2019年1月9日水曜日

 『俳諧問答』の続き。
 「其頃出る諸集に渡て、一天下の俳諧おそらくハ掌の中ニ握りたる様ニおぼゆ。
 常矩門人の五・三人ニさされて、田舎遠境の門弟の第一と称ス。
 如泉などいへる者ハ、予より遥におとりたる門人也。かれが高弟ニ宗雅・利次などいへるものと、五句付点取等ニくびきするもの、予が俳友三・四人ならでハなし。
 仕官懸命ニつながれたれバ、度々の上洛もなし。只筆談・撰集等ニて風儀を識得ス。田舎に居すといへ共、京師・東武の宗匠ニ習ハずして風儀を改る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83~84)

 常矩のもとで昼夜も忘れて俳諧に熱中し、すっかり俳諧で天下を取った気分になっていたと言うが、それはそれでやや大袈裟に盛っている感じがする。
 常矩門人の五本の指に入るだとか京から離れたところでは一番だとか、それはあくまで常矩門の中だけの話であろう。
 同門の如泉とその高弟の宗雅・利次が当時の許六の俳友だったようだ。ただ許六は延宝四年までは近江彦根藩第三代藩主の井伊直澄に仕えていた。その後も天和二年に大津に行くまで彦根に留まっていた。手紙や撰集を通じて俳諧を学んでいた。

 「遥に後ニ世間の風儀のかハる事毎度也。習ハずして流行するハ、昨日の我ニ飽キたる故也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84)

 季吟門から常矩門に移ったのも、貞門に飽きたからなら、常矩門の談林にも飽きる時が来る。

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