マラソンとか駅伝とかを見て分かるように、スタート直後はみんな一斉に団子のように固まって走っていても、トップとビリとの間は走れば走るほど広がり続けてゆく。
貧富の差も同じようなもので、経済が成長すればするほどトップとビリの差は大きくなる。経済が成長し続ける限り貧富の差の拡大は自然なことであり、それを再分配によって無理に正そうとすると、トップランナーを転ばすことになり、経済全体を停滞させることになる。
大事なのは競争を公正に行うことであり、経済犯罪を軽んじて不正蓄財を野放しにするなら、庶民の競争意欲がそがれ、あきらめムードが社会に蔓延する。
経済犯罪者を甘やかせば、結局暴動という形で跳ね返ってくると思う。どこかの国も日本を見習った方がいい。
見習うというなら、日本の笑いも見習った方がいい。シャルリの風刺画は結局笑う人と怒る人との分断を生んだだけだった。
そういうわけで『俳諧問答』。気持ちを切り替えていこう。
「しかりといへ共、元来ふかくこのめる道なれバ、終にわすれがたくて、おりふしハ他の句を尋ネ、頃日の風儀などを論ズ。其比一天下、桃青を翁と称して、彌(いよいよ)名人の号を四海にしくと沙汰ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)
これも天和の頃の話だろう。
延宝九年に芭蕉は三十八歳で深川に隠棲し、庭には李下から贈られた芭蕉一株が植えられ、この頃から芭蕉は翁と呼ばれるようになっていった。
当時四十前後での隠居は珍しいものではなく、四十という年齢は「初老」と呼ばれるにふさわしかった。許六も四十代の季吟を老人と呼んでいる。
また、この頃から芭蕉は書簡にも「はせを」の署名をするようになるが、俳書に「芭蕉」の号が登場するのはもう少し後になる。
延宝九年の『俳諧次韻』で談林風を脱却した芭蕉の名声はますます高まり、天和の破調は伊丹の長発句とともに一世を風靡した。
「予此人の器を見るに、我レ肩をならべたる時、中々及ばざる上手也。日々名人となり侍らん。ねがハくハ一度対面して、俳諧の新風をききたしと、便宜を求る事一・二年、其内翁の句幷門人の句等をききて、其風を探る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85~86)
まあ、こういう許六のような人がたくさんいたから、芭蕉は名人として不動の評価を得るに至ったのだろう。
天和から蕉風確立期へうつり、やがて芭蕉は古池の句で大ブレイクする。天下津々浦々、もはや知らぬ人はないくらいの有名人になった。この頃になってようやく会って新風を聞きたいと思っても、同じような人は日本中にたくさんいた。
こういうワンテンポ遅れて流行を後追いしてしまうのが許六の限界だったのかもしれない。
「于時(ときに)あら野集出来たり。よろこむで求め、昼夜枕とす。其後つづきが原・いつを昔等の集も、略(ほぼ)世に出たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)
『阿羅野』は元禄二年の三月。芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だった。
不卜編の『続の原』は貞享五年。其角編の『いつを昔』は元禄三年。、この頃許六は蕉門の俳諧に熱中することになる。
ウィキペディアには、
「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」
とある。父の隠居と時期が一致する。私生活の変化が許六を本格的に俳諧の道へ邁進させたのだろう。
「又俳諧する事、都合四・五年、数千言・数万言、相手を嫌ハず。其内ニ大津尚白ニ両度対して大意を求む。猶微細の所ハ、集を以て毎日探る。予がふかく翁をまねく事、師の耳ニ入る間も二・三年、終ニ江東に遊び給ハずして、師弟の縁のうすき事、今日になげく。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.86)
元禄二年に『奥の細道』の旅を終えた後、芭蕉は元禄四年の九月の終わり頃までは江戸には戻らず、大津、京都、伊賀などそう遠くない所にいたはずなのに、許六はついに会うことが出来なかった。
元禄四年の十月の終わり、芭蕉は江戸に戻る。
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