今朝は金星と木星が横に並んでた。
それでは「洗足に」の巻の続き。二表に入る。
十九句目。
塚のわらびのもゆる石原
薦僧の師に廻りあふ春の末 芭蕉
「薦僧」は虚無僧に同じ。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、
「菰僧(こもそう),薦僧(こもそう),梵論字(ぼろんじ),梵字(ぼろんじ),暮露(ぼろ),また普化僧(ふけそう)ともいう。禅宗の一派である普化宗の僧の別称で,普化宗を虚無宗とも称する(イラスト)。吉田兼好の《徒然草(つれづれぐさ)》に,〈ぼろぼろ〉〈ぼろんじ〉と見え,我執深く闘争を事にする卑徒としている。《三十二番職人歌合》は,尺八を吹いて門戸にたち托鉢(たくはつ)することをもっぱらの業としたとする。」
とある。
weblio辞書の「三省堂 大辞林」には、
「普化(ふけ)宗に属する有髪の托鉢(たくはつ)僧。天蓋と称する深編み笠をかぶり、首に袈裟(けさ)をかけ、尺八を吹いて諸国を行脚(あんぎや)修行した。江戸時代には武士のみに許され、浪人者がほとんどであった。普化僧。薦僧(こもそう)。梵論(ぼろ)。梵論子(ぼろんじ)。」
とある。
前句の「塚」から舞台を墓所として、そこで虚無僧が師に廻り合う。といっても、師はすでにこの塚の中だったのだろう。「塚も動け」と言ったかどうか。
二十句目。
薦僧の師に廻りあふ春の末
今は敗れし今川の家 嵐蘭
虚無僧は牢人がほとんどだったということで、桶狭間で織田信長に破れた今川家の末裔とした。
今川義元というと、時代劇ではバカ殿のように描かれがちだが決してそんなことはない。 誇張や創作の多い小瀬甫庵の「信長記」の影響によるものだ。
今川義元は桶狭間で戦死し、嫡子の今川氏真はウィキペディアによれば、
「同盟者でもあり妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には桶狭間の戦いで今川家を離反した徳川家康(松平元康)と和議を結んで臣従し庇護を受けることになった、氏真以後の今川家の子孫は、徳川家と関係を持ち続け、家康の江戸幕府(徳川幕府)で代々の将軍に仕えて存続した。」
とある。今川氏は高家旗本であり、牢人に身を落としたり虚無僧になったりすることはなかった。
嵐蘭も小瀬甫庵の「信長記」の影響を受けていたのだろう。
忠臣蔵の敵役で有名になる吉良上野介も今川氏の子孫だが、松の廊下事件はこの巻の興行の九年後の元禄十四年のこと。
二十一句目。
今は敗れし今川の家
うつり行後撰の風を読興し 許六
「後撰」は「後撰和歌集」のこと。「古今和歌集」に続く二番目の勅撰集。
『校本芭蕉全集 第五巻』(一九八八、富士見書房)の註には、前句の
今川を今川貞世(今川了俊)のこととする。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、
「南北朝時代の守護。法名は了俊(りょうしゅん)。幕府の要職にあったが1370年九州探題となり,以後20余年間九州の南朝勢力を制圧し,倭寇(わこう)の取締りにも努力。和歌・連歌・故実にもすぐれ,晩年盛んに文筆をふるって《二言抄(にごんしょう)》《難太平記》《了俊書札礼》等を書いた。」
とある。和歌は冷泉為秀に学び、連歌は二条良基に学んだ。今川義元は貞世の兄の範氏の子孫になる。
二十二句目。
うつり行後撰の風を読興し
又まねかるる四国ゆかしき 洒堂
これは『土佐日記』を書いた紀貫之の俤か。
紀貫之の『古今和歌集』の編纂は延喜五年(九〇五)、土佐赴任から京に戻るのは承平四年(九三四)、亡くなったのが天慶八年(九四五)、『後撰和歌集』の編纂は天暦五年(九五一)以降のこと。
『後撰和歌集』の編纂の時代までは生きてないが、その少し前までは生きていたから「後撰の風を読興し」と言えなくもないし、実際に八十一首が入集している。
0 件のコメント:
コメントを投稿