2021年11月24日水曜日

 今日も良い天気で永青文庫の「芭蕉─不易と流行と─」展を見に行った。芭蕉とその周辺の書画の展示で、宗因や鬼貫などの談林系の書もあったし西鶴の自我賛もあった。。
 肥後細川庭園もだいぶ紅葉が色づいていていい感じになっていた。
 関口芭蕉庵は今日はやってなかった。まあ、二十年以上前に一度行っているが。
 帰りは高田馬場のでぶちゃんで博多ラーメンを食べて帰った。

 それでは昨日の続き。
 「松茸や(都)」の巻も伊賀滞在中、八月二十三日猿雖亭での興行で、十六句のみが残されている。惟然が加わることで、伊賀の俳諧も活気づいた感じがする。
 発句はその惟然(素牛)が詠む。

 松茸や都に近き山の形リ     惟然

 誰かに松茸を貰って芭蕉以下連衆そろって召し上がったか。その松茸の興で興行を始める。
 松茸を見ていると都の近くにある山の形を思い出しますという句で、如意ヶ嶽(大文字山)のことか。
 四句目。

   面白咄聞間に月暮て
 まだいり手なき次の居風呂    芭蕉
 (面白咄聞間に月暮てまだいり手なき次の居風呂)

 話があまりに面白いもんだから、風呂が沸いているのに誰も入ろうとしない。昔の風呂は誰かが薪をくべ続けないと火が消えてしまい、簡単に追い焚きなんてできない。
 七句目。

   日のさし込にすずめ来て鳴
 冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら 芭蕉
 (冬はじめ熟柿をつつむすぐりわら日のさし込にすずめ来て鳴)

 「すぐりわら」は選りすぐりの藁のこと。
 稲刈の後の田んぼには落ちた稲を求めて雀が集まってくる。そのころ人は熟した柿をきれいな藁で包む。
 「俺たちの百姓どっとこむ」というサイトには、

 「大きくて重い美濃柿は吊しても自重が重くて蔕と実が離れて落下してしまいます。そこで年配のおじいちゃんおばあちゃんに智恵を拝借したところ、この地域では昔、この美濃柿を藁にお(藁を集めて重ねて保管すること)の中に入れて保存して渋を抜いていたとのことでした。また、つとといって藁に挟んでおいたとのことでした。」

とある。
 九句目の惟然の句。

   置て廻しいせのおはらひ
 〇ひさしさへならで古風の家作リ 惟然
 (〇ひさしさへならで古風の家作リ置て廻しいせのおはらひ)

 最初の〇は良い句に与えられる点か。字数はあっているので、伏字ではないだろう。
 古い時代の民家は壁が多くて窓や障子の個所が少なく、藁ぶきの軒が大きく張り出しているため、庇を必要としなかったのだろう。
 前句の伊勢から古い時代の匂いで庇のない古民家を付ける。
 十五句目。

   みするほどなきはぜ籠の内
 弓はててばらばら帰る丸の外   芭蕉
 (弓はててばらばら帰る丸の外みするほどなきはぜ籠の内)

 矢場から帰る人を城攻めに失敗した人に見立てて、城外を意味する「丸の外」としたか。さながらたいした釣果もなく帰るハゼ釣りの人のようだ。
 この頃は弓矢の練習場ではなく、庶民の娯楽の場としての矢場が広まって行く頃だった。

 翌八月二十四日にも惟然を交えて、「つぶつぶと」の巻の興行が行われている。
 六句目。

   大八の通りかねたる狭小路
 師走の顔に編笠も着ず      芭蕉
 (大八の通りかねたる狭小路師走の顔に編笠も着ず)

 狭すぎて編笠も引っかかってしまうような狭小路ということか。体を横にして通らなくてはなるまい。
 十六句目。

   立ながら文書て置く見せの端
 銭持手にて祖母の泣るる     芭蕉
 (立ながら文書て置く見せの端銭持手にて祖母の泣るる)

 放蕩者の孫が金の無心に来たのだろう。祖母ももうこれ以上出せないと銭を手に持って、泣きながら差し出す。さすがに思う所があったのか、手紙を書いて店の端に置いて行く。
 二十一句目。

   ならひのわるき子を誉る僧
 冬枯の九年母おしむ霜覆ひ    芭蕉
 (冬枯の九年母おしむ霜覆ひならひのわるき子を誉る僧)

 九年母(くねんぼ)は蜜柑に似た植物の名前で、前句の「子」の縁で「母」の字の入った九年母を付ける。
 「ならいのわるき」から「冬枯」も特に関連があるわけではないが、響きで展開する。
 冬枯れの九年母を惜しむように、習いの悪い子も褒める。
 二十八句目。

   間あれば又見たくなる絵のもやう
 ともに年寄逢坂の杉       芭蕉
 (間あれば又見たくなる絵のもやうともに年寄逢坂の杉)

 逢坂の関の杉は和歌に詠まれている。

 逢坂の杉間の月のなかりせば
     いくきの駒といかで知らまし
              大江 匡房(詞花集)
 鶯の鳴けどもいまだ降る雪に
     杉の葉しろきあふさかの関
              後鳥羽院(新古今集)

 ただ、逢坂の関は絵巻などには描かれるが、画題になることはあまりない。逢坂の杉の老木を描いた絵があったら見てみたいものだ。

 元禄七年九月三日には、支考とその弟子の文代(斗従)が伊賀にやって来る。その翌日、誰かから届けられた松茸を見て、芭蕉の旧作、

 松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉

を立句にした一巻が興行される。
 松茸は枯葉や松の落葉などに埋もれていて、採ってきたばかりの松茸には枯葉がくっついていることがある。店で売っている松茸はそういうものをきれいに取り除いてあるが、昔は松茸あるあるだったのだろう。
 十四句目。

   いそがしき体にも見えず木薬屋
 三年立ど嫁が子のなき      芭蕉
 (いそがしき体にも見えず木薬屋三年立ど嫁が子のなき)

 ネット上の齋藤絵美さんの『漢方医人列伝 「香月牛山」』によると、

 「不妊症に用いる処方については、現在も使われているものとしては六味丸・八味丸に関する記述があり、「六味、八味の地黄丸この二方に加減したる方、中花より本朝にいたり甚だ多し」と書かれています。」

とあるように、不妊症の薬は一応当時もあったようだ。
 まあ、薬は効いてなかったのだろう。
 二十四句目。

   二三本竹切たればかんがりと
 愛宕の燈籠ならぶ番小屋     芭蕉
 (二三本竹切たればかんがりと愛宕の燈籠ならぶ番小屋)

 愛宕燈籠は京都の愛宕神社の燈籠で、秋葉灯籠などと同様、信仰の盛んな地域では至る所に見られる。愛宕灯籠も秋葉灯籠も火難除けという点では共通している。地域の当番の人が火を灯している。
 番小屋は町や村に設けられた番太郎の小屋で、愛宕灯籠の並ぶ番小屋は、京の街の見慣れた風景だったのだろう。
 前句は番太郎が、地域を見張りやすいように竹を二三本切った、とする。
 三十一句目。

   茄子畠にみゆる露じも
 此秋は蝮のはれを煩ひて     芭蕉
 (此秋は蝮のはれを煩ひて茄子畠にみゆる露じも)

 「蝮のはれ」は山口県医師会のホームページの「マムシに咬まれたら」(宇部市医師会外科医会)に、

 「症状としては、噛まれた直後から数分後に焼けるような激しい痛みがあります。通常傷口は2個でたまに1個のこともあります。咬まれた部分が腫れて紫色になってきます。腫れは体の中心部に向かって広がります。皮下出血、水泡形成、リンパ節の腫れも認めます。重症例では、筋壊死を起こし、吐気、頭痛、発熱、めまい、意識混濁、視力低下、痺れ、血圧低下、急性腎不全による乏尿、血尿を認めます。通常、受傷翌日まで症状は進展し、3日間程度で症状は改善していきますが、完全に局所の腫脹、こわばり、しびれなどが完治するまで1カ月ぐらいかかります。ただし、いったん重症化すると腎不全となり死に至ることもあります。」

とある。かなり危険な状態だが、紫の腫れを茄子に見立てて笑うしかない。

 同じ頃、伊賀の猿雖亭での「松風に」の巻七吟五十韻興行が行われている。
 十一句目。

   喧花の中をむりに引のけ
 仕合と矢橋の舟をのらなんだ   芭蕉
 (仕合と矢橋の舟をのらなんだ喧花の中をむりに引のけ)

 「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。
 「矢橋(やばせ)」は琵琶湖の矢橋の渡しで、瀬田の唐橋を行くか矢橋で海を渡るかは悩む所だった。
 その矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。
 「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。
 十四句目。

   せりせりとなく子を籮につきすへて
 大工屋根やの帰る暮とき     芭蕉
 (せりせりとなく子を籮につきすへて大工屋根やの帰る暮とき)

 昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
 だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
 帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
 二十七句目。

   一里の渡し腹のすきたる
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉
 (山はみな蜜柑の色の黄になりて一里の渡し腹のすきたる)

 腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
 これに二十八句目は支考が付ける。

   山はみな蜜柑の色の黄になりて
 日なれてかかる畑の朝霜     支考
 (山はみな蜜柑の色の黄になりて日なれてかかる畑の朝霜)

 「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
 ところでこの句について、支考の元禄八年刊の『笈日記』には、

  「その日はかならず奈良までといそ
   ぎて笠置より河舟にのりて錢司といふ所を
   過るに山の腰すべて蜜柑の畑なり。されば先の
   夜ならん
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  翁
   と承し句はまさしく此所にこそ候へと申ければ
   あはれ吾腸を見せけるよとて阿叟も見つつわらひ
   申されし。是は老杜が詩に青は峯巒の
   過たるをおしみ黄は橘柚の来るを見るとい
   へる和漢の風情さらに殊ならればかさぎの峯は
   誠におしむべき秋の名残なり。」

とある。
 伊賀から奈良への道は通常は笠置街道になる。今の「旧大和街道」と呼ばれる道で伊賀城下を西に向かい、仇討で有名な鍵屋の辻を通り、木津川を渡り、島ヶ原、月ヶ瀬口、大河原など今の関西本線に近いルートを経て木津川沿いの笠置に出る。笠置からは通常は陸路の笠置街道で東大寺の裏に出る。
 ここでは急ぐということで笠置から船に乗って木津川を下って、木津から奈良街道を行くルートを選んだのだろう。その途中に銭司がある。『笈日記』には「デス」とルビがあるが、今は「ぜず」と呼ばれている。
 ここは古くからミカンの産地でもあった。ネット上の乾幸次さんの「山城盆地南部における明治期の商業的農業」には、

 「『雍州府志』にみえる山城盆地南部での特産蔬菜の産地をみると,蕪著・薙萄(大根) が御牧に,芹菜が宇治に,牛芳が八幡などの木津川下流付近に産し,さらに京都都心より約30~32kmの木津川上流の狛に茄子・越瓜・角豆・生姜,鐵司(銭司)に橘(ミカン)が産し,いずれも「売京師」と記載されている。」

とある。『雍州府志』はウィキペディアに「天和2年(1682年)から貞享3年(1686年)に記された。」とある。
 当時の蜜柑の一大産地で、京に供給してたようだ。そのため山の中腹が一面のミカン畑になっていた。
 そこで思い出したのが「松風に」の五十韻興行の二十七句目、

    一里の渡し腹のすきたる
 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉

の句だった。普通に読むと、腹が減ったから黄葉した山が蜜柑のように見える、という意味に取れるので、支考も多分そういう句だと思ってたのだろう。それを支考は朝日の色に取り成して、

   山はみな蜜柑の色の黄になりて
 日なれてかかる畑の朝霜     支考

と続けていた。
 それがこのミカン畑の景色だった。あの句はここの景色のことだったんだと言うと、芭蕉はバレたかって感じだった。
 三十八句目。

   漸に今はすみよるかはせ銀
 加減の薬しつぱりとのむ     芭蕉
 (漸に今はすみよるかはせ銀加減の薬しつぱりとのむ)

 『校本芭蕉全集 第三巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の、

 「これも例の人情世態なり。金銀の取りまはしにこころづかひして、癪気(シャクキ)をなやめる人と見たり。かはせ銀の事の長引て段々と手間どりたるが、やうやうとすみよりたるなり。かかる身の上の人は年中薬のむさま、まことにしかりなり。」

を引用している。
 まあ、相場というのは今の言葉だと「胃が痛くなる」ものだ。
 「しっぱり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[副]
 1 木の枝などがたわむさま。また、その音を表す語。
 「柳に雪降りて枝もたはむや―と」〈浄・吉岡染〉
 2 手落ちなく十分にするさま。しっかり。
 「たたみかけて切りつくるを、―と受けとめ」〈浄・滝口横笛〉
 3 強く身にこたえるさま。
 「あつつつつつつつ。―だ、―だ」〈滑・浮世風呂・三〉」

とある。しっかりと、きちんと飲むというほどポジティブでもなく、仕方なしに、それでも飲まなあかんな、というニュアンスがあったのだろう。ここでも口語的な言い回しが用いられている。

 また同じ頃だが、前年に詠まれた、

 猿蓑にもれたる霜の松露哉    沾圃

の句を立句にした芭蕉、支考、惟然による三吟が巻かれている。『続猿蓑』のタイトルの由来になった発句だけに、『続猿蓑』のメインに据えようという意気込みを以て作られ、実際に収録されることになった。
 この伊賀滞在の期間は芭蕉が支考とともに『続猿蓑』の編纂に携わったが、その原稿は伊賀に残されたのか、後に江戸で出版されるまで支考は原稿の行方を知らなかったようだ。
 松露は美味で香りも良く、それに霜の降りる様は単なる食材としての松露ではなく、むしろ食材を越えた純粋な冬の景物として哀れでかつ美しく、それが『猿蓑』で詠まれなかったのは残念だ、という句だ。
 蓑笠を失った公界の猿の叫びも哀れだが、類稀なる才を持つ松露が霜に朽ちてゆくのもまた断腸の叫びを思わせる。
 五句目。

   篠竹まじる柴をいただく
 鶏があがるとやがて暮の月    芭蕉
 (鶏があがるとやがて暮の月篠竹まじる柴をいただく)

 昔の養鶏は平飼い(放し飼い)で、昼は外を自由に歩き回り、夕暮れになると小屋に戻って止まり木の上で寝る。ちょうどその頃山に入っていた多分爺さんが、刈ってきた柴を頭の上に載せて帰ってくる。
 鶏というと、陶淵明の「帰園田居其一」の、

 狗吠深巷中 鷄鳴桑樹巓
 路地裏の奥では犬がほえて、鶏は桑の木の上で鳴く

を思わせる。柴を頂いた爺さんも実は隠士だったりして。
 この句に支考が六句目を付ける。

   鶏があがるとやがて暮の月
 通りのなさに見世たつる秋    支考
(鶏があがるとやがて暮の月通りのなさに見世たつる秋)

 舞台を市の立つようなちょっとした街にし、登場人物を柴刈りの爺さんから露天商に変える。末尾の「秋」はいわゆる放り込みで、とってつけたような季語だが、人通りの途切れたところに秋の寂しさを感じさせる。

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

の句はこの二十日余り後の九月二十六日に詠まれることになる。
 八句目。

   盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚
 昼寝の癖をなをしかねけり    芭蕉
 (盆じまひ一荷で直ぎる鮨の魚昼寝の癖をなをしかねけり)

 この時代よりやや後の正徳二年(一七一二年)に書かれた貝原益軒の『養生訓』巻一の二十八には、

 「睡多ければ、元気めぐらずして病となる。夜ふけて臥しねぶるはよし。昼いぬるは尤も害あり。」

と昼寝を戒めている。寝すぎは健康に良くないという考え方は、益軒先生が書く前からおそらく一般的に言われていたことなのだろう。
 だが、そうはいってもまだ残暑の厳しい旧盆のころなら、なかなか昼寝の癖を直す気にはなれない。
 ましてお盆前の中間決算の時に魚を大量に安く買って鮨を作るような要領のいい人間なら、無駄に働くようなことはしない。昼寝の楽しみはやめられない。
 前句の人物から思い浮かぶ性格から展開した、「位付け」の句といっていいだろう。
 十七句目。

   水際光る濱の小鰯
 見て通る紀三井は花の咲かかり  芭蕉
 (見て通る紀三井は花の咲かかり水際光る濱の小鰯)

 紀三井寺(紀三井山金剛宝寺護国院)は和歌山県にあり、すぐ目の前に和歌の浦が広がる。
 和歌の浦と紀三井寺は貞享五年の春、芭蕉は『笈の小文』の旅のときに訪れていて、

 行く春にわかの浦にて追付たり  芭蕉

の句がある。また、『笈の小文』には収められていないが、

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺  芭蕉

の句もある。
 実際芭蕉が行ったときは春も終わりで桜も散った後だったが、連句では特に実体験とは関係なく「花の咲かかり」とする。前句を和歌の浦とし、三井寺の花を添える。
 二十三句目。

   喧嘩のさたもむざとせられぬ
 大せつな日が二日有暮の鐘    芭蕉
 (大せつな日が二日有暮の鐘喧嘩のさたもむざとせられぬ)

 これは一種の「咎めてには」ではないかと思う。この頃の俳諧では珍しい。
 ある程度の歳になれば誰だって大切な日が年に二日ある。父の命日、母の命日。
 その恩を思えば喧嘩なんかして殺傷沙汰になって命を落とすようなことがあれば、そんなことのために生んだんではないと草葉の陰で親がなげき悲しむぞと、それを諭すかのように夕暮れの鐘が鳴り響く。
 二十九句目。

   赤鶏頭を庭の正面
 定まらぬ娘のこころ取しづめ   芭蕉
 (定まらぬ娘のこころ取しづめ赤鶏頭を庭の正面)

 ままならぬ恋に情緒不安定になっていたのか。庭の赤鶏頭の花に心を鎮めるというのが表向きの意味だが、赤鶏頭から顔を真っ赤にしてヒステリックな声を上げる女を連想したか。

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