2019年1月7日月曜日

 今日は西暦で一月七日、七草粥の日。思い出すのは三十年前。

 七草にビデオの塵となる昭和   こやん

 昭和天皇が崩御して、テレビは一日中昭和を回顧するモノクロ映像が流れていた。
 昭和は確かに戦前の大正デモクラシーの時代から昭和恐慌を経て軍国主義の時代へ、日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦。戦後の民主主義や学生運動、高度成長からオイルショック、まさに激動の時代だった。
 それに較べると平成は経済的な浮き沈みや震災はあったが、概ね平和で変化に乏しい時代だったといえよう。平成を回顧するといってもすぐ終わっちゃいそうだ。
 芭蕉の時代だと七草より若菜の句のほうが多い。
 若菜摘みは本来正月初めの子の日の行事で、江戸時代には正月の一つの区切りである七日に七草を食べる習慣が広まっていった。『荊楚歲時記』の、「正月七日為人日,以七種菜為羹」に習ったとされている。
 『阿羅野』では「歳旦」のあとの「初春」に若菜や七草の句が分類されている。

 七草をたたきたがりて泣子かな    俊似

 これは「七草叩き」という七草粥を作る時の儀式があって、goo国語辞書の「デジタル大辞泉」に、

 「七種の節句の前夜または当日の朝、まな板の上に春の七草をのせ、『ななくさなずな、唐土 (とうど) の鳥が日本の土地へ渡らぬさきに、ストトントンとたたきなせえ』などとはやしながら包丁・すりこぎなどで叩くこと。ななくさばやし。」

 実際には七草自体をを叩くのではなく、まな板を叩いて歌ったのだろう。いかにも子供が面白がってやりたがりそうな儀式だ。でも包丁は危ないし、させてもらえなかったんだろうな。
 『猿蓑』には、

 七種や跡にうかるる朝がらす     其角

の句がある。先の七草の囃子は鳥除けの意味もあったのだが、七草を摘んだ翌日にはカラスが浮かれている。
 同じ『猿蓑』に、

 ひとり寝も能(よき)宿とらん初子日 去来

の句もある。若菜摘みの句ではないが、この次の句から若菜摘みの句が続く。でも、この句は初子を初寝に掛けているのではないか。
 等躬撰の『伊達衣』には「人日」の句が三句ある。

   人日
 粥木も口芳しき七日哉        未琢
 贄殿に鶴と添をく根芹哉       須竿
 芹一葉二葉に氷くだけけり      好水

 「粥木」はコトバンクの「粥の木」の項の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「小正月(正月一五日)の粥を食べるときの箸。クリ、ヌルデ、ニワトコなどでつくった長い箸の頭の方を削りかけたままにしたもの。この頭の方を粥の煮え立った中へさしこんですぐに引き上げ、さかさにして門の両側に一本ずつさしたりする。孕(はら)み箸。《季・新年》」

とある。七日の七草粥にも用いられたのだろう。
 「贄殿(にえどの)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 大嘗会(だいじょうえ)のとき、悠紀(ゆき)・主基(すき)の内院において神供(じんく)を納めておく殿舎。
 2 宮中の内膳司(ないぜんし)にあって諸国から献上の贄を納めておく所。
 3 貴人の家で、食物とする魚・鳥の類を蓄えたり、調理したりする所。」

とあり、この場合は3だろう。
 好水の句は、

 袖ひちてむすびし水のこほれるを
     春立つ今日の風やとくらむ
               紀貫之(古今集)

によるものか。芹を摘む時に「風やとくらむ」となる。思うに、昔は年内立春と逆に立春が七日以降になることもあったから、若菜摘や七草の頃に立春となることもあったのだろう。

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