2019年1月10日木曜日

 毎年その年の干支の動物はテレビでもしつこいくらい特集をやったりするのに、今年の猪の姿はあまり見ない。
 ニホンイノシシを飼っている動物園が少ないこともあるのだろう。
 随分前に社員旅行で伊豆に行ったとき、イノシシの芸を見たが、その天城いのしし村も二〇〇八年で閉園したという。
 本来「猪」という字はブタをあらわすもので、そう言われて見れば『西遊記』の猪八戒はブタだ。だから中国や韓国ではブタ年で、昔の日本にはブタを飼う習慣がなかったから、日本だけイノシシなのだという。
 さて、それでは『俳諧問答』の続き。

 「其比常矩が何がし集の付句ニ、

 物の時宜も所によりてかハりけり
   難波のあしを伊勢風呂でえた

といふ句有。秀逸とて入集ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84)

 まず問題なのは「伊勢風呂」だが、これは天正十九年(一五九一)に伊勢与一が開業した銭湯のことだろうか。ウィキペディアにはこうある。

 「江戸における最初の銭湯は、徳川家康が江戸城に入って間もない1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一が開業した。当時の銭湯は蒸気浴(蒸し風呂)の形式であった。
 その後江戸では、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場した(江戸時代初期)。」

 「難波のあし」もここでは単なる植物の葦ではあるまい。風呂屋に葦が生えているわけではないから。
 一つ穿った見方だが、これは、

 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ
    みをつくしてや恋ひわたるべき
          皇嘉門院別当(『千載集』)

だろうか。江戸の湯屋とちがい、上方の風呂屋では湯女という垢かき女がいて、売春も行われていたという。
 物の時宜も所によって変り、今日では難波江の葦の仮寝の一夜を風呂屋で得られる、だったら意味が通じる。
 余談だが戦後しばらく「トルコ風呂」と呼ばれる脱法的な売春施設があったが、この「風呂」は上方で長いこと売春の場であった「風呂屋」を引き継いでいたのだろうか。トルコ人の抗議により、今は「ソープランド」と名前を変えている。
 この句は、『菟玖波集』巻十四の

    草の名も所によりてかはるなり
 なにはのあしはいせのはまをぎ
                救済(きゅうせい)

をふまえたもので、「所によりてかはるなり」と「所によりてかハりけり」が酷似している所から、歌てにはのように「難波のあし」を引き出している。ただ、内容はまったく別で、こうした換骨奪胎は談林のお家芸といえよう。
 さて、これに対する許六の評だが、

 「我黨これをとらず。『所によりてかハりけり』といふ句ニ、難波のあしハつけらるまじ。前句拵たるやうにして、うまく面白キ事なしとて、かやうの事より常矩を見破る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.84~85)

 「黨」は「党」の旧字だが「わがともがら」と読むのだろうか。よくわからない。
 どうやら前句を後から拵えたか手直ししてズルしたと見たようだ。まあ、興行の中で前句を見て、ここをちょっと変えると面白い句が付くから変えてくれないか、みたいな事はあったかもしれない。
 許六はこれを芭蕉の句を比較する。

 「又其頃桃青の付句ニ、

 きき耳やよそにあやしき荻の声
   難波のあしハ伊勢の四方一

と云句あり。是上手の作なりとて感じて、桃青を上手と称ス、」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 この句は延宝六年刊の『江戸三吟』に収録された、

 あら何共なやきのふは過て河豚汁  桃青

を発句とする延宝五年冬の興行の一巻の十句目になる。「よもいち」は『校本芭蕉全集第三巻』の注には、

 「伊勢の人で盲人の卜占師。耳がさとく五音によって卜ったことで有名。」

とある。有名だというからネットで探してみたが見つからなかった。
 まあ、視覚障害者が聴覚に優れているというのはよくあることで、他所で怪しげな荻の声がするので聞き耳を立てるが、それは「難波の葦」ならぬ伊勢の四方一だった、と付く。
 「あやしき荻」から普通の荻ではなく「浜荻」のことだろうとして、「難波の葦」の声を聞く伊勢の四方一には、それが「荻の声」だった、という落ちなのだが、展開の仕方は確かに上手だが、句としてそれほど面白いかという感じはする。
 何か今でもよくあることだが、マイナーな地味な作品を取り上げて、この良さを俺はわかるんだとばかりに自慢げに語る人がいるが、そんな感じがしなくもない。
 まあ、許六さんもこの句を見てすぐに桃青にコンタクトを取って遠距離ながら弟子にしてもらおうとかしなかったところを見ると、常矩よりはマシくらいの感覚だったか。

 「其後転変して、自暴自棄の眼出来、我句もおかしからず。他句猶以とりがたし。所詮他人の涎をねぶらんより、やめて乱舞に遊ぶ事、又四・五年也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

 延宝四年に主君である井伊直澄を失い、そのあと許六に何があったのかはよくわからない。まあ、代が変われば家臣の上下関係も変わってくるものだから、それまでのような羽振りの良さはなくなったのだろう。
 ウィキペディアには、

 「天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う。」

とあるから、つまりは左遷されたか。

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