夜明け前の東の空に光る金星と木星に、欠けた月が加わるようになった。この月が朔になれば旧正月になる。今日は旧暦の十二月二十四日。旧暦のクリスマス‥‥なんてものはない。
それでは『俳諧問答』の方に戻って、続きと行こう。
「其後三月尽の日より卯月の三・四日まで、予が宅に入て逗留し給ふ。昼夜俳談を聞く。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95)
『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)によれば、二月二十九日からだという。この頃芭蕉は甥の桃印を失い、かなりがっくり来ている頃だった。ただ、それでも俳諧への情熱は失せることはなかった。
「其時翁ノ云、明日衣更也。句あるべし、きかむといへり。
かしこまつて、三・四句吐出スといへ共、師の本意に叶ハず。
師の云ク、当時諸門弟並ニ他門、共に俳諧慥ニして畳の上に座し、釘かすがいを以てかたくしめたがるがごとし。これ名人の遊ぶ所にあらず。許子が案ずる所もこれ也。風雅の外に子が得たる芸能を察せよ。
名人ハあやふき所ニ遊ぶ。俳諧かくのごとし。仕損まじき心あくまであり。是レ下手の心ニして、上手の腸にあらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95)
芭蕉は許六にちょうど明日から衣更えだから衣更えの句を詠んでみろという。許六が三・四句詠んだが芭蕉の気に入るものではなかった。
芭蕉が言うには、蕉門でも他門でも、畳の上に座って釘やかすがいで固定したような句を作るものが多いと。要するにその場で言葉をこねくり回したこしらえものだというわけだ。
許六が今詠んだ句もその類で、「風雅の外に」、つまり俳諧以外で許六は絵も描けば、漢詩も作る。六芸に通じているから許六の名があると言われているから、そのほかにも音楽や武芸にも通じていたのだろう。
特に得意だったのが絵だから、ただ筆先で拵えるだけでは良い絵は描けないだろう、もっと筆遣いの勢いとか、大事なものがあるのではないか、というわけだ。
それは結局、これを表現したいという根本的な初期衝動の不足で、ただ言われたから作っているだけになっている、ということではないかと思う。
「月並」という言葉も、元は俳書が月刊の定期刊行物になってから、作者は毎月ノルマで句を作らされ、とりあえず作りましたというおざなりな句が多くなったことから来ている。こうした句は、何となく形にはなっているけど、何が言いたいのかよくわからない句が多い。
「名人ハあやふき所ニ遊ぶ」というのは、今なら「冒険せよ」ということだろう。可もなく不可もない句なんて読んでも面白くない。失敗を恐れずに思い切った表現を試みてみろ、というところだ。
失敗したらいけないと思うのは「下手の心ニして、上手の腸にあらず」とこのあたりの言葉は迷いがなく心地いい。
そこで芭蕉も失敗談を持ち出す。
「師が当歳旦ニ
としどしや猿にきせたる猿の面
といふ句、全ク仕損の句也。ふと歳旦ニ猿の面よかるべしとおもふ心一ツにして、取合たれバ、仕損の句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.95~96)
歳を重ねるというのは、結局猿の顔の上に猿の面を被せるようなもので、変わった様でいて何も変わってない、という自戒の句だが、季語を取りこぼしたという点では仕損じだろう。「としどし」と強引に正月のことだとすればできなくはないが。
ただ、句としては言いたいことがはっきりとしているし、猿の面のたとえも面白い。決して悪い句ではない。
これは「洗足に」の巻の、
今はやる単羽織を着つれ立チ
奉行の鑓に誰もかくるる 芭蕉
にしてもそうだと思う。
今流行の衣装に身を包み、颯爽と若い衆が粋がって歩いていても、いざ粋を極めたお奉行様が来ると、とたんに恥ずかしそうに身を隠そうとする。
ただ、「誰」の文字は前句の内容そのままだし、これだと登場人物が複数いなくてはいけないから展開が制限される。
本来の芭蕉なら、ここで案じて直すところだったが、それをしなかったのは多分この句が当座であまりにも受けたからではなかったかと思う。つまり、許六も洒堂も嵐蘭も思わず吹いたのではなかったか。
細かく見れば失敗だけど、句が面白ければそれも忘れる。それが言いたかったのではないかと思う。
「予が云、名人師の上ニ仕損ジありや。
答テ云、毎句あり。
予此一言を聞て、言下に大悟ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.96)
許六のこの言葉は、まあ別に仕損じてもいいではないかという開き直りとして理解したのか、それとも、こまかなミスしないよりももっと大事なことが何なのか理解して「大悟ス」と言ったのか、やや不安が残る。
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