今日は箱根に行った。二週続けてになる。
今日は山中城址と、その周辺の旧東海道を歩いた。箱根峠の前で通行止めになってたので引き返した。一昨年の台風からまだ復旧してなかったようだ。
帰りには関所跡に寄って帰った。
帰り道で前方に登ったばかりの大きな三日月?というか半月に近い三日月型の月がぼおっと見えた。これが月食だ。薄く雲がかかっていた。異世界の月のような不思議な感じだ。
家に帰る六時ごろには、たまたま雲がかかってなくて、赤い暗い月に右下がほんの少し細く光っている月が見えた。ほぼ皆既月食。
さて風流の方を。
同じ冬、芭蕉庵で野坡と「寒菊や」の巻の両吟を行うが、これも三十二句目で終わっている。やはり何か迷いがあったのか。
発句は、
ばせを庵にて
寒菊や小糠のかかる臼の傍 芭蕉
で、寒菊はこの場合はアブラギクのことか。
句の方でも雑草として認識されていたのか、臼で搗いて精米した時に飛び散る小糠のかかった寒菊を詠む。
花の美しさを愛でるように詠むのではなく、あえて汚れた花を詠むことで、塵に交わりながらも心を失わない、市隠の心を詠もうとしたのかもしれない。
七句目。
此一谷は栗の御年貢
七十になるをよろこぶ助扶持 芭蕉
(七十になるをよろこぶ助扶持此一谷は栗の御年貢)
「助扶持」はルビがないが下五なので「たすけふち」であろう。
栗で年貢を掃う地域だから米はほとんど獲れないのだろう。名産品の栗やそのほかの物を売って現金収入を得て米に換えている地域で、七十歳になると扶持米が支給される所もあったのだろう。まあ、当時七十まで生きる人は稀だったから、長生きに対する褒美であろう。
十五句目。
緒に緒を付て咄す主筋
田の中に堀せぬ石の年ふりし 芭蕉
(田の中に堀せぬ石の年ふりし緒に緒を付て咄す主筋)
田の中に大きな石があるのを領主が放置していて、その主君の筋のものが言い訳に、石のいわれだとか霊元や怪異などあることないこと言う。しまいには地震を起こす鯰を抑えつけているとか言い出すのでは。
二十四句目。
としよりて身は足軽の追からし
陰で酒呑ム乗ものの前 芭蕉
(としよりて身は足軽の追からし陰で酒呑ム乗ものの前)
馬や駕籠など乗物に乗れるときには、乗る前にこっそりと酒を飲む。歩きの時に酒を飲むと脱水状態になり、足が攣ったりする。
前句の老いた足軽のしていそうなこととして、位で付ける。
同じく元禄六年の冬。「雪や散る」の巻半歌仙。
六句目。
朝々は布子をはをる暮の月
研イて捨る腰の印判 芭蕉
(朝々は布子をはをる暮の月研イて捨る腰の印判)
印判は印鑑のことだが、「腰の印判」というのは腰に下げた印籠に入っていた印鑑ということか。
印鑑を捨てる時には悪用されないように、文字が映らないように磨いてから捨てる。
前句の月から、磨かれた印鑑も月のようだということで付ける。
同じく冬、「生ながら」の巻は十二句目までは芭蕉と岱水の両吟で、そのあと岱水と杉風の両吟で歌仙を満尾している。
第三。
ほどけば匂ふ寒菊のこも
代官の假屋に冬の月を見て 芭蕉
(代官の假屋に冬の月を見てほどけば匂ふ寒菊のこも)
前句の寒菊を代官屋敷の庭とする。代官屋敷は陣屋とも假屋とも呼ばれた。
四句目。
代官の假屋に冬の月を見て
水風呂桶の輪を入にけり 芭蕉
(代官の假屋に冬の月を見て水風呂桶の輪を入にけり)
「水風呂」は「すゐふろ」で湯舟のある風呂をいう。芭蕉の時代は蒸し風呂が主流でありながら、徐々に水風呂が広まっていった時代だった。煮るお茶(煎茶の前身)と同様、新味を感じさせる題材だった。
ここではその桶を据え付ける作業で、大きな桶は現地で組み立てた。
七句目。
けふもあそんでくらす相談
親の時はやりし医者の若手共 芭蕉
(親の時はやりし医者の若手共けふもあそんでくらす相談)
江戸時代の医者は免許が要らないから誰でも開業できたが、名医の名も立つとかなり儲かったのだろう。その医者の息子たちはいわゆるドラ息子で今日も遊んで暮らす相談をする。
そういえば近江膳所藩江戸藩邸に仕えていた竹下東順という名医がいたっけ。その息子は俳諧にはまり、遊んで暮らしている。
十一句目。
旅から物のあたるしらがゆ
麻衣を馬にも着する木曽の谷 芭蕉
(麻衣を馬にも着する木曽の谷旅から物のあたるしらがゆ)
木曽谷は風が冷たく、馬も麻衣を着る。旅人も腹を冷やして白粥を食べる。
翌元禄七年春、
むめがかにのつと日の出る山路かな 芭蕉
を発句とする野坡との両吟歌仙が興行され、『炭俵』に収録される。
発句は学校でも習う有名な句なので、ほとんど解説の必要はないだろう。
あえて言うなら、苦しい旅の中も、一瞬漂うほんのりとした梅の香と一気に昇る朝日の姿にしばし癒やされる。それを「のっと」という俗語を巧みに使って表現しているといったところか。
四句目。
家普請を春のてすきにとり付て
上のたよりにあがる米の値 芭蕉
(家普請を春のてすきにとり付て上のたよりにあがる米の値)
上方の方面の情報で米の値が上がっているので、春の農閑期に家の改築に着手して、となる。「て」止めはこうした倒置的な用い方をする。
この時期実際に米価の高騰があったようだ。
八句目。
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
(御頭へ菊もらはるるめいわくさ娘を堅う人にあはせぬ)
前句の「菊」を女の名前「おきくさん」の取り成しての付け。
御頭が嫁を探していてうちのお菊に白羽の矢が立ったら迷惑とばかりに、娘を御頭に合わせないように隠している。
十四句目。
終宵尼の持病を押へける
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
(終宵尼の持病を押へけるこんにゃくばかりのこる名月)
終宵(よもすがら)という夜分の言葉が出たことと、そろそろ月を出さねばという所で、すかさず月を付ける。
名月の宴のさなか尼が癪をもよおし、看病して戻ってきたらコンニャクだけが残っていて、他の御馳走はみんな食べられていたという一種のあるあるネタで、前句の看病の重苦しい雰囲気を笑いで振り払おうというものだろう。
十六句目。
はつ雁に乗懸下地敷て見る
露を相手に居合ひとぬき 芭蕉
(はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)
ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。
十八句目。
町衆のつらりと酔て花の陰
門で押るる壬生の念仏 芭蕉
(町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)
「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。
二十三句目。
こちにもいれどから臼をかす
方々に十夜の内のかねの音 芭蕉
(方々に十夜の内のかねの音こちにもいれどから臼をかす)
「十夜」というのは十夜念仏(じゅうやねんぶつ)のこと。京都の真如堂(真正極楽寺)をはじめ、浄土宗の寺で十日間に渡って行なわれる念仏会(ねんぶつえ)で、旧暦十月五日から十五日の朝にかけて行なわれた。明治以降、旧暦の行事は禁止されたため、今日では新暦の11月六日から十五日に行なわれている。念仏の時に鳴らされる鐘の音は、初冬の風物でもあった。
十夜念仏の頃には、ちょうど稲の収穫も終わり、籾摺の作業に入る。そんなときは、近所の家同士で臼の貸し借りもあったのだろう。
二十五句目。
桐の木高く月さゆる也
門しめてだまつてねたる面白さ 芭蕉
(門しめてだまつてねたる面白さ桐の木高く月さゆる也)
冬の寒い季節の月だから酒宴を開くわけでもないし、管弦のあそびに興じるわけでもない。門を閉めてただ一人黙って寝るのもまた一興かと床につくものの、それでも眠れず夜中になってしまう。「高く」は桐の木だけでなく「月」にも掛かるとすれば、天心にある月は真夜中の月だ。本当に寝てしまったんなら月を見ることもない。
前句の「高く」「さゆる」の詞から、高い志を持ちながらも世に受け入れられず、冷えさびた心を持つ隠士の匂いを読み取り、その隠士の位で、「門をしめて黙って寝る」と付く。
門を閉めて、一人涙する隠士に、冬枯れの桐の木も高ければ、月はそれよりはるかに高く、冷え冷えとしている。高き理想を持ちながら、決してそれを手にすることの出来なかった我が身に涙するのである。
前句の語句をそのものの景色の意味にではなく、それに実景でもありながら同時に比喩でもあるようなニュアンスを読み取り、そこから浮かび上がる人物の位で、そうした人物のいかにもありそうなことを付ける。匂い付けの一つの高度な形であり、匂い付けの手法の一つの完成であり、到達点といってもいいかもしれない。
土芳の『三冊子』には、
「この事、先師のいはく、すみ俵は門しめての一句に腹をすへたり。試に方々門人にとへば皆、泣事のひそかに出来しあさ茅生といふ句によれり。老師の思おもふ所に非ずとなり。」
とある。
三十四句目。
千どり啼一夜一夜に寒うなり
未進の高のはてぬ算用 芭蕉
(千どり啼一夜一夜に寒うなり未進の高のはてぬ算用)
千鳥の鳴く冬の寒い時期は、農村では収穫も終わり、村長は年末までに納める年貢の計算に追われる季節でもある。不作が続いたのか年貢を払いきれず、未進となった金額が膨れ上がって、外も寒いが懐も寒くなる。
元禄七年は引き続き『炭俵』と『続猿蓑』へ向けての俳諧が並行して行われることになる。『炭俵』が江戸中心の都会的な雰囲気があるのに対し、『続猿蓑』のほうがやや上方よりと言っていいのか。
春には大垣の凉葉を迎えての「傘に」の巻が興行される。
発句は、
雨中
傘におし分見たる柳かな 芭蕉
で、特に寓意はない。そのままの意味の句だ。傘は「からかさ」と読む。頭に被る笠とは区別される。
八句目。
湯入り衆の入り草臥て峰の堂
黒部の杉のおし合て立 芭蕉
(湯入り衆の入り草臥て峰の堂黒部の杉のおし合て立)
前句の修験の入浴を黒部立山の立山温泉として、黒部の杉を付ける。
黒部杉は黒檜(くろべ)、鼠子(ねずこ)とも言い、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「ヒノキ科(分子系統に基づく分類:ヒノキ科)の常緑針葉高木。別名ネズコ。大きいものは高さ35メートル、直径1.8メートルに達する。樹皮は赤褐色、薄く滑らかで光沢があり、大小不同の薄片となってはげ落ちる。葉は交互に対生し、鱗片(りんぺん)状で、表面は深緑色で、ヒノキより大形であるがアスナロより小形である。5月ころ小枝の先に花をつける。雌雄同株。雄花は楕円(だえん)形で鱗片内に四つの葯(やく)がある。雌花は短く、鱗片内に3個の胚珠(はいしゅ)がある。球果は楕円形で長さ0.8~1センチメートル、その年の10月ころ黄褐色に熟す。種子は線状披針(ひしん)形、褐色で両側に小翼がある。本州と四国の深山に自生する。陰樹で成長はやや遅い。木は庭園、公園に植え、材は建築、器具、下駄(げた)、経木(きょうぎ)などに用いる。[林 弥栄]」
とある。
ただ、ここでいう黒部の杉は多分「杉沢の沢スギ」ではないかと思う。ウィキペディアに、
「杉沢の沢スギ(すぎさわのさわスギ)とは、富山県下新川郡入善町の海沿いにある約2.7 haのスギ林を中心とする森林である。森林内に黒部川の湧水が多数みられるのが特徴。スギが一株で複数の幹をつける伏条現象や、森林内の多様な生態系が見られ、国の天然記念物に指定されている。」
とある。「おし合て立」はこの伏条現象のことではないかと思う。
修験の衆の入浴は集団で行われ、芋を洗うような状態になる所から、黒部で見た杉沢の沢スギを付けたのであろう。
芭蕉と曾良は『奥の細道』の旅の途中、七月十三日に市振から滑川に行く途中、このあたりを通っている。
十五句目。
のぼり日和の浦の初雁
秋もはや升ではかりし唐がらし 芭蕉
(秋もはや升ではかりし唐がらしのぼり日和の浦の初雁)
京へ上る商人を唐辛子売りとした。江戸の薬研掘の七味唐辛子は寛永のころの創業で、唐辛子売りは江戸の名物となった。
京都では明暦の頃、清水寺の門前で唐辛子が用いられるようになった。
二十句目。
春の空十方ぐれのときどきと
汐干に出もをしむ精進日 芭蕉
(春の空十方ぐれのときどきと汐干に出もをしむ精進日)
忌日に凶日が重なるなら、なおさら殺生を避けなければならない。
二十三句目。
先手揃ゆる宿のとりつき
むつかしき苗字に永き名を呼て 芭蕉
(むつかしき苗字に永き名を呼て先手揃ゆる宿のとりつき)
大名行列の先手が名乗りを上げるが、よくわからない苗字にその前後にいろいろなものがくっ付いて長い名前になる。征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者徳川従一位行右大臣源朝臣家康(徳川家康)のように。
二十六句目。
祝言も母が見て来て究メけり
木綿ふきたつ高安の里 芭蕉
(祝言も母が見て来て究メけり木綿ふきたつ高安の里)
「木綿(きわた)」は木綿の綿。
高安(たかやす)は今の大阪府八尾市にある地名。
かつては綿花の栽培が盛んで、河内木綿と呼ばれていた。高安山のふもとの綿織物は山根木綿ともいう。
『伊勢物語』の筒井筒の話を踏まえて、高安の女は木綿で儲かっているがやめときなということで、奈良の女と祝言を挙げさせたというところか。
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