2019年1月31日木曜日

 久しぶりにまとまった雨が降っている。これが雪に変わるのかどうか、今はまだわからない。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「人先に医者」の句は、あえて想像するなら、医者は自由業だから、世俗のしきたりに無頓着な所があって、四月一日にならなくても暖かくなったら勝手に袷を引っ張り出して着てたりしたのではなかったかと思う。
 蕉門でも医者は多い。洒堂がそうだし、凡兆、尚白、木節、荷兮、不玉、史邦も医者だ。園女も医者の家に嫁ぎ、自身も目医者だったという。其角の父も医者で、其角自身も医者の修行をしている。去来は医者ではないが父と兄は医者だった。芭蕉の周辺で医者には事欠かない。
 今は大病院などで、ほとんどサラリーマンのような医者もいるが、当時は資格も要らず、占い師のように簡単に開業できる。ただ、成功するにはそれなりの実績と信用が必要だが、話芸やはったりも必要だ。この自由気ままさが俳諧師との親和性を生んでいたのだろう。
 ただ、許六のこの句が本当に瞬時に作ったかどうかはわからない。自分の才能をアピールするための多少の脚色はあったのではないかとおもう。
 たとえば普段からあれこれ俳諧のネタを集めている中で、仕損じになるために没にしていたネタを覚えていて、芭蕉が仕損じでも良いと言ったことで、それを思い出して句にした可能性はある。

 「予此時の意趣を曾てわすれず。間に髪を不入して、今日ニ案じつめたり。
 予が大悟発明するといふ所ハ、去先生の論じ給ふ不易・流行の二ツニハ非ズ。翁の父母より相続し給ふ血脈の所也。
 我あら野・猿ミのの二集を眼にさらし、工夫をつよくめぐらして、昼夜わするる隙なくて、自然に此血脈の端をうかがひ置侍るゆへ、言下に血脈の所を大悟し、俳諧の底を打破て眼のさやをはづす。
 師の血脈を大悟したるものハ、全ク不易・流行の所を不論、一向に血脈を失なハざる所を本意とす。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96~97)

 これまで許六が芭蕉とのことをいろいろ語ってきたのは、結局このことが言いたかったわけだ。
 ただ、血脈については、芭蕉が「人先に医者」の句に対し、「此句、秀たる句ニあらずといへ共、血脈の正敷所より出て」と言ったことが根拠になっているが、芭蕉のどういう意図で「血脈」と言ったかはこれだけではよくわからない。ましてそれを「相続」するというのは、許六の勝手な解釈なのではないかと疑いたくなる。
 ただ、芭蕉がこの頃不易流行を説かなくなっていたのは確かだろう。芭蕉は元来理論家ではない。不易流行にしても『奥の細道』の旅をともにした曾良の影響だろうし、血脈についても体系的な理論はない。ただ、芭蕉が追及したのは人間の本性であり、様々な人情の根底にあるその核のようなものだったのだろう。これは朱子学の言葉を借りれば「性」であり「誠」ということになる。そしてそれが不易だというのも確かだろう。
 去来に不易流行を説いた頃には、蕉風確立期の古典回帰がまだ残っていて、現代の情も古典の情も、その根底にある物が一つなら、それは古典から学べるということだったのだと思う。このことが基と本意本情の重視として去来に伝わったのだと思う。
 許六に教える頃には、芭蕉はこの根源的なものをもはや現代と古典を区別せずに、今日の概念でいえば表現の初期衝動のようなものに至っていたのではなかったかと思う。
 どちらが正しいということではない。ただ目指す所は人間の情の根源ではなかったかと思う。そこに近づくための道筋を変更しただけではないかと思う。
 これは西洋のような肉体に対する精神だとか理性だとかいうものではない。肉体と精神が混然となったような朱子学でいうなら「性理」であり、惜しむのは、芭蕉がここに治世の根底となるような理論を求めなかったことであろう。
 西洋が理性を中心に人権思想を打ち立てたように、東洋では人情の根底にある性理に至ることで、そこから別の思想や政治理念が可能だったかもしれない。今からでもその可能性を考える価値はあると思う。

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