2021年11月30日火曜日

 昨日言ったことを、一つの神話にしてみた。

 かつて神様はいつもこう言ってました。
 この地球という船は、全員を乗せる程大きくありません。
 男は武器を持って戦い、勝ったものだけが乗ることができます。
 女は美しさを競い、男に選ばれたものだけが乗ることができます。
 しかし、人も何とかみんな全員仲良く船に乗ることができないか、知恵を絞りました。
 そうだ、船を大きくすればいい。なければ作ればいいんだ。
 これが近代資本主義の始まりでしたとさ。

 やがて船は大きくなりました。
 ですけどそれ以上に人口が増えてしまいます。これでは争いは無くなりません。
 そのうち人は子供をあまり作らなくなりました。そして争いのない平和な世界が実現しました。
 でも、世界ではまだそうならない地域が沢山あります。いつか世界中が平和になりますように。

 マルクス・エンゲルス共著の『共産党宣言』(堺利彦訳 幸徳秋水訳、青空文庫)には、こう記されている。

 「ブルジョアジーは、僅かに百年ばかりの階級的支配の中に、過去一切の諸時代を合したよりも、一そう多量な、一そう巨大な生産力をつくり出した。自然力の征服、大機械、工業および農業における化學の應用、汽船、鐵道、電信、全世界各地の開墾、河川航路の開鑿、呪文をもつて地下から呼び起したやうな全人口の増殖、――およそこれほどの生産力が社會的勞働の胎内に眠つてゐたとは、いかなる前時代にもかつてその徴候がなかつたではないか。」

 マルクスはこの「全人口の増殖」には注意を払ってなかった。ここに注意を払ったのはマルサスの方だった。しかし、生産力の多少の向上が人口増加によって食い尽くされることに気付かなかったわけではないだろう。
 ただそれが当時一般に侵略の方に結びついていたために、仮に侵略という手段を奪われたなら逆に飢餓をもたらす、という予測はしなかったのかもしれない。
 そして、

 「ブルジョアジーが封建制度を顛覆したその武器が、今はブルジョアジー自身に向けられてゐる。
 ただしブルジョアジーは、自分を殺すべき武器を鑄造したばかりでなく、またその武器を使用すべき人物をつくりだした。すなはち近代の勞働者、プロレタリヤがそれである。」

という時、革命の主体は封建制度の旧勢力ではなくプロレタリアであることをはっきり自覚していた。旧勢力は生産性を下の低い状態に戻してしまう。プロレタリアならブルジョワの高い生産性を維持できると信じたとするなら、それはプロレタリアが資本主義の生産性向上のシステムを乗っ取ると考えたとしか考えられない。
 だが、二十世紀に起きた社会主義革命は資本主義を否定し、遥かに生産性の劣る官僚支配と計画経済を採用した。それでも自ら帝国主義の担い手となった旧ソ連はそれなりの発展を遂げたが、そうでない鎖国的な社会主義はことごとく飢餓に陥った。

 「共産主義は誰人に對しても、社會的産物を獲得する力を奪ふものではない。ただその獲得によつて、他の勞働を屈服させる、その力を奪ふのである。」

と書いてあるにもかかわらず、二十世紀の社会主義革命は資本主義が作り出した「社會的産物を獲得する力」を破壊してしまった。
 マルクスが空想的社会主義に向けた批判、

 「しかしこの社會主義は、その積極の目的においては、昔の生産交換方法とともに、昔の財産關係および昔の社會を復興しようとするか、さもなくば、近世の生産交換方法を、舊財産關係(近世の生産交換方法によつて刎ねとばされたところの、また刎ねとばされねばならなかつたところの、その舊財産關係)の外殼の中に、無理に再び押しこまうとするのであつた。いづれにしても、それは反動的であり、また空想的であつた。」

と、これはそのまま二十世紀の社会主義に当てはまるのではないかと思う。
 この間違いのもとになったのは「私有財産」の概念の不明瞭さによるものではないかと思う。

 「世人は我々共産主義者を非難していふ。共産主義者は、人が自己の勞働によつて獲得したところの個人的財産を廢絶しようとする。すなはちあらゆる個人的の自由、活動、および獨立の根底たる財産を廢絶しようとする、と。」

 私有財産は個人的財産とははっきり区別されている。

 「資本家たることは、生産界において、單純なる個人的地位をもつばかりでなく、また一の社會的地位をもつことである。資本は協力的産物である。多數部員の共同作業によつてのみ、いな、それを究極すれば、社會全員の共同作業によつてのみ働かされうるものである。」

 資本は共同作業の産物でありながら、それが私有されている限りにおいて「私有財産」とよばれるのであり、資本が共同で運用されるのが本来の資本の在り方だということが示されている。この資本の共同運用にかかわらないものは「個人財産」にすぎない。

 「故に資本は決して個人的の力でなく、一つの社會力である。
 故に資本が共有財産(すなはち社會全員の財産)に變更される場合、それは個人的財産が社會的財産に變更されるのではない。ただその財産の社會的特質が變更されるのである。すなはち財産の階級的性質が失はれるのである。」

 ただどのような仕方で資本が共有されるべきなのかは、ここからはわからない。
 いうまでもなく、今日資本は基本的には出資者(株主)の共有財産になっていて、一個人が資本を所有することはほとんどない。
 今日の労働者は少なくとも銀行などに預金を持つ限り、間接的に資本に係わっている。ただ運用の権利を銀行に全面的に委託しているだけだ。仮に国家が資本を所有したとしても、運用を国家に委託して、自ら何の権利を持たないという点では変わりはない。
 労働者が資本の運用に関して何の権利も持たないような状態を、果たしてマルクスが望んでいたのかどうか、問題はそこだろう。

 それでは「なきがらを」の巻の続き。

 三表、五十一句目は正秀の二回目。

   煮た粥くはぬ春の引馬
 小機嫌につばめ近よる堀の上   正秀

 前句の引馬を、単に馬に乗らずに引いて行くこととして、暖かくなって熱い粥を食う必要もなくなり、ツバメも塀の上に飛来している。そんな暖かい日で、人も機嫌がよくなるし、天候の機嫌も良い。
 五十二句目は膳所の囘鳧の二回目。

   小機嫌につばめ近よる堀の上
 洗濯に出る川べりの石      囘鳧

 春のうららかな日には川に洗濯に行く。
 五十三句目の朴吹は膳所の人で初登場。

   洗濯に出る川べりの石
 日によりて柴の値段もちがふ也  朴吹

 婆さんが川に洗濯にと来れば爺さんは山に柴刈って、このフレーズがこの時代にあったかどうかは知らないが、こういう分業は普通だったのだろう。
 刈った柴は自宅で使用するだけでなく、売りに行って小銭を稼ぐ。柴が値崩れしている時期には爺さんも川へ洗濯に行ったのだろうか。
 五十四句目は堅田本福寺の角上で二回目。

   日によりて柴の値段もちがふ也
 袋の猫のもらはれて鳴      角上

 野良猫は捕まると簀巻きにされて川に沈められたりもしたが、ここでは飼い主が決まって目出度し目出度し。
 前句の日によって値段も違うというところから、猫の運命もいろいろあるという所で付けている。
 五十五句目は泥足の二回目。

   袋の猫のもらはれて鳴
 里迄はやとひ人遠き峯の寺    泥足

 猫が引き取られたのは山奥の寺だった。
 余談だが、近代の「山寺の和尚さん」という唱歌は、福岡県うきは市にある大生寺の和尚さんがモデルだという。
 五十六句目は尚白の二回目。

   里迄はやとひ人遠き峯の寺
 聞やみやこに爪刻む音      尚白

 「爪刻む音」がよくわからないが、都では爪をきちんと手入れしているということか。山奥の寺に都の噂を付ける。
 五十七句目は伊賀の卓袋の二回目。

   聞やみやこに爪刻む音
 七ツからのれども出さぬ舟手形  卓袋

 前句を都に用事があるとして、船旅にする。
 七つはこの場合夜の七つで寅の刻であろう。夜もまだ明けぬうちから船に乗っているが、船手形がないので関所を通過できない。
 江戸の中川船番所では船手形を必要としていたが、関西の方でもそういう場所があったのだろう。
 五十八句目は大阪の芝柏の三回目。

   七ツからのれども出さぬ舟手形
 二季ばらひにて国々の掛     芝柏

 「二季ばらひ」は盆と暮とに支払いを行うことで、日本中どこでも大体掛け売りは二季払いだった。前句を盆暮れの決算期の舟の混雑としたか。
 五十九句目は膳所の探芝の二回目。

   二季ばらひにて国々の掛
 内に居る弟むす子のかしこげに  探芝

 決算期の忙しさに、弟や息子が頼もしく見えてくる。
 六十句目は膳所の游刀の二回目。

   内に居る弟むす子のかしこげに
 うしろ山迄刈寄るの萱      游刀

 弟と息子のおかげで山の方まで萱を刈ることができた。
 六十一句目は膳所の楚江の二回目。

   うしろ山迄刈寄るの萱
 此牛を三歩にうれば月見して   楚江

 萱を刈って売った後は牛も三歩(三分)で売って月見する。金三分は牛の相場として高いのか安いのかはよくわからない。
 六十二句目の魚光は膳所の人で初登場。浪化編『有磯海』に、

 子をつれて岩にふりむく雉子哉  魚光

の句がある。

   此牛を三歩にうれば月見して
 すまふの地取かねて名を付    魚光

 地取(ぢどり)は相撲の稽古で、月夜に相撲というのはよくある事だったか。元禄二年山中三吟にも、

   花野みだるる山のまがりめ
 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉

の句がある。
 六十三句目は其角の三回目。

   すまふの地取かねて名を付
 社さえ五郎十郎立ならび     其角

 五郎十郎というと曽我兄弟だが、神社で相撲を取ると、五郎十郎だとか称する人たちがいたりしたのか。
 六十四句目は風国の二回目。

   社さえ五郎十郎立ならび
 所がらとて代官を殿       風国

 前句を箱根権現(今の箱根神社)としたか。曾我兄弟がここに預けられて武道を磨いた。箱根は小田原藩と沼津代官の両方が支配していた。

2021年11月29日月曜日

 何か漠然とした考えでまだもやもやしてるんだが、多産多死と人権思想って最初から矛盾していたのではなかったか。自由・平等・博愛、その理想は立派だけど、増えすぎて農村に留まれなくなった人々すべてに平等の生存権を与えた瞬間から、飢餓か侵略かの二択になってしまったのではなかったか。
 フランス人は躊躇せずにナポレオンを担ぎ上げて侵略の道を選択した。イギリスには新大陸があった。
 溢れ出る人口に農業生産が追い付かなくなれば、閉じた系であれば一人当たりの食糧が徐々に減って行き、やがて飢餓に至る。それを回避するには農地を拡大するしかない。開かれた系であれば、そこに他国の農地を奪うという選択肢が生じる。
 江戸時代の日本は閉じた系だったが、開国によっていきなり開かれた系になった。戦後のいくつかの社会主義国家は閉じた系を選択して飢餓と粛清の嵐を経験した。資本主義社会主義関係なく旧ソ連は左翼の間からも露帝と呼ばれた侵略国家だった。
 少産少死でやっと可能な人権思想を、多産多死のフロンティアに押し付けることはできないし危険なことだ。その少産少死の国でも大量の移民を受け入れたら実質的に多産多死と変わらなくなる。その矛盾に気付くべきだ。
 まあ、こんなことを言っても人権思想を宗教みたいに信じている人にはわからないと思うが。人権思想は矛盾している。それを自覚しないと結局西洋世界は失敗する。

 二裏、三十七句目の木枝は大津の人で、浪化編『有磯海』に、

 明月や里の匂ひの青手柴     木枝

の句がある。

   四ツになる迄起さねば寐る
 ねんごろに草鞋すけてくるる也  木枝

 ねんごろは丁寧にとか一心にとかいう意味で、「すけて」は下駄だと鼻緒を差し込むことだが、草鞋の場合は緒を横にある輪の中に通して鼻緒にする作業のことか。
 「くるる」はこの場合は日が暮れるの意味であろう。
 旅体の句で、すぐに旅立てるように草鞋の準備をしながら夕ぐれには寝てしまい、誰も起さなかったのでそのまま翌朝九時まで寝てしまった。
 三十八句目は発句を詠んだ其角に戻る。

   ねんごろに草鞋すけてくるる也
 女人堂にて泣もことはり     其角

 女人堂はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「女人堂」の解説」に、

 「〘名〙 女がこもって読経や念仏をする堂。寺の境内の外にある。特に女人禁制であった高野山のものが有名。
  ※浮世草子・椀久一世(1685)上「是かや女人堂、一日の事ながら女を見ぬこと悲しく」

とある。
 浄瑠璃や説教節の『苅萱』の本説だろうか。出家した父を追って妻子が高野山に行くが、女人禁制ゆえに妻の方は逢うことができなかった。
 三十九句目の角上はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「三上角上」の解説」に、

 「1675-1747 江戸時代中期の僧,俳人。
延宝3年生まれ。三上千那の養子。近江(おうみ)(滋賀県)の浄土真宗本願寺派本福寺の住持。隠退して京都に瞬匕亭(しゅんひてい)を,のち大津園城寺のちかくに荷(にない)庵をむすんだ。松尾芭蕉の門人。延享4年5月8日死去。73歳。近江出身。別号に瞬匕亭,夕陽観など。法名は明因。著作に「白馬紀行口耳」。」

とある。『続猿蓑』に、

   江東の李由が祖父の懐旧の法事に、
   おのおの経文題のほつ句に、弥陀
   の光明といふ事を
 小服綿に光をやどせ玉つばき   角上

の句がある。

   女人堂にて泣もことはり
 ひだるさも侍気にはおもしろく  角上

 侍気は侍気質のことで、「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるように、空腹でもそれを表に出さないで、何のこれしき面白いではないか、と開き直るが、同じく腹をすかせた女房はたまったもんでもない。女人堂に駆け込む。
 四十句目は大阪の之道に二回目。

   ひだるさも侍気にはおもしろく
 ふるかふるかと雪またれけり   之道

 腹ペコもなんのその、雪も降るなら降って見ろ、それが武士だ。
 四十一句目は京の去来の二回目。

   ふるかふるかと雪またれけり
 あれ是と逢夜の小袖目利して   去来

 前句を雪が降れば目当ての男を留め置くことができる、という意味にし、逢瀬にやって来る男の小袖を見て値踏みする。
 四十二句目は伊賀の土芳の二回目。

   あれ是と逢夜の小袖目利して
 椀そろへたる蔵のくらがり    土芳

 祝言の席であろう。客をもてなすための椀が揃えられた蔵で、今夜用いる小袖を吟味する。
 四十三句目は大阪の芝柏の二回目。

   椀そろへたる蔵のくらがり
 呑かかる煙管明よとせがまるる  芝柏

 蔵の中で火を用いるのは危ないし、煙も籠るから、煙管を吸うのをやめて片付けろということか。
 四十四句目は膳所の臥高の二回目。

   呑かかる煙管明よとせがまるる
 ふとんを巻て出す乗物      臥高

 駕籠に乗って帰るので、蒲団を巻いて、煙管を仕舞い、出て行く。
 四十五句目は尚白で初登場。大津の人で貞享の頃からの古い門人。千那とともに近江蕉門の基礎を作ったとも言われる。

   ふとんを巻て出す乗物
 弟子にとて狩人の子をまいらする 尚白

 貧しい狩人が子供を何かの弟子にと送り出すが、荷物は蒲団一つ。
 四十六句目は膳所の昌房の二回目。

   弟子にとて狩人の子をまいらする
 月さしかかる門の井の垢離    昌房

 垢離は仏教用語で、身を清める冷水のこと。前句の弟子を仏門の弟子とする。
 四十七句目の丹野は初登場。大津の能太夫で、元禄七年六月に丹野亭で「ひらひらと」の巻の興行があり、この時に同座している。

   月さしかかる門の井の垢離
 軒の露筵敷たるかたたがへ    丹野

 この場合の「かたたがへ」は古代陰陽道の方違えだと意味が通じないので、単に方向違いということか。道に迷いお寺の軒を借りて、筵を敷いて寝る。
 四十八句目は丈草の二回目。

   軒の露筵敷たるかたたがへ
 野分の朝しまりなき空      丈草

 台風の去った後の朝は、大気の乱れから雲も乱れている。軒には雨露が吹き込んで、筵もあらぬ方に吹っ飛んでいる。
 四十九句目は惟然に二回目。

   野分の朝しまりなき空
 花にとて手廻し早き旅道具    惟然

 秋の野脇の頃から花見の旅を思い立ち、旅道具を揃える。芭蕉の『笈の小文』の旅立ちのイメージか。

 江戸桜心かよはんいくしぐれ   濁子

の餞別句があった。
 五十句目は膳所の霊椿の二回目。

   花にとて手廻し早き旅道具
 煮た粥くはぬ春の引馬      霊椿

 前句を大名の行列を仕立てての花見としたか。槍・打ち物・長柄傘・挟箱・袋入れ杖などの旅道具を急遽揃えて、粥を食う暇もなく飾り立てた引馬の手配をする。

2021年11月28日日曜日

 今日も良い天気だが大分寒くなってきた。やはり冬だ。
 マスクをする習慣って、一度身に着いちゃうと外しにくいのではないかと思う。前は冬になるといつも扁桃腺が腫れて、薬など飲んでいたけど、去年今年と何事もない。マスクしていると冬に風邪引かないし、口元にいろいろ気を使わなくても良いから、案外楽なんじゃないかと思う。
 早く他所の国もそうなるといいと思う。
 『伽婢子(おとぎぼうこ)』の続きを読んだ。牡丹灯籠の話があったが、タイトルは有名だがどういう話かは知らなかった。今の牡丹灯籠は近代の落語が元になっているらしく、『伽婢子』のは中国の『剪灯新話』の「牡丹燈記」の翻案だという。これが元ネタになって、日本独自の「牡丹灯籠」の物語が作られていったようだ。
 「鬼谷に落て鬼となる」「地獄を見て蘇」は江戸時代の儒教と仏教との関係が反映されているのか。「鬼谷」のほうは儒教は唯物論ではなく、あくまで陰陽不測として、語らないだけで否定はしないというところで神仏との調和を保っている。
 「地獄」の方は、仏教は何で金が掛かるのか、という問題を孕んでいる。尼となり法師となっても戒律を守らず施物で贅沢三昧していれば地獄に落ちる、という所で折り合いを付けている。
 仏教は何で金がかかるのかというと、多産多死という所から考えるなら、農村の生産力を越えた人口が口減らしではなく、生きて村落から排除された時、彼らもまた生きる権利を主張する。そこで農民の生存を脅かさない程度の施物で生活するというのが、一つの妥協点になる。
 施物がなければ僧は餓死する。施物を過剰にふんだくれば農民が餓死する。その瀬戸際の取引で、僧は功徳を与えるから、その代償として施物をせよという妥協が生じる。仏教は純粋な信仰だけの問題ではなく、僧の生活がかかっている以上、仏教は金がかかるのが当然という論理になる。多分中世西洋の免罪符も同じ論理なのだろう。
 やがて都市の商工業が発達すると、そこで発明された新技術が農村の生産性向上に還元されるようになる。この循環が生じると、農村を追われた人口が都市の商工業に吸収されて行き、その分僧の比重が軽くなる。そうなると、宗教は生活手段から次第に心の問題になってくる。西洋の宗教改革もその辺りで説明できるのかもしれない。
 源氏物語の澪標巻を読み進めているが、源氏と紫との会話がだんだん「りゅうおうのおしごと」のくず竜王とあいのイメージになってくる。

 二表、二十三句目は伊賀の土芳で、『三冊子』を書き表したことでもよく知られている。

   多羅の芽立をとりて育つる
 此春も折々みゆる筑紫僧     土芳

 筑紫僧は特に誰ということでもなく、遠くからやって来る雲水の僧というイメージなのだろう。
 今年もやって来た筑紫僧のために多羅の芽を育てる。そのやり方も筑紫僧に教わったのかもしれない。
 二十四句目も伊賀の卓袋が付ける。

   此春も折々みゆる筑紫僧
 打出したる刀荷作る       卓袋

 筑紫僧は顔が広いのだろう。腕の良い刀鍛冶なども知っていて、遠くの武家から取次ぎを頼まれたりする。
 ここでは出来上がった刀を依頼主に届ける。
 二十五句目は膳所の霊椿。浪化編『有磯海』に、

   芭蕉翁の住捨給ひける幻住庵を
   あづかり侍りければ
 初雪や去年も山で焼豆腐     霊椿

の句がある。

   打出したる刀荷作る
 四十迄前髪置も郷ならひ     霊椿

 前髪をそり上げる月代は元禄の頃には成人男子の標準的な髪型になったが、江戸初期には前髪を生やして髷を茶筌にしている人も多かった。
 前句を刀鍛冶として、古風な茶筌頭をしていたのだろう。四十過ぎて初老になると、さすがに禿げてくるので月代を剃っていたか。
 二十六句目は京の去来の弟子の野童が付ける。元禄三年の「ひき起す」の巻、元禄四年の「牛部屋に」の巻などに芭蕉と同座している。

  四十迄前髪置も郷ならひ
 苦になる娘たれしのぶらん    野童

 女性の場合も元禄期には島田髷が定着したが、それ以前は長い髪を後ろで束ねるだけの女性も多かった。
 四十になるまで髪を結い上げない女性のところに、誰が忍んでやって来るのだろうか、と恋に転じる。
 二十七句目の素顰は膳所の女性で、浪化編『有磯海』に、

   梅がえにこそ鶯は巣をくへ
 もずの子をそだて揚るや茨くろ  素顰

の句がある。

   苦になる娘たれしのぶらん
 一夜とて末つむ花を寐せにけり  素顰

 前句を『源氏物語』の末摘花とする。忍んで来るのは言わずと知れた‥。
 二十八句目の万里も膳所の女性。浪化編『有磯海』に、

       かまくらの女郎はすゝ竹のつめ
   比丘定 だに織ものゝ手おほひ
       うつの宮がさを
             きりゝとめされて
 秋ののを舞台に見たる薄かな   万里

の句がある。

   一夜とて末つむ花を寐せにけり
 祭の留守に残したる酒      万里

 何処の娘か、祭の留守にたまたま置いてあった酒に酔って寝てしまう。酔って顔が赤くなったので「末つむ花」と呼ばれる。
 二十九句目の誐々は大津の人。

   祭の留守に残したる酒
 河風の思の外も吹しめり     誐々

 祭の日だが川風が湿っていて雨が降りそうなので、酒を家に残してきた。
 三十句目の這萃は膳所の人。

   河風の思の外も吹しめり
 薮にあまりて雀よる家      這萃

 風が湿っているので雀は薮に帰るが、一部の雀は家の植え込みか生垣で雨をやり過ごす。
 三十一句目は彦根の許六が付ける。江戸で四回芭蕉と同座したが、満尾したのは二回だけだったという。

   薮にあまりて雀よる家
 鹽売のことづかりぬる油筒    許六

 前句の薮の近くの雀の沢山集まってくる家を海から遠い片田舎と見て、塩売が山の方に売に通うついでに手紙を届けてもらう。状箱なんてものもなく、油筒に手紙を入れる。この「油筒」が取り囃しで工夫した所だろう。
 三十二句目の囘鳧は膳所の人。浪化編『有磯海』に、

 水うちて跡にちらほふ蛍かな   囘鳧

の句がある。

   鹽売のことづかりぬる油筒
 月の明りにかけしまふ絈     囘鳧

 絈は「かせ」。紡いだ糸を巻く桛木(かせぎ)のことか。
 月の明りで紡績をしていた女のところに、塩売が愛しい人の手紙を持って来たので、片づけてもてなす。
 結局塩売と結ばれるなんて落ちがありそうだが。
 三十三句目の荒雀は京都嵯峨の人。なぜか嵯峨は「京」とは別扱いになる。去来門であろう。
 浪化編『有磯海』に、

 露もるや精霊棚のうりなすび   荒雀

の句がある。

   月の明りにかけしまふ絈
 秋も此彼岸過せば草臥て     荒雀

 暑さ寒さも彼岸までというが、秋の彼岸は夏の疲れが出る頃でもある。月は明るいが、今日は一休みする。
 三十四句目の楚江も膳所の人。芭蕉が元禄四年の名月の会を木曽塚で行ったときのことが、支考の『笈日記』に、

  「三夜の月
   是もむかしの秋なりけるが今年は月の本ずゑ
   を見侍らんとて待宵は楚江亭にあそび
   十五夜は木そ塚にあつまる。」

とある。このあとの堅田の成秀亭での「安々と」の巻にも参加している。

   秋も此彼岸過せば草臥て
 くされた込ミに立し鶏頭     楚江

 前句の「草臥て」を植え込みのコンディションが悪くて、やっとのことで咲いている鶏頭のこととする。
 三十五句目の野明は去来門で嵯峨の人。

   くされた込ミに立し鶏頭
 小屏風の内より筆を取乱し    野明

 小屏風はものを書く時に見られないように立てる。腐った庭の植え込みに取り乱して何かを書き付ける。
 三十六句目は風国。京の人で後に芭蕉の句を集めた『泊船集』を編纂する。

   小屏風の内より筆を取乱し
 四ツになる迄起さねば寐る    風国

 何に腹を立てたのか、筆を取り乱した後ふて寝する。昼の四つは午前九時前後で、それまで寝る。

2021年11月27日土曜日

 今日は岩波の新日本古典文学大系の『伽婢子(おとぎぼうこ)』を借りてきた。
 一番最初の話は琵琶湖に竜宮城があるような話だが、これが冒頭というのは能でいう脇能物のようなもので、最初は目出度く始めるということなのか。「十津川の仙境」は桃花源で、犬が吠えて鶏が鳴くのはお約束。「岩をきりぬきたる門」は今でいえばトンネルだ。
 日本には「人をもって城となす」という考え方がある。武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言い、薩摩藩も館造りで作られていた。まあ、江戸城も天守閣がなかったし、そもそも日本の都市には城壁はなかった。立派な建物で守るのではなく、一人一人の人間が守るという発想があった。
 コロナ対策も、西洋のやった法律と警察権力による強制的なロックダウンよりも、一人一人がきちんとマスクをして消毒してソーシャルディスタンスを取り、不要不急の外出や遠距離移動を控え、ワクチン接種をする、という一人一人が自分を守るという自粛の考え方の方が最終的に効果があったのではなかったか。
 ロックダウンというのは西洋の城郭都市のようなもので、城壁を作ってそこに閉じ籠って守るという考え方だ。自粛はあえて城を作らずに一人一人の人間が守るという考え方に近いのではないか。
 まあ、とにかく今度のオミクロン株でも、いきなり政策を変更したりしない方が良いと思う。むしろ西洋の方が見習った方が良い。

 さて、それでは「なきがらを」の巻の続き。
 初裏、九句目を付けるのは膳所の曲翠で、今回の追善興行の主催者であろう。芭蕉に幻住庵を世話したこともあった。

   野がけの茶の湯鶉待也
 水の霧田中の舟をすべり行    曲翠

 野点の背景として、霧の立ち込める田の中をゆく舟を付ける。
 十句目は七日に駆けつけ、芭蕉の死を看取った一人の正秀が付ける。膳所の人。

   水の霧田中の舟をすべり行
 旅から旅へ片便宜して      正秀

 前句の舟から旅体に転じる。
 「片便宜(かたびんぎ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「片便宜」の解説」に、

 「① 返事のない、一方からだけのたより。かただより。〔運歩色葉(1548)〕
  ※浮世草子・武道伝来記(1687)一「古郷の片便宜になを気をなやまし」
  ② 行ったまま、または来たままで元へ帰らないこと。また、そのような使いの者。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ※咄本・軽口御前男(1703)三「きらるるものにとひたいけれど、かたびんぎでしれませぬといふた」

とある。飛脚ではない、ただの行きずりの旅人なので、手紙を託しても返事を持って帰ってきてはくれない。
 十一句目も同じ膳所の臥高が付ける。絵を得意としていて、画好という字を当てることもあった。

   旅から旅へ片便宜して
 暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ    臥高

 あの人は旅の空から便りはよこすけれど、こちらからの手紙の手紙は届かない。一人暖簾の内でやきもきする。
 恋に転じる。
 十二句目は泥足で、大阪で九月二十六日、晴々亭興行の「此道や」の巻に同座し、

   此道や行人なしに秋の暮
 岨の畠の木にかかる蔦      泥足

の脇を付けている。また畔止亭の「七種の恋」でも、

   寄紅葉恨遊女
 逢ぬ日は禿に見する紅葉哉    泥足

の句を詠んでいる。泥足は元禄七年刊の『其便』の編纂を大方終えた頃芭蕉に会い、

 「此集を鏤んとする比、芭蕉の翁は難波に抖數し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、晴々亭の半哥仙を貪り、畦止亭の七種の戀を吟じて、予が集の始終を調るものならし。」

という前書きの後、「此道や」の半歌仙と「七種の戀」を『其便』に加えて刊行している。

   暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ
 風のくすりを惣々がのむ     泥足

 「惣々(そうぞう)」は皆ということ。
 暖簾を店の暖簾として、みんな風邪ひいたから誰も出てこないということか。
 十三句目は近江大津の乙州。姉は智月。

   風のくすりを惣々がのむ
 こがすなと斎の豆腐を世話にする 乙州

 斎(とき)は法事に出す食事。
 「こがすな」は風に苦しまないようにと言う意味で、風邪が治れば斎の豆腐が食べられると世間話をする。
 十四句目は芝柏で大阪の人。九月二十九日に芝柏亭で、

 秋深き隣は何をする人ぞ     芭蕉

を発句とする俳諧興行が行わる予定だったが、芭蕉の容態の悪化で中止になった。

   こがすなと斎の豆腐を世話にする
 木戸迄人を添るあやつり     芝柏

 「あやつり」は人形芝居で、前句の「世話」を人形浄瑠璃の「世話物」に取り成す。
 木戸は芝居小屋の入口のことで、後ろで人が操りながら人形が木戸の所まで出て来る。
 十五句目は昌房で膳所の人。

   木戸迄人を添るあやつり
 葺わたす菖蒲に匂ふ天気合    昌房

 端午の節句では軒の菖蒲を刺して飾り付ける。支考は『梟日記』で五月五日の岡山に着いた時のことを、
 「此日岡山の城下にいたる。殊にあやめふきわたして、行かふ人のけしきはなやかなるを見るにも、泉石の放情はさらにわすれがたくて、
 松風ときけば浮世の幟かな」

と記している。前句の芝居小屋に端午の節句を付ける。
 十六句目の探芝も膳所の人。許六は『俳諧問答』の中で、

 「一、昌房、探志、臥高、其外膳所衆、風雅いまだたしかならず。たとへバ片雲の東西の風に随がごとし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.192)

と評している。

   葺わたす菖蒲に匂ふ天気合
 車の供ははだし也けり      探志

 元禄七年の四月には季吟などの助力もあり、王朝時代の賀茂祭が葵祭として再興されたとしでもある。賀茂祭というと『源氏物語』の車争いということで、端午の節句とはやや時期がずれるが、その連想によるものだろう。
 元禄の世では車は荷物を運ぶもので、牛を引く者は裸足だったりしたのだろう。
 十七句目の胡故も膳所の人。『続猿蓑』に、

 きつと来て啼て去りけり蝉のこゑ 胡故

の句がある。

   車の供ははだし也けり
 澄月の横に流れぬよこた川    胡故

 横田川は東海道の石部宿と水口宿の間にある横田渡しの辺りを流れる野洲川のこと。元禄三年伊賀で興行された「種芋や」の巻十句目に、

   やすやすと矢洲の河原のかち渉り
 多賀の杓子もいつのことぶき   半残

の句がある。彦根多賀大社のお多賀杓子はお守りとされている。
 胡故の句の方は、前句を月の朝に東海道の横田川をこえる荷車とし、横田と「横たふ」を掛けている。
 十八句目の牝玄も膳所の人。

   澄月の横に流れぬよこた川
 負々下て鴈安堵する       牝玄

 「負々」は追々で次々とという意味。月夜の川に雁が降りたつ。
 十九句目の游刀も膳所の人で、元禄四年秋の「うるはしき」の巻に正秀、画好、乙州、探志、昌房などとともに参加している。

   負々下て鴈安堵する
 庵の客寒いめに逢秋の雨     游刀

 秋の雨にびしょ濡れになった旅人が、庵に雨宿りして安堵する。

 病雁の夜寒に落ちて旅寝哉    芭蕉

のオマージュであろう。
 ニ十句目の蘇葉も膳所の人。

   庵の客寒いめに逢秋の雨
 ぬす人二人相談の声       蘇葉

 この場合は庵の客が実は泥棒で、泊めてやった主人が寒い目に逢うとする。
 二十一句目は大津の乙州の姉で、近江で芭蕉の世話をした智月尼が付ける。元禄三年の冬に、

   少将のあまの咄や志賀の雪  芭蕉
 あなたは真砂爰はこがらし    智月

   草箒かばかり老の家の雪   智月
 火桶をつつむ墨染のきぬ     芭蕉

の句を交わしている。

   ぬす人二人相談の声
 世の花に集の発句の惜まるる   智月

 前句を謡曲『草紙洗』のような盗作の相談としたか。設定を俳諧の撰集として、選ばれた発句の中に盗作があったのが惜しまれる。
 二十二句目は呑舟は大阪の之道の門人で、芭蕉の介護の方で活躍し、『笈日記』によれば十月八日の夜、芭蕉の絶筆、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る   芭蕉

の句を書き留めている。
 この日の昼には住吉大社に詣でて

 水仙や使につれて床離れ     呑舟

を詠んでいる。多分介護は支考・呑舟・舎羅の三交代制でこの日の深夜のシフトだったのだろう。

   世の花に集の発句の惜まるる
 多羅の芽立をとりて育つる    呑舟

 多羅の芽は春の山菜だったが、今では栽培する農家もいて、スーパーでも売っている。この頃も挿し木をして栽培しようとする人がいたか。
 前句を花のように素晴らしい集を編纂した一門の絶えるのを惜しむとして、比喩として若手を育てるとしたものだろう。蕉門の若手も育ってほしいと願うかのようだ。

2021年11月26日金曜日

 今日は小山田緑地を散歩した。来ている人は僅かで閑散としていた。
 ヘリコプターがなぜか上空でずっと空中停止していてうるさかった。
 みはらし広場からは丹沢や富士山から奥多摩の御嶽山も見えた。
 夏に見に行った早野のひまわり畑、種がこぼれていたのか、冬だというのに小さな花を付けている。暖かいからだろうか。
 南アフリカのB.1.1.529変異株のニュースはまだ未確定な「恐れがある」だとか「懸念がある」というだけで、最悪の事態を想定する必要はあるが、日本はまだマスクをはずしてないし、ソーシャルディスタンスもかなり守られていて、この種のものが定着している。もとより日本人は普段の身体的接触の習慣も少ない。
 これを急速に緩めることさえなければ、感染拡大まである程度時間は稼げる。その間に変異株対応ワクチンや重症化を防げる治療薬の普及があれば、この夏のようにぎりぎりで逃げ切れる。
 Bloombergは何か思い違いをしている。日本のコロナ対策はただ海外に正しく認識されてないだけで、実質的には失敗していない。どんなに批判されたとしても、死者数を低く抑えれば勝ちだ。
 日本は人口100万人あたりの死者数が11月25日の時点で145.5人。ノルウェーは193.7。Bloombergのランキングではノルウェーが一位、日本は十二位。耐性ランキングではアメリカが一位、日本は二十三位。ちなみにアメリカの人口100万人あたりの死者数は2343.7人。何のランキングなのか不明。

 さて、芭蕉の生涯を俳句視点ではなく俳諧視点で読んできたが、今日は旧暦十月二十二日ということで、芭蕉の命日から十日過ぎてしまった。
 『笈日記』の続きを読もうと思ったが、ほとんど『花屋日記』を読んだ時と重複してしまうので、まだ読んでない「元禄七年十月十八日於義仲寺追善之俳諧」を読んでみようかと思う。
 発句は、

 なきがらを笠に隠すや枯尾花   其角

で、枯尾花と言えば元禄四年冬の、

 ともかくもならでや雪の枯尾花  芭蕉

の句を思い浮かべてのものだろう。芭蕉が江戸に帰ってきた時の句で、其角としても、あの時芭蕉さんが江戸の戻ってきてくれたように、今回もどこかへ旅に出ていて、「枯尾花にならずに済んだ」と言って帰ってきてほしいという気持ちだったのだろう。
 ただ、現実にその亡骸を見た。枯尾花になった現実を前に、それを旅の笠を添えて隠す。
 もちろん芭蕉の病中で詠んだ、

 旅に病で夢は枯野をかけ廻る   芭蕉

の句も念頭にあったのだろう。枯野に枯尾花は付き物だ。最後まで心の中で旅を続けていた芭蕉さんに、死んで枯尾花になってもなおかつ、笠を被せたかったのだろう。
 この悲しみに溢れる句に、脇は秋からずっと芭蕉に同行していた支考が脇を付ける。

   なきがらを笠に隠すや枯尾花
 温石さめて皆氷る聲       支考

 温石(をんじゃく)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「温石」の解説」に、

 「① からだを暖める用具の一つ。蛇紋石、軽石などを火で焼いたり、またその石の代わりに菎蒻(こんにゃく)を煮て暖めたりして、布に包んで懐中するもの。焼き石。《季・冬》 〔文明本節用集(室町中)〕
  ※俳諧・続猿蓑(1698)春「温石(オンジャク)のあかるる夜半やはつ桜〈露沾〉」
  ② (温石はぼろに包んで用いるところから) ぼろを着ている人をあざけっていう。

とある。この①と②の両方の意味に掛けて、一方では参列する方々の懐の温石の冷めて震える様子を表し、一方では芭蕉さんの亡骸を包む笠を温石を包むぼろに見立てて、体温が失われていったときの比喩として用いている。
 「氷る聲」は、

 櫓声波を打って腸氷る夜や涙   芭蕉

の句の、断腸の声を表すのに「氷る」という表現を用いたことを踏まえてのことだろう。
 第三は丈草が付ける。七日に芭蕉の病を知って花屋の宿に駆けつけ、

 うづくまる薬缶の下の寒さ哉   丈草

の句は芭蕉も高く評価した。その第三。

   温石さめて皆氷る聲
 行灯の外よりしらむ海山に    丈草

 発句の弔いの情を離れて、明け方の寒さに転じる。ただ、あくまでも追悼興業なので、笑いを求めずに厳かに展開する。
 外が白んで明るくなっていくと、行燈の火は目立たなくなってゆく。
 四句目は支考とともに伊賀から芭蕉と旅を伴にした惟然が付ける。

   行灯の外よりしらむ海山に
 やとはぬ馬士の縁に来て居る   惟然

 海山の景色の美しい街道の宿場であろう。夜が白む頃に外へ出ていると、雇った覚えのない馬士がやってくる。人違いか。旅立とうとしている姿に見えたのだろう。
 五句目は芭蕉の死を看取った医者の木節が付ける。最後まで芭蕉の治療に当たった功労者だ。

   やとはぬ馬士の縁に来て居る
 つみ捨し市の古木の長短     木節

 前句の馬士が来たのを市場として、要らなくなった古木の木っ端をもって行ってもらおうと思ったが、違う馬士だった。
 役に立たない馬士に「長短」が響きとして面白い。
 六句目は彦根の平田から来た李由が付ける。許六の弟子で、病気の時にすぐに駆け付けることのできなかった許六の代理でもあったのだろう。丈草・木節と同様、七日に到着している。

   つみ捨し市の古木の長短
 洗ふたやうな夕立の顔      李由

 夕立の後は洗われたようにというのは、今でもよく使われる言い回しでもある。
 前句の古木の積み捨てたのを急な夕立のせいとする。びしょ濡れの顔で雨宿りする。
 七句目は芭蕉が大阪に来る理由でもあった之道が付ける。元凶となった洒堂は芭蕉の死に立ち会わずに雲隠れした。

   洗ふたやうな夕立の顔
 森の名をほのめかしたる月の影  之道

 森は神社の意味で、この場合は住吉大社か。
 之道の地元でもあり、八日には他の門人たちを引き連れて、住吉大社で芭蕉の病気の治癒を祈願した。住吉だけに月の「澄んで良し」となる。前句の顔は月の顔になる。
 八句目は京の芭蕉の高弟、去来が付ける。去来も七日に到着した。

   森の名をほのめかしたる月の影
 野がけの茶の湯鶉待也      去来

 「野がけ」は野遊びのことも意味するが、ここでは野点(のだて)のことであろう。
 前句の月の影を夕暮れの景色として、夕暮れの野点を行う。
 鶉は、

 夕されば野べの秋風身にしみて
     鶉鳴くなり深草の里
              藤原俊成(千載集)

が本歌で、ここで鶉の声でもあれば風情があるといったところか。

2021年11月25日木曜日

 今日も天気が良く、寺家ふるさと村から麻生の浄慶寺の方を散歩した。前にも歩いたコースだが、あれから紅葉もだいぶ赤くなっていた。

 さて、芭蕉の生涯の俳諧(風流)をたどるのも、いよいよ最後になる。
 芭蕉はこの後伊賀から奈良を経て大阪に行く。洒堂と之道の喧嘩を仲裁するためだった。
 既にかなり病気による衰弱がひどく、旅は駕籠と舟によるものだった。ただ、せめて大阪に入る時には自分の足で歩きたいという希望があって、暗峠(くらがりとうげ)で駕籠を降り、歩いて大阪に入った。これが最期の旅になった。
 元禄七年九月十四日、大阪畦止亭での興行で、もめ事の元になっていた洒堂と之道は顔を合わせることになる。
 発句は、

 升買て分別かはる月見かな    芭蕉

になる。
 元は十三夜の興行の予定だったが芭蕉の体調不良で延期になって、翌日十四日になった。
 十三日には住吉甚社の秋の宝之市神事に行った。宝之市神事は升之市とも呼ばれ、ここの升は縁起物とされていた。芭蕉も折角この時期に大坂に来たんだから、ということで誘惑に勝てなかったのだろう。
 病で衰弱していたところを無理して出歩き、雨に降られてしまい、せっかく良くなりかけた病状がまた悪化してしまった。
 句の方は、升を買っただけでなく、病気なんだから無理をしてはいけないという分別を一緒に買ってきたことで、十三夜の月見が十四夜の月見に「替った」という「かはる」は二重の意味に掛けて用いられている。
 十三句目。

   村の出見世に集て寐る
 嫁どりは女斗で埒をあけ     芭蕉
 (嫁どりは女斗で埒をあけ村の出見世に集て寐る)

 嫁を迎える時には男が下手に口出しするともめるもとで、埒が明かなくなる。「埒(らち)」という言葉は今は「埒が明かない」と否定文でしか使わないが、かつては肯定文でも用いられた。
 埒は本来は馬場の柵のこと。これが開かないと馬を出せない。
 二十五句目。

   竹橋かくる山川の末
 大根も細根になりて秋寒し    芭蕉
 (大根も細根になりて秋寒し竹橋かくる山川の末)

 大根は冬のもので、秋も深まってくると徐々に根が太くなりだすが、「細根」というのは今年は育ちが悪くて心細いということか。前句の山奥の景色に大根畑を付ける。

 元禄七年九月十九日には、大阪の其柳(きりゅう)亭での八吟歌仙興行が行われる。
 発句は、

 秋もはやはらつく雨に月の形   芭蕉

で、支考の『笈日記』に、

   此句の先〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かなと
   いふ句なりけるにいかにおもはれけむ月の形にハ
   なしかえ申されし

とあり、

 昨日からちょつちょつと秋も時雨哉

が初案だったという。この日は事前に発句を用意するのではなく、その場の興で詠んだのであろう。
 初案の方は本当にそのまま詠んだという感じで、九月も中旬だからまだ暦の上で冬ではないが、昨日くらいからちょちょっと時雨がぱらついていたのだろう。
 ひょっとしたらこの句を詠んで、さあ始めようとしたところで、ちょうど月の光が射してきたのかもしれない。十九日だから月の出も遅い。
 せっかく月が出たのだから、この月を詠まない手はないとばかりの改作ではなかったかと思う。
 八句目。

   此際は鰤にてあへる市のもの
 逢坂暮し夜の人音        芭蕉
 (此際は鰤にてあへる市のもの逢坂暮し夜の人音)

 大阪の町は夜も賑やかで、市の者が鰤で宴会をやっている声がする。この興行をやっている時にも聞えてきたか。
 十五句目。

   奉行のひきの甲斐を求し
 高うなり低うなりたる酒の辞儀  芭蕉
 (高うなり低うなりたる酒の辞儀奉行のひきの甲斐を求し)

 辞儀はお辞儀のこと。前句の「ひき」を帰るの意味に取り成して、酒の席でお奉行様が退出するとき、酒をたくさんいただいた時は平身低頭し、酒が足りないとおざなりになる。
 二十三句目。

   焼てたしなむ魚串の煤鮠
 此銭の有うち雪のふかれしと   芭蕉
 (此銭の有うち雪のふかれしと焼てたしなむ魚串の煤鮠)

 寒バエの季節ということで雪の季節になる。銭が尽きた時に雪が降ると苦しいので、銭がまだ残っているうちに降ってくれと願う。
 二十八句目。

   日は入てやがて月さす松の間
 笑ふ事より泣がなぐさみ     芭蕉
 (日は入てやがて月さす松の間笑ふ事より泣がなぐさみ)

 悲しい時は無理して笑うより泣いた方が良い。

 元禄七年九月二十一日、大阪の車庸亭での半歌仙興行。
発句は、

 秋の夜を打崩したる咄かな    芭蕉

で、秋の夜のしみじみとした物悲しい雰囲気を打ち崩すような話をしましょう、という挨拶。打倒秋の夜!って感じか。
 芭蕉さんの病気もかなり進行していたことだろう。だからといって辛気臭くなってもしょうがない。笑って病気何てぶっ飛ばそう、という意味もあったのだろう。
 十五句目。

   雨気の月のほそき川すじ
 火燈して薬師を下る誰がかか   芭蕉
 (火燈して薬師を下る誰がかか雨気の月のほそき川すじ)

 「かか」は「かかあ(嚊/嬶)」のこと。薬師堂はいろいろなところにあり、とくにどこのということでもあるまい。夫の病気平癒を祈ってきた帰り道か。前句をその背景とする。不安な空模様がかかあの気持ちと重なる。

 元禄七年九月二十六日、大阪の晴々亭で十二人の連衆による半歌仙興行が行われる。
 発句は、

   所思
 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

 発句は当座の興で読むことが多いが、事前に用意しておくことも中世の連歌の頃から普通に行われていた。もちろん発句が先にできて、それを元に興行が企画されることもあるし、その辺の事情はいろいろある。
 今回の場合も発句は少なくとも九月二十三日の段階では出来ていた。
 支考の『笈日記』に、

  「廿六日は淸水の茶店に遊吟して
   泥足が集の俳諧あり
           連衆十二人
 人聲や此道かへる秋のくれ
 此道や行人なしに龝の暮
   此二句の間いづれをかと申されしに
   この道や行ひとなしにと獨歩したる
   所誰かその後にしたがひ候半とて是
   に所思といふ題をつけて半歌仙
   侍り爰にしるさず」

というように記されている。

 人声や此道かへる秋のくれ
 此道や行人なしに秋の暮

の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。
この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 人声や此道かへる秋のくれ    芭蕉

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

の句になる。
 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
 その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
 それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 人声や此道かへる秋のくれ    芭蕉

 私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
 それに対し、

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
 支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。
 第三の支考の句。

   岨の畠の木にかかる蔦
 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て 支考
 (月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て岨の畠の木にかかる蔦)

 畠から蕎麦のこぼれ種が花をつけて、それを月が照らし出している美しい情景を付け、そこに鳥が寝てと付け加える。そして夜明けも近く空も白んでくる。この頃の支考は本当に天才だ。
 「岨の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞にもなっていないし、取り成しにもしていない。ただ何となく繋がっているあたりがやはり一種の「匂い」なのか。
 この年の閏五月に興行された「牛流す」の巻の六句目、

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち     支考

の「つと」→「つつみ」、「下がる」→「おりて」の縁にも似ている。
 十二句目。

   兵の宿する我はねぶられず
 かぐさき革に交るまつ風     芭蕉
 (兵の宿する我はねぶられずかぐさき革に交るまつ風)

 「かぐさき」は獣肉、皮などの匂いのこと。
 展開する時には「我は」は余り気にせず、乱世の頃の話にしてもいい。実際に軍の装備をしている兵(つはもの)は革の匂いがぷんぷんしたことだろう。
 「兵(つはもの)の宿する」に「かぐさき革」、「ねぶられず」に「松風」と四つ手に付ける。

 元禄七年九月二十七日、大阪の園女亭での九吟歌仙興行が行われた。これが芭蕉が参加する最後の俳諧興行となった。
 発句は、

 白菊の眼に立て見る塵もなし   芭蕉

で、亭主の園女を美しく清楚な白菊の花にたとえ、「眼に立て見る塵もなし」と、あえてあら探しはしないことにしようと、冗談を交えて挨拶としたものだ。
 ただ、この句は一ヶ月前の嵯峨野で詠んだ、

 大井川浪に塵なし夏の月     芭蕉

の句とかぶっていた。後、十月月九日には支考を呼んで、大井川の句を、

 清滝や波に散り込む青松葉    芭蕉

と直すように指示している。これが、芭蕉の最後の句となった。
 ただ、これは改作ということで、その一日前に詠んだ、

    病中吟
 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  芭蕉

の句が、一般には芭蕉の絶筆としてよく知られている。
 園女の脇。

   白菊の眼に立て見る塵もなし
 紅葉に水を流すあさ月      園女
 (白菊の眼に立て見る塵もなし紅葉に水を流すあさ月)

 発句の挨拶の心を受けて、それへの返礼となるが、自分のことを清楚な白菊に例えた前句の心を受けて、いえ、そんないいものではありません、この紅葉の季節に朝早く起きて、白んだ月を見ながら流し場で働く、普通の女です、と返す。
 昔は台所のことを流し場と言ったが、流し場の句というと、

 鴬に手もと休めむながしもと   智月

という句もある。男の場合、たいていは仕事のオン・オフがはっきりとしているから、俳諧は仕事を離れた立場から詠むことが多いし、風雅に仕事を持ち込むのは野暮という感覚もあるが、女性の場合、多くは家事や育児といったオン・オフの境のない仕事を二十四時間やっているため、風雅はそのほんの合間の一瞬にすぎない。
 まして、そうそう自由に旅ができるわけでもない。そうした中から生まれる風雅を確立したという点では、羽紅、智月、園女といった人たちを忘れることはできない。
 十句目。

   堵越にちょっと盥の礼いふて
 普請の内は小屋で火を焼     芭蕉
 (堵越にちょっと盥の礼いふて普請の内は小屋で火を焼)

 前句の堵は「かき」で、垣根があるところから、立派なお屋敷とし、その建築工事であれば、大工さんたちが現場に小屋を建てて、そこで火を焚いたりもする。
 いかにもありそうな理由を付けて展開している。
 十七句目。

    彼岸のぬくさ是でかたまる
 青芝は殊にもえ立奈良の花    芭蕉
 (青芝は殊にもえ立奈良の花彼岸のぬくさ是でかたまる)

 青芝といえば、奈良の若草山。全山芝生で覆われた山は三笠山ともいい、阿倍仲麻呂が中国で「三笠の山にいでし月かも」と詠んだのも、この三笠山で、麓には藤原氏の氏神である春日大社がある。遣唐使たちも旅の無事をこの神社で祈ったという。
 芭蕉も『野ざらし紀行』の旅のときにこの地を訪れ、東大寺の二月堂に籠って

 水とりや氷の僧の沓の音     芭蕉

の句を詠んでいる。また、『笈の小文』の旅のときにも初夏の奈良を訪れ、

 灌仏の日に生れあふ鹿の子こ哉  芭蕉

の句を詠んでいる。そして、今、大阪へ来る直前にも奈良に立ち寄り重陽(九月九日)を奈良で過ごし、

 菊の香や奈良には古き仏達    芭蕉
 びいと啼く尻声悲し夜の鹿    同

の句を詠んでいる。
 前句が単に時候を示すだけの句なので、ここではかなり自由に花の句を詠める。その中で、芭蕉が選んだのは奈良の若草山の芝生の美しい季節の桜だった。
 二十六句目。

   上下の橋の落たる川のをと
 植田の中を鴻ののさつく     芭蕉
 (上下の橋の落たる川のをと植田の中を鴻ののさつく)

 「橋の落ちたる」を洪水で橋の流された後の景色に取り成す。
 植えたばかりの田んぼがすっかり水に浸かって、湖のようになったところを、コウノトリだけが悠々と歩いている。
 「のさつく」という言葉は、気合が入らない、間の抜けたという意味の「のさ」から来た言葉で、今でも「のそーっとして」という言い回しは残っている。
 みんなが大変な思いをしている時に何とも腹立たしい感じもするが、「のさつく」という俳言が笑いを誘うことで救われる。コウノトリはしばしば夏の鶴にも見立てられる。
 三十一句目。

   杖一本を道の腋ざし
 野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉
 (野がらすのそれにも袖のぬらされて杖一本を道の腋ざし)

 カラスは人の死の匂いを嗅ぎつけると言われ、不吉な鳥ではあるが、同時に人は必ずいつかは死ぬもので、その逃れられない定めを前に人生を振り返ることで、あらためて生きるということを考えさせられる。
 僧が墨染めの衣を着るところから、カラスは僧にも例えられる。不吉で不気味でもあるカラスは、一方では人を悟りに導くものでもある。
 前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した。この老人は芭蕉自身といってもいいかもしれない。『野ざらし紀行』では自らを「腰間に寸鐵をおびず。」と言っている。
 芭蕉はこの興行の前日に、

    旅懐
 この秋は何で年寄る雲に鳥    芭蕉

の発句を詠んでいる。芭蕉が心敬の、

   わが心誰にかたらむ秋の空
 沖に夕風雲にかりがね      心敬

の句を知っていたのかどうかはよくわからない。ただ、意味的にはよく似ている。
 心敬の句は沖には夕風が、雲にはかりがねがというように、それぞれ友があるのに、この私には語る友もいず、ただ秋の空だけがあるという意味になる。芭蕉の句もまた、鳥は雲に寄る所があるというのに、この秋は年取るだけで寄る所もない、という句だ。
 芭蕉は前年の元禄六年三月に甥の桃印とういんに死なれ、この年の六月には京都滞在中に寿貞じゅていの訃報を聞いている。寿貞は一部には芭蕉の妻とする説もあるが、一般的には桃印の妻といわれている。相次ぐ身内の死に、孤独感を募らせていたのだろう。
 こうした事情もあってか、芭蕉は荷中の詠んだ前句に自分の姿を重ね、野原に飛ぶカラスを見るにつけても涙がこぼれる、と付けたのだろう。そして、結果的にこれが芭蕉の最後の付け句となった。

 芭蕉は元禄七年十月十二日、この世を去ることになる。支考の『前後日記』にこう記されている。

 「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)

 このあと支考は芭蕉の果たせなかった西国行脚の夢を果たすべく、九州へと旅立ち、『梟日記』を書き残すことになるが、それはまた別のお話。

2021年11月24日水曜日

 今日も良い天気で永青文庫の「芭蕉─不易と流行と─」展を見に行った。芭蕉とその周辺の書画の展示で、宗因や鬼貫などの談林系の書もあったし西鶴の自我賛もあった。。
 肥後細川庭園もだいぶ紅葉が色づいていていい感じになっていた。
 関口芭蕉庵は今日はやってなかった。まあ、二十年以上前に一度行っているが。
 帰りは高田馬場のでぶちゃんで博多ラーメンを食べて帰った。

 それでは昨日の続き。
 「松茸や(都)」の巻も伊賀滞在中、八月二十三日猿雖亭での興行で、十六句のみが残されている。惟然が加わることで、伊賀の俳諧も活気づいた感じがする。
 発句はその惟然(素牛)が詠む。

 松茸や都に近き山の形リ     惟然

 誰かに松茸を貰って芭蕉以下連衆そろって召し上がったか。その松茸の興で興行を始める。
 松茸を見ていると都の近くにある山の形を思い出しますという句で、如意ヶ嶽(大文字山)のことか。
 四句目。

   面白咄聞間に月暮て
 まだいり手なき次の居風呂    芭蕉
 (面白咄聞間に月暮てまだいり手なき次の居風呂)

 話があまりに面白いもんだから、風呂が沸いているのに誰も入ろうとしない。昔の風呂は誰かが薪をくべ続けないと火が消えてしまい、簡単に追い焚きなんてできない。
 七句目。

   日のさし込にすずめ来て鳴
 冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら 芭蕉
 (冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら日のさし込にすずめ来て鳴)

 「すぐりわら」は選りすぐりの藁のこと。
 稲刈の後の田んぼには落ちた稲を求めて雀が集まってくる。そのころ人は熟した柿をきれいな藁で包む。
 「俺たちの百姓どっとこむ」というサイトには、

 「大きくて重い美濃柿は吊しても自重が重くて蔕と実が離れて落下してしまいます。そこで年配のおじいちゃんおばあちゃんに智恵を拝借したところ、この地域では昔、この美濃柿を藁にお(藁を集めて重ねて保管すること)の中に入れて保存して渋を抜いていたとのことでした。また、つとといって藁に挟んでおいたとのことでした。」

とある。
 九句目の惟然の句。

   置て廻しいせのおはらひ
 〇ひさしさへならで古風の家作リ 惟然
 (〇ひさしさへならで古風の家作リ置て廻しいせのおはらひ)

 最初の〇は良い句に与えられる点か。字数はあっているので、伏字ではないだろう。
 古い時代の民家は壁が多くて窓や障子の個所が少なく、藁ぶきの軒が大きく張り出しているため、庇を必要としなかったのだろう。
 前句の伊勢から古い時代の匂いで庇のない古民家を付ける。
 十五句目。

   みするほどなきはぜ籠の内
 弓はててばらばら帰る丸の外   芭蕉
 (弓はててばらばら帰る丸の外みするほどなきはぜ籠の内)

 矢場から帰る人を城攻めに失敗した人に見立てて、城外を意味する「丸の外」としたか。さながらたいした釣果もなく帰るハゼ釣りの人のようだ。
 この頃は弓矢の練習場ではなく、庶民の娯楽の場としての矢場が広まって行く頃だった。

 翌八月二十四日にも惟然を交えて、「つぶつぶと」の巻の興行が行われている。
 六句目。

   大八の通りかねたる狭小路
 師走の顔に編笠も着ず      芭蕉
 (大八の通りかねたる狭小路師走の顔に編笠も着ず)

 狭すぎて編笠も引っかかってしまうような狭小路ということか。体を横にして通らなくてはなるまい。
 十六句目。

   立ながら文書て置く見せの端
 銭持手にて祖母の泣るる     芭蕉
 (立ながら文書て置く見せの端銭持手にて祖母の泣るる)

 放蕩者の孫が金の無心に来たのだろう。祖母ももうこれ以上出せないと銭を手に持って、泣きながら差し出す。さすがに思う所があったのか、手紙を書いて店の端に置いて行く。
 二十一句目。

   ならひのわるき子を誉る僧
 冬枯の九年母おしむ霜覆ひ    芭蕉
 (冬枯の九年母おしむ霜覆ひならひのわるき子を誉る僧)

 九年母(くねんぼ)は蜜柑に似た植物の名前で、前句の「子」の縁で「母」の字の入った九年母を付ける。
 「ならいのわるき」から「冬枯」も特に関連があるわけではないが、響きで展開する。
 冬枯れの九年母を惜しむように、習いの悪い子も褒める。
 二十八句目。

   間あれば又見たくなる絵のもやう
 ともに年寄逢坂の杉       芭蕉
 (間あれば又見たくなる絵のもやうともに年寄逢坂の杉)

 逢坂の関の杉は和歌に詠まれている。

 逢坂の杉間の月のなかりせば
     いくきの駒といかで知らまし
              大江 匡房(詞花集)
 鶯の鳴けどもいまだ降る雪に
     杉の葉しろきあふさかの関
              後鳥羽院(新古今集)

 ただ、逢坂の関は絵巻などには描かれるが、画題になることはあまりない。逢坂の杉の老木を描いた絵があったら見てみたいものだ。

 元禄七年九月三日には、支考とその弟子の文代(斗従)が伊賀にやって来る。その翌日、誰かから届けられた松茸を見て、芭蕉の旧作、

 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉

を立句にした一巻が興行される。
 松茸は枯葉や松の落葉などに埋もれていて、採ってきたばかりの松茸には枯葉がくっついていることがある。店で売っている松茸はそういうものをきれいに取り除いてあるが、昔は松茸あるあるだったのだろう。
 十四句目。

   いそがしき体にも見えず木薬屋
 三年立ど嫁が子のなき      芭蕉
 (いそがしき体にも見えず木薬屋三年立ど嫁が子のなき)

 ネット上の齋藤絵美さんの『漢方医人列伝 「香月牛山」』によると、

 「不妊症に用いる処方については、現在も使われているものとしては六味丸・八味丸に関する記述があり、「六味、八味の地黄丸この二方に加減したる方、中花より本朝にいたり甚だ多し」と書かれています。」

とあるように、不妊症の薬は一応当時もあったようだ。
 まあ、薬は効いてなかったのだろう。
 二十四句目。

   二三本竹切たればかんがりと
 愛宕の燈籠ならぶ番小屋     芭蕉
 (二三本竹切たればかんがりと愛宕の燈籠ならぶ番小屋)

 愛宕燈籠は京都の愛宕神社の燈籠で、秋葉灯籠などと同様、信仰の盛んな地域では至る所に見られる。愛宕灯籠も秋葉灯籠も火難除けという点では共通している。地域の当番の人が火を灯している。
 番小屋は町や村に設けられた番太郎の小屋で、愛宕灯籠の並ぶ番小屋は、京の街の見慣れた風景だったのだろう。
 前句は番太郎が、地域を見張りやすいように竹を二三本切った、とする。
 三十一句目。

   茄子畠にみゆる露じも
 此秋は蝮のはれを煩ひて     芭蕉
 (此秋は蝮のはれを煩ひて茄子畠にみゆる露じも)

 「蝮のはれ」は山口県医師会のホームページの「マムシに咬まれたら」(宇部市医師会外科医会)に、

 「症状としては、噛まれた直後から数分後に焼けるような激しい痛みがあります。通常傷口は2個でたまに1個のこともあります。咬まれた部分が腫れて紫色になってきます。腫れは体の中心部に向かって広がります。皮下出血、水泡形成、リンパ節の腫れも認めます。重症例では、筋壊死を起こし、吐気、頭痛、発熱、めまい、意識混濁、視力低下、痺れ、血圧低下、急性腎不全による乏尿、血尿を認めます。通常、受傷翌日まで症状は進展し、3日間程度で症状は改善していきますが、完全に局所の腫脹、こわばり、しびれなどが完治するまで1カ月ぐらいかかります。ただし、いったん重症化すると腎不全となり死に至ることもあります。」

とある。かなり危険な状態だが、紫の腫れを茄子に見立てて笑うしかない。

 同じ頃、伊賀の猿雖亭での「松風に」の巻七吟五十韻興行が行われている。
 十一句目。

   喧花の中をむりに引のけ
 仕合と矢橋の舟をのらなんだ   芭蕉
 (仕合と矢橋の舟をのらなんだ喧花の中をむりに引のけ)

 「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。
 「矢橋(やばせ)」は琵琶湖の矢橋の渡しで、瀬田の唐橋を行くか矢橋で海を渡るかは悩む所だった。
 その矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。
 「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。
 十四句目。

   せりせりとなく子を籮につきすへて
 大工屋根やの帰る暮とき     芭蕉
 (せりせりとなく子を籮につきすへて大工屋根やの帰る暮とき)

 昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
 だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
 帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
 二十七句目。

   一里の渡し腹のすきたる
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉
 (山はみな蜜柑の色の黄になりて一里の渡し腹のすきたる)

 腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
 これに二十八句目は支考が付ける。

   山はみな蜜柑の色の黄になりて
 日なれてかかる畑の朝霜     支考
 (山はみな蜜柑の色の黄になりて日なれてかかる畑の朝霜)

 「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
 ところでこの句について、支考の元禄八年刊の『笈日記』には、

  「その日はかならず奈良までといそ
   ぎて笠置より河舟にのりて錢司といふ所を
   過るに山の腰すべて蜜柑の畑なり。されば先の
   夜ならん
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  翁
   と承し句はまさしく此所にこそ候へと申ければ
   あはれ吾腸を見せけるよとて阿叟も見つつわらひ
   申されし。是は老杜が詩に青は峯巒の
   過たるをおしみ黄は橘柚の来るを見るとい
   へる和漢の風情さらに殊ならればかさぎの峯は
   誠におしむべき秋の名残なり。」

とある。
 伊賀から奈良への道は通常は笠置街道になる。今の「旧大和街道」と呼ばれる道で伊賀城下を西に向かい、仇討で有名な鍵屋の辻を通り、木津川を渡り、島ヶ原、月ヶ瀬口、大河原など今の関西本線に近いルートを経て木津川沿いの笠置に出る。笠置からは通常は陸路の笠置街道で東大寺の裏に出る。
 ここでは急ぐということで笠置から船に乗って木津川を下って、木津から奈良街道を行くルートを選んだのだろう。その途中に銭司がある。『笈日記』には「デス」とルビがあるが、今は「ぜず」と呼ばれている。
 ここは古くからミカンの産地でもあった。ネット上の乾幸次さんの「山城盆地南部における明治期の商業的農業」には、

 「『雍州府志』にみえる山城盆地南部での特産蔬菜の産地をみると,蕪著・薙萄(大根) が御牧に,芹菜が宇治に,牛芳が八幡などの木津川下流付近に産し,さらに京都都心より約30~32kmの木津川上流の狛に茄子・越瓜・角豆・生姜,鐵司(銭司)に橘(ミカン)が産し,いずれも「売京師」と記載されている。」

とある。『雍州府志』はウィキペディアに「天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記された。」とある。
 当時の蜜柑の一大産地で、京に供給してたようだ。そのため山の中腹が一面のミカン畑になっていた。
 そこで思い出したのが「松風に」の五十韻興行の二十七句目、

    一里の渡し腹のすきたる
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉

の句だった。普通に読むと、腹が減ったから黄葉した山が蜜柑のように見える、という意味に取れるので、支考も多分そういう句だと思ってたのだろう。それを支考は朝日の色に取り成して、

   山はみな蜜柑の色の黄になりて
 日なれてかかる畑の朝霜     支考

と続けていた。
 それがこのミカン畑の景色だった。あの句はここの景色のことだったんだと言うと、芭蕉はバレたかって感じだった。
 三十八句目。

   漸に今はすみよるかはせ銀
 加減の薬しつぱりとのむ     芭蕉
 (漸に今はすみよるかはせ銀加減の薬しつぱりとのむ)

 『校本芭蕉全集 第三巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の、

 「これも例の人情世態なり。金銀の取りまはしにこころづかひして、癪気(シャクキ)をなやめる人と見たり。かはせ銀の事の長引て段々と手間どりたるが、やうやうとすみよりたるなり。かかる身の上の人は年中薬のむさま、まことにしかりなり。」

を引用している。
 まあ、相場というのは今の言葉だと「胃が痛くなる」ものだ。
 「しっぱり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[副]
 1 木の枝などがたわむさま。また、その音を表す語。
 「柳に雪降りて枝もたはむや―と」〈浄・吉岡染〉
 2 手落ちなく十分にするさま。しっかり。
 「たたみかけて切りつくるを、―と受けとめ」〈浄・滝口横笛〉
 3 強く身にこたえるさま。
 「あつつつつつつつ。―だ、―だ」〈滑・浮世風呂・三〉」

とある。しっかりと、きちんと飲むというほどポジティブでもなく、仕方なしに、それでも飲まなあかんな、というニュアンスがあったのだろう。ここでも口語的な言い回しが用いられている。

 また同じ頃だが、前年に詠まれた、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

の句を立句にした芭蕉、支考、惟然による三吟が巻かれている。『続猿蓑』のタイトルの由来になった発句だけに、『続猿蓑』のメインに据えようという意気込みを以て作られ、実際に収録されることになった。
 この伊賀滞在の期間は芭蕉が支考とともに『続猿蓑』の編纂に携わったが、その原稿は伊賀に残されたのか、後に江戸で出版されるまで支考は原稿の行方を知らなかったようだ。
 松露は美味で香りも良く、それに霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
 五句目。

   篠竹まじる柴をいただく
 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉
 (鶏があがるとやがて暮の月篠竹まじる柴をいただく)

 昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。
 鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
 路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く

を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。
 この句に支考が六句目を付ける。

   鶏があがるとやがて暮の月
 通りのなさに見世たつる秋    支考
(鶏があがるとやがて暮の月通りのなさに見世たつる秋)

 舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾の「秋」はいわゆる放り込みで、とってつけたような季語だが、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。
 八句目。

   盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚
 昼寝の癖をなをしかねけり    芭蕉
 (盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚昼寝の癖をなをしかねけり)

 この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、

 「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」

と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。
 だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。
 ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。
 前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。
 十七句目。

   水際光る濱の小鰯
 見て通る紀三井は花の咲かかり  芭蕉
 (見て通る紀三井は花の咲かかり水際光る濱の小鰯)

 紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
 和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れていて、

 行く春にわかの浦にて追付たり  芭蕉

の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺  芭蕉

の句もある。
 実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。
 二十三句目。

   喧嘩のさたもむざとせられぬ
 大せつな日が二日有暮の鐘    芭蕉
 (大せつな日が二日有暮の鐘喧嘩のさたもむざとせられぬ)

 これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。
 ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日。
 その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。
 二十九句目。

   赤鶏頭を庭の正面
 定まらぬ娘のこころ取しづめ   芭蕉
 (定まらぬ娘のこころ取しづめ赤鶏頭を庭の正面)

 ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。

2021年11月23日火曜日

 小学館の『仮名草子集』の「御伽物語」を読み進める。人を食う鬼、狸、山姫、大蛇、幽霊、猫又、送り狼、今にも通じる怪談のパターンがいろいろ出て来る。

 それでは風流の続き。
 同じ夏の「夕㒵や」の巻も京での興行と思われるが、この時は二十二句目までで、二十三句目以降は後で付け足されたと思われる二つの巻がある。
 十四句目。

   めきめきと川よりさむき鳥の声
 米の味なき此里の稲       芭蕉
 (めきめきと川よりさむき鳥の声米の味なき此里の稲)

 「味なし」は「あぢきなし」という古い方の意味だろう。水害か冷害で稲がだめになってしまい、水鳥の声だけが空しい。
 十七句目。

   霧の奥なる長谷の晩鐘
 花の香に啼ぬ烏の幾群か     芭蕉
 (花の香に啼ぬ烏の幾群か霧の奥なる長谷の晩鐘)

 花は奇麗だが、カラスの群れにどこか死を暗示させる。葬儀があったのかとも思わせるが、あくまで暗示に留める。
 何となく物悲しく、それでいて厳粛な気分にさせるのは芭蕉の幻術だ。

 元禄七年のおそらく六月十七日、膳所の曲翠亭で行われた五吟歌仙興行が行われる。
 前書きに当たる支考の「今宵賦」とともに、『続猿蓑』に収録されている。
 「今宵賦」には六月十六日とあるが、「今宵賦」の内容といい、芭蕉の発句といい、この夜は宴会で興行は別の日ではなかったと思われる。
 発句は、

 夏の夜や崩て明し冷し物     芭蕉

で、「冷し物」はコトバンクの「デジタル大辞泉「冷し物」の解説」に、

 「水や氷で冷やして食べる物。「夏の夜や崩れて明けし―/芭蕉」

とある。夏の夜は短く、

 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
     雲のいづこに月宿るらむ
              清原深養父(古今集)
 
の歌もあるが、それを「崩て明し」という端的でキャッチーな言葉をすぐに思いつくのが芭蕉だ。その夜明けには酔いの眠りを覚ます冷し物がふるまわれたのだろう。
 序文で既に夜明けのことまでが語られていて、発句も朝の句だから、俳諧興行はこの後、おそらく六月十七日に行われたのではないかと思う。
 十一句目。

   鳶で工夫をしたる照降
 おれが事哥に讀るる橋の番    芭蕉
 (おれが事哥に讀るる橋の番鳶で工夫をしたる照降)

 我を「おれ」ということは、この頃の口語でもあったのだろう。橋の番を詠んだ歌というと、近江という場所柄を踏まえれば、

 にほてるや矢橋の渡りする船を
     いくたび見つつ瀬田の橋守
              源兼昌(夫木抄)

の歌だろうか。琵琶湖の上の鳶を見ては天気を判断する。雨だと矢橋の船が止まって橋の方に人が押し寄せる。
 鳶は上昇気流に乗って滑空するところから、高く飛ぶと晴れて、低く飛ぶと雨が降ると言われている。
 十六句目。

   馬引て賑ひ初る月の影
 尾張でつきしもとの名になる   芭蕉
 (馬引て賑ひ初る月の影尾張でつきしもとの名になる)

 昔は戸籍がなかったのでいわゆる本名の概念がない。名前は分不相応でなければ勝手に名乗ってよかった。
 わけあって余所に行かねばならず、そこでは別の名前を名乗っていたが、尾張に帰ってきてその賑わう街を眺めながら、これで元の名前に戻れる。
 あるいは伊勢で「の人」を名乗っていた杜国の俤があったのかもしれない。杜国はついに尾張に帰ることはなかったが。
 二十九句目。

   着かえの分を舟へあづくる
 封付し文箱來たる月の暮     芭蕉
 (封付し文箱來たる月の暮着かえの分を舟へあづくる)

 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注には『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の引用として、「さだめてしろがね入たる文箱ならむ」とある。江戸時代は飛脚を用いて現金を送金することもあったので、封付けした文箱はそういう意味だったのだろう。
 船に乗ろうとしたら急に現金が届いたので、いったん店に戻る。
 前句の着替えを舟に置いておくのは、必ず乗るから待っていてくれ、という意味で、場所取りのようなものだろう。

 同じ六月、大津の能太夫、本間丹野亭での興行があったが、芭蕉の名前があるのは十三句目が最後になる。あとは路通が引き継いで満尾させたか。
 発句は、

   本間丹野が家の舞台にて
 ひらひらとあがる扇や雲のみね  芭蕉

で、能の舞に欠かせない扇を高くかざすかのように、空には雲の峰がある。
 夏の季語である「雲の峰」は積乱雲のことで、入道雲とも言う。その積乱雲の上にできる「かなとこ雲」は扇のような形をしている。
 八句目。

   傘をすぼめて戻る秋の道
 窓からよぼる人の言伝      芭蕉
 (傘をすぼめて戻る秋の道窓からよぼる人の言伝)

 「よぼる」は呼ぶことで、今でも方言で「よぼる」という地方もあるようだ。
 秋の道を行くと、窓から言伝を頼まれる。
 十三句目。

   真向の風に顔をふかるる
 よう肥たむすこのすはる膝の上  芭蕉
 (よう肥たむすこのすはる膝の上真向の風に顔をふかるる)

 縁側で太った子供を膝に乗せて汗が出てきたか、風が汗をぬぐってゆく。

 六月二十一日、大津の木節庵での興行がある。
 発句。

 秋ちかき心の寄や四畳半     芭蕉

 秋も近くようやく涼しくなると、何となくこうして部屋で身を寄せ合ってという気分にもなる。そういうわけでみんなよろしくと、挨拶の一句となる。
 四句目の支考の句。

   月残る夜ぶりの火影打消て
 起ると沢に下るしらさぎ     支考
 (月残る夜ぶりの火影打消て起ると沢に下るしらさぎ)

 魚を取る村人が去っていった後、目を覚ました白鷺が沢に下りてきて、魚を取り始める。「夜ぶり」に「しらさぎ」とどちらも魚取りというところでまとめるのは、支考一流の響き付けといっていいだろう。
 九句目の芭蕉の句。

   なにの箱ともしれぬ大きさ
 宿々で咄のかはる喧嘩沙汰    芭蕉
 (宿々で咄のかはる喧嘩沙汰なにの箱ともしれぬ大きさ)

 ちょっとした喧嘩でも噂で伝わってゆくうちに次第に話が盛られてゆき、本当は小さな箱が発端だったのに、いつの間にかとてつもなく大きな箱になっている。
 二十七句目。

   嫁とむすめにわる口をこく
 客は皆さむくてこをる火燵の間  芭蕉
 (客は皆さむくてこをる火燵の間嫁とむすめにわる口をこく)

 人の悪口も度が過ぎれば、周りにいる人間もどう反応していいかわからず氷りつく。下手に賛同もできないし、かといって咎めるのも角が立つ。聞き流すのが一番いい。

   座右之銘
   人の短をいふ事なかれ
   己が長をとく事なかれ
 物言えば唇寒し秋の風      芭蕉

の句もある。
 「こく」は今でも「嘘こく」だとか「調子こく」だとか、良いことには用いない。

 この芭蕉は故郷の伊賀でしばらく過ごすことになる。その七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で歌仙興行が行われる。
 発句は、

 あれあれて末は海行野分哉    猿雖

で、元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
 今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
 これに芭蕉が脇を付ける。

   あれあれて末は海行野分哉
 靍の頭を上る粟の穂       芭蕉
 (あれあれて末は海行野分哉靍の頭を上る粟の穂)

 鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
 去来宛書簡には「鶴は常体之気しきに落可」とある。鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
 十五句目。

   相撲にまけて云事もなし
 山陰は山伏村の一かまへ     芭蕉
 (山陰は山伏村の一かまへ相撲にまけて云事もなし)

 山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。
 山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
 中にもせいの高き山伏      芭蕉

の句がある。
 二十七句目。

   鼬の声の棚本の先
 箒木は蒔ぬにはへて茂る也    芭蕉
 (箒木は蒔ぬにはへて茂る也鼬の声の棚本の先)

 打越は「燈に革屋細工の夜はふけて」で、前句の鼬は毛皮にする生きた鼬のことと思われる。
 鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。
 箒木はほうき草で最近ではコキアと呼ばれ、紅葉を観賞するが、当時は庭に勝手に生えてくるものだったのだろう。
 鼬は毛皮で役に立ち、箒木は箒にすれば役に立つということで、響き付けになる。

 「残る蚊に」の巻もこの頃のものと思われる。三十句のみ残っている。
 十七句目。

   かち荷は舟を先あがる也
 美濃山はのこらず花の咲き揃ひ  芭蕉
 (美濃山はのこらず花の咲き揃ひかち荷は舟を先あがる也)

 美濃山はどこの山なのか。美濃というと稲葉山が思い浮かぶが。京都八幡にも美濃山という地名がある。前句からすると川に近い水運の要衝であろう。
 二十六句目。

   暮るより寺を見かへる高灯籠
 すすきのかげにすへるはきだめ  芭蕉
 (暮るより寺を見かへる高灯籠すすきのかげにすへるはきだめ)

 寺の入口の高灯籠の向こう側には、お寺のゴミ捨て場がある。お寺あるある。

2021年11月22日月曜日

 今日は久々に雨の一日になった。
 大谷選手の国民栄誉賞って、いくらなんでもこのタイミングじゃないだろう。やはり引退間際になって、そうそうたる通算成績を残したとき、それがタイミングではないか。将棋の藤井君も永世七冠の羽生さんに並んでからだろうな。
 この二年間のコロナ時代を振り返ると、西洋に対するイメージがかなり暴落したかな。もちろん、ワクチンや治療薬の開発のスピードは凄いと思う。ただ政治の方のごたごたを見ると、あれは真似してはいけないというところだ。
 それとともに西洋かぶれの知識人も信用を失ったのではないかと思う。この前の選挙もそうした要素が多分にあったのではないかと思う。
 デモはいかにも民主的なように見えるが、あれは圧政に抵抗するときに意味があるだけで、そうでなければごく少数の声で政治が動くというマイナス面ばかりが大きくなる。サイレント・マジョリティーが置いてきぼりになり、選挙になると一気に反動が来る。
 名だたる学者先生も未知の事態となると、どうしたって前例主義が顔を出してしまう。コロナ流行の初期には、一般の間ではただならぬことが起きているというのが直感できたが、学者は従来のコロナウィルスの常識に囚われていた。いろいろ批判は受けたけど、結局直感で動いた当時の安倍政権のコロナ対策は間違ってなかった。エビデンスを叫んだケンサーズは今回も敗北した。
 せっかく悟りを得ても、一神教の文化はこれで神知に近づいたという幻想を抱きがちになる。これに対し我々の文化は禅問答のように、既存の理論に囚われない機知を重視してきた。理屈に囚われないというのは我々の美徳だ。
 異世界物が流行るのも、日本人は未知の環境に対する適応力が高く、簡単に異世界を受け入れる設定にできるからではないか。いきなりスライムや蜘蛛になっても日本人はすぐに活躍させられるが、ドイツ人はグレゴール・ザムザになってしまうのではないか。
 カフカが出たところで若いころ読んだ『城(Das Schloss)』を思い出したが、あれも一種の異世界物として読んでも良いのではないか。
 いきなり異世界に迷い込んで、そこで自分の居場所を求める物語で、Man muss sich das bittere leben versüßen.というのが一つの答えになる。ペピはツーテールが似合いそうだ。
 
 それでは風流の続き。
 元禄七年(一六九四)閏五月二十二日、京都落柿舎での興行。芭蕉はもとより、珍碩あらため洒堂、去来、支考、丈草、惟然など、名だたるメンバーが集結する。
 発句は、

 柳小折片荷は涼し初真瓜     芭蕉

で、「柳小折の片荷は初真瓜にて涼し」の倒置だ。

 「柳小折(やなぎこり)」は柳行李のことで、柳の樹皮を編んで作ったつづら籠のこと。本来は収納用で、それを天秤棒で担ぐというのは、誰かが差し入れでわざわざ持ってきてくれたものか。片方の荷はおそらく日用品で、もう一方に採れたての真瓜(まくわ)が入っていたのだろう。
 真瓜は今日では「まくわうり」と呼ばれ、「真桑瓜」という字を当てているが、本来は「瓜」という字を「くゎ」と発音していたため、胡瓜に対して本来の瓜ということで真瓜(まくわ)と呼んでいたのだろう。だとすると、「まくわうり」は同語反復になる。
 八句目。

   上を着てそこらを誘ふ墓参
 手桶を入るるお通のあと     芭蕉
 (上を着てそこらを誘ふ墓参手桶を入るるお通のあと)

 お盆の頃は参勤交代の季節でもあったので、行列が通るというので一応羽織だけ着て、通り過ぎたら手桶を持って墓参りに向う。
 同じあるあるネタでも、大名行列の格式ばったスタイルに風刺が込められている。上だけの庶民と違い、きちっと正装して通過する武士の汗だくの姿が浮かんでくる。
 十七句目。

   黒みてたかき樫の木の森
 月花に小き門ンを出ッ入ッ    芭蕉
 (月花に小き門ンを出ッ入ッ黒みてたかき樫の木の森)

 さて、花の定座で、初裏にはまだ月が出てなかった。だからここで両方一気に出すことになる。
 「月花に黒みてたかき樫の木の森の小き門ンを出ッ入ッ」の倒置となる。
 前句を樫の木の森に住む隠者の句にして、月花を愛でると展開する。
 『去来抄』には、

 「此前句出ける時、かかる前句全体樫の森の事をいへり。その気色(けしき)を失なハず、花を付らん事むつかしかるべしと、先師の付句を乞けれバ、かく付て見せたまひけり。」

とある。 弟子たちに頼まれての、こういう時にはこうやって付けるんだよという模範演技だったようだ。
 連歌で言う「違(たが)え付け」で、反対の物を付けながらも対句風にする迎え付(相対付け)とちがい、時間の経過や場所の移動などを含めることで辻褄を合わせる。
 二十四句目。

   薄雪の一遍庭に降渡り
 御前はしんと次の田楽      芭蕉
 (薄雪の一遍庭に降渡り御前はしんと次の田楽)

 前句の「一遍」を一遍上人のことと取り成して、境内での田楽を付ける。一遍上人は田楽を布教に取り入れ、念仏踊りを流行させた。これが盆踊りの起源とも言われている。
 開演前のまだ人の集まる前の風景であろう。

 「鶯に」の巻は元禄七年の正月に去来が浪化と巻いた半歌仙を元に、閏五月に京都にやってきた芭蕉を迎え、指導を受けながら歌仙一巻を完成させた、やや特殊な一巻だ。芭蕉は後半のみの参加になる。
 十九句目。

   一阝でもなき梨子の切物
 玉味噌の信濃にかかる秋の風   芭蕉
 (玉味噌の信濃にかかる秋の風一阝でもなき梨子の切物)

 信州というと今はリンゴの産地だが、これは明治になってからのこと。
 信州では梨も栽培されているが、芭蕉の時代にまだあまり盛んでなかったのか。信州の山の中では品薄で、一分金でも買えない、と付く。
 それを「信濃の秋の風」と軽く気候の言葉に流し、その信濃に枕詞のように「玉味噌の信濃」と冠す。「かかる」が「味噌のかかる」と、「かくある秋の風」と掛詞になっているところも芸が細かい。
 二十三句目の浪化の句。

   点かけてやる相役の文
 此宿をわめいて通る鮎の鮓    浪化
 (此宿をわめいて通る鮎の鮓点かけてやる相役の文)

 前句の同僚の書いた漢文を相役が添削してやるという句だが、これを鮎寿司の振り売りに取り成す。
 おそらく浪化が句を付けるとき、芭蕉はこういう指導をしたのだろう。「点は別に『点』のこととする必要はない。『てん』と読むものであれば何か別のもののことにしてもいい」と。
 こうして、「てん」は天秤棒ととなり、鮎寿司売りが何やら気に入らないことがあるのかわめき散らしている。
 仕事が気に入らないとごねているのか。そこで相役が「まあまあ」となだめながら、肩に天秤棒を担がせてやる。
 「相役の文(ふみ)」。そう、相役の名前はお文(ふみ)さん。女房か何かだろう。
 鮎寿司はなれ寿司のことで、鮎とご飯を混ぜて乳酸発酵させたもの。夏の保存食で、旅などに持ち歩くにもいいから、宿場で売っている。
 三十二句目。

   参宮といへば盗みもゆるしけり
 にっと朝日に迎ふよこ雲     芭蕉
 (参宮といへば盗みもゆるしけりにっと朝日に迎ふよこ雲)

 これはいわゆる「花呼び出し」だ。次の人に花の句を詠んでもらいたいというときに、いかにも花の似合いそうな句を出す。ここで芭蕉は、あえて花の定座を二句繰り下げて、去来に花を持たせる。
 句のほうは伊勢参宮のあらたまった厳かな匂いで、「盗みもゆるす」に朝日に横雲の「にっと」微笑む姿が付く。
 そして去来の三十三句目。

   にっと朝日に迎ふよこ雲
 蒼みたる松より花の咲こぼれ   去来
 (蒼みたる松より花の咲こぼれにっと朝日に迎ふよこ雲)

 『去来抄』「先師評」によると、最初去来は、

   にっと朝日に迎ふよこ雲
 すっぺりと花見の客をしまいけり

と付けたという。
 ところがどうも芭蕉の顔色が険しいので、あわてて芭蕉に付け直していいか尋ね、

   にっと朝日に迎ふよこ雲
  陰高(かげたか)き松より花の咲こぼれ

と直し、最終的に「蒼みたる」の句になったという。
 「にっと」という擬音に「すっぺりと」と擬音で付けるのだが、これは単なる言葉の連想で、匂いということではない。「すっぺりと」というのは「すっかり」という意味で、きれいさっぱりというときには「すっぺらぽん」なんて言葉もあった。
 昼間は大勢の人がドンチャン騒ぎをしてにぎわっていた桜の名所も夕暮れには帰り、明け方ともなれば人っ子一人いず、完全に花見の客を仕舞ってしまったかのように、朝日の前にたなびく横雲が笑っているようで、そこに有名な藤原定家の、

 春の夜の夢の浮橋とだえして
    峰にわかるるよこぐものそら

の句を思い起こさせる。
 おそらく芭蕉は前半の懐紙を見て、去来の弱点に気付いていたのだろう。浪化が素直に景色の美しさを詠んでいるのに対し、去来は技に溺れて無理にこねくり回した句を付けていたため、浪化に蕉門俳諧の本当の面白さを教えることが出来なかった。
 ただ、改作しても、去来の付け方は観念的だ。薄暗い中に朝日が「にっと」急に射してくるそのコントラストから、松の影の黒々とした中に花の姿が現れる景色としたのだが、「陰高き」の上五では、その意図が露骨に表れてしまう。
 「蒼みたる」と言い換えて、その作為を隠したところでこの付け句は完成する。
 三十五句目。

   四五人とほる僧長閑なり
 薪過ぎ町の子供の稽古能     芭蕉

 (薪過ぎ町の子供の稽古能四五人とほる僧長閑なり)

 僧が出たところで、芭蕉はこれを奈良の景色に転じる。これも「僧」に対して「奈良」と言葉を出してしまえば単なる物付けだが、あくまでもそれを表に出さず、匂いだけで付けるところに芭蕉の技術がある。
 「薪能(たきぎのう)」は今では屋外での公演を一般的に指すが、本来は二月初旬に奈良興福寺南大門で行なわれる能のことだった。それゆえ春の季語になる。
 ただ、芭蕉の句はこの薪能そのものを詠むのではなく、薪能を見て刺激されたのか、奈良の子供たちが能楽師に憧れて能の稽古に励んでいる様を付ける。

 元禄七年閏五月下旬、芭蕉の京都滞在中、「牛流す」の巻の興行が行われる。
 六句目で支考が面白い技を見せる。

   月影に苞の海鼠の下る也
 堤おりては田の中のみち     支考
 (月影に苞の海鼠の下る也堤堤おりては田の中のみち)

 「苞(つと)」に「つつみ」、「さがる」に「おりて」と類似語で付いている。支考ならではの閃きか。苞を下げながら堤を下りればそこは田の中の道。大体川沿いには田んぼが広がっているもので、川の堤を下りれば、そこは田んぼの中の道だ。この句を聞いて芭蕉がどんな顔をしたか見ものだ。
 十二句目。

   抱込で松山廣き有明に
 あふ人ごとの魚くさきなり   芭蕉
  (抱込で松山廣き有明にあふ人ごとの魚くさきなり)

 有明の松山を末の松山のような海辺の景色として、夜の漁から戻ってきた漁師を付けたのだろうか。今日も大漁だったのだろう。みんな魚くさい。漁師と言わずに「魚くさき」だけで匂わす、文字通りの匂い付けだ。
 土芳の『三冊子』に、

  「抱込て松山廣き有明に
  あふ人毎に魚くさきなり
 同じ付也。漁村あるべき地と見込、その所をいはず、人の躰に思ひなして顯す也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.130~131)

とある。
 二十四句目。

   このごろの上下の衆のもどらるる
 腰に杖さす宿の気ちがひ    芭蕉
 (このごろの上下の衆のもどらるる腰に杖さす宿の気ちがひ)

 ここで言う「気ちがい」は、多分自分がいっぱしの武将であるかのような誇大妄想を持った男だろう。腰に刀の代わりの杖を差して、江戸や上方に行っていた衆が戻られたと、主人に報告する。
 多分この宿場町やその周辺の人ならだれもが知る有名人で、「ああ、またやっている」という反応なのだろう。前句をその狂人の言葉とする。
 土芳の『三冊子』に、

  「頃日の上下の衆の戻らるゝ
  腰に杖さす宿の氣違ひ
 前句を氣違ひ狂ひなす詞と取なして付たる也。衆の字ぬからず聞ゆ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.131)

とある。
 二十九句目。

   分別なしに恋をしかかる
 蓬生におもしろげつく伏見脇     芭蕉
 (蓬生におもしろげつく伏見脇分別なしに恋をしかかる)

 前句の去来の句の「分別なしに」が何とも説教臭い。
 そこで芭蕉は『源氏物語』の源氏の君が末摘花の所に通う場面を俤として、京の田舎の伏見に通う男の姿と重ね合わせる。
 伏見の撞木(しゅもく)町には遊郭があったが規模も小さく高級な遊女がいるわけでもなく、京のあまり金のない男が徒歩で遊びに行くようなところだった。
 延宝九年刊の『都風俗鑑』(作者未詳)には、

 「京とは其道二里、所によりて三里の所もありといへども、千里も磁石にて、思ふ心を知るべとして、夕に通ひ朝に帰る輩、繁くもなく薄くもなく、稲荷街道にはちらちらと駕籠の絶ゆる事なし。」(『仮名草子集』新日本古典文学大系74、渡辺守邦、渡辺憲司校注、一九九一、岩波書店)

とある。
 伏見は豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、その後荒れ果てていた。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼まなこ」に、当時の伏見の様子が描かれている。

   「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠(いもばたけ)となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠(かうふり)飛んで、螢(ほたる)も出づべき風情(ふぜい)なり。京街道は昔残りて、見世(みせ)の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所(みところ)ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団(ふとん)持たずの冬を漸(やうやう)に送りぬ。」

 酒の町として甦るのはもう少し後の事だ。
 三十四句目。

   吸物で座敷の客を立せたる
 肥後の相場を又聞てこい    芭蕉
 (吸物で座敷の客を立せたる肥後の相場を又聞てこい)

 米どころというと、今は新潟だったり宮城や秋田だったり、結構北のほうが有名だが、江戸時代前期ではまだ耐寒性のある品種が少なく、これらの地域は雑穀中心だった。
 米相場を左右するのは温暖な地方で大きな平野のある所。もちろん最大の米どころは濃尾平野だろうが、肥後熊本も重要な産地の一つで米相場の指標ともされていた。元禄十一年に支考が『梟日記』の旅で長崎に行った時の「三味線に」の巻が、去来・卯七編『渡鳥集』に収録されているが、その七句目にも、

   雨があがればちと用もあり
 肥後米は石で八十三匁     先放

の句がある。
 大阪の大きな米問屋ともなると、米相場の動向に常にアンテナを張り巡らし、ぴりぴりしていたのだろう。座敷で宴会などやっている隙もない。早々に切り上げて、すぐに使者を熊本へ走らせ、熊本の作付け状況を調べに行かせたりする。
 立たせた客を忙しい米問屋の使い走りと見た、位付けの句になる。

2021年11月21日日曜日

 小学館の『仮名草子集』の「御伽物語」を読み始めた。最初の「すたれし寺を」に出て来るのはドラクエ的に言うと、メラゴースト、サーベルきつね、とつげきうお、おおにわとり、ポンポコだぬきかな。
 巻二に出て来る蜘蛛のモンスターは女郎蜘蛛ということで女性設定なのか。蜘蛛子の原型?
 「#岸田政権の退陣を求む」というツイッターのことは2チャンネルにもスレが立っているが、その反応を見ていると、相変わらず正体不明の連中がいるようだ。反ワク、眞子様と同じ連中じゃないかって気がする。匿名をいいことに右翼を装っているが、一般的に右側の連中はこれに同調していない。
 前にも書いたが高市さんはリベラルで極右ではない。ただ、左翼基準だと「日本共産党に同調しない連中はすべて一緒、米帝の手先」ということで、みんな極右だというだけのことだ。これだと筆者も極右のネトウヨということになる。
 まして高市さんに狂信的な支持者集団がいるなんてことも事実とは思えない。それは安倍信者なるものが実体のないのと一緒だ。

 元禄七年五月、芭蕉が上方へ向けての最後の旅に出る前、深川の子珊亭で「紫陽花や」の巻が興行される。
 発句は、

 紫陽花や藪を小庭の別座敷    芭蕉

 藪というと、いかにも草ぼうぼう木がぼうぼうの荒れたところで殺風景なイメージがあるが、そこに紫陽花の花が咲くと急に見違えるかのように、まるでそこだけ別座敷になったかのように見える。
 「別座敷」はこの場合比喩で、「小庭」というくらいだから、本当はそれほど広い家ではなく、狭い家が別座敷になったみたいだと洒落ただけと見た方がいい。
 十一句目。

   ちいさき顔の身嗜よき
 商もゆるりと内の納りて     芭蕉
 (商もゆるりと内の納りてちいさき顔の身嗜よき)

 「ゆるり」というのは今でいう「ゆるい」に近いか。まあ、あまりがつがつ稼ごうとしなくても、のんびりゆったりと楽しながらそれでいてちゃんと成り立っていて、家内も丸く納まるなら言うことはない。
 「ちいさき顔」からその人物を見定めての位付けになる。
 十六句目。

   秋来ても畠の土のひびわれて
 雲雀の羽のはえ揃ふ声      芭蕉
 (秋来ても畠の土のひびわれて雲雀の羽のはえ揃ふ声)

 さてまたまたこれは難しい。秋は三句続けなくてはいけないのに「雲雀の羽のはえ揃う」は練雲雀で夏になってしまう。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』では六月の所に、

 「練雲雀 ○凡六月、毛をかへて旧をあらたむ。俗呼て練雲雀と称す。毛かふるとき、其飛こと速かならず。故に鷹を放てこれを捕ふ。これを雲雀鷹と云。」

とある。
 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の補注に引用されている『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)や『華実年浪草』(三余斎麁文、宝暦三年刊)にも練雲雀や雲雀鷹への言及がある。
 おそらくこの頃から芭蕉は談林の頃の形式的な季語の考え方に疑問を持つようになったのだろう。
 連歌では季語は実質的にその季節の情を持つかどうかが重視されていて、季節感のないものは季語を用いても「ただ〇〇」として無季扱いになることもあった。
 貞門もそれを受け継いでいたが、談林の時代に式目をかいくぐるマリーシアとして、形だけの季語が普通に用いられるようになった。特に「露」などは便利な言葉として、涙の比喩としての露でも秋として扱われた。
 この頃から季語がなくても実質その季節であれば良いという方向で、この句も「練雲雀」という季語を外すことで、夏ではなく秋として用いたのではないかと思う。
 二十句目の八桑の句。

   正月の末より鍛冶の人雇
 濡たる俵をこかす分ヶ取     八桑
 (正月の末より鍛冶の人雇濡たる俵をかす分ヶ取)

 これは「鍛冶」を「梶」に取り成したか。今では「梶」は船の方向を変えるための道具だが、本来は船を進めるための櫓や櫂を意味していた。
 前句の「正月の末より」は捨てて、舟漕ぐ人足を雇って、難破船から濡れた米俵を転がし、山分けした。
 二十一句目の芭蕉はこれに応じて、取り成しで返す。

   濡たる俵をこかす分ヶ取
 昼の酒寝てから酔のほかつきて  芭蕉
 (昼の酒寝てから酔のほかつきて濡たる俵をこかす分ヶ取)

 これも「俵」の「瓢」への取り成しだろう。
 昼間っから酒を飲んでいい気持ちになってうとうとしていると急に酔いが回ってきて、酒のこぼれて濡れた瓢箪を分けてもらって飲もうとしてひっくり返す。
 春の「菊もらはるるめいわくさ」もあったが、この頃から芭蕉は大胆な取り成しの面白さを追求し始めている。「八九間」の巻の二十五句目にも、

   槻の角のはてぬ貫穴
 濱出しの牛に俵をはこぶ也    芭蕉

の句があった。
 同じ五月、山店の餞別句、

 新麦はわざとすすめぬ首途かな  山店

を立句とした両吟歌仙が興行される。
 新麦はここでは大麦のことと思われる。麦飯に用いられる。そのまま焚いて食べる分には、やはり取れたてがいい。小麦は熟成を必要とする。新麦では粘りが足りない。
 ここで新麦のご飯をすすめてしまうと、もっと食べたくなって旅に出るのをやめてしまいかねないから、という意味だろう。
 それに答えての芭蕉の脇。

   新麦はわざとすすめぬ首途かな
 また相蚊屋の空はるか也     芭蕉
 (新麦はわざとすすめぬ首途かなまた相蚊屋の空はるか也)

 これからの旅を想像してのもので、相蚊屋というのは庵に同居して芭蕉の身の回りの世話をしていた二郎兵衛少年を連れていくから、ともに同じ蚊帳の中に寝ることになるというもの。
 九句目。

   ほしがる者に菊をやらるる
 蓬生に恋をやめたる男ぶり    芭蕉
 (蓬生に恋をやめたる男ぶりほしがる者に菊をやらるる)

 失恋し、「もう恋などしない」という色男だろう。蓬生の里の家に籠るが何にも興味が持てず、庭の菊なども人に与えてしまう。
 菊は「菊もらはるるめいわくさ」の句で人名に取り成したことがあったが、ここでも比喩として、自分の恋してた人も他の男にくれてやる、という意味が含まれているのかもしれない。
 十一句目。

   湿のふきでのかゆき南気
 丹波から便もなくて啼烏     芭蕉
 (丹波から便もなくて啼烏湿のふきでのかゆき南気)

 丹波は京に近いが山の中にある。山陰方面の街道も東海道や奈良大坂方面への街道に比べれば人も少なく、寂れた印象がある。
 そんな丹波の知人からの便りもなく、一人部屋で疥癬に苦しむ。
 丹波だから、より寂しげになる。これが「近江から便りもなくて」では印象がかなり違ってくる。
 十五句目。

   ただ原中に月ぞさえける
 神鳴のひつかりとして沙汰もなき 芭蕉
 (神鳴のひつかりとして沙汰もなきただ原中に月ぞさえける)

 「ひつかり」はピッカリ。雷は光るだけ何事もなく去っていった。
 これは稲妻のことだが、稲妻という言葉を使うと秋になる。前句の「冴ゆる月」は冬。
 三十句目。

   鶏をまたぬすまれしけさの月
 畠はあれて山くずのはな     芭蕉
 (鶏をまたぬすまれしけさの月畠はあれて山くずのはな)

 葛の花は夏の季語だが、それを避けて秋にするためにあえて「山葛の花」としたか。形式季語から実質季語への一つの試みであろう。
 句の方は、人々の心が荒んでいて、畑も荒れ放題になっているということか。
 三十二句目。

   日光へたんがら下す秋のころ
 くれぐれたのむ弟の事      芭蕉
 (日光へたんがら下す秋のころくれぐれたのむ弟の事)

 前句は収穫の少ない田んぼに生えるという田芥子(たんがら)を引っこ抜いて日光にさらすという句。
 ここでは前句の「たんがら」を丹殻染のこととして、日光(地名)へ出荷すると取り成し、日光へ行く人に弟の事を託す。

 元禄七年五月二十三日か二十四日、名古屋の荷兮亭での十吟歌仙興行が行われる。
 荷兮、越人など蕉風確立期の立役者との久しぶりの同座だ。
 発句は、

 世は旅に代かく小田の行戻り   芭蕉

 代掻き作業は田んぼを端から端まで何往復もするもので、芭蕉さんも今まで旅をしていたけど、江戸と名古屋の間は何度も行ったり来たりしている、と自嘲気味な挨拶とする。
 裏には、これまでひたすら新風を追い求めてきたけど、同じところを行ったり来たりしているだけではないか、という思いがあったかもしれない。
 これに対して荷兮の脇は、

   世は旅に代かく小田の行戻り
 水鶏の道にわたすこば板     荷兮
 (世は旅に代かく小田の行戻り水鶏の道にわたすこば板)

で、小田を行ったり来たりするのでしたら、その水鶏の住む水田に板を渡して、歩きやすくしてあげましょう、と答える。
 十句目は取り成し句。

   一門の広きは事のあき間なし
 蕨をかられて雑穀積るる     芭蕉
 (一門の広きは事のあき間なし蕨をかられて雑穀積るる)

 前句を空いた部屋がないということにして、庭の蕨を刈り取って、そこに雑穀の俵を積み上げる。
 三十一句目。

   扨は無筆のしるる正直
 江戸の子が影で酒おも下さるる  芭蕉
 (江戸の子が影で酒おも下さるる扨は無筆のしるる正直)

 江戸に出て行った子供に密かに酒を送る。当時は上方の方が酒の質が良かった。前句の無筆を手紙はないが、という意味に取りなす。

 元禄七年五月二十五日、名古屋の西、今の愛西市の辺りの佐屋の隠士山田庄右衛門宅での芭蕉・露川・素覧による三吟半歌仙が巻かれる。
 発句は、

   隠士山田氏の亭にとどめられて
 水鶏啼と人のいへばや佐屋泊   芭蕉

 水鶏の鳴く声の聞こえる所だと聞いたので、この佐屋に泊まることにしました、という挨拶になる。
 四句目。

   朝風にむかふ合羽を吹たてて
 追手のうちへ走る生もの     芭蕉
 (朝風にむかふ合羽を吹たてて追手のうちへ走る生もの)

 追手はここでは「おふて」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「追手」の解説」に、

 「おう‐て おふ‥【追手】
  〘名〙
  ① 敵の正面を攻撃する軍勢。大手。⇔搦手(からめて)。
  ※源平盛衰記(14C前)三四「木曾義仲、〈略〉西門へぞ追手(ヲフ)手にとて向ひける」
  ② 城郭の正門。表門。大手。
  ※太平記(14C後)三「一万二千余騎、梨間の宿のはづれより、市野辺山の麓を回て、追手へ向ふ」

とある。
 何かが城の大手門へと入っていったのだろう。門の向こうへ行ってしまうと、もう追いかけられない。追手(おって)が追手(おうて)で追えなくなる。
 それにしても、生き物は何だったのか。
 十句目。

   尻敷の縁とりござも敷やぶり
 雨の降日をかきつけにけり    芭蕉
 (尻敷の縁とりござも敷やぶり雨の降日をかきつけにけり)

 雨が降ると一日茣蓙の上に座り、何か書き物をする。芭蕉自身の閉門の頃の体験かもしれない。
 十六句目。

   うそ寒き言葉の釘に待ぼうけ
 袖にかなぐる前髪の露      芭蕉
 (うそ寒き言葉の釘に待ぼうけ袖にかなぐる前髪の露)

 駆け落ちの約束をしたのだろう。女は現れなかった。ありそうなことだ。

2021年11月20日土曜日

 手違いがあって、十八日の風流と十九日の風流の間の「ゑびす講」の巻から「いさみたつ」の巻までが欠落してしまったので、十八日の末尾に追加した。めんごめんご。
 小学館の『仮名草子集』の「けしずみ」を読んだ。元遊女の尼の告白の形を取っている。轡や揚屋の亭主が商品に手を出すのもよくあったことなのか。
 紋日もかなり重要な日だったようだ。一応コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紋日」の解説」には、

 「〘名〙 (「ものび(物日)」の変化した語。「もんぴ」とも) 江戸時代、主として官許の遊里で五節供やその他特別の日と定められた日。この日遊女は必ず客をとらねばならず、揚代もこの日は特に高く、その他、祝儀など客も特別の出費を要した。一月は松の内、一一日、一五日、一六日、二〇日、続いて二月一〇日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日。吉原では三月一八日三社祭、六月朔日富士詣、七月一〇日四万六千日、八朔白無垢、八月一五日名月、九月一三日後の月、一二月一七・一八日浅草歳の市、など多かった。〔評判記・色道大鏡(1678)〕」

とある。
 恋はその執着心と嫉妬の深さから、しばしば刃傷沙汰を引き起こすものとして、識者からは嫌われる傾向にあった。「たきつけ草」にも、

 「つらつらこの親仁といふ根源をたづねみれば、恋路のわけより子をもうけ置きて、その子に恋をさせまいとの異見面は、人のぼらけや嫌ふらんにてはなきか。」

などという逆説があったし、「柳小折」の巻には、

   朝の月起々たばこ五六ぷく
 分別なしに恋をしかかる     去来

なんて句もあった。
 それでも、人は恋をしたからこうして今も種として存続しているもので、危うさを含みながらも避けて通れるものではない。
 特に男の欲望のしばしば陥る暴力性について、いかにそれを抑制するか、いかに女性の立場に立って恋を理解するかというのが『源氏物語』以来のテーマであり、それゆえに「恋」は風流の道の核心ともいえるものだった。
 理不尽な孫の手さんの『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』にもあったが、

 「考えてみろ。自分より明らかに強い奴が、欲望をむき出しにして迫ってきたら、どう思う?」

というのが、一番の根底なのではないか。風流は男の弱さを見せる道なのかもしれない。
 花を見ては泣き、月を見ては泣く、その弱さこそが風流の道なのは理由のないことではない。
 逆に言えば、女の風流に弱さは求められない。男の誘いを突っぱねる気丈さと、恨みや嫉妬をあらわにすることが求められる。今のツンデレ・ヤンデレはその伝統によるものかもしれない。
 コロナの方は今の所実効再生産数が0.8から1.0の間で落ち着いてきている。ワクチン接種は一日二十万人を切って終了に向かっている。一回以上の接種者が78.5%からほとんで増えていないから、この辺でカンストという所か。
 立憲民主党の内部のことはよくわからないので、代表選で誰が良いとかはわからない。
 一応綱領を見てみたが、

 「立憲民主党は、立憲主義と熟議を重んずる民主政治を守り育て、人間の命とくらしを守る、国民が主役の政党です。」(立憲民主党2020年9月15日綱領)

とあるこの「民主政治」が現在の民主主義体制を意味するのか、それとも日本共産党の言うように、今の民主主義は真の民主主義ではなく米帝勢力の独裁で、民主主義の実現のためには自民・公明などの米帝に同調する勢力を排除する必要がある、という意味で言っているのかは不明だ。

 「私たちは、立憲主義を深化させる観点から未来志向の憲法議論を真摯に行います。」(立憲民主党2020年9月15日綱領)

という一文も、日本共産党の言う民主主義革命を意味するなら、言っていることは共産党と一緒だ。
 ただ、表現が曖昧で、現行民主主義を肯定し、更に自衛隊の明記や緊急事態要綱などの論議にも参加するという意味にも取れる。この曖昧さは結局党内部に両方いて、妥協した表現になっているということなのだろう。
 とはいえ、誰が代表になったとしても、今後も共産党との連携を続けるのであれば、レーニン帝国主義論に基づく米帝勢力排除を支持すると受け取られてもしょうがない。
 仮に本質的には革命政党でありながら、いかにもリベラルっぽく見せかけることで国民を欺いているなら、そうでない立憲民主党員は早めに離党した方が良いと思う。
 革命ではなく改革を目指すリベラル勢力が結集するなら、今回の維新の会や国民民主党のように無党派層の支持を得ることは可能だ。改革は支持されるが革命は支持されない。
 米帝云々の妄想や革命思想とは完全に縁を切って、立憲民主党の右派から自民党の石破グループまでが一つの政党としてまとまるなら、政権奪取も夢ではない。
 これくらい煽っておけばいいかな。

 それでは風流の方に戻って。
 同じ春、芭蕉・野坡両吟歌仙「五人ぶち」の巻が作られる。未完になった「寒菊や」の巻のリベンジと言えよう。この巻は『炭俵』に採用される。
 第三。

   日より日よりに雪解の音
 猿曳の月を力に山越て      芭蕉
 (猿曳の月を力に山越て日より日よりに雪解の音)

 「月を力に」は月を頼りにという意味もあるし、月に励まされながらという意味にもなる。『去来抄』「同門評」に、去来の直した、

 夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋   風国

の句がある。
 猿曳、猿回しの芸人は被差別民で、近代でも周防猿回しの会の創始者村崎義正は全国部落解放運動連合会の山口県副委員長でもあった。
 猿曳は正月の風物でもあるが、都会から田舎へと回って行くうちに時も経過し、いつの間にか小正月の頃になり、月も満月になる。

 山里は万歳遅し梅の花      芭蕉

という元禄四年の句もある。
 あまり正月も遅くなってもいけないということで、夜の内に月を頼りに移動してゆく。雪解けの頃で、山道には所々雪も残っていたのだろう。
 六句目。

   暖ふなりてもあけぬ北の窓
 徳利匂ふ酢を買にゆく      芭蕉
 (暖ふなりてもあけぬ北の窓徳利匂ふ酢を買にゆく)

 徳利下げて買いに行くといっても、酒ではなくお酢だった。
 前句を風邪をひかないよう健康に気遣う人と見ての位付けになる。
 十句目。

   真白ふ松も樫も鳥の糞
 うき世の望絶て鐘聞       芭蕉
 (真白ふ松も樫も鳥の糞うき世の望絶て鐘聞)

 松柏の墓所の含みを受けての展開であろう。深い喪失の悲しみの句。
 次の十一句目で「うき世の望絶て」を世捨て人に展開する。

   うき世の望絶て鐘聞
 痩腕に粟を一臼搗仕舞      芭蕉
 (痩腕に粟を一臼搗仕舞うき世の望絶て鐘聞)

 粟も玄米同様臼で搗いて精白する。前句を世捨て人として、質素な生活に転じる。
 十四句目。

   けいとうも頬かぶりする秋更て
 はね打かはす雁に月影      芭蕉
 (けいとうも頬かぶりする秋更てはね打かはす雁に月影)

 これは本歌がある。

 白雲にはねうちかはしとぶ雁の
     かずさへ見ゆる秋の夜の月
               よみ人しらず(古今集)

 鶏頭に降りる霜を鶏頭の頬かぶりに見立てた前句に、この歌の趣向で月夜の雁を付ける。
 十八句目。

   咲花に十府の菅菰あみならべ
 はや茶畑も摘しほが来る     芭蕉
 (咲花に十府の菅菰あみならべはや茶畑も摘しほが来る)

 十府の菅菰は廻り廻って茶畑の覆いとなる。抹茶にする茶畑は新芽が出る頃覆いを掛けて日光を遮る。
 陸奥の十府の菅菰を編む風景から、宇治の茶畑へ展開する。
 二十二句目。

   行儀能ふせよと子供をねめ廻し
 やき味噌の灰吹はらいつつ    芭蕉
 (行儀能ふせよと子供をねめ廻しやき味噌の灰吹はらいつつ)

 行儀よくしろと言いながら自分は焼き味噌の灰を吹き払ったりする。当時のあるあるだったのだろう。
 続く二十三句目。

   やき味噌の灰吹はらいつつ
 一握リ縛りあつめし届状     芭蕉
 (一握リ縛りあつめし届状やき味噌の灰吹はらいつつ)

 「縛り」は「くくり」と読むらしい。
 焼き味噌をおかずにご飯をかき込み、飛脚はあわただしく届状をつかんで走り出す。
 前句の動作を飛脚などのやりそうなこととして付ける。
 三十五句目。

   猫可愛がる人ぞ恋しき
 あの花の散らぬ工夫があるならば 芭蕉
 (あの花の散らぬ工夫があるならば猫可愛がる人ぞ恋しき)

 『源氏物語』若菜巻で柏木が女三宮の姿を垣間見るのは三月末の六条院の蹴鞠の催しで、『源氏物語』のこの場面を描いた絵には桜の木が描かれている。『源氏物語』本文にも「えならぬ花の蔭にさまよひたまふ夕ばえ、いときよげなり。」とある。
 猫の登場する直前には、

 「軽々しうも見えず、ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中のしなのほどにゐたまひぬ。督の君続きて、花、乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそなどのたまひつつ」

とある。ここから「あの花の散らぬ工夫があるならば」という連想は自然であろう。
 督の君は右衛門督(柏木)のことでこの心情と、そのあとの猫の登場とが見事に重なる。
 ここまで物語に付いていると、俤というよりは本説といった方がいいだろう。
 打越の毛を梳かす場面が『源氏物語』から離れているので、あえてこのような『源氏物語』への濃い展開を選んだのだろう。

 同じ春に芭蕉、沾圃、馬莧、里圃による四吟歌仙も作られ、こちらの方は『続猿蓑』に収録される。
 発句は、

 八九間空で雨降る柳かな     芭蕉

 これは柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではなく、木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でない主観的なものを治定するので「かな」で結ぶことになる。
 一間は約1.82メートル。八間は十四メートル半になる。
 「八九間」という言葉は陶淵明の「帰田園居」三首の其一に、

 方宅十餘畝 草屋八九間
 楡柳蔭後簷 桃李羅堂前

とある所から来ているという説もある。ただ、中国には「間」という単位はない。この場合は部屋数を言う。「十餘畝」は岩波文庫の『中国名詩選』(松枝茂夫編、一九八四)の注に「およそ五アール強」とある。
 まあ、有名な詩だから芭蕉も当然知っていたとは思うが、語呂がいいから拝借した程度で意味上のつながりはない。そこが「軽み」というものだ。
 ただ、この八九間の柳にはモデルがある。
 支考の『梟日記』に、

 「素行曰、八九軒空で雨降柳哉 といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所たしかならず。
 西華坊曰、この句に物語あり。去来曰、我も有。
 坊曰、吾まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人此句をとふ。曰、見難し。この柳は白壁の土蔵の間か、檜皮ぶきのそりより片枝うたれてさし出たるが、八九軒もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならんと申たれば、翁は障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたると申されしが、續猿蓑に、春の鳥の畠ほる聲 といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。
 去來曰、我はその秌の事なるべし。我別墅におはして、此青柳の句みつあり、いづれかましたらんとありしを、八九軒の柳、さる風情はいづこにか見侍しかと申たれば、そよ大佛のあたりならずや、げにと申、翁もそこなりとてわらひ給へり。」

とある。
 どうやら奈良東大寺の辺りに、白壁の土蔵の方から片枝が大きく通りの方に差し出している柳があり、それが八九間ほど広がってさながら春雨の降るようなな景色にになっている場所があったようだ。関西の方の日との間では、すぐに「ああ、あれか」という柳だったようだ。
 ただ、脇を付けた沾圃は江戸の人なのでこの情景は思い浮かばず、

   八九間空で雨降る柳かな
 春のからすの畠ほる声      沾圃
 (八九間空で雨降る柳かな春のからすの畠ほる声)

と、五柳先生(陶淵明)の柳として田園風景を付けている。
 なお、この一巻には『真蹟添削草稿』が残っていて、添削の過程を知ることができる。
 六句目。

   きのふから日和かたまる月の色
 狗脊かれて肌寒うなる      芭蕉
 (きのふから日和かたまる月の色狗脊かれて肌寒うなる)

 「狗脊」は「ぜんまい」と読む。春の山菜で蕨と並び称される。「狗脊」を「くせき」と読むと漢方薬の原料となる別の植物になる。
 ぜんまいは秋に紅葉する。紅葉というと楓や蔦のイメージがあるが、ぜんまいの紅葉も知る人ぞ知るといったところか。特に湿地に群生するヤマドリゼンマイの紅葉は美しい。
 『真蹟添削草稿』には、

   きのふから日和かたまる月のいろ
 薄の穂からまづ
 ぜんまひかれて肌寒うなる    蕉

とあり、「薄の穂から」の初案があったのが分かる。
 月に薄は付け合いだが、あまりにベタなので何か外のものはないかと思案して、最終的にゼンマイの紅葉の美しさを見出したと思われる。
 九句目。

   孫が跡とる祖父の借銭
 脇指に替てほしがる旅刀     芭蕉
 (脇指に替てほしがる旅刀孫が跡とる祖父の借銭)

 「旅刀」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、庶民が旅行中に護身用として帯用した刀。普通の刀よりやや短く、柄と鞘とに袋をかけたものが多い。旅差(たびざし)。道中差。
 ※俳諧・犬子集(1633)一「ぬらすなよ春雨ざやの旅刀」

とある。
 「脇指」は「脇差(わきざし)」で庶民も帯刀することが許されていた。
 「替てほしがる」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、「仕立替えするの意」とある。装飾性のない実用本位の旅刀よりは綺麗な脇差にしつらえた方が、仕立替え費用を差し引いても高く売れたか。
 今でいえば部屋を改装したほうが高く売れるというようなことか。
 『真蹟添削草稿』には、

   みしらぬ孫が祖父の跡とり
 脇指はなくて刀のさびくさり
 脇指に仕かへてほしき此かたな  里

とある。
 初案では脇差はなく、錆びて腐った本差があったということか。だとすると没落した武家の跡取りということになる。
 ウィキペディアの「本差」のところには、「浪人などの一本差しは主に本差だけであり、これに副兵装として万力鎖を持っていたとしても脇差には該当しない。」とある。祖父は一本差しの浪人だったということか。
 改案だと、脇差に作り直して欲しい刀を相続したということで、武家の持つ大小の刀ではなく、町人の持つ刀だということになる。『続猿蓑』の「脇指に替てほしがる旅刀」だと、どういう刀だったかはっきりとする。
 十四句目。

   笹の葉に小路埋ておもしろき
 あたまうつなと門の書つき    芭蕉
 (笹の葉に小路埋ておもしろきあたまうつなと門の書つき)

 前句の笹に埋もれた道を草庵の入口とした。
 「あたまうつな」、つまり今でいう「頭上注意」、小さな門だと必ず書いてありそうだ。
 『真蹟添削草稿』には、

   笹のはにこみち埋りておもしろき
 あたま打なと門の書付      蕉

とあり、これはそのまんな治定。
 二十二句目。

   長持に小挙の仲間そはそはと
 くはらりと空の晴る青雲     芭蕉
 (長持に小挙の仲間そはそはとくはらりと空の晴る青雲)

 青雲というとそんな名前のお線香があったが、ここでは「あをぐも」と読む。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「青みを帯びた灰色の雲」とある。明方や夕方に見られる。
 前句を船着場の光景とし、空が晴れたので荷積みを開始する。快晴ではなく、嵐の雲が去って、薄暗い空に雲が青く輝いている情景をいう。

 『真蹟添削草稿』には、

   長持の小揚の仲間そハそハと
 雲焼はれて青空になる
 くわらりと雲の青空になる    蕉

 芭蕉さんもここでは作り直している。
 明方の天気の回復をイメージして、最初は朝焼けの雲のはれて青空になるとしたが、朝焼けを消して単に雲が晴れたとするが、やはり朝焼けのイメージが欲しかったのだろう。『続猿蓑』では「青雲」という言葉を見出す。
 二十五句目。

   槻の角のはてぬ貫穴
 濱出しの牛に俵をはこぶ也    芭蕉
 (濱出しの牛に俵をはこぶ也槻の角のはてぬ貫穴)

 「濱出し」は年貢米を船で積み出すことで、米俵を運ぶ牛や馬で混雑したという。
 前句の「槻の角」を欅の角材ではなく欅の木のある曲がり角とし、「はてぬ貫穴」を抜け道のことと取り成す。
 浜出しのために年貢を積んだたくさんの牛や馬がごった返し渋滞するので、抜け道をする奴も必ずいる。
 『真蹟添削草稿』には、

   槻の角の果ぬ貫穴
 濱出しの俵を牛にはこぶ也    里

とあり、「俵を牛に」の四三のリズムを嫌い、「牛に俵を」に直しただけで、ほぼ一発治定だったようだ。
 三十句目。

   むれて来て栗も榎もむくの声
 伴僧はしる駕のわき       芭蕉
 (むれて来て栗も榎もむくの声伴僧はしる駕のわき)

 椋鳥が群れる栗や榎を大きなお寺の境内の情景とし、偉いお坊さんが駕籠で行く隣で走っているお伴の僧という、身分の上下をコミカルに描いてみせる。「駕」は「のりもの」と読む。
 『真蹟添削草稿』には、

   むれて来て栗も榎もむくの声
 小僧を供に衣かひとる
 番僧走るのりものの伴      蕉

 「小僧」は年少の僧の意味。後に商家の丁稚もそう呼ぶようになった。お坊さんが小僧を連れて衣類を買いに行ったら、小僧たちがはしゃいで騒がしくてしょうがない、というところか。
 最初は芭蕉さんもこれで良く出来たと思って丸印を付け、少し考えて三角にし、結局は不採用にしたか。
 理由はおそらく展開の不十分ということだと思う。椋鳥の群れの騒がしさをそのまま取るのではなく、別の展開を考えた時、あくまで椋鳥の声を伴奏とし、番僧に伴走させる方に落ち着いた。
 三十三句目。

   まぶたに星のこぼれかかれる
 引立てむりに舞するたをやかさ  芭蕉
 (引立てむりに舞するたをやかさまぶたに星のこぼれかかれる)

 これは静御前の舞い。涙が光に反射し、星のようにきらりと光って零れ落ちたのだろう。
 それとははっきり言わないが、義経と静御前の悲しみが伝わってくる。
 『真蹟添削草稿』には、

   まぶたの星のこぼれかかれる
 引立てむりに舞するたをやかさ  里

これはそのまま治定された。

 元禄七年の初夏、深川芭蕉庵で「空豆の花」の巻が巻かれる。これは『炭俵』の方に収録される。
 五句目。

   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉
 (寝処に誰もねて居ぬ宵の月そっとのぞけば酒の最中)

 「宵の月」というのは、まだ日も暮れてないうちから見える月のことで名月のことではない。旅の疲れで寝床で休んでいたが、いつの間にか誰もいなくなっている。何だ、みんな酒を飲んでいたか。七夕の頃の宴の句。
 土芳の『三冊子』(元禄十五年成立)には、「前句のそつとといふ所に見込て、宵からねる体してのしのび酒、覗出だしたる上戸のおかしき情を付けたる句也。」とある。
 十句目。

   妹をよい処からもらはるる
 僧都のもとへまづ文をやる    芭蕉
 (妹をよい処からもらはるる僧都のもとへまづ文をやる)

 これは恵心僧都(えしんそうず)の面影。恵心僧都は天台宗の僧、源信(九四二~一〇一七)のことで、横川の僧都とも呼ばれ、『源氏物語』「手習い」に登場する横川の僧都のモデルと言いわれている。
 光源氏の子薫(かおる)と孫の匂宮(においのみや)との三角関係から身投みなげした浮船(うきふね)の介護をし、かくまっていた横川の僧都こそ、恋の相談にふさわしい相手。妹の良縁も真っ先に知らせなくては、ということになる。
 十三句目。

   家のながれたあとを見に行
 鯲汁わかい者よりよくなりて   芭蕉
 (鯲汁わかい者よりよくなりて家のながれたあとを見に行)

 
 鯲は「どぢゃう」。
 「よくなりて」はよく食いてという意味。洪水の後には水の引いた地面にドジョウが落ちていたりしたのか。酸いも甘いも噛み分けてきた老人だけに、そこは落ち着いたもので、これこそ塞翁が馬、災転じて福と成すとばかりに、家の流れたあとを見に行っては、拾ってきたドジョウを食いまくる。
 十八句目。

   雪の跡吹はがしたる朧月
 ふとん丸げてものおもひ居る   芭蕉
 (雪の跡吹はがしたる朧月ふとん丸げてものおもひ居る)

 春は恋の季節で、朧月の夜は寝付けけずに、布団を丸めて物思いにふける。
 この頃の蒲団は冬の夜着で、今のような四角い布団ではない。そのため蒲団は畳むのではなく丸める。春とは言っても雪の跡がまだ残るため、それまでは蒲団を着ていたのだろう。雪がはがれて蒲団もはがれるというあたりが細かい。月の朧も涙によるものでもあるかようだ。
 二十一句目。

   はっち坊主を上へあがらす
 泣事のひそかに出来し浅ぢふに  芭蕉
 (泣事のひそかに出来し浅ぢふにはっち坊主を上へあがらす)

 田舎の荒れ果てた家に隠棲している身で、誰か亡くなったのであろう。おおっぴらに葬儀も出来ず、たまたまやってきた托鉢僧にお経を上げてもらう。
 どういう事情でおおっぴらに葬儀ができないのかは、いろいろ想像の余地がある。
 二十九句目。

   堪忍ならぬ七夕の照り
 名月のまに合はせ度芋畑     芭蕉
 (名月のまに合はせ度芋畑堪忍ならぬ七夕の照り)

 夏の旱魃に里芋の生育を気遣う。名月には昔は里芋を具え、豊年を祈った。そのため「芋名月」という言葉もある。
 月の定座だが、七夕の昼の句にそのままでは月は付けられない。こうした場合は時間の経過で違えて付けるのが一応の定石といえよう。この場合は相対付けではなく違え付けになる。
 『去来抄』の

   ぽんとぬけたる池の蓮の実
 咲く花にかき出す橡のかたぶきて 芭蕉

の句や、

    くろみて高き樫木の森
  咲く花に小き門を出つ入つ   芭蕉

の句もそうした一つの例といえよう。
 三十五句目。

   晒の上にひばり囀る
 花見にと女子ばかりがつれ立ちて 芭蕉
 (花見にと女子ばかりがつれ立ちて晒の上にひばり囀る) 

 女のおしゃべりは雲雀のさえずりにたとえられる。

2021年11月19日金曜日

 今日は箱根に行った。二週続けてになる。
 今日は山中城址と、その周辺の旧東海道を歩いた。箱根峠の前で通行止めになってたので引き返した。一昨年の台風からまだ復旧してなかったようだ。
 帰りには関所跡に寄って帰った。
 帰り道で前方に登ったばかりの大きな三日月?というか半月に近い三日月型の月がぼおっと見えた。これが月食だ。薄く雲がかかっていた。異世界の月のような不思議な感じだ。
 家に帰る六時ごろには、たまたま雲がかかってなくて、赤い暗い月に右下がほんの少し細く光っている月が見えた。ほぼ皆既月食。

 さて風流の方を。
 同じ冬、芭蕉庵で野坡と「寒菊や」の巻の両吟を行うが、これも三十二句目で終わっている。やはり何か迷いがあったのか。
 発句は、

   ばせを庵にて
 寒菊や小糠のかかる臼の傍    芭蕉

で、寒菊はこの場合はアブラギクのことか。
 句の方でも雑草として認識されていたのか、臼で搗いて精米した時に飛び散る小糠のかかった寒菊を詠む。
 花の美しさを愛でるように詠むのではなく、あえて汚れた花を詠むことで、塵に交わりながらも心を失わない、市隠の心を詠もうとしたのかもしれない。
 七句目。

   此一谷は栗の御年貢
 七十になるをよろこぶ助扶持   芭蕉
 (七十になるをよろこぶ助扶持此一谷は栗の御年貢)

 「助扶持」はルビがないが下五なので「たすけふち」であろう。
 栗で年貢を掃う地域だから米はほとんど獲れないのだろう。名産品の栗やそのほかの物を売って現金収入を得て米に換えている地域で、七十歳になると扶持米が支給される所もあったのだろう。まあ、当時七十まで生きる人は稀だったから、長生きに対する褒美であろう。
 十五句目。

   緒に緒を付て咄す主筋
 田の中に堀せぬ石の年ふりし   芭蕉
 (田の中に堀せぬ石の年ふりし緒に緒を付て咄す主筋)

 田の中に大きな石があるのを領主が放置していて、その主君の筋のものが言い訳に、石のいわれだとか霊元や怪異などあることないこと言う。しまいには地震を起こす鯰を抑えつけているとか言い出すのでは。
 二十四句目。

   としよりて身は足軽の追からし
 陰で酒呑ム乗ものの前      芭蕉
 (としよりて身は足軽の追からし陰で酒呑ム乗ものの前)

 馬や駕籠など乗物に乗れるときには、乗る前にこっそりと酒を飲む。歩きの時に酒を飲むと脱水状態になり、足が攣ったりする。
 前句の老いた足軽のしていそうなこととして、位で付ける。

 同じく元禄六年の冬。「雪や散る」の巻半歌仙。
 六句目。

   朝々は布子をはをる暮の月
 研イて捨る腰の印判       芭蕉
 (朝々は布子をはをる暮の月研イて捨る腰の印判)

 印判は印鑑のことだが、「腰の印判」というのは腰に下げた印籠に入っていた印鑑ということか。
 印鑑を捨てる時には悪用されないように、文字が映らないように磨いてから捨てる。
 前句の月から、磨かれた印鑑も月のようだということで付ける。

 同じく冬、「生ながら」の巻は十二句目までは芭蕉と岱水の両吟で、そのあと岱水と杉風の両吟で歌仙を満尾している。
 第三。

   ほどけば匂ふ寒菊のこも
 代官の假屋に冬の月を見て    芭蕉
 (代官の假屋に冬の月を見てほどけば匂ふ寒菊のこも)

 前句の寒菊を代官屋敷の庭とする。代官屋敷は陣屋とも假屋とも呼ばれた。
 四句目。

   代官の假屋に冬の月を見て
 水風呂桶の輪を入にけり     芭蕉
 (代官の假屋に冬の月を見て水風呂桶の輪を入にけり)

 「水風呂」は「すゐふろ」で湯舟のある風呂をいう。芭蕉の時代は蒸し風呂が主流でありながら、徐々に水風呂が広まっていった時代だった。煮るお茶(煎茶の前身)と同様、新味を感じさせる題材だった。
 ここではその桶を据え付ける作業で、大きな桶は現地で組み立てた。
 七句目。

   けふもあそんでくらす相談
 親の時はやりし医者の若手共   芭蕉
 (親の時はやりし医者の若手共けふもあそんでくらす相談)

 江戸時代の医者は免許が要らないから誰でも開業できたが、名医の名も立つとかなり儲かったのだろう。その医者の息子たちはいわゆるドラ息子で今日も遊んで暮らす相談をする。
 そういえば近江膳所藩江戸藩邸に仕えていた竹下東順という名医がいたっけ。その息子は俳諧にはまり、遊んで暮らしている。
 十一句目。

   旅から物のあたるしらがゆ
 麻衣を馬にも着する木曽の谷   芭蕉
 (麻衣を馬にも着する木曽の谷旅から物のあたるしらがゆ)

 木曽谷は風が冷たく、馬も麻衣を着る。旅人も腹を冷やして白粥を食べる。

 翌元禄七年春、

 むめがかにのつと日の出る山路かな 芭蕉

を発句とする野坡との両吟歌仙が興行され、『炭俵』に収録される。
 発句は学校でも習う有名な句なので、ほとんど解説の必要はないだろう。
 あえて言うなら、苦しい旅の中も、一瞬漂うほんのりとした梅の香と一気に昇る朝日の姿にしばし癒やされる。それを「のっと」という俗語を巧みに使って表現しているといったところか。
 四句目。

   家普請を春のてすきにとり付て
 上のたよりにあがる米の値    芭蕉
 (家普請を春のてすきにとり付て上のたよりにあがる米の値)

 上方の方面の情報で米の値が上がっているので、春の農閑期に家の改築に着手して、となる。「て」止めはこうした倒置的な用い方をする。
 この時期実際に米価の高騰があったようだ。
 八句目。

   御頭へ菊もらはるるめいわくさ
 娘を堅う人にあはせぬ      芭蕉
 (御頭へ菊もらはるるめいわくさ娘を堅う人にあはせぬ)

 前句の「菊」を女の名前「おきくさん」の取り成しての付け。
 御頭が嫁を探していてうちのお菊に白羽の矢が立ったら迷惑とばかりに、娘を御頭に合わせないように隠している。
 十四句目。

   終宵尼の持病を押へける
 こんにゃくばかりのこる名月   芭蕉
 (終宵尼の持病を押へけるこんにゃくばかりのこる名月)

 終宵(よもすがら)という夜分の言葉が出たことと、そろそろ月を出さねばという所で、すかさず月を付ける。
 名月の宴のさなか尼が癪をもよおし、看病して戻ってきたらコンニャクだけが残っていて、他の御馳走はみんな食べられていたという一種のあるあるネタで、前句の看病の重苦しい雰囲気を笑いで振り払おうというものだろう。
 十六句目。

   はつ雁に乗懸下地敷て見る
 露を相手に居合ひとぬき     芭蕉
 (はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)

 ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。
 十八句目。

   町衆のつらりと酔て花の陰
 門で押るる壬生の念仏      芭蕉
 (町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)

 「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。
 二十三句目。

   こちにもいれどから臼をかす
 方々に十夜の内のかねの音    芭蕉
 (方々に十夜の内のかねの音こちにもいれどから臼をかす)

 「十夜」というのは十夜念仏(じゅうやねんぶつ)のこと。京都の真如堂(真正極楽寺)をはじめ、浄土宗の寺で十日間に渡って行なわれる念仏会(ねんぶつえ)で、旧暦十月五日から十五日の朝にかけて行なわれた。明治以降、旧暦の行事は禁止されたため、今日では新暦の11月六日から十五日に行なわれている。念仏の時に鳴らされる鐘の音は、初冬の風物でもあった。
  十夜念仏の頃には、ちょうど稲の収穫も終わり、籾摺の作業に入る。そんなときは、近所の家同士で臼の貸し借りもあったのだろう。
 二十五句目。

   桐の木高く月さゆる也
 門しめてだまつてねたる面白さ  芭蕉
 (門しめてだまつてねたる面白さ桐の木高く月さゆる也)

 冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
 前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
 門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのである。
 前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
 土芳の『三冊子』には、

 「この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思おもふ所に非ずとなり。」

とある。
 三十四句目。

   千どり啼一夜一夜に寒うなり
 未進の高のはてぬ算用      芭蕉
 (千どり啼一夜一夜に寒うなり未進の高のはてぬ算用)

 千鳥の鳴く冬の寒い時期は、農村では収穫も終わり、村長は年末までに納める年貢の計算に追われる季節でもある。不作が続いたのか年貢を払いきれず、未進となった金額が膨れ上がって、外も寒いが懐も寒くなる。

 元禄七年は引き続き『炭俵』と『続猿蓑』へ向けての俳諧が並行して行われることになる。『炭俵』が江戸中心の都会的な雰囲気があるのに対し、『続猿蓑』のほうがやや上方よりと言っていいのか。
 春には大垣の凉葉を迎えての「傘に」の巻が興行される。
 発句は、

   雨中
 傘におし分見たる柳かな     芭蕉

で、特に寓意はない。そのままの意味の句だ。傘は「からかさ」と読む。頭に被る笠とは区別される。
 八句目。

   湯入り衆の入り草臥て峰の堂
 黒部の杉のおし合て立      芭蕉
 (湯入り衆の入り草臥て峰の堂黒部の杉のおし合て立)

 前句の修験の入浴を黒部立山の立山温泉として、黒部の杉を付ける。
 黒部杉は黒檜(くろべ)、鼠子(ねずこ)とも言い、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「ヒノキ科(分子系統に基づく分類:ヒノキ科)の常緑針葉高木。別名ネズコ。大きいものは高さ35メートル、直径1.8メートルに達する。樹皮は赤褐色、薄く滑らかで光沢があり、大小不同の薄片となってはげ落ちる。葉は交互に対生し、鱗片(りんぺん)状で、表面は深緑色で、ヒノキより大形であるがアスナロより小形である。5月ころ小枝の先に花をつける。雌雄同株。雄花は楕円(だえん)形で鱗片内に四つの葯(やく)がある。雌花は短く、鱗片内に3個の胚珠(はいしゅ)がある。球果は楕円形で長さ0.8~1センチメートル、その年の10月ころ黄褐色に熟す。種子は線状披針(ひしん)形、褐色で両側に小翼がある。本州と四国の深山に自生する。陰樹で成長はやや遅い。木は庭園、公園に植え、材は建築、器具、下駄(げた)、経木(きょうぎ)などに用いる。[林 弥栄]」

とある。
 ただ、ここでいう黒部の杉は多分「杉沢の沢スギ」ではないかと思う。ウィキペディアに、

 「杉沢の沢スギ(すぎさわのさわスギ)とは、富山県下新川郡入善町の海沿いにある約2.7 haのスギ林を中心とする森林である。森林内に黒部川の湧水が多数みられるのが特徴。スギが一株で複数の幹をつける伏条現象や、森林内の多様な生態系が見られ、国の天然記念物に指定されている。」

とある。「おし合て立」はこの伏条現象のことではないかと思う。
 修験の衆の入浴は集団で行われ、芋を洗うような状態になる所から、黒部で見た杉沢の沢スギを付けたのであろう。
 芭蕉と曾良は『奥の細道』の旅の途中、七月十三日に市振から滑川に行く途中、このあたりを通っている。
 十五句目。

   のぼり日和の浦の初雁
 秋もはや升ではかりし唐がらし  芭蕉
 (秋もはや升ではかりし唐がらしのぼり日和の浦の初雁)

 京へ上る商人を唐辛子売りとした。江戸の薬研掘の七味唐辛子は寛永のころの創業で、唐辛子売りは江戸の名物となった。
 京都では明暦の頃、清水寺の門前で唐辛子が用いられるようになった。
 二十句目。

   春の空十方ぐれのときどきと
 汐干に出もをしむ精進日     芭蕉
 (春の空十方ぐれのときどきと汐干に出もをしむ精進日)

 忌日に凶日が重なるなら、なおさら殺生を避けなければならない。
 二十三句目。

   先手揃ゆる宿のとりつき
 むつかしき苗字に永き名を呼て  芭蕉
 (むつかしき苗字に永き名を呼て先手揃ゆる宿のとりつき)

 大名行列の先手が名乗りを上げるが、よくわからない苗字にその前後にいろいろなものがくっ付いて長い名前になる。征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者徳川従一位行右大臣源朝臣家康(徳川家康)のように。
 二十六句目。

   祝言も母が見て来て究メけり
 木綿ふきたつ高安の里      芭蕉
 (祝言も母が見て来て究メけり木綿ふきたつ高安の里)

 「木綿(きわた)」は木綿の綿。
 高安(たかやす)は今の大阪府八尾市にある地名。
 かつては綿花の栽培が盛んで、河内木綿と呼ばれていた。高安山のふもとの綿織物は山根木綿ともいう。
 『伊勢物語』の筒井筒の話を踏まえて、高安の女は木綿で儲かっているがやめときなということで、奈良の女と祝言を挙げさせたというところか。

2021年11月18日木曜日

 今日も月がよく見える。明日の月蝕も見えるかな。
 彭帥さんのことは大坂なおみさんも心配しているが、こういう事件を聞くとチャウシェスクの息子のことを思い出す。あらためて独裁政治の闇の深さを感じさせる。
 日本は選挙で左翼が負けてごたごたしているせいか、すっかり静かになって平穏な日々になったが。
 小学館の『仮名草子集』の「もえくゐ」を読む。「たきつけ草」の補足のような内容だった。
 「いつわりは、男より始まりて、女には始まらず。」というのは当然のことで、そもそもお金で女を買おうという時点で偽りなのだから、その偽りに応じて適当に相手に合わせるのは偽りと言うほどのものではない。
 そんなことのためとはいえ、遊女が髪を切るのはまだしも、爪を抜いたり指を詰めたりというのは、それぐらい必死でないと生きてゆけない過酷な世界だったんだな。
 優しいそぶりが営業だというのがわからずに、ストーカーになってしまう男というのが一番始末に困る。それは今の風俗でもアイドルでも一緒だが。
 「頭に血の多きままに、心中させてはと思ひこみ、ある時は、芥子ばかりの違ひ目を須弥山ほどにいひなし、露ほどの誤りを大夕立の音よりもなをものさはがしく、ののしりたまはれど」とそんな中で、殺されるよりはましと爪を抜いたり指を詰めたりしていた。
 当時は公権力の保護もなければ、それを「宿世(前世の縁)拙く悲しき事なり」と言うしかなかった。何とか男の嫉妬の怒りをかわしながら、男が金を使い果たして没落するのを待つというのが一応の筋だったのだろう。

 元禄六年七月には京の史邦が江戸に移住する。ここで、

 朝顔や夜は明きりし空の色    史邦

を発句とする歌仙興行がなされる。
 水色の朝顔であろう。ちょうど朝の明けっ切った頃の空のような色をしている。朝から興行が行われたわけではなく、特に寓意もなく立句にしたと思われる。
 第三

   をのれをのれと蚓なきやむ
 舛落またぬに月は出にけり    芭蕉
 (舛落またぬに月は出にけりをのれをのれと蚓なきやむ)

 舛落(ますおとし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「升落・枡落」の解説」に、

 「〘名〙 鼠を捕える仕掛けの一種。升をふせて棒でささえ、その下に餌を置き、鼠が触れると升が落ちてかぶさるようにしたもの。ます。ますわな。ますこかし。
  ※俳諧・庵桜(1686)「升落し中避る猫の別哉〈宗旦〉」

とある。
 前句の「をのれをのれ」を鼠に対しての言葉とする。升落としを仕掛けておいたが夕方になっても鼠はかからず、月が出たのでその舛で酒を飲んだか。
 十一句目。

   祖父のふぐり柴にとり付ク
 子ども皆貧乏神と名をよびて   芭蕉
 (子ども皆貧乏神と名をよびて祖父のふぐり柴にとり付ク)

 前句の「とり付ク」を貧乏神が憑りつくとする掛けてにはになる。
 ここでは前句の「祖父のふぐり」をそのまんま人倫として、褌もせずに歩いている爺さんの貧相な姿に、貧乏神が刈ってきた柴に憑りついていたのか、子供から貧乏神と呼ばれる。
 十六句目。

   鉄棒を戸塚の宿の伝馬触
 腹疫病のはやりしづまる     芭蕉
 (鉄棒を戸塚の宿の伝馬触腹疫病のはやりしづまる)

 前句の鉄棒は「かなぼう」と読む。
 腹疫病は腹に来る伝染病だが、痢病だろうか。今の赤痢のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の痢病の言及」に、

 「… 日本では奈良時代から記録されており,平安時代の《医心方》にも記述され,歴史を通してたびたび流行を繰り返していた。のちには〈痢病〉あるいは〈あかはら〉などとも呼ばれ,江戸時代の医家たちは,その伝染の迅速性に言及している。明治以後も流行を重ね,1893,94年には全国的な大流行となり,両年とも15万人以上の患者,4万人前後の死者を数えた。…」

とある。
 赤痢が流行っているので、伝馬なども移動制限になったのか、流行が去ると一斉に動き出す。
 二十三句目。

   薫じ渡りし白無垢の夜着
 穢土厭離打さそはるる鐘の声   芭蕉
 (穢土厭離打さそはるる鐘の声薫じ渡りし白無垢の夜着)

 前句を死に装束として無常へと展開する。
 穢土厭離(えんりゑど)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「厭離穢土」の解説」に、

 「苦悩多い穢 (けが) れたこの娑婆世界を厭 (いと) い離れたいと願うこと。「おんりえど」とも読む。欣求浄土の対句で,両者を合せて厭穢欣浄 (えんねごんじょう) ともいわれる。安楽な世界である極楽浄土に生れることを切望することから,浄土願生 (じょうどがんしょう) 思想の根本として,浄土教思想の根底となった。日本では平安時代末期から鎌倉時代にかけて世情の不安に伴ってこの思想が一般に普及された。」

とある。

 同じ頃、

 初茸やまだ日数経ぬ秋の露    芭蕉

を発句とする興行もあった。
 秋の露が降りる頃になると、ほどなく初茸の季節になる。季候の挨拶とする。
 この興行に嵐蘭が参加しているが、これが最後の興行となる。
 十一句目。

   やさしき色に咲るなでしこ
 四ツ折の蒲団に君が丸く寐て   芭蕉
 (四ツ折の蒲団に君が丸く寐てやさしき色に咲るなでしこ)

 撫子から幼女のこととして、四つに折って小さくした蒲団の上に丸くなって寝ている様を付ける。
 「撫子」は本来は撫でて可愛がるような子供のことで、大人は「常夏」という。
 二十一句目。

   のみ口ならす伊丹もろはく
 琉球に野郎畳の表がへ      芭蕉
 (琉球に野郎畳の表がへのみ口ならす伊丹もろはく)

 野郎畳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野郎畳」の解説」に、

 「〘名〙 縁(へり)をつけない畳。坊主縁(ぼうずべり)の畳。坊主畳。野郎縁。
  ※俳諧・陸奥鵆(1697)一「拾ふた銭にたをさるる酒〈素狄〉 真黒な冶郎畳の四畳半〈桃隣〉」

とある。琉球畳も同様に縁のない畳をいう。
 あるいは同じ畳を関東では野郎畳、関西では琉球畳と言ったか。
 関西に来て伊丹諸白を飲み慣れたから、部屋の野郎畳も琉球畳に畳替えした、って一緒やんけーーーっ。
 二十四句目。

   見知られて近付成し木曽の馬士
 嫁入するよりはや鳴子引     芭蕉
 (見知られて近付成し木曽の馬士嫁入するよりはや鳴子引)

 「鳴子引(なるこひき)」は鳴子の綱を遠くから引いて鳴らして、田畑の害鳥を追払うことをいう。
 木曽の馬子の所に嫁に行ったら、最初にやらされた仕事が鳴子引きだった。
 二十八句目。

   草赤き百石取の門がまへ
 公事に屓たる奈良の坊方     芭蕉
 (草赤き百石取の門がまへ公事に屓たる奈良の坊方)

 屓は「まけ」と読む。お寺と神社は本地垂迹で共存していても、その境界はしばしば裁判沙汰になる。公事は訴訟のことで、負けて寺領を失った坊は門にも雑草が生い茂っている。
 三十三句目。

   干物つきやる精進の朝
 手拭のまぎれて夫を云つのり   芭蕉
 (手拭のまぎれて夫を云つのり干物つきやる精進の朝)

 夫は「それ」と読む。 
 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年刊)を引いている。

 「前句つねの所なれど、後句おのれが精進をもしらず、干物つけたるはその宿にはあらず、旅籠屋(ハタゴヤ)などの朝と見てつけたる也。さては手拭もゆふべの風呂よりまぎれたるをいひつのるさまに、若者どもの旅連なるべし」

 夕べの風呂場で手拭を誰かが自分のと間違えて持って行ってしまったのだろう。そのことを宿に文句を言って、「そんなことうちには責任ありませんよ」とか言われると、「それに精進日だというのに干物を出しやがって」といちゃもんつける。店の方としては「知るかよ」だろう。
 若者かどうかは知らないが、こういうクレーマーはいつの世にもいたのだろう。
 その次の三十四句目は嵐蘭が付ける。

   手拭のまぎれて夫を云つのり
 駄荷をかき込板敷の上      嵐蘭
 (手拭のまぎれて夫を云つのり駄荷をかき込板敷の上)

 駄荷(だに)は馬につけて送る荷物で、手拭が見つからないが、その荷物の中に紛れているんではないかと、荷物の中身をひっくり返して調べさせる。迷惑なことだ。

 同じ七月に史邦、芭蕉、岱水の三吟歌仙「帷子は」の巻も興行されている。
 五句目。

   夜市に人のたかる夕月
 木刀の音きこへたる居あひ抜   芭蕉
 (木刀の音きこへたる居あひ抜夜市に人のたかる夕月)

 夜市で居合い抜きを披露する大道芸人であろう。真剣でやっているように見せても、どうも木刀のような音がする。
 八句目。

   寒さふに薬の下をふき立て
 石丁なれば無縁寺の鐘      芭蕉
 (寒さふに薬の下をふき立て石丁なれば無縁寺の鐘)

 石丁は石を割ったり加工したりする石丁場のことか。薬を飲ませていたがその甲斐もなく、墓石の準備になる。「無縁寺の鐘」が鳴るのは、どこから来たともしれぬ旅人の客死であろう。
 十一句目。

   よびかへせどもまけぬ小がつを
 肌さむき隣の朝茶のみ合て    芭蕉
 (肌さむき隣の朝茶のみ合てよびかへせどもまけぬ小がつを)

 この時代は抹茶ではない煎じて飲む唐茶も急速に広まった。鰹節も関西では熊野節などが古くから用いられていたが、紀州の角屋甚太郎が黴を利用して保存性を高めることに成功し、江戸でも鰹節売りが登場することになった。
 茶飲み話をしていると鰹節売がくるというのがこの時代の新しいあるあるだったのだろう。人気商品なので、なかなか負けてくれない。
 二十句目は糞尿ネタ。

   竹橋の内よりかすむ鼠穴
 馬の糞かく役もいそがし     芭蕉
 (竹橋の内よりかすむ鼠穴馬の糞かく役もいそがし)

 竹橋は馬も通るので、馬の糞を片付ける人もいる。
 二十三句目。

   とはぬもわろしばばの吊
 椀かりに来れど折ふしゑびす講  芭蕉
 (椀かりに来れど折ふしゑびす講とはぬもわろしばばの吊)

 恵比寿講は商人たちが商売繁盛を願い、御馳走を食べてお祝いする。椀のがくさん必要なときだが、そこに婆の葬儀が重なってしまう。
 二十六句目。

   夜あそびのふけて床とる坊主共
 百里そのまま船のきぬぎぬ    芭蕉
 (夜あそびのふけて床とる坊主共百里そのまま船のきぬぎぬ)

 船饅頭のことか。ウィキペディアに、

 「船饅頭(ふなまんじゅう)は、江戸時代に江戸の海辺で小舟で売春した私娼である。」

とあり、『洞房語園』には、

 「いにし万治の頃か、一人のまんぢう、どらを打て、深川辺に落魄して船売女になじみ、己が名題をゆるしたり」

とある。
 寛保ころの流行歌にもあり(『後は昔物語』)、宝暦の『風流志道軒伝』には、

 「舟饅頭に餡もなく、夜鷹に羽根はなけれども」

とある。
 まあ、そのまま百里の彼方まで船で連れ去られるということはなかったと思うが。
 二十九句目も芭蕉の恋句。

   よりもそはれぬ中は生かべ
 云たほど跡に金なき月のくれ   芭蕉
 (云たほど跡に金なき月のくれよりもそはれぬ中は生かべ)

 前句の「生かべ」は生乾きの壁。
 お金がないとなると二人の仲も盤石ではない。生壁程度になる。
 挙句。

   考てよし野参のはなざかり
 百姓やすむ苗代の隙       芭蕉
 (考てよし野参のはなざかり百姓やすむ苗代の隙)

 百姓も苗代を作れば、田植までの間暇なので吉野へ花見に行く。

 この後芭蕉は、閉関之説を書き表し、

 朝顔や昼は錠おろす門の垣    芭蕉

の句を詠み、しばらく休息する。元禄六年八月十六日、

 いざよひはとり分闇のはじめ哉  芭蕉

を発句とする興行から、活動を再開する。
 十六夜の月は日没に対して若干月の出が遅れる所から、短時間ながら日も月もない闇の時間が生じる。
 六句目。

   見かへせば屋根に日の照る村しぐれ
 青菜煮る香の田舎めきけり    芭蕉
 (見かへせば屋根に日の照る村しぐれ青菜煮る香の田舎めきけり)

  時雨の頃は青菜の季節で、時雨も上がる頃に青菜煮る煙の臭いがし出すと、田舎に来たなという実感がわく。
 陶淵明の歸園田居五首(其一)は、

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
 犬は町の奥で吠え、鶏は桑の木の上で鳴く。

と、犬や鶏の声に田舎を感じさせるが、それを卑俗なものに言い換える。
 犬や鶏を登場させて歸園田居五首(其一)のイメージを借りるのではなく、別の卑俗なもので表現する。
 十一句目。

   渡しの舟で草の名を聞
 鷭の巣に赤き頭の重リて     芭蕉
 (鷭の巣に赤き頭の重リて渡しの舟で草の名を聞)

 バン(鷭)は全身が黒っぽくて額から嘴の付け根辺りまでが赤い。川や池の草の生える中に巣を作る。「赤き頭の重リて」は子バンがたくさん生まれたのであろう。
 三十一句目。

   冬のみなとにこのしろを釣
 初時雨六里の松を伝ひ来て    芭蕉
 (初時雨六里の松を伝ひ来て冬のみなとにこのしろを釣)

 「六里の松」は天橋立のことか。冬に初時雨、みなとに六里の松を付ける。四手付け。
 三十四句目。

   朝すきを水鶏の起す寝覚也
 筍あらす猪の道         芭蕉
 (朝すきを水鶏の起す寝覚也筍あらす猪の道)

 朝の茶事のために早起きして、数寄者にふさわしく竹林の道を行く。その竹林の道を俳諧らしく「筍あらす猪の道」とする。

 元禄六年九月十三日、深川芭蕉庵で、

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

を発句とする興行が行われる。発句は前の「いざよいは」の句に応じたものだ。
 あれから一か月、悲しい出来事もあった。八月二十七日、鎌倉から戻った嵐蘭が急死した。二十九日には其角の父東順が亡くなる。その悲しみのまだ癒えぬ九月十三日、ふたたび月見の会が行われる。
 十六夜は日が沈んで月が登るまでにわずかに闇が生じる。このあと月の出は遅くなり、闇の時間は長くなる。だが、十三夜だと暁闇は最後になり、闇の時刻は日没後に移る。
 八句目。

   きり麦をはや朝かげにうち立て
 幸手を行ば栗橋の関       芭蕉
 (きり麦をはや朝かげにうち立て幸手を行ば栗橋の関)

 幸手は春日部の先にある日光街道の宿場で、埼玉は昔は麦の産地だったから、うどんやきり麦が名物だったのだろう。切り麦を食べて朝日の中、「うち立て」を「すぐに旅立って」の意味に取り成す。
 幸手の先に栗橋があり、ここで利根川を渡ると茨城県古河市になる。この渡しの所に栗橋の関があった。
 十二句目。

   梟の身をもかくさぬ恋をして
 なみだくらべん橡落る也     芭蕉
 (梟の身をもかくさぬ恋をしてなみだくらべん橡落る也)

 比喩ではなく本物の梟も恋をして泣いているのだろうか。泪ではなく橡の実が落ちてくる。
 二十句目。

   寝覚めにも指を動かすひとよ切
 中能ちなむ兄が膝元       芭蕉
 (寝覚めにも指を動かすひとよ切中能ちなむ兄が膝元)

 「中能」は「なかよく」と読む。
 「ちなむ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「ある縁に基づいて物事を行う。縁を結ぶ。親しく交わる。
  出典雪の尾花 俳諧
  「年ごろちなみ置ける旧友・門人の情け」
  [訳] 長年、親しく交わっていた旧友や門人の思いやり。」

とある。芭蕉さんのことだから、単なる旧来からの親しみではなく、前句の「指を動かす」に想像を膨らませ、そっち系に持って行ったのではないかと思う。一節切ではなく尺八だったら、今でもその意味がある。
 二十七句目。

   足はむくみて河原行けり
 よごれたる衣に輪袈裟打しほれ  芭蕉
 (よごれたる衣に輪袈裟打しほれ足はむくみて河原行けり)

 「輪袈裟」はウィキペディアに、

 「僧侶が首に掛ける袈裟の一種で、作務(さむ)や移動の時に用いるのが一般的である。輪袈裟(りんげさ)や畳袈裟(たたみげさ)と呼ばれることもある。」

とある。白衣の上に輪袈裟を羽織ると、お遍路さんの装束になる。
 長旅に汚れた衣によれよれの輪袈裟。さびを感じる。

 元禄六年(一六九四)十月二十日、恵比寿講の日に深川での芭蕉、野坡、孤屋、利牛による四吟歌仙興行。翌年の『炭俵』に収録される。
 芭蕉の軽みは完成期に入り、ここに凝縮されてゆく。
 発句は、

    神無月廿日ふか川にて即興
 振売の雁あはれ也ゑびす講    芭蕉

 旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。
 日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていた。
 恵比寿講は神無月で神々が出雲に集まるため、その留守を守る異国の神として祭られたという説があるが、おそらくそれは後付けの説明だろう。
 振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていた。
 雁の哀れは古典では飛来する鴈に秋を感じて哀れだということだが、ここでは振り売りの売る雁に殺生の罪を感じて「哀れ」だとする。古典に密着しない江戸の都会の雁の哀れを見出すところに軽みがある。
 六句目は経済ネタ。

   好物の餅を絶やさぬあきの風
 割木の安き国の露霜       芭蕉
 (好物の餅を絶やさぬあきの風割木の安き国の露霜)

 割り木は薪のことで、田舎では調達が容易だが、都会になるとかなり大変だ。京では大原女が売りに来るが、江戸でも周辺の田舎から薪売りが来たのだろう。それが安いというのは田舎の方のあまり開けてない国ということだ。
 薪が安い所では米もたくさんある。農家から分けてもらったりすれば小さな庵でも困らない。
 九句目。

   星さへ見えず二十八日
 ひだるきハ殊軍の大事也     芭蕉
 (ひだるきハ殊軍の大事也星さへ見えず二十八日)

 「殊軍の」は「ことにいくさの」と読む。
 まあ、腹が減っては軍はできぬというが、ここでは旧暦二十八日の月がない上に曇って星も見えない真っ暗闇の中、腹ペコで行軍させられる哀れを付ける。
 十四句目は恋句。

   上をきの干葉刻もうハの空
 馬に出ぬ日は内で恋する     芭蕉
 (上をきの干葉刻もうハの空馬に出ぬ日は内で恋する)

 前句の棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている人物を恋する女性に取り成す。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。位付けになる。
 十七句目。

   塀に門ある五十石取
 此島の餓鬼も手を摺月と花    芭蕉
 (此島の餓鬼も手を摺月と花塀に門ある五十石取)

 これは前句を流刑地の島守とし、月花の風流を知るその人柄で島の流刑人たちも手を擦り合わせて拝む。
 隠岐に流罪となった後鳥羽院の、

 我こそは新島守よ隠岐の海の
     荒き波風心して吹け
              後鳥羽院(増鏡)

の俤と見ていいだろう。
 二十二句目はよくある農村の風景か。

   川越の帯しの水をあぶながり
 平地の寺のうすき藪垣      芭蕉
 (川越の帯しの水をあぶながり平地の寺のうすき藪垣)

 平地は河川の流域に新たに作られた新田などのあるところだろう。水害の被害を受けやすい所で、お寺はたいてい少し土を盛って高くしてあり、薄い薮垣に守られている。
 二十五句目も経済ネタ。

   塩出す鴨の苞ほどくなり
 算用に浮世を立る京ずまひ    芭蕉
 (算用に浮世を立る京ずまひ塩出す鴨の苞ほどくなり)

 前句の鴨の塩漬けが届くのを京の商家とする。京は海が遠く、周りは山で囲まれて、新鮮な食材に恵まれず、保存食に依存することの多かった土地だ。
 保存食を食べながら商売で生計を立てる。それが当時の都人だ。
 三十句目。

   中よくて傍輩合の借いらゐ
 壁をたたきて寝せぬ夕月     芭蕉
 (中よくて傍輩合の借いらゐ壁をたたきて寝せぬ夕月)

 「夕月」は夕方に出る月で、満月よりも早く、三日月や半月のことを言う。七月七日の七夕の月の連想も働く。
 町は七夕祭りで賑わい、寝ようにも傍輩(同僚)がやってきては服を貸してくれだとか、なかなか寝させてくれないのも、江戸時代のあるあるだったのだろう。
 三十三句目。

   鯉の鳴子の網をひかゆる
 ちらばらと米の揚場の行戻り   芭蕉
 (ちらばらと米の揚場の行戻り鯉の鳴子の網をひかゆる)

 深川あたりには養殖用の生け簀がたくさんあったのであろう。芭蕉庵にも鯉屋杉風が生け簀に用いていた古池があったという。
 魚をユリカモメなどの鳥に食われないようにこうした生け簀の上には鳥除けの鳴子が取り付けられていたのであろう。「鳴子の網」というのは生け簀の上を覆うように、鳴子のたくさん取り付けられた網を張っていたのではないかと思う。
 米の揚場は浅草御蔵であろう。両国橋の近くにあり、そこへ行き来する人たちが鯉の生け簀の辺りを通る。芭蕉庵から見える風景か。

 元禄六年の十一月に行われた芭蕉、濁子、凉葉による三吟歌仙「芹焼や」の巻は、「田舎」をテーマにした俳諧と思われる。
 発句は、

 芹焼やすそ輪の田井の初氷    芭蕉

で、元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

 芹燒や緣輪の田井の初氷
   此句は、初芹といふ叓をいひのべたるに侍らん
   と、たづねければ、たゞ思ひやりたるほつ句な
   りと、あざむかれにける。かゝるあやまりも、
   殊におほかるべし。

とある。
 「すそ輪の田井」は、

   常陸の國に侍りける時よめる
 假初と思ひし程に筑波嶺の
     すそわの田居も住みなれに鳬
              藤原朝村(新拾遺集)

によるもので、芭蕉の句も筑波山の麓を想像して詠んだと思われる。
 想像の句なので当座の興とは関係なく、既に作ってあった句を立句として採用したとおもわれるが、その後の一巻の展開からして、あえて江戸の町中にあって田舎俳諧をしようという意図があったのかもしれない。
 七句目。

   汐くむ牛も見えぬあさ霧
 露霜の小村に鉦をたたき入    芭蕉
 (露霜の小村に鉦をたたき入汐くむ牛も見えぬあさ霧)

 鉦叩(かねたたき)は大道芸でウィキペディアに、

 「鉦叩(かねたたき)は、中世・近世(12世紀 - 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種であり、およびそれを行う者である。鉦叩き、鉦たたき、金タタキとも表記する。「七道者」に分類され、やがて江戸時代(17世紀 - 19世紀)には歌念仏(うたねんぶつ)に発展するものあり、八丁鉦(はっちょうがね)あるいは八柄鉦(やからがね)とも呼ばれるようになり、門付芸となった。かねたたき坊主(かねたたきぼうず)とも。」

とある。晩秋の村にやってきた。
 十句目。

   求食飛ぶ塊鳩の賑はしく
 掘ばひらぢにならぬ石原     芭蕉
 (求食飛ぶ塊鳩の賑はしく掘ばひらぢにならぬ石原)

 前句の「塊鳩(つちくればと)」はキジバトの異名で、デデッポウ、デデッポウと賑やかに鳴いている。鳩のなく場所ということで、石原を付ける。
 まっ平らな更地にしたいのだけど、石が多くて、石を掘ると穴があいてしまいなかなか平らにならない。
 十三句目。

   和田秩父とも独若党
 懸乞の来ては言葉を荒シける   芭蕉
 (懸乞の来ては言葉を荒シける和田秩父とも独若党)

 懸乞は 掛売りの代金の取り立てで、元禄五年十二月の「木枯しに」の巻の第三に、

   毛を引く鴨をのする俎板
 懸乞の中脇ざしに袴着て     芭蕉

の句がある。
 結構取り立ては脅迫めいた荒々しいものだったようだ。かつての和田秩父の末裔でもたじたじといったところか。
 十九句目。

   破籠はさめぬ鶯のこえ
 雪国は春まで馬の繋がれて    芭蕉
 (雪国は春まで馬の繋がれて破籠はさめぬ鶯のこえ)

 鶯の声がするから既に春なのだろうけど、ここでいう「春まで」は雪解けまでということだろう。
 雪が解けるまではまだ仕事もなく、鶯の声を聴きながら破籠(わりご)の飯を食う。
 二十五句目。

   元米斗る酒の奥殿
 焼たてて庭に鱧するくれの月   芭蕉
 (焼たてて庭に鱧するくれの月元米斗る酒の奥殿)

 奥方は酒の仕込みの米を計り、旦那さんは庭で鱧(ハモ)を擂り潰して、肴にする練り物を作っている。相対付けだが、人倫の制になるので夫をあらわす言葉を隠している。
 二十八句目。

   寄り婿は假リ諸太夫に粧ふて
 うき名は辰の市で恋する     芭蕉
 (寄り婿は假リ諸太夫に粧ふてうき名は辰の市で恋する)

 「辰の市」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「辰の市」の解説」に、

 「昔、辰の日ごとに大和国添上郡(奈良県北部)に定期的に立った市。
  ※枕(10C終)一四「市は、たつのいち、さとの市、つば市」

とある。「浮名は立つ」と掛詞になる。
 『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は、

 なき名のみ辰の市とは騒げども
     いさまた人を得るよしもなし
              柿本人麻呂(拾遺集)

の歌を引いている。
 三十一句目。

   葉茶壺直す床の片隅
 ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて 芭蕉
 (ほととぎすすはやと蚊帳釣かけて葉茶壺直す床の片隅)

 「すはや」は最近あまり使わないが、昭和の頃は「すわっ、火事だ」のように用いていた。危機を察知した時の驚きの言葉で、急いで対処しなければならない時に用いる。
 この場合はホトトギスの声がしたので、そろそろ蚊帳を吊らなくてはというところだが、ちょっと大げさに驚いてみせる。
 都会的な「ゑびす講」の巻に対して、実験的にやったことなのか。和歌の趣向の取り込み、次の続猿蓑調に通じるものもある。

 元禄六年の冬、『炭俵』所収の「雪の松」の巻が興行される。
 発句は杉風で、

発句

 雪の松おれ口みれば尚寒し    杉風

 芭蕉は第三のみの参加となっている。芭蕉を含め十三人もの連衆を集めてのなかなか賑やかな興行だ。芭蕉もここでは控えめに、司会進行役に徹したのだろう。
 その第三。
   日の出るまへの赤き冬空
 下肴を一舟浜に打明て      芭蕉
 (下肴を一舟浜に打明て日の出るまへの赤き冬空)

 下魚は値段の安い大衆魚のことで鰯か何かだろう。明け方に帰ってきた船が取ってきた魚を全部浜に広げて天日干しするのはなんとも豪快だ。赤い朝焼けの空は嵐の前触れなんかではない。これから晴れる印だから魚を干す。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海づらのけしきと見、日和のもやうと定て、魚干す体をいへりけるや。」とある。
 今回の興行では芭蕉はこの一句だけ。さながら漁の収穫を十二人の門弟に見立て、後は任せたぞって所か。

 元禄六年の同じ冬には「いさみたつ」の巻が興行される。

 いさみたつ鷹引居る霰哉     芭蕉

を発句とする巻と、後に『続猿蓑』に収録される、

 いさみ立鷹引すゆる嵐かな    里圃

を発句とする巻と二つがある。前者は芭蕉・沾圃・馬莧による三吟歌仙だが、こちらが没になり、発句を改作して里圃に譲り、芭蕉は第三のみの参加で里圃・沾圃・馬莧の三吟歌仙にした方を『続猿蓑』に採用している。
 発句、

 いさみたつ鷹引居る霰哉     芭蕉

は、鷹狩の鷹が勇み立って飛び立とうとするのを引き留めるかのように、霰が降ってくるという句で、特に寓意はない。
 四句目。

   宿はづれ明店多く戸をさして
 三味線さげる旅の乞食      芭蕉
 (宿はづれ明店多く戸をさして三味線さげる旅の乞食)

 浄瑠璃を語る琵琶法師は次第に影を潜め、この頃は琵琶ではなく三味線で語るように変わっていった。
 三味線を提げた乞食坊主はそうした琵琶法師ならぬ三味線法師なのだろう。昔の宿の賑わいに、かつての琵琶法師の華やかな時代を偲ぶ。
 七句目。

   衾こそぐる秋寒きなり
 露霜にたれか問るる下駄の音   芭蕉
 (露霜にたれか問るる下駄の音衾こそぐる秋寒きなり)

 露霜の降りて寒い日に下駄の音がするが誰だろうか。衾にくるまっていて、出たくないな。
 後の元禄七年刊其角編の『句兄弟』の、

 応々といへどたたくや雪の門   去来

の句を思わせる。
 十句目。

   力なく肱ほそりしうきおもひ
 繕ふかひもなき木綿もの     芭蕉
 (力なく肱ほそりしうきおもひ繕ふかひもなき木綿もの)

 「かひな」から「かひ」を導き出す。ボロボロになった木綿の着物はこれ以上繕ってもしょうがないし、繕うほどの腕の力もない。
 十三句目。

   暑きをほめてかゆる雑魚汁
 釣の銭十二匁の相場なり     芭蕉
 (釣の銭十二匁の相場なり暑きをほめてかゆる雑魚汁)

 十二匁は十二文。釣りをするときは漁師に支払っていたか。十二文で雑魚汁がおかわりできる程喰えるなら安いものだろう。
 十六句目。

   ふところえ畳んで入る夏羽織
 親父親父と皆かはゆがる     芭蕉
 (ふところえ畳んで入る夏羽織親父親父と皆かはゆがる)

 「かはゆし」は可哀そうという意味。可哀そうなものには保護欲求が掻き立てられるので、それが今の可愛いに拡張される元になっている。
 一重の薄物の夏羽織は貧相な印象を与えたのだろう。
 二十二句目。

   時の間に一むら雨の降り通り
 菰より琵琶を出す蝉丸      芭蕉
 (時の間に一むら雨の降り通り菰より琵琶を出す蝉丸)

 謡曲『蝉丸』からの本説付け。はっきりと「蝉丸」と名前を出しているので俤ではない。その一節に、

 「たまたまこと訪ふものとては、峯に木伝ふ猿の声、袖を湿す村雨の、音にたぐへて琵琶の音を、弾きならし弾きならし」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.41489-41495). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 三十五句目。

   奉加帳にはつかぬ也けり
 不公儀に花咲山のあら三位    芭蕉
 (不公儀に花咲山のあら三位奉加帳にはつかぬ也けり)

 「あら三位」は荒三位と呼ばれた藤原道雅のことか。ウィキペディアには、

 「花山法皇の皇女を殺させた、敦明親王の雑色長小野為明を凌辱し重傷を負わせた、博打場で乱行した、など乱行が絶えなかったため、世上荒三位、悪三位などと呼ばれたという。」

とある。

 今はただ思ひ絶えなむとばかりを
     人づてならで言ふよしもがな
              藤原道雅(後拾遺集)

の歌は百人一首でも知られている。非公式に花咲山に現れる。奉加帳に記載はない。
 この巻の芭蕉は軽い付けを繰り返してはいるものの、後半になって古典回帰が見られる。芭蕉にも何か迷いがあったのだろう。
 『続猿蓑』所収の方の第三は、

   冬のまさきの霜ながら飛
 大根のそだたぬ土にふしくれて  芭蕉
 (大根のそだたぬ土にふしくれて冬のまさきの霜ながら飛)

 「ふしくれ」は節くれだつことで、大根が育たぬというから、土が薄く、すぐに岩に当るような場所であろう。そういう場所でも柾葛は節くれながら育つ。