新暦では松の内も終り、そろそろ平常運転ということになる。
旧暦ではこの前の日食が朔で今日は師走の三日。三日月が見えた。
さて、そろそろ中断していた『俳諧問答』に戻ろうかと思う。
岩波文庫の『俳諧問答』(横澤三郎校注、一九五四)の八十三ページからの「俳諧自讃之論」をまず読んでみよう。
「一、おこがましき申事といへ共、此論先生の腹を抱えて御披覧を蒙度候。
先生ト予ハ、亡師在世の中かたく契約をなして、江東に上らば洛陽の去来子ト心安申通べしと翁の一言より、推参慮外をかへりミず、度々の通書を送る。終ニ外の同門ニ対して、俳諧の儀論する事なし。
是レ師教の恩をわすれざると、察し給ふべ事。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83)
「先生」はこれまでの手紙のやり取りの相手だった去来のことであろう。まあ、笑って読んでくださいと謙遜してこの論を書き始める。
これまでの論争も芭蕉が「去来子ト心安申通べし」と言ったことによるもので、ここでまた俳諧の議論をすることも、芭蕉翁の恩に報いるためだ、と前置きしてこの論は始まる。
「一、予俳諧をこのむ事千人に過たり。廿余年昼夜俳諧に眼をさらす。初学の時ハ季吟老人の流に手引せられて、中ごろ談林の風起て急ニ風を移し、京師田中氏常矩法師が門人ト成て、俳諧する事七・八年、昼夜をわすれて、一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.83)
「千人に過たり」は多くの人よりもまさるということ。
許六は明暦二年(一六五六)の生まれで、寛永二十一年(一六四四)生まれのの芭蕉とは十二歳下で一回り違う。それでも季吟門から入り、後に談林に感化された点では芭蕉と同じような道を辿っている。
芭蕉が伊賀で蝉吟の発句、季吟の脇で行われた「野は雪に」の興行が寛文五年(一六六五)で、このとき芭蕉は二十一、許六は九歳ということになる。
許六が季吟に師事したのはこれよりはもう少し成長してからであろう。寛文の終わり頃だろうか。その頃既に「季吟老人」だったようだがまだ四十代で、季吟は長生きで八十まで生きたから、この『俳諧問答』の頃もまだ御存命だった。
一方、寛文の終わり頃から宗因の俳諧は上方を中心に流行し、延宝になるや一気にブレイクする。芭蕉は延宝三年に江戸にやって来た宗因の俳諧興行に一座することになる。その頃許六は京都談林の田中常矩に師事していた。常矩は当時京都にたくさんの門人を抱えていたという。
「一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す」というのは西鶴の矢数俳諧に代表されるような当時の流行で、二十四時間の間に即興で何句付け続けることができるかを競った。
芭蕉が談林風を吸収しながら『俳諧次韻』で独自の風を作り上げていった頃、許六は矢数俳諧にはまっていたようだ。ただ、一日三百句、五百句は、三千風の三千句や西鶴の二万三千五百句には遠く及ばない。
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