今日は晴れた寒い一日だった。
それでは『俳諧問答』の続き。
「橘町より深川芭蕉庵再興して入給ふ年也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87)
深川芭蕉庵は三期に分けられている。第一次芭蕉庵は延宝九年に隠棲した時から天和二年十二月二十八日に八百屋お七の大火で焼失するまで、第二次はその後再建され元禄二年の『奥の細道』への旅立ちの際に引き払うまで、そして第三次は元禄五年に再興されたこの芭蕉庵を言う。
『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、
「五月中旬 第三次芭蕉庵が竣工し、橘町の仮居より移る。」
とある。
芭蕉の俳文『芭蕉を移す詞』には、
「既に柱は杉風・枳風が情を削り、住居は曾良・岱水が物ずきをわぶ。」(『芭蕉文集』、日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店p.203)
と、杉風と枳風の支援によって土地と建設資金が用意され、曾良と岱水によって造営が進められたと思われる。
枳風は貞享三年の正月の「日の春を」の巻(『初懐紙評注』所収)で、
砌に高き去年の桐の実
雪村が柳見にゆく棹さして 枳風
の第三と他六句を詠んでいる。
同じく『芭蕉を移す詞』には、新しい芭蕉庵の様子がこう記されている。
「北に背(そむき)て冬をふせぎ、南にむかひて納涼ををたすく、竹蘭池に臨(のぞめ)るは、月を愛(すべき)料にやと、初月の夕より夜毎に雨をいとひ雲をくるしむほど、器(うつはもの)こころごころに送りつどひて、米は瓢(ひさご)にこぼれ、酒は徳りに満ツ。
竹を植、樹をかこみて、やや隠家ふかく、猶明月のよそほひにとて、芭蕉五本(いつもと)を植て、其葉七尺余、凡琴をかくしぬべく、琵琶の袋にも縫つべし。」(『芭蕉文集』、日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店p.203)
そして一句。
芭蕉葉を柱にかけん庵の月 芭蕉
この句は『奥の細道』の旅立ちの時に「草の戸も」の句を詠み、「面八句を庵の柱に懸置。」としたことに応じるものか。
「江戸着の日数を経ず、桃隣手引きして、八月九日深川の庵をたたき、師弟契約の初也。一座嵐蘭・桃隣・浄求法師也。
桃隣いひけるハ、翁へ発句持参あるべしといふにまかせ、桃隣執筆して四・五句初て呈ス。
七月十四夜嶋田金やの送り火を
見て感をます
聖霊とならで越えけり大井川
十団子も小粒ニ成ぬ秋の風
かけ橋のあぶな気もなし蝉の声
我跡へ猪口立寄清水哉
此外もありし、おぼえず。
師見終て云ク、就中うつの山の句、大きニ出来たり。其外清水・かけ橋の句もよしと、数遍感ぜられたり。
大井川の句ハ、其時少加筆あり。略す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.87~88)
浄求法師についてはよくわからないが、weblio辞書の「芭蕉関係人名集」には、
「深川芭蕉庵近くに住む乞食坊主。名前から、時宗の僧侶か?
『別座舗』に、
「深川の辺に浄求といへる道心有、愚智文盲にして正直一扁の者也。常に翁につかへてちいさき草の戸を得たり。朝夕芭蕉庵の茶を煮ル事妙也」
とある。」
とある。「乞食坊主」がどういう意味で用いられているのかはよくわからない。第三次芭蕉庵で住み込みで芭蕉の世話をしていた僧のようだが、ホモ説の詮索はしないことにしよう。
「茶を煮ル」は素堂との漢詩交じりの両吟「破風口に」の巻の脇に、
破風口に日影やよはる夕涼
煮茶蠅避烟 素堂
とある。当時広まりつつあった煎茶の原型ともいえる唐茶(隠元禅師の淹茶法)のことであろう。「乞食」といっても、ちゃんとしたお寺で修行したお坊さんであることが十分に想像できる。
許六の発句の評で、「うつの山の句、大きニ出来たり」というのは、
十団子も小粒ニ成ぬ秋の風 許六
の句で、結局これが許六生涯の代表作になってしまった感がある。
芭蕉はこの頃、蕉風確立期から猿蓑調にかけての古典復古からの脱却を図っていて、古典の情に囚われずにもっと生活の中から来る真実の情に迫ろうとしていた。
あからさまに値上げすると文句言われそうだから、こっそりと量を減らして実質値上げにするパターンは今日でもよくあることで、そんな世知辛い世の中への不満を発句にするというのが、当時の芭蕉としては斬新というか、待ってましたという句だったのではないかと思う。
しかもこの句は猿蓑調のときに説いてきた「基(もとゐ)」や「本意本情」に決して反してはいない。それでも何か猿蓑調とは違った新しさがある。
かけ橋のあぶな気もなし蝉の声 許六
我跡へ猪口立寄清水哉 同
この句も直す所なしと高く評価された。
桟(かけはし)といえば危ないもので、芭蕉も『更科紀行』の旅のときに、
桟や命をからむ蔦かづら 芭蕉
の句を詠んでいる。このあぶない桟を「あぶな気もなし」と言って、何でだと思わせておいて「蝉の声」で、確かに蝉なら飛べるから危なくもなんともなく、桟に留まって平然と鳴いていると落とす。
桟に留まって鳴いている蝉の姿は誰もが見たことあるもので、同時にあるあるネタでもある。これはなかなか上手い。
「我跡へ」の句の「猪口」は「ちょこ」ではなく「いぐち」と読むようだ。岩波文庫版には括弧して(兎脣)とある。口唇口蓋裂、俗に言う「みつくち」のことだ。
清水に立ち寄り旅の喉の渇きを潤し涼んで立ち去ろうとすると、口唇口蓋裂の人がやってきたというネタだが、おそらく『戦国策』の「唇亡歯寒(唇亡びて歯寒し)」の言葉を思い起こしたのだろう。口唇口蓋裂の人なら、清水はより冷たく、より涼しいのではないか、ということか。
今ならポリコレ棒で叩かれそうだが、ただ、俳諧にはどんな人間でも登場させることができる。登場させることをタブーとする方がむしろ差別なのではないかと思う。アメリカ映画でも必ず黒人を登場させなくてはいけないように、「いなかったことにする」というのがもっとも厳しい差別なのではないかと思う。
ヘイトスピーチへの規制も、あまり厳しい法律を作ってしまうと、却ってそうした人たちのことには触れないのが一番良いということになり、結局はいなかったことにされてしまう。
穢多・非人に関しても、いなかったことにするのではなく、時代劇などでは必ず登場させるようにした方が良いと思う。
聖霊とならで越えけり大井川 許六
の句は「其時少加筆あり」というように、若干の添削を受けたようだ。元の形は不明。
「聖霊」は「精霊」と同じ。お盆のときに帰ってくる死者の霊。
精霊流しは今では長崎が有名だが、かつては全国で行われていた。句は、大井川で溺れて精霊流しになってしまうことなく無事に渡れたという意味になる。
前年の冬の芭蕉の句に、
ともかくもならでや雪の枯尾花 芭蕉
の句があり、似てなくもない。この句は「ともかくも雪の枯尾花にならでや」の倒置で、雪に埋もれた枯れ尾花のような行き倒れにならなくてよかった、という意味。
「予つくづく不審を生ズ。再編きき返し、うつの山の句よく侍るやといへば、成程よしといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.88)
このあたり、許六自身「十団子」の句を意味を理解してなかった証拠ではないこと思う。彦根藩の家老クラスの重臣だけに、本当は庶民の感情なんてそんなに理解してなかったのではなかったかと思う。
多分秋風の頃となると心なしか十団子までが小さく心細く見えてくる、という程度の意味で詠んだのかもしれない。
芭蕉に言われて却って、「えっ、この句のどこがそんなに良いの?」と戸惑った感じが伝わってくるし、結局最後まで理解できてなかったのかもしれない。
「予がきき返したる事を、不審におもひ給ふや、翁ノ云、許子ハ愚老ニ対面し給ハざる以前、愚老が門弟に対面し給ふやと問ひ給ふ。
予が云、しからず。尚白に二度対面しける後ハ、ひたすらあら野・さるミの二集に眼をさらし、昼夜句を探る事隙なし。
少さぐりあてたりとおもへば、跡より師の吟じ出し給ふ句、大きに相違せり。其風を探り見れバ、又跡の句似たる形もなし。昼夜吟腸を断て、漸此うつの山の句を得たり。
此句二十句斗仕直し、二日案じ煩ふて後、小粒に成ぬといふ事を取出したりと答ふ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.88~89)
あれ、其角にも会ったんじゃないって思うが、おそらく其角は独立した其角門で、もはや芭蕉の門人ではない、むしろ破門されたと思ってたのかもしれない。下手に其角の名を出すと芭蕉が気を悪くするのではないか、なんて気遣ったのだろう。
この『俳諧問答』も去来が其角をディスったのに対し、許六が其角を擁護するところから始まっている。許六は「俳諧稽古の為ニ益なし」とは言うものの、其角に対して悪い感情は持ってなかったはずだ。
ただ、やはり価値観が違いすぎたか、点取り俳諧の其角に点を乞うても、何でこれが長点で、何でこの句は無印なのか、さっぱりわからなかったのではないかと思う。もっとも芭蕉の評にも首をひねっているあたりの許六の価値観って、て感じはする。
許六は、どうすれば芭蕉のような句を詠めるのかと、『阿羅野』や『猿蓑』を本がぼろぼろになるまで読み返したのだろう。
十団子の句の初案がどうだったかはわからないが、宇津の山の名物十団子で何か句を作れないかとあれこれ悩み、工夫し、どうすれば芭蕉のような句になるのかとさんざん考えた挙句、「うん、これなら芭蕉っぽい」とばかりに「小粒に成ぬ」というフレーズをひねり出したようだ。
実はここに初期衝動など何もなかった。少なくとも、小粒になった十団子を見て「ひでえな」と思って詠んだ句ではないようだ。
「師の云ク、先建て尚白問答一々ききたり。
今日許子が句を見る事、専ラ撰集ニて眼をさらしたる事明也。愚老が魂を探り当られたり。愚老が魂を集にて探当る人は、門弟幷他門共ニ許子一人也。昼夜此魂を門弟子ニ説といへ共、通じがたし。
愚老が本望今日達せりとて、大きによろこび給へり。撰集を見る事、許子ニ及ぶ人あるまじと、返す返す称し給へり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89)
まあ、結局芭蕉の勘違いというか、残念ながら誤解だったようだ。撰集を読んで表面だけ真似るのが上手かったので騙されてしまったか。
「予彌(いよいよ)不審出来ス。つくづくおもふに、俳諧ハいひ勝と平呑にのミ切て居侍る時、師云、許子が俳諧と晋氏が俳諧ハ会て符合せず。愚老が俳諧と許子が俳諧とハ符合すといへり。此一言ニ力を得て懺悔ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89)
「いひ勝」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 負けじと盛んに言うこと。われがちにしゃべりまくること。
※史記抄(1477)一五「小罪なれども、云かけて大罪の様になして、云いかちを高名にするぞ」
② とかく口にすること。ともすると言い出すこと。「とかく老人は文句を言い勝ちである」
とある。この場合は①の意味だろう。今日の「言ったもん勝ち」に近いかもしれない。
「平呑にのミ切て」は「平呑みに飲みきって」ということか。とにかく褒められたんだからその通りだと思っていれば良い、ぐらいの感じか。
「懺悔」というのは、「私が嘘をつきました。其角とは会ってます。」というところか。
「予云、されバ今日対面の初より、予が心中大きに迷ヨへり。此御一言に寄て少力を得たり。
予高翁ニ対面せざる以前、晋氏が方へ此点を乞句、百四五十あり。予がよしとおもふ句ニハ点稀にして、いひ捨の句ニ褒美の点あり。
今日師の感じ給ふ句。大方一点の句也。然所に師殊の外ニ感給ふ。
予が不審ここにあり。師の高弟は晋子也。師弟の胸旨ヶ様ニかはりて頼母しからず。畢竟俳諧ハいひ勝と決定し侍るなり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.89~90)
芭蕉の評も意外に思ってるのだから、其角の評が意外でも何の不思議もない。要するに許六の句は良く出来た似せ物だ。でも、聞く人がそれで感動するなら結果オーライで、まさに「いひ勝」だ。
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