2021年11月8日月曜日

 岩波の『仮名草子集』の「一休ばなし」を読み始めた。序文のところに「煎茶(せんじちゃ)」が出てきた。寛文の頃のお寺でも飲まれていたようだ。「猫の爪磨がごとくに書付」という言い回しが面白い。
 巻之一の最初の方にさっそく出てきました。「此はしをわたる事かたく禁制なり」
 ただ、こういうわかりやすい頓智話は少なく、基本は禅問答なのか。あと、肉食を正当化するネタが多い。
 巻之二まで読んで、シモネタが多いと思ったのも、中世的な特徴なのだろう。シモネタは万国共通で小便は世界を繋ぐ。あるあるネタはある程度町人の生活が多様化したなかで、離れたところで異なる生活をする人同士の相互理解のために生じたのかもしれない。つまり違う感性を持っていても、ここまではわかり合えることの確認というか。
 前に多産多死社会のことに触れた時に、有限な大地の恵みに無限の子孫の繁栄は不可能。なら、余った子供はどうなるかと言えば、男は軍で死に、女は遊女となる。これも洋の東西を問わず、前近代社会の宿命と言えよう、と書いたが、中世までの仏教の役割は、軍で殺し合う代わりに、お寺で乞食として最低限の生活をすることで、平和をもたらすところにあったのではないかと思う。
 本来余剰人員で、死ぬべきところを死を免れているというところで、子孫を残さないことと肉食を断つことでその存在を認められていたのではないかと思う。
 それが中世末から近世へと農業生産性が上がり、多くの都市人口を養う余裕が生まれたところで、僧侶たちの間に一般人と同等な権利を要求する風潮が生じてきたのではないかと思う。
 ただ、その拡大枠を求めているのは僧侶だけでなく、都市の商工業者も同じだった。そしてこの戦いに商工業者が勝利した。その結果、顕密仏教は衰退し、農地を持たぬ人間の生活の権利は宗教的な理由ではなく、あくまで経済的実力によるものに変わっていったのではないかと思う。
 人は食わなくては生きていけないんだから、どんなに文明が発達しても農業生産によって賄える人口しか生きられない。その枠が拡大しても、有限な大地の恵みに無限の子孫の繁栄は不可能という現実は変わらない。これが本質的に大きく変わったのは、少産少死社会を実現してからだ。日本でいえば戦後の60年代からだ。
 侵略戦争は資本主義の必然ではなく、多産多死社会の宿命と言った方が良い。人口が増えても農業生産量は増えない。増やすには農地を略奪するしかない。そのために前近代社会では絶えることなく人は殺し合ってきた。少産少死がすべてを解決した。
 前近代社会でもなぜ江戸時代は平和だったのかということには、また別の答えが必要だろう。日本と朝鮮(チョソン)が例外だったのは、鎖国という特殊な政策にあったと思う。

 それでは風流の続き。
 この後芭蕉は伊勢を発ち、伊賀へと帰郷する。この途中であの、

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

の句が生まれる。
 そして伊賀帰郷後の一月一日、伊賀良品亭で、

 いざ子ども走ありかむ玉霰    芭蕉

を発句とした興行が行われる。
 この句は興行開始の挨拶句ではなく、休養中にできた句ではないかと思う。玉のような霰が降ってくる中、元気に飛び出して行く子供たちを見て、自分の子どもになった気分で一緒に走り歩こう、という句になっている。
 八句目は、
 
   鶏頭の愛なき窓にうち折て
 物喰うちの蠅の苦しさ      芭蕉
 (鶏頭の愛なき窓にうち折て物喰うちの蠅の苦しさ)

で、伊賀の連衆があまりに綺麗にまとめ過ぎていたからだろうか、俳諧らしくリアルに、鶏頭は奇麗だけどそれにつけても蠅がうるさいとする。
 十三句目。

   袴もとらではやわかれけり
 馬の音傍輩達のこゑごゑに    芭蕉
 (馬の音傍輩達のこゑごゑに袴もとらではやわかれけり)

 傍輩は同僚のこと。こっそりと逢引していたが同僚の武将たちの馬の音と探している声が聞こえてきて、慌てて別れることになる。
 二十一句目。

   首のはげたる頼朝の鶴
 初雪にまづ下の句を出しけり   芭蕉
 (初雪にまづ下の句を出しけり首のはげたる頼朝の鶴)

 いわゆる「首切れ」であろう。
 『去来抄』「同門評」の「大切の柳」のところで、

 腫物に柳のさハるしなへ哉    芭蕉
 腫物にさハる柳のしなへ哉    芭蕉

のどちらが良いかという所で、「許六曰、先師の短尺にさハる柳と有。其上柳のさハるとハ首切(くびきれ)也。」とある。間に挟まった言葉によって言葉の続きがスムーズにいかなくなることを「首切れ」という。この場合は「腫れ物に触る」という慣用句に「柳の」が挟まったから「首切れ」と言ったのだろう。
 たとえば「初雪にまづ下の句を出しけり」を「まず下の初雪に句を出しけり」とすれば首切れになる。
 初雪に鶴の和歌を詠もうとしたが、下句にすべき内容が先に来てしまい、首切れの鶴の歌になってしまった。
 頼朝の和歌というとあまり聞かないが、新古今集には二首、

 道すがら富士の煙も分かざりき
     晴るゝ間もなさ空のけしきに
              前右大將頼朝(新古今集)

   前大僧正慈圓文にては思ふほど
   の事も申し盡くし難きよし申し
   遣して侍りける返事に
 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ
     書き盡くしてよ壺の石ぶみ
              前右大將頼朝(新古今集)

の歌がある。
 二十六句目。

   ねる時も馴れば安き瀧の音
 風雅しあげし酒飲の弟子     芭蕉
 (ねる時も馴れば安き瀧の音風雅しあげし酒飲の弟子)

 瀧に酒といえば「李白観瀑図」にも描かれている李白。

   望廬山瀑布   李白
 日照香炉生紫煙 遥看瀑布掛前川
 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

 日は香炉峯を照らし霧は紫にけぶり
 遥か彼方滝が前川の向こうに見えるに
 流れ飛ぶ水は三千尺まっさかさま
 銀河が天から落ちてきたとしか言えずに

 まあ、我が弟子も成長したもんだって、李白の師匠って誰だっけ。賀知章?

 十一月三日には伊賀半残亭で「とりどりの」の巻五十韻が興行される。
 二十五句目。

   猫ざれかかる蝶のむらがり
 若宮のたこ作れとてむつかりぬ  芭蕉
 (若宮のたこ作れとてむつかりぬ猫ざれかかる蝶のむらがり)

 若宮は元は幼少の皇子だが将軍の子にも用いられる。
 「むつかる」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①機嫌を悪くして腹を立てる。機嫌を悪くして不平や小言を言う。
  出典源氏物語 明石
  「『あなにく。例の御癖(おほんくせ)ぞ』と、見奉りむつかるめり」
  [訳] 「ああいやだ。いつもの(色好みの)お癖だ」と、見申し上げ機嫌を悪くしたようだ。
  ②機嫌を悪くして泣く。すねる。特に、子どもが駄々をこねる。
  出典大鏡 公季
  「『例はかくもむつからぬに、いかなればかからむ』と」
  [訳] 「いつもはこうも駄々をこねないのにどうしてこうなのだろう」と。◆のちに「むづかる」とも。」

とある。
 猫はじゃれかかるし若宮様は凧を作ってと駄々をこね、面倒くさい。
 猫は蝶にざれかかり、若宮は凧を作ってくれとうるさい。相対付けと言えなくもないが、響き付けの始まりとも言える。
 おそらく響き付けというのは相対付けの延長から生まれたのであろう。明白な対句となる言葉の一方を隠したり、あるいは猫と若宮のように対句とするには遠いものを組み合わせる中から、生まれたのではないかと思う。
 元禄四年「安々と」の巻三十三句目、

   身ほそき太刀のそる方を見よ
 長椽に銀土器を打くだき     柳沅

の句は『去来抄』で響き付けの例として掲げられているが、この句も「身ほそき太刀」と「銀土器」の相対付けと言えなくもない。
 三句の渡りを嫌い、大きく展開させたい時に対句や対義語にこだわらずに展開する所に「響き付け」が生まれたのではないかと思う。

 この後、伊賀百歳子亭で「霜に今」の巻の興行がなされる。
 二十句目の梅額の句で、

   春の来て猿に小歌を舞セけり
 翠簾の屏風に絵がく獅      梅額
 (春の来て猿に小歌を舞セけり翠簾の屏風に絵がく獅)

と、猿回しと獅子舞の角付け芸つながりで猿の小歌に唐獅子の屏風を添える。 獅は「からじし」と読む。
 これに芭蕉の二十一句目は、

  翠簾の屏風に絵がく獅
 面影に打かざしたる唐団     芭蕉
 (面影に打かざしたる唐団翠簾の屏風に絵がく獅)

 唐獅子に唐団(からうちわ)と、ここも唐つながりになる。
 唐団扇はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「唐団扇」の解説」に、

 「から‐うちわ ‥うちは【唐団扇】
  〘名〙 うちわの俗称。
  ※俳諧・玉海集(1656)二「風と云文字のなりや唐団扇〈貞因〉」

とある。軍配のような形をした唐団扇(たううちは)ではない。

 月に柄をさしたらばよき団扇かな 宗鑑

のような中国風の丸い団扇であろう。
 御簾の向こうの上臈を匂わしたのだろう。
 この場合の「唐獅子」と「唐団扇」は対になり、相対付けの発想での展開ではないかと思う。

 十一月二十二日には土芳蓑虫庵での五十韻興行がある。
 七句目。

   扇の角をつぶす舞まひ
 春にあふ蒔絵の鞘をさげ帯て   芭蕉
 (春にあふ蒔絵の鞘をさげ帯て扇の角をつぶす舞まひ)

 これは前句の位で付けたと言ってもいいのではないかと思う。
 幸若を舞う男は季節ごとの綺麗な蒔絵が施された鞘の刀を下げているような人物だった。
 元禄二年の終わりの伊賀滞在が、不易流行説とともに匂い、響き、位、俤などの匂い付けが自覚された時期と言っても良いのではないかと思う。
 十九句目。

   文書ちらす庭のばせを葉
 それぞれの楽の衣装を脱すてて  芭蕉
 (それぞれの楽の衣装を脱すてて文書ちらす庭のばせを葉)

 猿楽(能)の衣装であろう。次の出し物のためにいそいで着替えると、あちこちに衣裳が散らばり、庭の芭蕉葉のようになる。
 前句の文書の散ったのも芭蕉葉のようで、それに脱ぎ捨てた衣裳も芭蕉葉のようだとのつながりで、「文書」「衣装」を対にする。その意味では響き付けとも言える。
 二十七句目。

   女咳たる薮の戸の内
 後朝のゐの子の餅を配るとて   芭蕉
 (後朝のゐの子の餅を配るとて女咳たる薮の戸の内)

 これも一瞬『源氏物語』葵巻のまだ子供の紫の君とついに我慢できずにやってしまったあと、折から亥の子餅が贈られてたので、婚姻を示す「ねの子餅」を惟光に用意させる場面が思い浮かぶが、本説というほどの結びつきがなく、俤付けの実験ではないかと思う。
 四十一句目。

   松一本は山の神也
 乞食して花に巻する薦簾     芭蕉
 (乞食して花に巻する薦簾松一本は山の神也)

 松に花は相対付けになる。
 薦被りが乞食を意味するように、乞食は薦を着る。
 松は山の神、桜は乞食坊主が宿る。
 四十九句目。

   目のちり吹て貰ふ夕ぐれ
 月の前しかみし㒵もうつくしく  芭蕉
 (月の前しかみし㒵もうつくしく目のちり吹て貰ふ夕ぐれ)

 「しかみし㒵(かほ)」は西施の顰であろう。コトバンクの「デジタル大辞泉「西施の顰みに倣う」の解説」に、

 「《美人の西施が、病気で顔をしかめたところ、それを見た醜女が、自分も顔をしかめれば美しく見えるかと思い、まねをしたという「荘子」天運の故事から》善し悪しも考えずに、人のまねをして物笑いになる。また、他人にならって事をするのをへりくだっていう言葉。顰みにならう。」

とある。
 この場合は眼にゴミが入って顔をしかめていたが、その顔も美しいので、西施のような美女だったのだろう。
 これも出典には特に即しているわけではない。

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