ただ、それまで『万葉集』というと古代人の素朴でおおらかなと言うイメージが強かったのに対し、当時のまだ不安定な大和朝廷のなかで刑死し、その非業の魂が御霊となって歌聖となったと言う話は面白かった。
戦前の歴史観だと、万葉の時代は理想郷で、戦後になって壬申の乱などの血塗られた歴史が一般に知られるようになった。
歴史観は時代とともに変わってゆく。柿本人麻呂に対する見方も『万葉集』に対する見方も変わってゆく。小生も芭蕉は俳諧や連歌の見方も変えてゆきたいと思っている。
それでは『俳諧問答』の続きを、又少し。
「其後予が旅亭にまねきたる時、師の雑談ニ云ク、いづれの道カ叶ひ侍るといへば、師ノ云、我国々の人に対して俳諧の器を求む。求め得て、直指の法を伝べきとおもふ事日々ニあり。
今撰集を見て予が腸を探り得たる人ハ許子也。千載の後も許子の如き人、世にあるまじき共おもはず。されば、しいて器を求むる事をやめたり。
今日の望ハ、性痴にして、多年大きに執心をかけるといへ共、会て動ざる人あるべし。是ハ愚老がたすけにあハざれば、道ニ入がたし。
器のすぐれたるものハ、独り教へずしていたるといへり。
許子ガ本性を見るに、愚老が求むる所に大方叶ふ人也といへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.91~92)
芭蕉の許六評は繰り返しという感じがする。とにかく許六は誤解されたまま、でもあの芭蕉さんが言うんだからというところで舞い上がってゆく様子がよくわかる。
「師ノ云、器のすぐれたるもの、是第一也、これ一ツ。
大きに此道に執心の人、許子ハ寝食をわすれ、財宝・色欲に代へる人也、これ二ツ。
年始終を越る人ならず、年漸三十七、これ三ツ。
いとまある身ニあらざれバ、道を行ジがたし、是四ツ。
貧賤にして朝夕に苦める人ならず。許子富貴ニあらずといへ共、商買農士に穢れず、これ五ツ。
許子博識ニあらずといへ共、和漢の文字ニ乏しからず。珍碩がごとき人にあらず、是六ツ也。
此六ツの物揃へる人稀也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.92)
まあ、とにかく褒め言葉がよく並ぶ。こんなにこと細かく覚えているのは、よっぽど嬉しかったのだろう。まあ、二つ目の俳諧に寝食を忘れというのは、事実だったのだろう。三十七でようやく仕事の隙も増えて、強度芭蕉が深川に隠棲する年齢というのも気に入られた理由だっただろう。
ただ、「富貴ニあらず」だったかどうかはよくわからない。まあ、大津に左遷されたりして、ひところほど羽振りがよくもなかったのかもしれないが。
「博識ニあらず」となると、やや褒め殺している感じもする。
珍碩は洒堂のことだが、「ひさご」を編集し、芭蕉には気に入られたはずだが、その後何かいさかいでもあったか。洒堂はこの翌年『俳諧深川集』を出す。そしてその洒堂がいきなり大阪に移住し、之道とトラブルを起していること聞きつけ、芭蕉の大阪への最後の旅の理由の一つにもなる。
まあ、許六が「博識ニあらず」なのに対し、洒堂は博識をひけらかすとことも多かったのだろう。そのわりには結構怪しげな知識が多かったりして、要ははったりが強かっただけなのだろう。芭蕉もこの頃にはすっかり失望していたか。
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