今日も天気が良く、寺家ふるさと村から麻生の浄慶寺の方を散歩した。前にも歩いたコースだが、あれから紅葉もだいぶ赤くなっていた。
さて、芭蕉の生涯の俳諧(風流)をたどるのも、いよいよ最後になる。
芭蕉はこの後伊賀から奈良を経て大阪に行く。洒堂と之道の喧嘩を仲裁するためだった。
既にかなり病気による衰弱がひどく、旅は駕籠と舟によるものだった。ただ、せめて大阪に入る時には自分の足で歩きたいという希望があって、暗峠(くらがりとうげ)で駕籠を降り、歩いて大阪に入った。これが最期の旅になった。
元禄七年九月十四日、大阪畦止亭での興行で、もめ事の元になっていた洒堂と之道は顔を合わせることになる。
発句は、
升買て分別かはる月見かな 芭蕉
になる。
元は十三夜の興行の予定だったが芭蕉の体調不良で延期になって、翌日十四日になった。
十三日には住吉甚社の秋の宝之市神事に行った。宝之市神事は升之市とも呼ばれ、ここの升は縁起物とされていた。芭蕉も折角この時期に大坂に来たんだから、ということで誘惑に勝てなかったのだろう。
病で衰弱していたところを無理して出歩き、雨に降られてしまい、せっかく良くなりかけた病状がまた悪化してしまった。
句の方は、升を買っただけでなく、病気なんだから無理をしてはいけないという分別を一緒に買ってきたことで、十三夜の月見が十四夜の月見に「替った」という「かはる」は二重の意味に掛けて用いられている。
十三句目。
村の出見世に集て寐る
嫁どりは女斗で埒をあけ 芭蕉
(嫁どりは女斗で埒をあけ村の出見世に集て寐る)
嫁を迎える時には男が下手に口出しするともめるもとで、埒が明かなくなる。「埒(らち)」という言葉は今は「埒が明かない」と否定文でしか使わないが、かつては肯定文でも用いられた。
埒は本来は馬場の柵のこと。これが開かないと馬を出せない。
二十五句目。
竹橋かくる山川の末
大根も細根になりて秋寒し 芭蕉
(大根も細根になりて秋寒し竹橋かくる山川の末)
大根は冬のもので、秋も深まってくると徐々に根が太くなりだすが、「細根」というのは今年は育ちが悪くて心細いということか。前句の山奥の景色に大根畑を付ける。
元禄七年九月十九日には、大阪の其柳(きりゅう)亭での八吟歌仙興行が行われる。
発句は、
秋もはやはらつく雨に月の形 芭蕉
で、支考の『笈日記』に、
此句の先〽昨日からちよつちよつと秋も時雨かなと
いふ句なりけるにいかにおもはれけむ月の形にハ
なしかえ申されし
とあり、
昨日からちょつちょつと秋も時雨哉
が初案だったという。この日は事前に発句を用意するのではなく、その場の興で詠んだのであろう。
初案の方は本当にそのまま詠んだという感じで、九月も中旬だからまだ暦の上で冬ではないが、昨日くらいからちょちょっと時雨がぱらついていたのだろう。
ひょっとしたらこの句を詠んで、さあ始めようとしたところで、ちょうど月の光が射してきたのかもしれない。十九日だから月の出も遅い。
せっかく月が出たのだから、この月を詠まない手はないとばかりの改作ではなかったかと思う。
八句目。
此際は鰤にてあへる市のもの
逢坂暮し夜の人音 芭蕉
(此際は鰤にてあへる市のもの逢坂暮し夜の人音)
大阪の町は夜も賑やかで、市の者が鰤で宴会をやっている声がする。この興行をやっている時にも聞えてきたか。
十五句目。
奉行のひきの甲斐を求し
高うなり低うなりたる酒の辞儀 芭蕉
(高うなり低うなりたる酒の辞儀奉行のひきの甲斐を求し)
辞儀はお辞儀のこと。前句の「ひき」を帰るの意味に取り成して、酒の席でお奉行様が退出するとき、酒をたくさんいただいた時は平身低頭し、酒が足りないとおざなりになる。
二十三句目。
焼てたしなむ魚串の煤鮠
此銭の有うち雪のふかれしと 芭蕉
(此銭の有うち雪のふかれしと焼てたしなむ魚串の煤鮠)
寒バエの季節ということで雪の季節になる。銭が尽きた時に雪が降ると苦しいので、銭がまだ残っているうちに降ってくれと願う。
二十八句目。
日は入てやがて月さす松の間
笑ふ事より泣がなぐさみ 芭蕉
(日は入てやがて月さす松の間笑ふ事より泣がなぐさみ)
悲しい時は無理して笑うより泣いた方が良い。
元禄七年九月二十一日、大阪の車庸亭での半歌仙興行。
発句は、
秋の夜を打崩したる咄かな 芭蕉
で、秋の夜のしみじみとした物悲しい雰囲気を打ち崩すような話をしましょう、という挨拶。打倒秋の夜!って感じか。
芭蕉さんの病気もかなり進行していたことだろう。だからといって辛気臭くなってもしょうがない。笑って病気何てぶっ飛ばそう、という意味もあったのだろう。
十五句目。
雨気の月のほそき川すじ
火燈して薬師を下る誰がかか 芭蕉
(火燈して薬師を下る誰がかか雨気の月のほそき川すじ)
「かか」は「かかあ(嚊/嬶)」のこと。薬師堂はいろいろなところにあり、とくにどこのということでもあるまい。夫の病気平癒を祈ってきた帰り道か。前句をその背景とする。不安な空模様がかかあの気持ちと重なる。
元禄七年九月二十六日、大阪の晴々亭で十二人の連衆による半歌仙興行が行われる。
発句は、
所思
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
発句は当座の興で読むことが多いが、事前に用意しておくことも中世の連歌の頃から普通に行われていた。もちろん発句が先にできて、それを元に興行が企画されることもあるし、その辺の事情はいろいろある。
今回の場合も発句は少なくとも九月二十三日の段階では出来ていた。
支考の『笈日記』に、
「廿六日は淸水の茶店に遊吟して
泥足が集の俳諧あり
連衆十二人
人聲や此道かへる秋のくれ
此道や行人なしに龝の暮
此二句の間いづれをかと申されしに
この道や行ひとなしにと獨歩したる
所誰かその後にしたがひ候半とて是
に所思といふ題をつけて半歌仙
侍り爰にしるさず」
というように記されている。
人声や此道かへる秋のくれ
此道や行人なしに秋の暮
の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。
この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。
それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。
帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、
人声や此道かへる秋のくれ 芭蕉
の句で、取り残された自分を描いたのが、
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句になる。
人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。
芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。
その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。
この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。
それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。
芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。
人声や此道かへる秋のくれ 芭蕉
私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。
それに対し、
此道や行人なしに秋の暮 芭蕉
の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。
支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。
第三の支考の句。
岨の畠の木にかかる蔦
月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て 支考
(月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て岨の畠の木にかかる蔦)
畠から蕎麦のこぼれ種が花をつけて、それを月が照らし出している美しい情景を付け、そこに鳥が寝てと付け加える。そして夜明けも近く空も白んでくる。この頃の支考は本当に天才だ。
「岨の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞にもなっていないし、取り成しにもしていない。ただ何となく繋がっているあたりがやはり一種の「匂い」なのか。
この年の閏五月に興行された「牛流す」の巻の六句目、
月影に苞(つと)の海鼠の下る也
堤おりては田の中のみち 支考
の「つと」→「つつみ」、「下がる」→「おりて」の縁にも似ている。
十二句目。
兵の宿する我はねぶられず
かぐさき革に交るまつ風 芭蕉
(兵の宿する我はねぶられずかぐさき革に交るまつ風)
「かぐさき」は獣肉、皮などの匂いのこと。
展開する時には「我は」は余り気にせず、乱世の頃の話にしてもいい。実際に軍の装備をしている兵(つはもの)は革の匂いがぷんぷんしたことだろう。
「兵(つはもの)の宿する」に「かぐさき革」、「ねぶられず」に「松風」と四つ手に付ける。
元禄七年九月二十七日、大阪の園女亭での九吟歌仙興行が行われた。これが芭蕉が参加する最後の俳諧興行となった。
発句は、
白菊の眼に立て見る塵もなし 芭蕉
で、亭主の園女を美しく清楚な白菊の花にたとえ、「眼に立て見る塵もなし」と、あえてあら探しはしないことにしようと、冗談を交えて挨拶としたものだ。
ただ、この句は一ヶ月前の嵯峨野で詠んだ、
大井川浪に塵なし夏の月 芭蕉
の句とかぶっていた。後、十月月九日には支考を呼んで、大井川の句を、
清滝や波に散り込む青松葉 芭蕉
と直すように指示している。これが、芭蕉の最後の句となった。
ただ、これは改作ということで、その一日前に詠んだ、
病中吟
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
の句が、一般には芭蕉の絶筆としてよく知られている。
園女の脇。
白菊の眼に立て見る塵もなし
紅葉に水を流すあさ月 園女
(白菊の眼に立て見る塵もなし紅葉に水を流すあさ月)
発句の挨拶の心を受けて、それへの返礼となるが、自分のことを清楚な白菊に例えた前句の心を受けて、いえ、そんないいものではありません、この紅葉の季節に朝早く起きて、白んだ月を見ながら流し場で働く、普通の女です、と返す。
昔は台所のことを流し場と言ったが、流し場の句というと、
鴬に手もと休めむながしもと 智月
という句もある。男の場合、たいていは仕事のオン・オフがはっきりとしているから、俳諧は仕事を離れた立場から詠むことが多いし、風雅に仕事を持ち込むのは野暮という感覚もあるが、女性の場合、多くは家事や育児といったオン・オフの境のない仕事を二十四時間やっているため、風雅はそのほんの合間の一瞬にすぎない。
まして、そうそう自由に旅ができるわけでもない。そうした中から生まれる風雅を確立したという点では、羽紅、智月、園女といった人たちを忘れることはできない。
十句目。
堵越にちょっと盥の礼いふて
普請の内は小屋で火を焼 芭蕉
(堵越にちょっと盥の礼いふて普請の内は小屋で火を焼)
前句の堵は「かき」で、垣根があるところから、立派なお屋敷とし、その建築工事であれば、大工さんたちが現場に小屋を建てて、そこで火を焚いたりもする。
いかにもありそうな理由を付けて展開している。
十七句目。
彼岸のぬくさ是でかたまる
青芝は殊にもえ立奈良の花 芭蕉
(青芝は殊にもえ立奈良の花彼岸のぬくさ是でかたまる)
青芝といえば、奈良の若草山。全山芝生で覆われた山は三笠山ともいい、阿倍仲麻呂が中国で「三笠の山にいでし月かも」と詠んだのも、この三笠山で、麓には藤原氏の氏神である春日大社がある。遣唐使たちも旅の無事をこの神社で祈ったという。
芭蕉も『野ざらし紀行』の旅のときにこの地を訪れ、東大寺の二月堂に籠って
水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉
の句を詠んでいる。また、『笈の小文』の旅のときにも初夏の奈良を訪れ、
灌仏の日に生れあふ鹿の子こ哉 芭蕉
の句を詠んでいる。そして、今、大阪へ来る直前にも奈良に立ち寄り重陽(九月九日)を奈良で過ごし、
菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉
びいと啼く尻声悲し夜の鹿 同
の句を詠んでいる。
前句が単に時候を示すだけの句なので、ここではかなり自由に花の句を詠める。その中で、芭蕉が選んだのは奈良の若草山の芝生の美しい季節の桜だった。
二十六句目。
上下の橋の落たる川のをと
植田の中を鴻ののさつく 芭蕉
(上下の橋の落たる川のをと植田の中を鴻ののさつく)
「橋の落ちたる」を洪水で橋の流された後の景色に取り成す。
植えたばかりの田んぼがすっかり水に浸かって、湖のようになったところを、コウノトリだけが悠々と歩いている。
「のさつく」という言葉は、気合が入らない、間の抜けたという意味の「のさ」から来た言葉で、今でも「のそーっとして」という言い回しは残っている。
みんなが大変な思いをしている時に何とも腹立たしい感じもするが、「のさつく」という俳言が笑いを誘うことで救われる。コウノトリはしばしば夏の鶴にも見立てられる。
三十一句目。
杖一本を道の腋ざし
野がらすのそれにも袖のぬらされて 芭蕉
(野がらすのそれにも袖のぬらされて杖一本を道の腋ざし)
カラスは人の死の匂いを嗅ぎつけると言われ、不吉な鳥ではあるが、同時に人は必ずいつかは死ぬもので、その逃れられない定めを前に人生を振り返ることで、あらためて生きるということを考えさせられる。
僧が墨染めの衣を着るところから、カラスは僧にも例えられる。不吉で不気味でもあるカラスは、一方では人を悟りに導くものでもある。
前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した。この老人は芭蕉自身といってもいいかもしれない。『野ざらし紀行』では自らを「腰間に寸鐵をおびず。」と言っている。
芭蕉はこの興行の前日に、
旅懐
この秋は何で年寄る雲に鳥 芭蕉
の発句を詠んでいる。芭蕉が心敬の、
わが心誰にかたらむ秋の空
沖に夕風雲にかりがね 心敬
の句を知っていたのかどうかはよくわからない。ただ、意味的にはよく似ている。
心敬の句は沖には夕風が、雲にはかりがねがというように、それぞれ友があるのに、この私には語る友もいず、ただ秋の空だけがあるという意味になる。芭蕉の句もまた、鳥は雲に寄る所があるというのに、この秋は年取るだけで寄る所もない、という句だ。
芭蕉は前年の元禄六年三月に甥の桃印とういんに死なれ、この年の六月には京都滞在中に寿貞じゅていの訃報を聞いている。寿貞は一部には芭蕉の妻とする説もあるが、一般的には桃印の妻といわれている。相次ぐ身内の死に、孤独感を募らせていたのだろう。
こうした事情もあってか、芭蕉は荷中の詠んだ前句に自分の姿を重ね、野原に飛ぶカラスを見るにつけても涙がこぼれる、と付けたのだろう。そして、結果的にこれが芭蕉の最後の付け句となった。
芭蕉は元禄七年十月十二日、この世を去ることになる。支考の『前後日記』にこう記されている。
「されば此叟のやみつき申されしより、飲食は明暮をたがへ給はぬに、きのふ十一日の朝より今宵をかけてかきたえぬれば、名残も此日かぎりならんと、人々は次の間にいなみて、なにとわきまへたる事も侍らず也。午の時ばかりに目のさめたるやうに見渡し給へるを、心得て粥の事すすめければ、たすけおこされて、唇をぬらし給へり。その日は小春の空の立帰りてあたたかなれば、障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手とあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も誰も茫然として、終の別とは今だに思はぬ也。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.89)
このあと支考は芭蕉の果たせなかった西国行脚の夢を果たすべく、九州へと旅立ち、『梟日記』を書き残すことになるが、それはまた別のお話。
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