2019年1月22日火曜日

 明け方の金星と木星が大分近づいてきた。
 韓国はどこへ行くのかって前にも書いたが、南北が統一すれば普通に考えれば南の方が人口、経済力、技術力とも凌駕していて、南が主導権を取れると思うのが普通だ。だから、南北統一は結局北が崩壊して南に吸収されると考えがちだ。
 これを覆す裏技がひょっとしたらあるかもしれない。一種のオフサイドトラップだ。
 つまり、南に南北統一をもちかけ、統一ムードを高めた段階で、様々な情報工作をして反日感情を高め、それを反資本主義に結びつけて左傾化させる。
 アメリカがそれに不信感を抱いた所で、北の方からアメリカに同盟を求め、乗り換えさせる。
 米朝同盟が実現すれば、核開発問題は反古になる。アメリカにとっての脅威ではなくなるからだ。北は世界最強の米軍に守られ、経済制裁の解除でアメリカの支援を受けられる。金政権と建前としてのチュチェ思想だけは残し、ちょうど天皇制を残した戦後の日本のような状態になる。
 逆に在韓米軍は撤退し、韓国は北の脅威に対抗するのに多くの軍事予算を裂かなくてはならなくなる。それに加え資本主義経済に逆らった韓国経済は停滞を余儀なくされる。そこに当然ながら中国が様々な形で影響力を行使してくる。
 そうなると、南北の立場が逆転するのにそう長くはかからない。
 まあ、ないとは思うが‥。
 それでは「洗足に」の巻の続き。

 十一句目。

   むかし咄に野郎泣する
 きぬぎぬは宵の踊の箔を着て   芭蕉

 さてホモネタと来れば芭蕉さんも黙ってない。もっとも、この四吟は順番が決まっている。堂六蕉蘭六堂蘭蕉の順番で、一の懐紙の花の定座だけ許六に花を持たせるために洒堂と許六の順番が逆になっている。
 若衆は朝の別れの時には宵に着ていた踊りの衣装姿に戻る。「箔」は「摺箔」のことか。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「裂地(きれじ)へ金銀箔を接着させて模様を表すこと。金銀粉を接着剤に混ぜて筆書きする金泥絵や、金銀箔を細く切ったものを貼(は)り付ける切金(きりかね)などに対して摺箔という。その技法は、紙に文様を切り透かした型紙を用い、これに接着用の媒剤(通常姫糊(ひめのり))を施し、これの乾かぬうちに箔をのせて柔らかい綿などで軽く押さえ、そのまま乾燥させたのち、刷毛(はけ)で余分の箔を払い落とす。ただ一般に摺箔は、これだけ単独に用いることは少なく、刺しゅう、友禅染めなどと併用して部分的に使われることが多い。縫箔などという名称のあるのはそのためである。
 箔だけで模様を置いたものに能装束の摺箔がある。これは能の女役が着付に用いる装束で、このために能では摺箔ということばがこの装束の名称になっている。とくに『道成寺(どうじょうじ)』や『葵上(あおいのうえ)』などに用いられる三角つなぎを摺った鱗(うろこ)箔は、女の執念が蛇体(じゃたい)の鬼と化した姿を象徴する装束として知られる。[山辺知行]」

とある。
 前句は野郎を泣かせた昔話をするのではなく、昔話をして野郎を泣かせるの意味に取り成されている。
 十二句目。

   きぬぎぬは宵の踊の箔を着て
 東追手の月ぞ澄きる       嵐蘭

 「追手(おふて)」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には「大手。城郭の前面。」とある。江戸城には大手門があり、大手町があるが、ウィキペディアによると、

 「元は追手門(おうてもん)と書かれ、高知城など、城によっては現在も追手門と表記しているところもある。これに対して背面の門は搦手門(からめてもん)と呼ばれる。
 防御のために厳重な築造がされ、大規模な櫓門を開いたり石塁などにより枡形をしていることが多い。見た目も大きく、目立つように造られる。また、橋は土橋であることが多い。」

とある。
 江戸城大手門の東にはかつて酒井雅楽頭家上屋敷跡があったが、「踊の箔」からの連想か。元禄五年には既になかった。
 このあたりは大名屋敷が多いので、大名屋敷を出入りする能役者かもしれない。
 十三句目。

   東追手の月ぞ澄きる
 青鷺の榎に宿す露の音      許六

 大手門の前のお堀には青鷺もいる。
 月の句に逆らわずに榎に休む青鷺の景を添える。
 なお、許六のいた彦根藩の中屋敷は赤坂門の方にあったという。
 十四句目。

   青鷺の榎に宿す露の音
 ふたりの柱杖あと先につく    洒堂

 「柱杖(しゅじょう)」は『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註に、「禅僧の用うる杖、行脚僧の体」とある。雲水行脚には欠かせない。
 『無門関』に「芭蕉柱杖」というのがあるが、それに関係あるのかないのかわからないが、そういう連想を誘うと何か深いものがあるのかと思わせる。これは洒堂のはったりであろう。

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