2019年1月6日日曜日

 正月というと餅が一般的だが、餅を食わぬ人たちというのもいたようだ。
 『鵲尾冠』(越人撰)にある歳旦三つ物に、

 似合しや新年古き米五升       芭蕉
   雲間をわけて袖に粥摘      其角
 紋所その梅鉢やにほふらん      杜国

とある。
 この三つ物は別々に詠まれた句を、あとから越人がコラージュしたものであろう。同じところに、

 元日の炭売十ヲの指黒し       其角
   吹雪を祝うあたらしき蓑     杜国
 辛崎の松は花より朧にて       芭蕉

の三つ物もある。この第三は芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で詠んだ「発句」だ。
 ともあれ、新年に古米五升が似合うというのはどういうことだろうか。
 「金沢歴活」のホームページによると、室町時代は新米より古米の方が値段が高く、その理由が古米の方が水分が少なくて、炊くと膨らむからだという。
 芭蕉の発句は天和四年の句と言われているが、この頃のことはよくわからない。多分天和三年の、

 花に浮世我飯黒く酒白し       芭蕉

と同様、一種の貧乏自慢だったのではないかと思う。新年も餅ではなく膨らんでたくさん食べられる古米五升が似合っているという意味ではないかと思う。それも玄米で黒い飯だったのだろう。
 この句に越人は粥の句をコラージュする。古米はお粥にしたに違いないと思ったわけだ。
 越人には、

   世の雑煮喰ふ時、雑水をくらふ草
   堂に
 のさばつて肱を曲たり宿の春     越人

の句も同じ『鵲尾冠』にある。お粥と雑炊の違いはあるが、多分ここからの発想で、越人は古米にお粥を付けたのではないかと思う。多分こうした人たちというのは僧侶であろう。

 しら粥の茶碗くまなし初日影     丈草

の句もある。
 お正月というと、餅、雑煮、それにお屠蘇がある。今日では正月に飲む普通の酒をお屠蘇と呼んだりもするし、これを入れるというお屠蘇の粉もある。
 コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「元日に祝儀として飲む薬酒。屠蘇酒の略。肉桂(につけい),山椒(さんしよう),白朮(びやくじゆつ)(オケラの若根),桔梗(ききよう),防風(ぼうふう)などの生薬(しようやく)を配合した屠蘇散(とそさん)を清酒,または,みりんに浸して作る。中国唐代にはじまる習俗を伝えたもので,唐代には上記のほかに大黄(だいおう),虎杖(いたどり),烏頭(うず)(トリカブトの根)を加えて〈八神散〉と呼び,これを紅色の布袋に入れて,大晦日の暮れがた井戸の中につるし,元旦に引き上げて袋のまま酒に浸した。」

 この井戸の中に吊るし、というのは元禄の日本でも行われていたようだ。

 静かさは屠蘇汲揚る釣瓶哉      蓑笠(鵲尾冠)
 目出度さは色に出けり屠蘇袋     考遊(鵲尾冠)

 お屠蘇は雑煮とともに正月に欠かせないものという意味で、

   宇治川の先陣ならねど、元日の一
   二もまた
 梶原と佐々木なり梟(けり)雑煮屠蘇 夕泉(鵲尾冠)

という句もある。
 宇治川の戦いは、ウィキペディアに、

 「平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。」

とあり、

 「義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。佐々木高綱と梶原景季の『宇治川の先陣争い』はこの時のことである。」

とある。
 『鵲尾冠』には、もっと珍しい正月料理もある。

   千代万代とは、松平かに治る御世
   は
 弥勒まで御世や兎の御吸物      越人

 「兎の御吸物」は「伊予歴史文化探訪」というブログによれば、

 「徳川氏にては、元日武臣の賀礼を受くる前に、先づ黒書院にて、世子以下一族の献酬あり。兎の吸物を出し、老中近侍の輩相伴するを例とす。(『古事類苑』「歳時部」年始祝の解説)」

とあり、さらに、

 「『古事類苑』に引く『官中秘策』によると、元日に「兎の吸物」を食すのは、徳川氏の祖先の世良田有親・親氏が乱を逃れて信州に赴いたときに、旧知の間柄の林光政(藤助)が獲ってきた兎を吸物にして二人をもてなし年始を祝したことに由来するという。」

とある。
 前書きの「松平かに」は松飾の並ぶ平和な様と、徳川を名乗る前の苗字「松平」を掛けている。千代万代どころか弥勒まで5億7600万年とは、ヨイショも過ぎる。まあ、その辺の俗っぽさが越人の持ち味だが。

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