしず)を張り、竹の押し縁を縄で結び固めた垣。あしがき。」

とある。
 「木やり」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「日本民謡の一種。〈木遣歌〉の略。本来は神社造営の神木などの建築用木材をおおぜいで運ぶときの労作歌だが,その他の建築資材を運ぶとき,土突きなどの建築工事や祭の山車(だし)を引くときなどの歌も含まれる。音頭取りの独唱とおおぜいの人の斉唱が掛合いで入る音頭形式で,テンポがおそい。仕事歌としてより祝儀歌として歌われることもあり,三味線歌にもなっている。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註に「前句を普請奉行の見廻りと見た付。」とある。ただ、隠れたのは木遣り歌を歌ってる職人さんではなく、大きな材木が通るというので沿道の人々が隠れたのではないかと思う。
 塀の内からは木やり歌が聞こえて来て、塀の外の町人は通りを空ける。
 やはり「誰」の字が重かったのか、展開が苦しいところを上手く乗り切ったという感じだ。
 三十四句目。

   葭垣に木やり聞ゆる塀の内
 日はあかう出る二月朔日       許六

 「二月朔日」が何の日付なのかよくわからないが、多分当時の人なら思い当たるものがあったのだろう。
 花の定座の前に桜の開花にまだ早い二月一日という日付を出すと、普通の花が出しづらい。
 三十五句目。

   日はあかう出る二月朔日
 初花に伊勢の鮑のとれそめて     芭蕉

 現在では伊勢の鮑は九月十五日から十二月三十一日まで禁漁になっているが、江戸時代でも似たようなものがあったのか。
 二月一日なので咲き始めの桜、「初花」を出す。
 挙句。

   初花に伊勢の鮑のとれそめて
 釣樟若やぐ宮川の上ミ        嵐蘭

 「釣樟」はクロモジのことで、「なみくぬぎ」とも言う。
 クロモジはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 クスノキ科の落葉低木。山地に多く、樹皮は黒斑のある緑色、葉は楕円形で両端がとがる。雌雄異株。春、淡黄色の小花が多数咲く。材からようじを作る。《季 花=春》
  2 《1の木で作るところから》茶道で、菓子に添えて出すようじ。また一般に、つまようじのこと。」

とある。
 ここでは字数の関係からクノギと読むようだ。『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)にはクノギと仮名が振ってある。
 伊勢の鮑をご馳走になって、締めくくりは爪楊枝というところか。折から宮川(五十鈴川)の上流のクヌギの木も春めいてくる。

2019年1月26日土曜日

 今日の話題は何と言っても全豪オープンで、ゴールデンタイムということもあって、テニスのルールもよくわからないままに見ていたが、長い死闘の末に大坂なおみがやってくれました。
 クビトワもよく粘り、最後まではらはらする試合だった。
 大坂なおみはアメリカでの生活が主だとは言え、表情やインタビューやコメントの時の天然振りも日本人だなと思った。
 それでは「洗足に」の巻の続き。

 二十七句目。

   月夜に髪をあらふ揉出し
 火とぼして砧あてがふ子供達   芭蕉

 「あてがふ」は割り当てるということ。母が髪を洗っている間は砧打つのも子供の仕事になる。多分よくあることだったのだろう。
 砧は杵(きね)で衣類を叩き、艶を出す作業で、かつては東アジアで広く行われていた。ウィキペディアによると、「日本の家庭では、炭を使うアイロンが普及した明治時代には廃れたが、朝鮮では1970年代まで使われていた。現在では完全に廃れている。」という。
 明治二十七年(一九八四)に「二六新報」に掲載された本間九介の『朝鮮雑記』にも、日本で廃れた砧が朝鮮半島に残っていることを、

 「お仕舞は一声高し小夜きぬた
 月の出る山を真向や小夜きぬた
 長安一片月、万戸擣衣情
 秋の哀を捲きこめて打てばや音の身にはしらむらん。
 まったくもって、無限の旅情を駆りたてるものは、この擣衣(衣を打つ)

の声にこそあるのではないか。」

と記している。
 句は誰のものかよくわからない。この翌年、正岡子規が日清戦争の従軍記者として朝鮮半島に渡っている。
 二十八句目。

   火とぼして砧あてがふ子供達
 先積かくるとしの物成      嵐蘭

 「物成(ものなり)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「江戸時代の年貢。取箇 (とりか) ,成箇 (なりか) と同義。田畑の本租の意味で本途物成ともいう。これに対し諸種の雑税を小物成という。」

とある。
 年貢として差し出すことしの収穫物が部屋の中にうずたかく積まれ、その影で子供達が砧を打っている。
 二十九句目。

   先積かくるとしの物成
 うつすりと門の瓦に雪降て    許六

 年貢米の積まれた屋敷には立派な瓦葺の門があり、季節がらそこに薄っすらと雪が降り積もる。
 この歌仙もそろそろ終盤となり、景色を付けて軽く流してゆく。
 三十句目。

   うつすりと門の瓦に雪降て
 高観音にから崎を見る      洒堂

 「高観音」は滋賀大津の高観音近松寺で、三井寺(園城寺)の別所の一つ。前句の門を高観音近松寺の門として、そこから滋賀唐崎が見える。

2019年1月25日金曜日

 日本国憲法第二十四条には「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」とある。この「両性」は男女に限定せずに「両人」にでもした方がいいかもしれないが、とにかく結婚は本人同士の問題で、外野がとやかく言うことではない。たとえ皇族であっても、むしろ皇族だからこそ憲法は遵守してもらいたい。
 って何の話してたんだったか。そうそう、「洗足に」の巻の続きだった。
 二十三句目。

   又まねかるる四国ゆかしき
 朝露に濡わたりたる藍の花    嵐蘭

 ウィキペディアの「藍」のところに、

 「日本には6世紀頃中国から伝わり、藍色の染料を採る為に広く栽培された。特に江戸時代に阿波で発達し、19世紀初めには藍玉の年産額15万-20万俵を誇った。」

とある。前句の「四国」から阿波名産の藍を出したと言って良いだろう。
 「藍の花」は本物の花ではない。これもウィキペディアに、

 「染色には、藍玉(すくも)を水甕で醗酵させてから行う(醗酵すると水面にできる藍色の泡を『藍の華』と呼び、これが染色可能な合図になる)ので、夏の暑い時期が最適である。」

とある。
 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部の六月の所に「藍苅る」という季語がある。

 「[和漢三才図会]四月、苗を植て凡七十日ばかりに、いまだ穂をなさざる時、晴旦に露に乗じて抜採り、曝し乾す、云々。按ずるに、抜採るもの穂にして、苅とる者多し。」

とあるように、藍の収穫は花の咲く前に行われる。ただ、馬琴の時代には秋の穂の出る頃に三番刈りすることも多かったようだ。
 その一方で『増補 俳諧歳時記栞草』の秋之部に「藍の花」の項目がある。

 「葉、蓼に似て、七八月淡紅花をひらく。」

 これは収穫後の藍を種を取るために残しておくと秋に赤い花が咲く、その本物の方の花を指すからだ。近代でも「藍の花」仲秋になっている。
 二十四句目。

   朝露に濡わたりたる藍の花
 よごれしむねにかかる麦の粉   芭蕉

 「武庫川女子大学 牛田研究室」のサイトに、

 「日本の伝統的な藍染めでは、写真のように、土の中に埋め込んだカメ(瓶)の中に、すくも・小麦ふすま(発酵の栄養源)・灰汁(アルカリ)を入れ、1週間ほど発酵させ、すくも中のインジゴを還元して水溶性にして行う。この発酵は、熟練を要する作業である。液面に泡(これを藍の花と称する)が立つと染めることができるようになる。」

とある。
 この場合の「麦の粉」ははったい粉ではなく小麦ふすまのことか。
 二十五句目。

   よごれしむねにかかる麦の粉
 馬方を待恋つらき井戸の端    洒堂

 この場合は前句の「麦の粉」をはったい粉として、井戸端で愛しき馬方を待つ粉屋の娘としたか。はったい粉は「麦焦がし」とも言い、物が「麦焦がし」だけに恋に胸が焦がれるとする。
 二十六句目。

   馬方を待恋つらき井戸の端
 月夜に髪をあらふ揉出し     許六

 「揉出し」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「揉み洗いをして汚れなどを取り除くこと。揉み出すこと。
 ※俳諧・深川(1693)「馬方を待恋つらき井戸の端〈洒堂〉 月夜に髪をあらふ揉(モミ)出し〈許六〉」

とある。
 馬方の帰りが遅くなったのか、月夜の井戸端で髪を洗って待っている。
 「あらふ」だけで止めずに、「揉出し」というやや散文的な作業を持ち出すことで俳諧になっている。

2019年1月24日木曜日

 今朝は金星と木星が横に並んでた。
 それでは「洗足に」の巻の続き。二表に入る。
 十九句目。

   塚のわらびのもゆる石原
 薦僧の師に廻りあふ春の末    芭蕉

 「薦僧」は虚無僧に同じ。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「菰僧(こもそう),薦僧(こもそう),梵論字(ぼろんじ),梵字(ぼろんじ),暮露(ぼろ),また普化僧(ふけそう)ともいう。禅宗の一派である普化宗の僧の別称で,普化宗を虚無宗とも称する(イラスト)。吉田兼好の《徒然草(つれづれぐさ)》に,〈ぼろぼろ〉〈ぼろんじ〉と見え,我執深く闘争を事にする卑徒としている。《三十二番職人歌合》は,尺八を吹いて門戸にたち托鉢(たくはつ)することをもっぱらの業としたとする。」

とある。
 weblio辞書の「三省堂 大辞林」には、

 「普化(ふけ)宗に属する有髪の托鉢(たくはつ)僧。天蓋と称する深編み笠をかぶり、首に袈裟(けさ)をかけ、尺八を吹いて諸国を行脚(あんぎや)修行した。江戸時代には武士のみに許され、浪人者がほとんどであった。普化僧。薦僧(こもそう)。梵論(ぼろ)。梵論子(ぼろんじ)。」

とある。
 前句の「塚」から舞台を墓所として、そこで虚無僧が師に廻り合う。といっても、師はすでにこの塚の中だったのだろう。「塚も動け」と言ったかどうか。
 二十句目。

   薦僧の師に廻りあふ春の末
 今は敗れし今川の家       嵐蘭

 虚無僧は牢人がほとんどだったということで、桶狭間で織田信長に破れた今川家の末裔とした。
 今川義元というと、時代劇ではバカ殿のように描かれがちだが決してそんなことはない。 誇張や創作の多い小瀬甫庵の「信長記」の影響によるものだ。
 今川義元は桶狭間で戦死し、嫡子の今川氏真はウィキペディアによれば、

 「同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えて存続した。」

とある。今川氏は高家旗本であり、牢人に身を落としたり虚無僧になったりすることはなかった。
 嵐蘭も小瀬甫庵の「信長記」の影響を受けていたのだろう。
 忠臣蔵の敵役で有名になる吉良上野介も今川氏の子孫だが、松の廊下事件はこの巻の興行の九年後の元禄十四年のこと。

 二十一句目。

   今は敗れし今川の家
 うつり行後撰の風を読興し    許六

 「後撰」は「後撰和歌集」のこと。「古今和歌集」に続く二番目の勅撰集。
 『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には、前句の

今川を今川貞世(今川了俊)のこととする。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 「南北朝時代の守護。法名は了俊(りょうしゅん)。幕府の要職にあったが1370年九州探題となり,以後20余年間九州の南朝勢力を制圧し,倭寇(わこう)の取締りにも努力。和歌・連歌・故実にもすぐれ,晩年盛んに文筆をふるって《二言抄(にごんしょう)》《難太平記》《了俊書札礼》等を書いた。」

とある。和歌は冷泉為秀に学び、連歌は二条良基に学んだ。今川義元は貞世の兄の範氏の子孫になる。
 二十二句目。

   うつり行後撰の風を読興し
 又まねかるる四国ゆかしき    洒堂

 これは『土佐日記』を書いた紀貫之の俤か。
 紀貫之の『古今和歌集』の編纂は延喜五年(九〇五)、土佐赴任から京に戻るのは承平四年(九三四)、亡くなったのが天慶八年(九四五)、『後撰和歌集』の編纂は天暦五年(九五一)以降のこと。
 『後撰和歌集』の編纂の時代までは生きてないが、その少し前までは生きていたから「後撰の風を読興し」と言えなくもないし、実際に八十一首が入集している。

2019年1月23日水曜日

 「洗足に」の巻の続き。

 十五句目。

   ふたりの柱杖あと先につく
 乗掛の挑灯しめす朝下風     嵐蘭

 「乗掛」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 近世の宿駅で、道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶこと。「通し駕籠(かご)か―で参らすに」〈浮・五人女・二〉
  2 「乗り掛け馬」の略。」

とある。
 「下風(おろし)」は颪という字も書く。山から吹き降ろす風で、乾燥した空っ風であることが多い。特に冬の季語にはなっていない。
 朝もまだ薄暗い頃、山から吹き降ろす風が冷たくて、さしもの雲水行脚の僧もついつい乗り掛け馬の提灯に誘われてしまう。
 十六句目。

   乗掛の挑灯しめす朝下風
 汐さしかかる星川の橋      芭蕉

 星川は桑名の星川で、濃州道(員弁街道)が通っていた。不破の関があった関が原から桑名に抜けるのには便利な道だったようだ。
 『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註は、

 桑名よりくはで来ぬれば星川の
     あさけになりぬ日永なりけり

の歌を引用している。『笈の小文』の杖突坂のところに「『桑名よりくはで来ぬれば』と云ふ日永(なが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど」とあり、伝西行の歌だと思っていたが、この註には宗祇とある。
 あさけは「朝明」という字を書き、今日では桑名の南を流れる朝明川の名前に残っている。
 桑名・朝明・日永は近世の東海道とも一致するが、星川だけは東海道からは離れている。あるいは員弁川(いなべがわ)下流の町屋川のことを星川と呼んでたのかもしれない。それならば「星川の橋」は町屋川にかかる町屋橋ということになる。
 町屋橋は桑名宿を出てすぐのところで、桑名宿の乗り掛け馬の提灯が見えたのだろう。また、このあたりは鈴鹿颪が吹く。
 十七句目。

   汐さしかかる星川の橋
 村は花田づらの草の青みたち   許六

 先にも述べたように、ここは本来洒堂の順番だが、亭主である許六に花を持たせている。
 星川はここでは特にどこということでもなく、ただ河原の景色を付ける。
 近くの村には花が咲き、田植前のまだ水の入らない田んぼには草が芽吹いて青々としている。
 『去来抄』先師評の、

   につと朝日に迎ふよこ雲
 青みたる松より花の咲こぼれ   去来

の句のところで、最初「すっぺりと花見の客をしまいけり」という句を付けたが、芭蕉の顔色が曇っているのを見て付け直したという。どうして付け直したか聞かれると、

 「朝雲の長閑に機嫌よかりしを見て、初に付侍れど、能見るに此朝雲のきれいなる景色いふばかりなし。此をのがしてハ詮なかるべしとおもひかへし、つけ直し侍る。」

と答えたという。
 許六のこの句も、ただ川べりのきれいなる景色いふばかりなしという所か。
 十八句目。

   村は花田づらの草の青みたち
 塚のわらびのもゆる石原     洒堂

 ここも奇をてらわずに景色をつけて流すが、田んぼに石原と違えて付ける所で変化をもたせている。
 「石原」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「小石が多くある平地。」とある。
 「わらびのもゆる石原」は

 石走る垂水の上の早蕨の
     萌え出づる春になりにけるかも
                志貴皇子

を本歌とする。
 ただ、「塚」は墓を連想させる。近代の梶井基次郎ではないが、花の下には死体が埋まっているというところか。

2019年1月22日火曜日

 明け方の金星と木星が大分近づいてきた。
 韓国はどこへ行くのかって前にも書いたが、南北が統一すれば普通に考えれば南の方が人口、経済力、技術力とも凌駕していて、南が主導権を取れると思うのが普通だ。だから、南北統一は結局北が崩壊して南に吸収されると考えがちだ。
 これを覆す裏技がひょっとしたらあるかもしれない。一種のオフサイドトラップだ。
 つまり、南に南北統一をもちかけ、統一ムードを高めた段階で、様々な情報工作をして反日感情を高め、それを反資本主義に結びつけて左傾化させる。
 アメリカがそれに不信感を抱いた所で、北の方からアメリカに同盟を求め、乗り換えさせる。
 米朝同盟が実現すれば、核開発問題は反古になる。アメリカにとっての脅威ではなくなるからだ。北は世界最強の米軍に守られ、経済制裁の解除でアメリカの支援を受けられる。金政権と建前としてのチュチェ思想だけは残し、ちょうど天皇制を残した戦後の日本のような状態になる。
 逆に在韓米軍は撤退し、韓国は北の脅威に対抗するのに多くの軍事予算を裂かなくてはならなくなる。それに加え資本主義経済に逆らった韓国経済は停滞を余儀なくされる。そこに当然ながら中国が様々な形で影響力を行使してくる。
 そうなると、南北の立場が逆転するのにそう長くはかからない。
 まあ、ないとは思うが‥。
 それでは「洗足に」の巻の続き。

 十一句目。

   むかし咄に野郎泣する
 きぬぎぬは宵の踊の箔を着て   芭蕉

 さてホモネタと来れば芭蕉さんも黙ってない。もっとも、この四吟は順番が決まっている。堂六蕉蘭六堂蘭蕉の順番で、一の懐紙の花の定座だけ許六に花を持たせるために洒堂と許六の順番が逆になっている。
 若衆は朝の別れの時には宵に着ていた踊りの衣装姿に戻る。「箔」は「摺箔」のことか。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「裂地(きれじ)へ金銀箔を接着させて模様を表すこと。金銀粉を接着剤に混ぜて筆書きする金泥絵や、金銀箔を細く切ったものを貼(は)り付ける切金(きりかね)などに対して摺箔という。その技法は、紙に文様を切り透かした型紙を用い、これに接着用の媒剤(通常姫糊(ひめのり))を施し、これの乾かぬうちに箔をのせて柔らかい綿などで軽く押さえ、そのまま乾燥させたのち、刷毛(はけ)で余分の箔を払い落とす。ただ一般に摺箔は、これだけ単独に用いることは少なく、刺しゅう、友禅染めなどと併用して部分的に使われることが多い。縫箔などという名称のあるのはそのためである。
 箔だけで模様を置いたものに能装束の摺箔がある。これは能の女役が着付に用いる装束で、このために能では摺箔ということばがこの装束の名称になっている。とくに『道成寺(どうじょうじ)』や『葵上(あおいのうえ)』などに用いられる三角つなぎを摺った鱗(うろこ)箔は、女の執念が蛇体(じゃたい)の鬼と化した姿を象徴する装束として知られる。[山辺知行]」

とある。
 前句は野郎を泣かせた昔話をするのではなく、昔話をして野郎を泣かせるの意味に取り成されている。
 十二句目。

   きぬぎぬは宵の踊の箔を着て
 東追手の月ぞ澄きる       嵐蘭

 「追手(おふて)」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には「大手。城郭の前面。」とある。江戸城には大手門があり、大手町があるが、ウィキペディアによると、

 「元は追手門(おうてもん)と書かれ、高知城など、城によっては現在も追手門と表記しているところもある。これに対して背面の門は搦手門(からめてもん)と呼ばれる。
 防御のために厳重な築造がされ、大規模な櫓門を開いたり石塁などにより枡形をしていることが多い。見た目も大きく、目立つように造られる。また、橋は土橋であることが多い。」

とある。
 江戸城大手門の東にはかつて酒井雅楽頭家上屋敷跡があったが、「踊の箔」からの連想か。元禄五年には既になかった。
 このあたりは大名屋敷が多いので、大名屋敷を出入りする能役者かもしれない。
 十三句目。

   東追手の月ぞ澄きる
 青鷺の榎に宿す露の音      許六

 大手門の前のお堀には青鷺もいる。
 月の句に逆らわずに榎に休む青鷺の景を添える。
 なお、許六のいた彦根藩の中屋敷は赤坂門の方にあったという。
 十四句目。

   青鷺の榎に宿す露の音
 ふたりの柱杖あと先につく    洒堂

 「柱杖(しゅじょう)」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註に、「禅僧の用うる杖、行脚僧の体」とある。雲水行脚には欠かせない。
 『無門関』に「芭蕉柱杖」というのがあるが、それに関係あるのかないのかわからないが、そういう連想を誘うと何か深いものがあるのかと思わせる。これは洒堂のはったりであろう。

2019年1月21日月曜日

 今日は満月で、ビルの谷間から大きな月が昇ると、ついつい「ちょー月じゃん」という感じになる。今日はスーパームーン。アメリカでは皆既月食だとか。
 それでは「洗足に」の巻の続き。

 四句目。

   鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て
 春は其ままななくさも立ツ    嵐蘭

 ミソサザイは正月の頃も囀る。
 「其まま」は「すぐに」という意味もある。春が来たと思ったらあっという間に七草で、正月もあっという間に過ぎてゆく。
 まさに四句目は軽くさっと流すという見本のような句だ。
 五句目。

   春は其ままななくさも立ツ
 月の色氷ものこる小鮒売     許六

 「のこる」という言葉は季語と結びつくと、次の季節になったけどまだ残っているという意味になる。
 凍月という言葉もあるが、春になってもまだ完全な朧月にならず、どこかまだ凍月の俤を残している、という意味だろう。
 「のこる」はまた小鮒売りにも掛かる。今でも一部の地方ではおせち料理に小鮒を食べるようだ。七草の頃、日も暮れるというのに売れ残った小鮒を売り歩く。
 この辺の「あるある」の見つけ方は許六の得意とするところだ。「氷も残る」から序詞のように言い興すあたりもさすがに上手い。
 六句目。

   月の色氷ものこる小鮒売
 築地のどかに典薬の駕      洒堂

 「典薬」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「①  「典薬寮」の略。
  ②  律令制で、後宮十二司の薬司の次官。くすりのすけ。」

とあるが、律令時代の雰囲気ではない。
 同じコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「⑤ 近世、幕府や大名のおかかえの医師。御殿医(ごてんい)。
※俳諧・犬子集(1633)一五『藪のうちへぞ人のあつまる 典薬の其礼物はおびたたし〈重頼〉』
  ⑥ 多く、医師をいう。」

とあり、むしろこっちの方だろう。
 築地のある立派な家の前にはどこぞのお抱え医師の駕籠が留まっている。夕暮れの哀れな小鮒売りに対する向え付けと言っていいだろう。
 初裏に入る。
 七句目。

   築地のどかに典薬の駕
 相国寺牡丹の花のさかりにて   嵐蘭

 ここは逆らわずに築地を立派なお寺の塀とし、京都五山の一つ、相国寺の牡丹を付ける。相国寺といえば、中世には同時期に若い頃の宗祇法師と雪舟が修行していた。面識はあったのだろうか。
 八句目。

   相国寺牡丹の花のさかりにて
 椀の蓋とる蕗に竹の子      芭蕉

 お寺だから精進料理で、汁の椀も蕗(ふき)に竹の子とシンプルなものだ。単に汁の椀を出すのではなく「蓋とる」という動作を出すあたりで、その人間がどういう人なのか想像力を掻き立て、それが次ぎの句の展開のヒントになる。
 一見何でもないような句でも、次の展開を見据えるのが芭蕉の上手さだ。
 九句目。

   椀の蓋とる蕗に竹の子
 西衆の若堂つるる草まくら    洒堂

 ここは芭蕉の意を汲んで、西国から来た旅の若侍を登場させる。
 「西の衆」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「室町幕府の柳営(りゅうえい)内で将軍に謁見するとき、西向きの縁から出仕することに決まっていた門跡・摂家・清華の人々。→東の衆」

とあり、同じコトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 「〔西向きの縁を通って拝謁したことから〕
室町将軍家と外様とざま関係にある者。 → 東の衆」

とある。ここでいう「西衆」はこれとは関係なさそうだが、六句目の「典薬」といい、わざわざこういう言葉を出して教養ある所を見せようとするのが洒堂のキャラなのだろう。
 十句目。

   西衆の若堂つるる草まくら
 むかし咄に野郎泣する      許六

 「野郎」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  男性をののしっていう語。 ⇔ 女郎めろう 「この-」 「馬鹿-」
  ②  月代さかやきを剃そった若者。 「十二、三の-に紙子の広袖/浮世草子・懐硯 1」
  ③  「野郎頭」の略。
  ④  野郎頭の歌舞伎役者。若衆歌舞伎が禁止されたために、若衆の前髪を剃って野郎頭としたことからの呼び名。
  ⑤  男色を売る者。かげま。 「一日は-もよしや/浮世草子・一代男 5」

とあり、若侍が登場したところでこの場合は期待にこたえてというか、④や⑤の意味であろう。
 「泣(なか)する」は悲しませるという意味ではなく、別の意味もある。大方若侍の自慢話であろう。

2019年1月20日日曜日

 今日は二宮の吾妻山公園へ菜の花を見に行った。風も今日は暖かく、今年も春をフライングゲット。
 それでは、というところだが、『俳諧問答』の続きに行く前に、ちょっと一休みして、芭蕉・許六・洒堂の参加した「けふばかり」でない方の歌仙を読んでみようと思う。
 元禄五年十二月上旬、許六亭での興行だという。
 発句をまず見てみよう。

   二日とまりし宗鑑が客、煎茶一斗米五升、下戸は亭
   主の仕合なるべし。
 洗足に客と名の付寒さかな    洒堂

 この前書きは宗鑑が庵の入口に掛けていた狂歌、

 上は来ず中は日がへり下はとまり
     二日とまりは下下の下の客
               宗鑑

を踏まえている。
 なお、『阿羅野』には、

 下々の下の客といはれん花の宿  越人

の句がある。
 洒堂も許六亭に二泊したのか、あるいはこの興行の後に二泊目をする予定だったのか、煎茶一斗米五升を手土産にする。隠元法師が日本にもたらした煎茶は唐茶とも呼ばれた。「茶を煮る」というのも、この唐茶をいう。今日の日本の煎茶はこれの改良型。
 許六は、

 餅つきや下戸三代の譲臼     許六

の句があるように、下戸だったと言われている。
 「仕合」は「しあひ」ではなく、この場合は「しあはせ」で、もとは廻り合わせという意味だった。運命のいたずら、というようなニュアンスか。それが転じて、良い廻り合せを「幸せ」と言うようになった。
 さて発句だが、そんな下下の下の客の亭主への挨拶で、冷えた足を洗って暖めるためのお湯まで用意してくれて、きちんと客として扱ってくれていることに感謝するとともに、恐縮して己が寒く感じます、という意味だ。
 これに対し許六はこう和す。

   洗足に客と名の付寒さかな
 綿舘双ぶ冬むきの里       許六

 「綿舘」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には、「綿の干し場」とある。どのようなものかはよくわからない。
 まあ、とにかく綿がたくさんあるから冬にはちょうど良い里ですということで、洗足盥についても当たり前のことをしているだけですというふうに受ける。
 第三は芭蕉が付ける。

   綿舘双ぶ冬むきの里
 鷦鷯階子の鎰を伝ひ来て     芭蕉

 鷦鷯(みそさざい)はウィキペディアに、

 「日本の野鳥の中でも、キクイタダキと共に最小種のひとつ。常に短い尾羽を立てて、上下左右に小刻みに震わせている。属名、種小名troglodytesは「岩の割れ目に住むもの」を意味する。
 茂った薄暗い森林の中に生息し、特に渓流の近辺に多い。単独か番いで生活し、群れを形成することはない。繁殖期以外は単独で生活する。
 早春の2月くらいから囀り始める習性があり、平地や里山などでも2月頃にその美しい囀りを耳にすることができる。」

とある。早春二月は旧暦で師走の終わりから正月の初めになる。囀りの声を本意としてか、冬の季語とされている。
 『荘子』には、「鷦鷯深林に巣くうも一枝に過ぎず」という言葉があり、分相応に満足する者をいう。
 「階子の鎰」は階段の段鼻のことか、よくわからない。
 森の中の一枝で用の足りるミソサザイも、冬になれば人里に降りてきて囀る。そこが冬向きの場所だからだ。

2019年1月19日土曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「又云ク、愚老が俳諧ハ五哥仙ニいたらざる人、一生涯成就せず、大事也。覚悟せよといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

 「五哥仙」は岩波文庫の注に、「『尾張五歌仙』即ち『冬の日』のこと。」とある。
 ただ、このあとの許六の返事からすると、最低でも歌仙を五つは巻かなくてはならない、という意味か。

 「予、俳諧、師とする事、全篇慥ニ成就する巻二哥仙、半分ニミてざる巻二ツ、以上四巻也。
 師の云、愚老相手と成て俳諧する事、三・四度也。いつとてもだれだれと俳諧するハ、かやうの物と容易におもふ事なかれ。真ンの俳諧をつたふる時ハ、我骨髄より油を出す。かならずあだにおもふ事なかれと、大きに恩をしめされたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94)

 元禄五年の冬には十月三日許六亭興行の、

 けふばかり人も年よれ初時雨  芭蕉

の句を発句とする歌仙と、

 十二月許六亭興行の、

 洗足に客と名の付寒さかな   洒堂

を発句とする歌仙と、二つの歌仙に許六は参加している。この二つの歌仙には洒堂も参加している。この他にも満尾しなかった巻が二つあったのか、『校本芭蕉全集』には載ってない。
 この二つの歌仙興行の時、芭蕉は真の俳諧を伝えようと骨髄から油を搾り出すような思いで臨んだということで、許六はこれを大変な恩を受けたと受け止める。
 「骨髄より油を出す」という言い回しだが、骨髄の油を出すのではなく、「骨髄」は比喩で自分の持てるものの真髄を、胡麻や菜種やアブラギリを圧搾して油を搾り出すように、一句一句全力で句を付けている、という意味だろう。
 「けふばかり」の巻は鈴呂屋書庫の蕉門俳諧集に以前書いた解説があるのでそちらもよろしく。確かに芭蕉の句は一句一句力が入っている。

 「其正月、予が亡母の七季追悼に到ル。心安き相手求めて、歌仙一巻終ル。成て師ニ呈ス。師これを読て、且ツよろこび且ツ称ス。
 予が云ク、師の流、此歌仙の外ニあらバ、予が俳諧終ニ本意を遂る事あたハじといへば、師の云ク、全ク是也。うたがひ侍る事なかれと、大きに感ゼり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.94~95)

 この正月の歌仙は残念ながら『韻塞』には載ってない。ただ、この歌仙を入れれば、ぎりぎり五歌仙になる。

2019年1月17日木曜日

 師走の月も太り、春も近い。明け方には金星と木星が見える。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「師ノ云、第一手筋よし、器よしといへ共、手筋のあしきハならず。すみやかに此度、俳諧の底をぬかセんといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.92~93)

 六つのことを言いながら、その第一の「器」よりも大事なものとして、ここで「手筋」を挙げる。
 「手」というのは本来書の腕をいう言葉で、それが様々な芸事に拡大されている。茶道では「お手前」という。
 また、「筋」もまた様々な芸事で「筋が良い」という用い方がされている。
 ここでの手筋は天性の才能というような意味だろう。器はいろいろな物事を学び取り、取り入れ受け入れる、その入れ物の大きさで、広さをあらわす概念なのに対し、手筋は深さをあらわすようだ。それが「底をぬかセん」という言葉に繋がる。
 今日では「底を抜く」という言葉は廃れているが、「底知れない」という言い方はする。その逆は「底が浅い」ということになる。
 いろんな物事を受け入れる度量はあっても、底が浅くてはいけないというのは、おそらく洒堂のことを念頭に置いて言っているのであろう。要するに博識なだけでは駄目ということだ。それに対し、許六の「十団子」の句は、芭蕉からすれば底を抜かれる思いだったのだろう。許六がそれを理解できたかどうかは別として。

 「門弟の中に底をぬくものなし。あら野の時を得たりといへ共、ひさごに底を入レられ、ひさごハさるミのに底有て、古今をへだてらる。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)

 門弟に底を抜くものがいないということは、これまで底を抜いてきたのは芭蕉自身だということになるか。
 荷兮編の『あら野』は蕉風確立期の蕉門の集大成のようなもので、一世を風靡した。許六も「于時(ときに)あら野集出来たり。よろこむで求め、昼夜枕とす。」と言っていた。
 『ひさご』は珍碩(洒堂)編で、『阿羅野』の底を更に掘り下げたと言っても洒堂の功績ではなかったようだ。
 『猿蓑』は去来と凡兆の編だが、これも芭蕉が底を更に掘り下げたものだった。

 「底のぬけたる者、新古の差別なし。昨日・今日・又明日と流行して、一日も葦をとめずといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)

 これも芭蕉自身のことであろう。許六に同じ才能を期待し、次の集の編纂のことも考えたのかもしれない。
 実際に実現した次の集は『続猿蓑』だが、これは沾圃編にはなっているものの、沾圃の発案で実際には芭蕉と支考が編纂し、芭蕉の死去の跡は支考が引き継いだ。
 芭蕉は許六にも期待していたのかもしれないが、許六の六つの長所を挙げたときには「手筋」のことに触れてなかったように、あくまで可能性として考えていただけであろう。
 許六はひょっとしたら底を抜くかもしれないが、今の時点ではまだ無理だということで、「俳諧の底をぬかセん」とこれから指導してそれを引き出せるかどうかと考えたのではなかったかと思う。ただ芭蕉の存命中にそれは実現しなかったし、その後も芭蕉亡き後の俳諧を牽引する力はなかった。
 この頃芭蕉が思い描いてた次なる新風のより深い底は、許六のみならず、支考、惟然をもってしても結局掘り下げることは出来なかった。俳諧は芭蕉を頂点として終った。
 蕪村を中興の祖とすることはできるが、芭蕉を越えるまでには至らなかった。
 子規は芭蕉の延長線上にはいなかった。西洋文学の理念へシフトすることで、俳諧とは別の「俳句」という新ジャンルを作ったと言った方がいい。

 「其冬の頃、愚句
 寒菊の隣もありやいけ大根
といふ句せし時、洒堂が句に
 鶏やほだ焼く夜るの火のあかり
と時を同し侍る。
 此両句、翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93)

 「いけ大根」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 ① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》
※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」

とある。
 冬咲きの菊は寂しげだが、その隣に大根が埋まっていると思えば、その寂しさも紛れるだろうかと、許六の句は「寒菊の隣にいけ大根もありや」の倒置。「や」は疑いの「や」で詠嘆ではない。「も」も力もで並列の「も」ではない。
 冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。こういう手法は何とか今までの風よりも深めようという意欲は感じられるが、全体に印象が薄く決定打にはなっていない。これが元禄六年冬の一つの到達点だったのだろう。
 洒堂の句の「ほだ焼く」は「ほた(榾)」を焼くということか。「ほた」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 ①  囲炉裏や竈かまどでたく薪たきぎ。掘り起こした木の根や樹木の切れはし。ほたぐい。ほたぎ。 [季] 冬。 《 -煙顔をそむけて手で払ふ /池内友次郎 》

とある。
 冬の夜明けを告げる鶏のなく頃は、一番冷え込む時間でもある。そこにあるのはわずかな「ほた」を焼く火のみ。寒々とした中にも夜明けがあり、やがてくる春を匂わせる。
 これも当時の一つの到達点だったのだろう。でもやはり何かが足りない。ここに足りないものが何かというところを許六に考えさせたかったのではないかと思う。

 「予云、我久敷色々の風を学ぶゆへに、ふるき場。新敷場ハ慥ニおぼゆる也。此場所より外ニ案じ出す所ハなし。然共能句稀なるをなげくといへば、師ノ云、好悪ハ時のよろしきにつくとしめし給へり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.93~94)

 許六も今までの色々な風の流行からして、こうした句が新しいのはわかる。ただここよりも更に深くとなると何も思いつかない。ただ、なかなか本当に良い句が生まれてこないのは残念だというと、良し悪しはその時代が決めるものだと答える。結局必要なのは古池の句や猿に小蓑の句のような大衆から知識人までうならせるヒット作だ。

2019年1月16日水曜日

 梅原猛さんが亡くなったが、正直ちゃんと読んだのは『水底の歌』くらいだったか。
 ただ、それまで『万葉集』というと古代人の素朴でおおらかなと言うイメージが強かったのに対し、当時のまだ不安定な大和朝廷のなかで刑死し、その非業の魂が御霊となって歌聖となったと言う話は面白かった。
 戦前の歴史観だと、万葉の時代は理想郷で、戦後になって壬申の乱などの血塗られた歴史が一般に知られるようになった。
 歴史観は時代とともに変わってゆく。柿本人麻呂に対する見方も『万葉集』に対する見方も変わってゆく。小生も芭蕉は俳諧や連歌の見方も変えてゆきたいと思っている。
 それでは『俳諧問答』の続きを、又少し。

 「其後予が旅亭にまねきたる時、師の雑談ニ云ク、いづれの道カ叶ひ侍るといへば、師ノ云、我国々の人に対して俳諧の器を求む。求め得て、直指の法を伝べきとおもふ事日々ニあり。
 今撰集を見て予が腸を探り得たる人ハ許子也。千載の後も許子の如き人、世にあるまじき共おもはず。されば、しいて器を求むる事をやめたり。
 今日の望ハ、性痴にして、多年大きに執心をかけるといへ共、会て動ざる人あるべし。是ハ愚老がたすけにあハざれば、道ニ入がたし。
 器のすぐれたるものハ、独り教へずしていたるといへり。
 許子ガ本性を見るに、愚老が求むる所に大方叶ふ人也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.91~92)

 芭蕉の許六評は繰り返しという感じがする。とにかく許六は誤解されたまま、でもあの芭蕉さんが言うんだからというところで舞い上がってゆく様子がよくわかる。

 「師ノ云、器のすぐれたるもの、是第一也、これ一ツ。
 大きに此道に執心の人、許子ハ寝食をわすれ、財宝・色欲に代へる人也、これ二ツ。
 年始終を越る人ならず、年漸三十七、これ三ツ。
 いとまある身ニあらざれバ、道を行ジがたし、是四ツ。
 貧賤にして朝夕に苦める人ならず。許子富貴ニあらずといへ共、商買農士に穢れず、これ五ツ。
 許子博識ニあらずといへ共、和漢の文字ニ乏しからず。珍碩がごとき人にあらず、是六ツ也。
 此六ツの物揃へる人稀也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.92)

 まあ、とにかく褒め言葉がよく並ぶ。こんなにこと細かく覚えているのは、よっぽど嬉しかったのだろう。まあ、二つ目の俳諧に寝食を忘れというのは、事実だったのだろう。三十七でようやく仕事の隙も増えて、強度芭蕉が深川に隠棲する年齢というのも気に入られた理由だっただろう。
 ただ、「富貴ニあらず」だったかどうかはよくわからない。まあ、大津に左遷されたりして、ひところほど羽振りがよくもなかったのかもしれないが。
 「博識ニあらず」となると、やや褒め殺している感じもする。
 珍碩は洒堂のことだが、「ひさご」を編集し、芭蕉には気に入られたはずだが、その後何かいさかいでもあったか。洒堂はこの翌年『俳諧深川集』を出す。そしてその洒堂がいきなり大阪に移住し、之道とトラブルを起していること聞きつけ、芭蕉の大阪への最後の旅の理由の一つにもなる。
 まあ、許六が「博識ニあらず」なのに対し、洒堂は博識をひけらかすとことも多かったのだろう。そのわりには結構怪しげな知識が多かったりして、要ははったりが強かっただけなのだろう。芭蕉もこの頃にはすっかり失望していたか。

2019年1月14日月曜日

 今日は原宿の太田記念美術館へ「かわいい浮世絵 おかしな浮世絵」展を見て、それから新宿へ行き「マチルド、翼を広げ(明日もその先もずっと)」という映画を見た。
 浮世絵の方は、江戸時代の人の想像力はすばらしく、今日のジャパンクールが一日にしてなったものではなく、長い伝統の上にある事を確認できたような気がした。
 映画の方は、これは「ドラえもん」かな?道具は出さないけど、いろいろ助言をして女の子を助けてゆく。コキンメフクロウはさすがにミネルバのフクロウと言われるだけあって賢い。
 その他にも千駄ヶ谷の鳩森神社や将棋会館を見たり、Monmouth Teaの紅茶やYYG Brewery & Beer Kitchenのビールを飲んだり、盛りだくさんの一日だった。
 そういうわけで『俳諧問答』の方はあまり進まないが、続きを。

 「又問テ云、予が俳諧と晋子が俳諧と符合せざる事、幷師の風雅と予が風雅と符合せし事をのべて、不審を明し給へといへば、師ノ云ク、許子俳諧をすき出る時、閑寂にして山林にこもる心地するをよろこび、元来俳諧数奇出ずやといへり。
 答云ク、しかり。師もすく所かくのごとし。
 晋子がすく所ハ、会て此趣にあらず。俳諧ハ伊達風流にして、作意のはたらき、面白物とすき出たる相違也。故ニ晋子と許子と符合せざるといへり。
 初て眼ひらき、一言に寄て筋骨に石針するがごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.90)

 芭蕉と其角は長い付き合いではあるが、この頃は路線の違いから疎遠になっていた。その辺のことは許六も知っていたであろう。ならば、その対立を利用して、自分は其角に点を乞うたこともあったがしっくり来ず、むしろ芭蕉の風に近いことをアピールすることになる。これも「いひ勝」だ。
 そこで気を良くした芭蕉は、自分が閑寂を好み許六も閑寂を好む所が一致していて、其角は都会的な伊達を好む所が違うと言う。

 「又問テ云、師ト晋子ト、師弟ハ、いづれの所を教へ習ひ得たりといはむ。答テ云、師が風閑寂を好てほそし。晋子が風伊達を好てほそし。この細き所師が流也。爰に符合スといへり。又大きに感ズ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.90~91)

 これは芭蕉の「ほそみ」を問題する時に必ず引用される有名なフレーズだ。
 前に「ほそみは共感から来る細やかな気遣いで、共感の根底には同じように生きていて、やがて死んでいく、自分と同じものであるという共鳴がある。」が、こうした共感は田舎での閑寂な暮らしで自然界の命に共鳴する共感もあるが、都会暮らしの中で様々な人間の様々な立場への共感もある。
 ただ、芭蕉にも人事に優れた句はあるし、其角にも自然を詠んだ優れた句はあるから、これはどちらかというと程度のことで、実際芭蕉と其角の違いは、芭蕉が興行中心で興行のためなら田舎の辺鄙な地をも厭わないのに対し、其角は芭蕉に負けず頻繁に旅をするとはいえ、それは興行のためではなく、街で点者として生活する方がメインになる。
 どちらも「ほそみ」を具えてはいるが、田舎廻りを好んでの「ほそみ」と都会生活を好んでの「ほそみ」とが違うと見た方が良いのかもしれない。

 「又問テ云、予探り当たる所、真ンの俳諧の血脈ニ侍るやといへば、此所毛頭うたがひあるべからず。心を正敷して、俗を離るる外ハなしといへり。其日ハ退去ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.91)

 これで見ると、「血脈」は芭蕉の言い出したことではなく、許六が言った言葉を芭蕉が追認したにすぎない。
 よく芭蕉の帰俗と蕪村の離俗が対比されるが、ここで芭蕉が「俗を離るる外ハなし」というのは、許六の資質に対して、それを伸ばすには「俗を離るる外ハなし」と言ったのであろう。まあ、「帰俗」は俗を去りながらも、「和光同塵」よろしく俗を見捨てずに俗に交わりながら俗を離れるという高度な生き方をさすものだから、俗物で良いという意味ではない。
 「市隠」という言葉もあるが、山中に居て俗に染まらないのはたやすいが、街に居て俗に染まらないのは難しいという意味では、許六にも田舎での閑寂を好み俗を離れながらも、またその心を市中においても保てることを求めていたのではないかと思う。それが「十団子」の句への期待だったと思う。
 これで許六と芭蕉との最初の対面は終る。

2019年1月13日日曜日

 今日は晴れた寒い一日だった。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「橘町より深川芭蕉庵再興して入給ふ年也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87)

 深川芭蕉庵は三期に分けられている。第一次芭蕉庵は延宝九年に隠棲した時から天和二年十二月二十八日に八百屋お七の大火で焼失するまで、第二次はその後再建され元禄二年の『奥の細道』への旅立ちの際に引き払うまで、そして第三次は元禄五年に再興されたこの芭蕉庵を言う。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、

 「五月中旬 第三次芭蕉庵が竣工し、橘町の仮居より移る。」

とある。
 芭蕉の俳文『芭蕉を移す詞』には、

 「既に柱は杉風・枳風が情を削り、住居は曾良・岱水が物ずきをわぶ。」(『芭蕉文集』、日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店p.203)

と、杉風と枳風の支援によって土地と建設資金が用意され、曾良と岱水によって造営が進められたと思われる。
 枳風は貞享三年の正月の「日の春を」の巻(『初懐紙評注』所収)で、

   砌に高き去年の桐の実
 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風

の第三と他六句を詠んでいる。
 同じく『芭蕉を移す詞』には、新しい芭蕉庵の様子がこう記されている。

 「北に背(そむき)て冬をふせぎ、南にむかひて納涼ををたすく、竹蘭池に臨(のぞめ)るは、月を愛(すべき)料にやと、初月の夕より夜毎に雨をいとひ雲をくるしむほど、器(うつはもの)こころごころに送りつどひて、米は瓢(ひさご)にこぼれ、酒は徳りに満ツ。
 竹を植、樹をかこみて、やや隠家ふかく、猶明月のよそほひにとて、芭蕉五本(いつもと)を植て、其葉七尺余、凡琴をかくしぬべく、琵琶の袋にも縫つべし。」(『芭蕉文集』、日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店p.203)

 そして一句。

 芭蕉葉を柱にかけん庵の月    芭蕉

 この句は『奥の細道』の旅立ちの時に「草の戸も」の句を詠み、「面八句を庵の柱に懸置。」としたことに応じるものか。

 「江戸着の日数を経ず、桃隣手引きして、八月九日深川の庵をたたき、師弟契約の初也。一座嵐蘭・桃隣・浄求法師也。
 桃隣いひけるハ、翁へ発句持参あるべしといふにまかせ、桃隣執筆して四・五句初て呈ス。

   七月十四夜嶋田金やの送り火を
   見て感をます
 聖霊とならで越えけり大井川
 十団子も小粒ニ成ぬ秋の風
 かけ橋のあぶな気もなし蝉の声
 我跡へ猪口立寄清水哉
  此外もありし、おぼえず。

 師見終て云ク、就中うつの山の句、大きニ出来たり。其外清水・かけ橋の句もよしと、数遍感ぜられたり。
 大井川の句ハ、其時少加筆あり。略す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87~88)

 浄求法師についてはよくわからないが、weblio辞書の「芭蕉関係人名集」には、

 「深川芭蕉庵近くに住む乞食坊主。名前から、時宗の僧侶か?
 『別座舗』に、

 「深川の辺に浄求といへる道心有、愚智文盲にして正直一扁の者也。常に翁につかへてちいさき草の戸を得たり。朝夕芭蕉庵の茶を煮ル事妙也」

とある。」

とある。「乞食坊主」がどういう意味で用いられているのかはよくわからない。第三次芭蕉庵で住み込みで芭蕉の世話をしていた僧のようだが、ホモ説の詮索はしないことにしよう。
 「茶を煮ル」は素堂との漢詩交じりの両吟「破風口に」の巻の脇に、

   破風口に日影やよはる夕涼
 煮茶蠅避烟           素堂

とある。当時広まりつつあった煎茶の原型ともいえる唐茶(隠元禅師の淹茶法)のことであろう。「乞食」といっても、ちゃんとしたお寺で修行したお坊さんであることが十分に想像できる。
 許六の発句の評で、「うつの山の句、大きニ出来たり」というのは、

 十団子も小粒ニ成ぬ秋の風    許六

の句で、結局これが許六生涯の代表作になってしまった感がある。
 芭蕉はこの頃、蕉風確立期から猿蓑調にかけての古典復古からの脱却を図っていて、古典の情に囚われずにもっと生活の中から来る真実の情に迫ろうとしていた。
 あからさまに値上げすると文句言われそうだから、こっそりと量を減らして実質値上げにするパターンは今日でもよくあることで、そんな世知辛い世の中への不満を発句にするというのが、当時の芭蕉としては斬新というか、待ってましたという句だったのではないかと思う。
 しかもこの句は猿蓑調のときに説いてきた「基(もとゐ)」や「本意本情」に決して反してはいない。それでも何か猿蓑調とは違った新しさがある。

 かけ橋のあぶな気もなし蝉の声  許六
 我跡へ猪口立寄清水哉      同

 この句も直す所なしと高く評価された。
 桟(かけはし)といえば危ないもので、芭蕉も『更科紀行』の旅のときに、

 桟や命をからむ蔦かづら     芭蕉

の句を詠んでいる。このあぶない桟を「あぶな気もなし」と言って、何でだと思わせておいて「蝉の声」で、確かに蝉なら飛べるから危なくもなんともなく、桟に留まって平然と鳴いていると落とす。
 桟に留まって鳴いている蝉の姿は誰もが見たことあるもので、同時にあるあるネタでもある。これはなかなか上手い。
 「我跡へ」の句の「猪口」は「ちょこ」ではなく「いぐち」と読むようだ。岩波文庫版には括弧して(兎脣)とある。口唇口蓋裂、俗に言う「みつくち」のことだ。
 清水に立ち寄り旅の喉の渇きを潤し涼んで立ち去ろうとすると、口唇口蓋裂の人がやってきたというネタだが、おそらく『戦国策』の「唇亡歯寒(唇亡びて歯寒し)」の言葉を思い起こしたのだろう。口唇口蓋裂の人なら、清水はより冷たく、より涼しいのではないか、ということか。
 今ならポリコレ棒で叩かれそうだが、ただ、俳諧にはどんな人間でも登場させることができる。登場させることをタブーとする方がむしろ差別なのではないかと思う。アメリカ映画でも必ず黒人を登場させなくてはいけないように、「いなかったことにする」というのがもっとも厳しい差別なのではないかと思う。
 ヘイトスピーチへの規制も、あまり厳しい法律を作ってしまうと、却ってそうした人たちのことには触れないのが一番良いということになり、結局はいなかったことにされてしまう。
 穢多・非人に関しても、いなかったことにするのではなく、時代劇などでは必ず登場させるようにした方が良いと思う。

 聖霊とならで越えけり大井川    許六

の句は「其時少加筆あり」というように、若干の添削を受けたようだ。元の形は不明。
 「聖霊」は「精霊」と同じ。お盆のときに帰ってくる死者の霊。
 精霊流しは今では長崎が有名だが、かつては全国で行われていた。句は、大井川で溺れて精霊流しになってしまうことなく無事に渡れたという意味になる。
 前年の冬の芭蕉の句に、

 ともかくもならでや雪の枯尾花   芭蕉

の句があり、似てなくもない。この句は「ともかくも雪の枯尾花にならでや」の倒置で、雪に埋もれた枯れ尾花のような行き倒れにならなくてよかった、という意味。

 「予つくづく不審を生ズ。再編きき返し、うつの山の句よく侍るやといへば、成程よしといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.88)

 このあたり、許六自身「十団子」の句を意味を理解してなかった証拠ではないこと思う。彦根藩の家老クラスの重臣だけに、本当は庶民の感情なんてそんなに理解してなかったのではなかったかと思う。
 多分秋風の頃となると心なしか十団子までが小さく心細く見えてくる、という程度の意味で詠んだのかもしれない。
 芭蕉に言われて却って、「えっ、この句のどこがそんなに良いの?」と戸惑った感じが伝わってくるし、結局最後まで理解できてなかったのかもしれない。

 「予がきき返したる事を、不審におもひ給ふや、翁ノ云、許子ハ愚老ニ対面し給ハざる以前、愚老が門弟に対面し給ふやと問ひ給ふ。
 予が云、しからず。尚白に二度対面しける後ハ、ひたすらあら野・さるミの二集に眼をさらし、昼夜句を探る事隙なし。
 少さぐりあてたりとおもへば、跡より師の吟じ出し給ふ句、大きに相違せり。其風を探り見れバ、又跡の句似たる形もなし。昼夜吟腸を断て、漸此うつの山の句を得たり。
 此句二十句斗仕直し、二日案じ煩ふて後、小粒に成ぬといふ事を取出したりと答ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.88~89)

 あれ、其角にも会ったんじゃないって思うが、おそらく其角は独立した其角門で、もはや芭蕉の門人ではない、むしろ破門されたと思ってたのかもしれない。下手に其角の名を出すと芭蕉が気を悪くするのではないか、なんて気遣ったのだろう。
 この『俳諧問答』も去来が其角をディスったのに対し、許六が其角を擁護するところから始まっている。許六は「俳諧稽古の為ニ益なし」とは言うものの、其角に対して悪い感情は持ってなかったはずだ。
 ただ、やはり価値観が違いすぎたか、点取り俳諧の其角に点を乞うても、何でこれが長点で、何でこの句は無印なのか、さっぱりわからなかったのではないかと思う。もっとも芭蕉の評にも首をひねっているあたりの許六の価値観って、て感じはする。
 許六は、どうすれば芭蕉のような句を詠めるのかと、『阿羅野』や『猿蓑』を本がぼろぼろになるまで読み返したのだろう。
 十団子の句の初案がどうだったかはわからないが、宇津の山の名物十団子で何か句を作れないかとあれこれ悩み、工夫し、どうすれば芭蕉のような句になるのかとさんざん考えた挙句、「うん、これなら芭蕉っぽい」とばかりに「小粒に成ぬ」というフレーズをひねり出したようだ。
 実はここに初期衝動など何もなかった。少なくとも、小粒になった十団子を見て「ひでえな」と思って詠んだ句ではないようだ。

 「師の云ク、先建て尚白問答一々ききたり。
 今日許子が句を見る事、専ラ撰集ニて眼をさらしたる事明也。愚老が魂を探り当られたり。愚老が魂を集にて探当る人は、門弟幷他門共ニ許子一人也。昼夜此魂を門弟子ニ説といへ共、通じがたし。
 愚老が本望今日達せりとて、大きによろこび給へり。撰集を見る事、許子ニ及ぶ人あるまじと、返す返す称し給へり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89)

 まあ、結局芭蕉の勘違いというか、残念ながら誤解だったようだ。撰集を読んで表面だけ真似るのが上手かったので騙されてしまったか。

 「予彌(いよいよ)不審出来ス。つくづくおもふに、俳諧ハいひ勝と平呑にのミ切て居侍る時、師云、許子が俳諧と晋氏が俳諧ハ会て符合せず。愚老が俳諧と許子が俳諧とハ符合すといへり。此一言ニ力を得て懺悔ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89)

 「いひ勝」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 負けじと盛んに言うこと。われがちにしゃべりまくること。
※史記抄(1477)一五「小罪なれども、云かけて大罪の様になして、云いかちを高名にするぞ」
 ② とかく口にすること。ともすると言い出すこと。「とかく老人は文句を言い勝ちである」

とある。この場合は①の意味だろう。今日の「言ったもん勝ち」に近いかもしれない。
 「平呑にのミ切て」は「平呑みに飲みきって」ということか。とにかく褒められたんだからその通りだと思っていれば良い、ぐらいの感じか。
 「懺悔」というのは、「私が嘘をつきました。其角とは会ってます。」というところか。

 「予云、されバ今日対面の初より、予が心中大きに迷ヨへり。此御一言に寄て少力を得たり。
 予高翁ニ対面せざる以前、晋氏が方へ此点を乞句、百四五十あり。予がよしとおもふ句ニハ点稀にして、いひ捨の句ニ褒美の点あり。
 今日師の感じ給ふ句。大方一点の句也。然所に師殊の外ニ感給ふ。
 予が不審ここにあり。師の高弟は晋子也。師弟の胸旨ヶ様ニかはりて頼母しからず。畢竟俳諧ハいひ勝と決定し侍るなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89~90)

 芭蕉の評も意外に思ってるのだから、其角の評が意外でも何の不思議もない。要するに許六の句は良く出来た似せ物だ。でも、聞く人がそれで感動するなら結果オーライで、まさに「いひ勝」だ。

2019年1月12日土曜日

 今日は午前中雪がちらちらと舞ったが、すぐに雨に変わった。
 『俳諧問答』の続き。今日もほんの少し前へ進みます。

 「其後予東武に官遊して、其角に両席会ス。俳諧稽古の為ニ益なし。
 其比猿ミの出板して、翁ハ吾妻の方へ赴き給ふ時、李由が明照寺に漂白し給ふといへ共、予又東武に逗留の間にして、かた違ひする事、是又師の縁のうすきなげき也。
 其冬予故山に帰時、師ハ平田より出てミの・尾張を過ギ、東武ニ趣き、又かた違する事かくのごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86~87)

 芭蕉がまだ上方にいるときに許六は江戸に行って其角に会っている。
 『猿蓑』は元禄四年七月に出版され、その年の九月二十八日の千那宛書簡に、「平田明照寺へも一宿立ち寄り申すべく候」とある。
 平田明照寺は彦根にあり、李由が住職を務めていた。この時許六はまだ江戸にいた。
 そして芭蕉が江戸に着く頃には許六も彦根に戻っていた。東海道のどこかですれちがったか。

 「予明年七月又東武に趣く。此時翁に対面せむ事をよろこぶ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87)

 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)だと、許六と芭蕉との初対面は八月九日になっている。

2019年1月11日金曜日

 マラソンとか駅伝とかを見て分かるように、スタート直後はみんな一斉に団子のように固まって走っていても、トップとビリとの間は走れば走るほど広がり続けてゆく。
 貧富の差も同じようなもので、経済が成長すればするほどトップとビリの差は大きくなる。経済が成長し続ける限り貧富の差の拡大は自然なことであり、それを再分配によって無理に正そうとすると、トップランナーを転ばすことになり、経済全体を停滞させることになる。
 大事なのは競争を公正に行うことであり、経済犯罪を軽んじて不正蓄財を野放しにするなら、庶民の競争意欲がそがれ、あきらめムードが社会に蔓延する。
 経済犯罪者を甘やかせば、結局暴動という形で跳ね返ってくると思う。どこかの国も日本を見習った方がいい。
 見習うというなら、日本の笑いも見習った方がいい。シャルリの風刺画は結局笑う人と怒る人との分断を生んだだけだった。
 そういうわけで『俳諧問答』。気持ちを切り替えていこう。

 「しかりといへ共、元来ふかくこのめる道なれバ、終にわすれがたくて、おりふしハ他の句を尋ネ、頃日の風儀などを論ズ。其比一天下、桃青を翁と称して、彌(いよいよ)名人の号を四海にしくと沙汰ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 これも天和の頃の話だろう。
 延宝九年に芭蕉は三十八歳で深川に隠棲し、庭には李下から贈られた芭蕉一株が植えられ、この頃から芭蕉は翁と呼ばれるようになっていった。
 当時四十前後での隠居は珍しいものではなく、四十という年齢は「初老」と呼ばれるにふさわしかった。許六も四十代の季吟を老人と呼んでいる。
 また、この頃から芭蕉は書簡にも「はせを」の署名をするようになるが、俳書に「芭蕉」の号が登場するのはもう少し後になる。
 延宝九年の『俳諧次韻』で談林風を脱却した芭蕉の名声はますます高まり、天和の破調は伊丹の長発句とともに一世を風靡した。

 「予此人の器を見るに、我レ肩をならべたる時、中々及ばざる上手也。日々名人となり侍らん。ねがハくハ一度対面して、俳諧の新風をききたしと、便宜を求る事一・二年、其内翁の句幷門人の句等をききて、其風を探る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85~86)

 まあ、こういう許六のような人がたくさんいたから、芭蕉は名人として不動の評価を得るに至ったのだろう。
 天和から蕉風確立期へうつり、やがて芭蕉は古池の句で大ブレイクする。天下津々浦々、もはや知らぬ人はないくらいの有名人になった。この頃になってようやく会って新風を聞きたいと思っても、同じような人は日本中にたくさんいた。
 こういうワンテンポ遅れて流行を後追いしてしまうのが許六の限界だったのかもしれない。

 「于時(ときに)あら野集出来たり。よろこむで求め、昼夜枕とす。其後つづきが原・いつを昔等の集も、略(ほぼ)世に出たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)

 『阿羅野』は元禄二年の三月。芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だった。
 不卜編の『続の原』は貞享五年。其角編の『いつを昔』は元禄三年。、この頃許六は蕉門の俳諧に熱中することになる。
 ウィキペディアには、

 「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

とある。父の隠居と時期が一致する。私生活の変化が許六を本格的に俳諧の道へ邁進させたのだろう。

 「又俳諧する事、都合四・五年、数千言・数万言、相手を嫌ハず。其内ニ大津尚白ニ両度対して大意を求む。猶微細の所ハ、集を以て毎日探る。予がふかく翁をまねく事、師の耳ニ入る間も二・三年、終ニ江東に遊び給ハずして、師弟の縁のうすき事、今日になげく。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)

 元禄二年に『奥の細道』の旅を終えた後、芭蕉は元禄四年の九月の終わり頃までは江戸には戻らず、大津、京都、伊賀などそう遠くない所にいたはずなのに、許六はついに会うことが出来なかった。
 元禄四年の十月の終わり、芭蕉は江戸に戻る。

2019年1月10日木曜日

 毎年その年の干支の動物はテレビでもしつこいくらい特集をやったりするのに、今年の猪の姿はあまり見ない。
 ニホンイノシシを飼っている動物園が少ないこともあるのだろう。
 随分前に社員旅行で伊豆に行ったとき、イノシシの芸を見たが、その天城いのしし村も二〇〇八年で閉園したという。
 本来「猪」という字はブタをあらわすもので、そう言われて見れば『西遊記』の猪八戒はブタだ。だから中国や韓国ではブタ年で、昔の日本にはブタを飼う習慣がなかったから、日本だけイノシシなのだという。
 さて、それでは『俳諧問答』の続き。

 「其比常矩が何がし集の付句ニ、

 物の時宜も所によりてかハりけり
   難波のあしを伊勢風呂でえた

といふ句有。秀逸とて入集ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84)

 まず問題なのは「伊勢風呂」だが、これは天正十九年(一五九一)に伊勢与一が開業した銭湯のことだろうか。ウィキペディアにはこうある。

 「江戸における最初の銭湯は、徳川家康が江戸城に入って間もない1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した。当時の銭湯は蒸気浴(蒸し風呂)の形式であった。
 その後江戸では、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した(江戸時代初期)。」

 「難波のあし」もここでは単なる植物の葦ではあるまい。風呂屋に葦が生えているわけではないから。
 一つ穿った見方だが、これは、

 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ
    みをつくしてや恋ひわたるべき
          皇嘉門院別当(『千載集』)

だろうか。江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。
 物の時宜も所によって変り、今日では難波江の葦の仮寝の一夜を風呂屋で得られる、だったら意味が通じる。
 余談だが戦後しばらく「トルコ風呂」と呼ばれる脱法的な売春施設があったが、この「風呂」は上方で長いこと売春の場であった「風呂屋」を引き継いでいたのだろうか。トルコ人の抗議により、今は「ソープランド」と名前を変えている。
 この句は、『菟玖波集』巻十四の

    草の名も所によりてかはるなり
 なにはのあしはいせのはまをぎ
                救済(きゅうせい)

をふまえたもので、「所によりてかはるなり」と「所によりてかハりけり」が酷似している所から、歌てにはのように「難波のあし」を引き出している。ただ、内容はまったく別で、こうした換骨奪胎は談林のお家芸といえよう。
 さて、これに対する許六の評だが、

 「我黨これをとらず。『所によりてかハりけり』といふ句ニ、難波のあしハつけらるまじ。前句拵たるやうにして、うまく面白キ事なしとて、かやうの事より常矩を見破る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84~85)

 「黨」は「党」の旧字だが「わがともがら」と読むのだろうか。よくわからない。
 どうやら前句を後から拵えたか手直ししてズルしたと見たようだ。まあ、興行の中で前句を見て、ここをちょっと変えると面白い句が付くから変えてくれないか、みたいな事はあったかもしれない。
 許六はこれを芭蕉の句を比較する。

 「又其頃桃青の付句ニ、

 きき耳やよそにあやしき荻の声
   難波のあしハ伊勢の四方一

と云句あり。是上手の作なりとて感じて、桃青を上手と称ス、」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 この句は延宝六年刊の『江戸三吟』に収録された、

 あら何共なやきのふは過て河豚汁  桃青

を発句とする延宝五年冬の興行の一巻の十句目になる。「よもいち」は『校本芭蕉全集第三巻』の注には、

 「伊勢の人で盲人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名。」

とある。有名だというからネットで探してみたが見つからなかった。
 まあ、視覚障害者が聴覚に優れているというのはよくあることで、他所で怪しげな荻の声がするので聞き耳を立てるが、それは「難波の葦」ならぬ伊勢の四方一だった、と付く。
 「あやしき荻」から普通の荻ではなく「浜荻」のことだろうとして、「難波の葦」の声を聞く伊勢の四方一には、それが「荻の声」だった、という落ちなのだが、展開の仕方は確かに上手だが、句としてそれほど面白いかという感じはする。
 何か今でもよくあることだが、マイナーな地味な作品を取り上げて、この良さを俺はわかるんだとばかりに自慢げに語る人がいるが、そんな感じがしなくもない。
 まあ、許六さんもこの句を見てすぐに桃青にコンタクトを取って遠距離ながら弟子にしてもらおうとかしなかったところを見ると、常矩よりはマシくらいの感覚だったか。

 「其後転変して、自暴自棄の眼出来、我句もおかしからず。他句猶以とりがたし。所詮他人の涎をねぶらんより、やめて乱舞に遊ぶ事、又四・五年也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 延宝四年に主君である井伊直澄を失い、そのあと許六に何があったのかはよくわからない。まあ、代が変われば家臣の上下関係も変わってくるものだから、それまでのような羽振りの良さはなくなったのだろう。
 ウィキペディアには、

 「天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う。」

とあるから、つまりは左遷されたか。

2019年1月9日水曜日

 『俳諧問答』の続き。
 「其頃出る諸集に渡て、一天下の俳諧おそらくハ掌の中ニ握りたる様ニおぼゆ。
 常矩門人の五・三人ニさされて、田舎遠境の門弟の第一と称ス。
 如泉などいへる者ハ、予より遥におとりたる門人也。かれが高弟ニ宗雅・利次などいへるものと、五句付点取等ニくびきするもの、予が俳友三・四人ならでハなし。
 仕官懸命ニつながれたれバ、度々の上洛もなし。只筆談・撰集等ニて風儀を識得ス。田舎に居すといへ共、京師・東武の宗匠ニ習ハずして風儀を改る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83~84)

 常矩のもとで昼夜も忘れて俳諧に熱中し、すっかり俳諧で天下を取った気分になっていたと言うが、それはそれでやや大袈裟に盛っている感じがする。
 常矩門人の五本の指に入るだとか京から離れたところでは一番だとか、それはあくまで常矩門の中だけの話であろう。
 同門の如泉とその高弟の宗雅・利次が当時の許六の俳友だったようだ。ただ許六は延宝四年までは近江彦根藩第三代藩主の井伊直澄に仕えていた。その後も天和二年に大津に行くまで彦根に留まっていた。手紙や撰集を通じて俳諧を学んでいた。

 「遥に後ニ世間の風儀のかハる事毎度也。習ハずして流行するハ、昨日の我ニ飽キたる故也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84)

 季吟門から常矩門に移ったのも、貞門に飽きたからなら、常矩門の談林にも飽きる時が来る。

2019年1月8日火曜日

 新暦では松の内も終り、そろそろ平常運転ということになる。
 旧暦ではこの前の日食が朔で今日は師走の三日。三日月が見えた。
 さて、そろそろ中断していた『俳諧問答』に戻ろうかと思う。
 岩波文庫の『俳諧問答』(横澤三郎校注、一九五四)の八十三ページからの「俳諧自讃之論」をまず読んでみよう。

 「一、おこがましき申事といへ共、此論先生の腹を抱えて御披覧を蒙度候。
 先生ト予ハ、亡師在世の中かたく契約をなして、江東に上らば洛陽の去来子ト心安申通べしと翁の一言より、推参慮外をかへりミず、度々の通書を送る。終ニ外の同門ニ対して、俳諧の儀論する事なし。
 是レ師教の恩をわすれざると、察し給ふべ事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83)

 「先生」はこれまでの手紙のやり取りの相手だった去来のことであろう。まあ、笑って読んでくださいと謙遜してこの論を書き始める。
 これまでの論争も芭蕉が「去来子ト心安申通べし」と言ったことによるもので、ここでまた俳諧の議論をすることも、芭蕉翁の恩に報いるためだ、と前置きしてこの論は始まる。

 「一、予俳諧をこのむ事千人に過たり。廿余年昼夜俳諧に眼をさらす。初学の時ハ季吟老人の流に手引せられて、中ごろ談林の風起て急ニ風を移し、京師田中氏常矩法師が門人ト成て、俳諧する事七・八年、昼夜をわすれて、一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83)

 「千人に過たり」は多くの人よりもまさるということ。
 許六は明暦二年(一六五六)の生まれで、寛永二十一年(一六四四)生まれのの芭蕉とは十二歳下で一回り違う。それでも季吟門から入り、後に談林に感化された点では芭蕉と同じような道を辿っている。
 芭蕉が伊賀で蝉吟の発句、季吟の脇で行われた「野は雪に」の興行が寛文五年(一六六五)で、このとき芭蕉は二十一、許六は九歳ということになる。
 許六が季吟に師事したのはこれよりはもう少し成長してからであろう。寛文の終わり頃だろうか。その頃既に「季吟老人」だったようだがまだ四十代で、季吟は長生きで八十まで生きたから、この『俳諧問答』の頃もまだ御存命だった。
 一方、寛文の終わり頃から宗因の俳諧は上方を中心に流行し、延宝になるや一気にブレイクする。芭蕉は延宝三年に江戸にやって来た宗因の俳諧興行に一座することになる。その頃許六は京都談林の田中常矩に師事していた。常矩は当時京都にたくさんの門人を抱えていたという。
 「一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す」というのは西鶴の矢数俳諧に代表されるような当時の流行で、二十四時間の間に即興で何句付け続けることができるかを競った。
 芭蕉が談林風を吸収しながら『俳諧次韻』で独自の風を作り上げていった頃、許六は矢数俳諧にはまっていたようだ。ただ、一日三百句、五百句は、三千風の三千句や西鶴の二万三千五百句には遠く及ばない。

2019年1月7日月曜日

 今日は西暦で一月七日、七草粥の日。思い出すのは三十年前。

 七草にビデオの塵となる昭和   こやん

 昭和天皇が崩御して、テレビは一日中昭和を回顧するモノクロ映像が流れていた。
 昭和は確かに戦前の大正デモクラシーの時代から昭和恐慌を経て軍国主義の時代へ、日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦。戦後の民主主義や学生運動、高度成長からオイルショック、まさに激動の時代だった。
 それに較べると平成は経済的な浮き沈みや震災はあったが、概ね平和で変化に乏しい時代だったといえよう。平成を回顧するといってもすぐ終わっちゃいそうだ。
 芭蕉の時代だと七草より若菜の句のほうが多い。
 若菜摘みは本来正月初めの子の日の行事で、江戸時代には正月の一つの区切りである七日に七草を食べる習慣が広まっていった。『荊楚歲時記』の、「正月七日為人日,以七種菜為羹」に習ったとされている。
 『阿羅野』では「歳旦」のあとの「初春」に若菜や七草の句が分類されている。

 七草をたたきたがりて泣子かな    俊似

 これは「七草叩き」という七草粥を作る時の儀式があって、goo国語辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「七種の節句の前夜または当日の朝、まな板の上に春の七草をのせ、『ななくさなずな、唐土 (とうど) の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに、ストトントンとたたきなせえ』などとはやしながら包丁・すりこぎなどで叩くこと。ななくさばやし。」

 実際には七草自体をを叩くのではなく、まな板を叩いて歌ったのだろう。いかにも子供が面白がってやりたがりそうな儀式だ。でも包丁は危ないし、させてもらえなかったんだろうな。
 『猿蓑』には、

 七種や跡にうかるる朝がらす     其角

の句がある。先の七草の囃子は鳥除けの意味もあったのだが、七草を摘んだ翌日にはカラスが浮かれている。
 同じ『猿蓑』に、

 ひとり寝も能(よき)宿とらん初子日 去来

の句もある。若菜摘みの句ではないが、この次の句から若菜摘みの句が続く。でも、この句は初子を初寝に掛けているのではないか。
 等躬撰の『伊達衣』には「人日」の句が三句ある。

   人日
 粥木も口芳しき七日哉        未琢
 贄殿に鶴と添をく根芹哉       須竿
 芹一葉二葉に氷くだけけり      好水

 「粥木」はコトバンクの「粥の木」の項の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「小正月(正月一五日)の粥を食べるときの箸。クリ、ヌルデ、ニワトコなどでつくった長い箸の頭の方を削りかけたままにしたもの。この頭の方を粥の煮え立った中へさしこんですぐに引き上げ、さかさにして門の両側に一本ずつさしたりする。孕(はら)み箸。《季・新年》」

とある。七日の七草粥にも用いられたのだろう。
 「贄殿(にえどの)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 大嘗会(だいじょうえ)のとき、悠紀(ゆき)・主基(すき)の内院において神供(じんく)を納めておく殿舎。
 2 宮中の内膳司(ないぜんし)にあって諸国から献上の贄を納めておく所。
 3 貴人の家で、食物とする魚・鳥の類を蓄えたり、調理したりする所。」

とあり、この場合は3だろう。
 好水の句は、

 袖ひちてむすびし水のこほれるを
     春立つ今日の風やとくらむ
               紀貫之(古今集)

によるものか。芹を摘む時に「風やとくらむ」となる。思うに、昔は年内立春と逆に立春が七日以降になることもあったから、若菜摘や七草の頃に立春となることもあったのだろう。

2019年1月6日日曜日

 正月というと餅が一般的だが、餅を食わぬ人たちというのもいたようだ。
 『鵲尾冠』(越人撰)にある歳旦三つ物に、

 似合しや新年古き米五升       芭蕉
   雲間をわけて袖に粥摘      其角
 紋所その梅鉢やにほふらん      杜国

とある。
 この三つ物は別々に詠まれた句を、あとから越人がコラージュしたものであろう。同じところに、

 元日の炭売十ヲの指黒し       其角
   吹雪を祝うあたらしき蓑     杜国
 辛崎の松は花より朧にて       芭蕉

の三つ物もある。この第三は芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で詠んだ「発句」だ。
 ともあれ、新年に古米五升が似合うというのはどういうことだろうか。
 「金沢歴活」のホームページによると、室町時代は新米より古米の方が値段が高く、その理由が古米の方が水分が少なくて、炊くと膨らむからだという。
 芭蕉の発句は天和四年の句と言われているが、この頃のことはよくわからない。多分天和三年の、

 花に浮世我飯黒く酒白し       芭蕉

と同様、一種の貧乏自慢だったのではないかと思う。新年も餅ではなく膨らんでたくさん食べられる古米五升が似合っているという意味ではないかと思う。それも玄米で黒い飯だったのだろう。
 この句に越人は粥の句をコラージュする。古米はお粥にしたに違いないと思ったわけだ。
 越人には、

   世の雑煮喰ふ時、雑水をくらふ草
   堂に
 のさばつて肱を曲たり宿の春     越人

の句も同じ『鵲尾冠』にある。お粥と雑炊の違いはあるが、多分ここからの発想で、越人は古米にお粥を付けたのではないかと思う。多分こうした人たちというのは僧侶であろう。

 しら粥の茶碗くまなし初日影     丈草

の句もある。
 お正月というと、餅、雑煮、それにお屠蘇がある。今日では正月に飲む普通の酒をお屠蘇と呼んだりもするし、これを入れるというお屠蘇の粉もある。
 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「元日に祝儀として飲む薬酒。屠蘇酒の略。肉桂(につけい),山椒(さんしよう),白朮(びやくじゆつ)(オケラの若根),桔梗(ききよう),防風(ぼうふう)などの生薬(しようやく)を配合した屠蘇散(とそさん)を清酒,または,みりんに浸して作る。中国唐代にはじまる習俗を伝えたもので,唐代には上記のほかに大黄(だいおう),虎杖(いたどり),烏頭(うず)(トリカブトの根)を加えて〈八神散〉と呼び,これを紅色の布袋に入れて,大晦日の暮れがた井戸の中につるし,元旦に引き上げて袋のまま酒に浸した。」

 この井戸の中に吊るし、というのは元禄の日本でも行われていたようだ。

 静かさは屠蘇汲揚る釣瓶哉      蓑笠(鵲尾冠)
 目出度さは色に出けり屠蘇袋     考遊(鵲尾冠)

 お屠蘇は雑煮とともに正月に欠かせないものという意味で、

   宇治川の先陣ならねど、元日の一
   二もまた
 梶原と佐々木なり梟(けり)雑煮屠蘇 夕泉(鵲尾冠)

という句もある。
 宇治川の戦いは、ウィキペディアに、

 「平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。」

とあり、

 「義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。佐々木高綱と梶原景季の『宇治川の先陣争い』はこの時のことである。」

とある。
 『鵲尾冠』には、もっと珍しい正月料理もある。

   千代万代とは、松平かに治る御世
   は
 弥勒まで御世や兎の御吸物      越人

 「兎の御吸物」は「伊予歴史文化探訪」というブログによれば、

 「徳川氏にては、元日武臣の賀礼を受くる前に、先づ黒書院にて、世子以下一族の献酬あり。兎の吸物を出し、老中近侍の輩相伴するを例とす。(『古事類苑』「歳時部」年始祝の解説)」

とあり、さらに、

 「『古事類苑』に引く『官中秘策』によると、元日に「兎の吸物」を食すのは、徳川氏の祖先の世良田有親・親氏が乱を逃れて信州に赴いたときに、旧知の間柄の林光政(藤助)が獲ってきた兎を吸物にして二人をもてなし年始を祝したことに由来するという。」

とある。
 前書きの「松平かに」は松飾の並ぶ平和な様と、徳川を名乗る前の苗字「松平」を掛けている。千代万代どころか弥勒まで5億7600万年とは、ヨイショも過ぎる。まあ、その辺の俗っぽさが越人の持ち味だが。

2019年1月5日土曜日

 今日から仕事始めで、そろそろこの俳話も書かなくてはな。
 二日は毎年恒例の武州柿生琴平神社の初詣。
 三日は「街道を行く、東海道編」の続きで、掛川から磐田まで歩いた。
 四日は足柄峠から富士山を見た。
 掛川へ行く時の新幹線からも富士山はよく見えた。富士といえば、

 元朝の見る物にせん富士の山     宗鑑

という初期の俳諧の発句もある。
 それでは今日は正月ということで、今でもある正月の風物を見てみようか。
 まずは門松。お馴染みのコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 正月に家の門口に立てる飾りの松。元来、年神(としがみ)の依(よ)り代(しろ)であったとみられる。中世以降、竹を添える場合が多い。かどのまつ。まつかざり。《季 新年》「―の雪のあたたかに降りにけり/涼菟」

と凉菟の句まで載っている。
 貞門では、

 春立やにほんめでたきかどの松    徳元

の句が分かりやすい。門松は門の左右に二本立てるので、日本目出度きとなる。

 家々の千とせやあまたかどの松    捨女

の句もある。
 蕉門では、

 月雪のためにもしたし門の松     去来

 コトバンクにもあった、

 角松の雪のあたたかに降りにけり   凉菟

の句がある。
 さて、正月といえばやはり餅。

   年明て春立けるに
 柴に又餅花さくや二度の春      令徳

は貞門の句。

 大門の扉の腹やかがみもち      木導(彦根正風体)
 つき臼もうごかぬ御代や鏡餅     田札(彦根正風体)

は蕉門の句。
 そして餅と言えばお雑煮。コトバンクの「雑煮(読み)ぞうに
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「餅に数種の野菜,鶏肉,魚介類,魚肉練製品,豆製品などを加えて煮た汁物。正月三ヵ日に食べて新年を祝う。古くは室町時代にもつくられたが,一般に行事食となったのは江戸時代からである。地方により汁や加える副材料に特色があり,汁は大別して濃尾平野を境にして関西地方の味噌汁と中部・関東地方以北の澄まし汁に分けられる。たとえば東京付近では焼いた切り餅に鶏やかもの肉,えび,かまぼこ,青野菜,ゆずなどを加え,こんぶとかつお節で出し汁をとり,澄まし仕立てとする。京阪地方では大根,人参,八頭などの野菜や焼き豆腐などを入れ,丸餅を焼かないで湯煮して加え白味噌仕立てとする。」

とある。

 雑煮にや千代のかずかく花かつお   捨女

は貞門の句。蕉門では、


 鶯や雑煮過ての里つづき       尚白
 唐めかず目出たし雑煮神の膳     調和(伊達衣)
 どこに居て雑煮喰やらかくれ笠    凉菟(皮籠摺)

   閑居の器は漆嗅からず、元朝の茶
   碗寒けれども清し。蓋をひらけば
   猶風雅にして、餅と若草と花一輪。
 梅散てかくれ家風の雑煮哉      木因(一幅半)
 ほかほかと鼻をむしたる雑煮哉    春卜(一幅半)

といった句がある。
 ウィキペディアに、

 「江戸時代、尾張藩を中心とした東海地方の諸藩では、武家の雑煮には餅菜(正月菜)と呼ばれる小松菜に近い在来の菜類(あいちの伝統野菜)のみを具とした。餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=餅)上げる」という縁起担ぎだったという。」

とあり、木因の句はこのシンプルな雑煮に梅の花一輪を添えたもの。
 正月の書初め。

 筆ひぢてむすびし文字の吉書哉    宗鑑

   手握蘭口含鶏舌
 ゆづり葉や口に含みて筆始      其角

 羽根つき。

 羽子板の絵はさまざまよ明てから   羽かせ(一幅半)
 羽子をつく童部心に替りたし     ツ子(一幅半)

 姫初め。

 ほこ長し天が下照姫はじめ      望一

 そういうわけで、近代俳句だが、

 去年今年貫く棒の如きもの      虚子

 今年も去年と変わらず頑張ります。