新暦の十一月一日、ハローウィンの魑魅魍魎は魔界に戻り、出雲のへ行ってた神々が帰ってきた。神社は七五三のシーズンを迎える。
選挙の結果は、まあ左翼の人からすれば「夢をありがとう」というところかな。今回はマスコミの予測が大きく外れた。トランプ大統領が爆誕した時のアメリカもこんなだったのかな。
世界はいろいろな問題を抱えているけど、日本国民は革命ではなく地道な改革を選んだ。日本の支持政党なしというサイレントマジョリティーは、基本的にリベラルのなので改革を望んでいる。ただ革命は望んでいない。それがこの選挙の結果だったんだと思う。
そういうわけでコロナ下の混乱に乗じて革命が起こせるのではないかという左翼の夢は、ここに儚く散っていった。
(一応断っておくが、ここでいう革命は暴力革命ではなく、現行憲法下で選挙に勝利した上で米帝に迎合する勢力を排除するという、日本共産党の言う「民主主義革命」を意味する。)
まあ、さすがに彼らも日本人だから、選挙の無効を訴えて国会議事堂を占拠するなんてことはしないと思う。
今日は岩波の『仮名草子集』の「尤之双紙」を読んだ。貞門俳諧師の斎藤徳元が匿名で書いたものらしい。
「尤之双紙」は「枕之双紙(枕草子)」のもじりで、体裁も枕草子を意識している。ただ、自分の体験を書くのではなく、古典や故事をいろいろ引用し、博識をひけらかしながら、時折「尤(もっとも)」というようなあるあるネタや、稀にシモネタを交えて俳言としている。
さて芭蕉の風流の方の続き。
貞享五年は九月三十日に改元され元禄元年になる。その十月、江戸大通庵主道円居士一周忌追善の七吟歌仙興行に路通と曾良が登場する。元禄二年に『奥の細道』の旅の同行を廻る因縁の二人だ。
発句は、
大通庵道円追善
其かたちみばや枯木の杖の長ケ 芭蕉
だった。
遺品の杖があったのか。すでに亡くなっていることを「枯木」に喩え、その長さを古人の徳に喩えて追悼する。
六句目で路通が登場する。
内洞のくぼかなるよりもるる月
油単をかくる蔦のもみぢ葉 路通
(内洞のくぼかなるよりもるる月油単をかくる蔦のもみぢ葉)
油単(ゆたん)は油紙や布で作った耐水性のあるシートで、雨除けに被せたり下に敷いたり物を包んだり、様々な用途に用いられた。
この場合は、修行僧が洞穴に野宿するときに蔦の上に油単を掛けて、地下水による湿気を防ぐのだろう。
路通自身が一所不住の乞食僧だったので、その体験から来る句ではないかと思う。
七句目は曾良で、
油単をかくる蔦のもみぢ葉
つつめどもやがてひえたる物喰て 曾良
(つつめどもやがてひえたる物喰て油単をかくる蔦のもみぢ葉)
油単に包んだ弁当を食うときには、油単はその辺に掛けておかれ、蔦の紅葉を隠す。曾良は僧ではなく神道家だが、旅の経験は豊富だった。
十一句目の路通の句、
声うつくしき念仏聞ゆる
毎かはとなかばかたぶく島の御所 路通
(毎かはとなかばかたぶく島の御所声うつくしき念仏聞ゆる)
は、隠岐に流された後鳥羽院の御所であろう。流される直前に出家し、法皇になっている。
十三句目は曾良の句。
となりをおこす雪の明ぼの
籔の月風吹たびにかげ細く 曾良
(籔の月風吹たびにかげ細くとなりをおこす雪の明ぼの)
草木の手入れされていない藪の中に住む、貧し気な集落であろう。雪の曙の月も日に日に細くなってゆくのが心細く思われる。「しほり」が感じられる。
その次の十四句目に芭蕉が登場する。
籔の月風吹たびにかげ細く
地にいなづまの種を蒔らん 芭蕉
(籔の月風吹たびにかげ細く地にいなづまの種を蒔らん)
「稲孕む」という言葉がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「稲孕む」の解説」に、
「(稲妻によって稲に子(実)ができるという伝説から) 稲の穂がふくらむ。
※俳諧・毛吹草(1638)六「稲妻のかよひてはらむいなば哉〈繁勝〉」
とある。稲妻の光に米が実ることを「いなづまの種を蒔」とする。
十七句目の路通の句。
無理に望をかけし師の坊
峯の供はなの岩屋もつらからぬ 路通
(峯の供はなの岩屋もつらからぬ無理に望をかけし師の坊)
「はな」が平仮名なのは岩鼻に「花」を掛けているからだろう。
峯の岩屋で修行するのは傍目には辛そうだが、そこにわざわざお伴して無理に弟子にしてくれと頼む。こういう人には岩屋も辛いとは思わないのだろう。
達磨大師に弟子入りを訴える「慧可断臂図」の本説か。雪舟の絵が有名だが。
岩屋での修行は六句目とやや被る。
二十句目の路通の句。
わかき身の隠居と成て日は長し
かほのほくろをくやむ乙の子 路通
(わかき身の隠居と成て日は長しかほのほくろをくやむ乙の子)
「乙の子」は末っ子のこと。
顔の黒子が欠点となって、嫁に行かずに隠居の面倒を見る羽目になった。今でいうヤングケアラーか。
二十一句目は芭蕉が応じる。
かほのほくろをくやむ乙の子
舞衣むなしくたたむ箱の内 芭蕉
(舞衣むなしくたたむ箱の内かほのほくろをくやむ乙の子)
黒子のせいで舞いのメンバーから外された。
二十五句目の路通の句。
ゆめとおもひて覚かぬる夢
振袖にいつまで拝む月のかげ 路通
(振袖にいつまで拝む月のかげゆめとおもひて覚かぬる夢)
「振袖」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「振袖」の解説」に、
「① 丈を長くして、脇の下を縫い合わせない袖。また、その袖を付けた着物。昔は男女とも一五、六歳までで、元服以前の者が着た。振りの袖。ふり。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※浮世草子・西鶴織留(1694)二「二十二三までも振袖(フリソテ)着て置て、十七の八のと年を隠す分にて別の事なし」
② ①の着物を着ているところから。
(イ) 年頃の娘。若い娘。おぼこ娘。少女。
※雑俳・蝉の下(1751)「振袖の時も絵本の男沙汰」
(ロ) 前髪立の少年。男色関係のある少年。歌舞伎の少年俳優。若衆。また、かげま。
※浮世草子・西鶴置土産(1693)五「吉彌といふふり袖(ソデ)が、野田藤見がへりに」
(ハ) 夜鷹。下級の街娼。
※雑俳・柳多留拾遺(1801)巻五「本所から出るふり袖は賀をいわい」
③ 駕籠(かご)かきの陸尺(ろくしゃく)の異称。長い袖の黒鴨仕立(くろがもじたて)であったところからの呼称。
※雑俳・柳多留拾遺(1801)巻二〇「ふり袖を四人つれるはやり医者」
④ 「ふりそでしんぞう(振袖新造)」の略。
※色茶屋頻卑顔(1698)「つめ袖ふり袖之覚」
とある。
この場合は遊女の振袖であろう。不運な境遇にこれが夢であったらと思っても、嫌でも現実だということを思い知らされる。そんな毎日に空しく月を拝む。
路通の句は底辺の人の苦しみを訴える句が多く、今でいう社会派という感じだ。
二十七句目は芭蕉の句。
興じてぬすむ蘭の一もと
露ふかき無言の僧の戸を明て 芭蕉
(露ふかき無言の僧の戸を明て興じてぬすむ蘭の一もと)
前句の「蘭」の男色のイメージから僧を付ける。無言の行をする僧の所から蘭を盗むのは稚児であろう。
三十四句目の芭蕉の句。
くみあぐる御堂の朝時ほのか也
蚊にせせられてかぶる笈摺 芭蕉
(くみあぐる御堂の朝時ほのか也蚊にせせられてかぶる笈摺)
「笈摺(おひずる)」は「おひずり」と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「笈摺」の解説」に、
「〘名〙 巡礼などが、着物の上に着る単(ひとえ)の袖なし。羽織に似たもの。笈(おい)で背が擦れるのを防ぐものという。左、右、中の三部分から成り、両親のある者は左右が赤地で中央は白地、親のない者は左右が白地で中央に赤地の布を用いる。おゆずる。おいずる。」
とある。
袖がないならあまり蚊を防ぐのに役に立たないような気もする。夏の巡礼者の無駄な抵抗というところか。
社会派の路通は蕉門の新しい風をもたらしたということか、芭蕉にすぐに気に入られたのであろう。元禄元年冬には、
雪の夜は竹馬の跡に我つれよ 路通
の発句で興行が行われる。ここにも曾良が参加している。
『芭蕉年譜大成』(今栄蔵著、一九九四、角川書店)によると、十二月十七日に芭蕉庵に集まり、
雪の夜の戯れに題を探りて、米買の二字を得たり
米買ひに雪の袋や投頭巾 芭蕉
同 真木買
雪の夜やとりわき佐野の真木買はん 岱水
同 酒買
酒やよき雪ふみ立てし門の前 苔翠
同 炭買
炭一升雪にかざすや山折敷 泥芹
同 茶買
雪に買ふ囃し事せよ煎じ物 夕菊
同 豆腐買
手に据ゑし豆腐を照らせ雪の道 友五
同 水汲
雪に見よ払ふも惜しきつるべ棹 曾良
同 めしたき
初雪や菜飯一釜たき出す 路通
の句を詠んでいる。
この歌仙はこのメンバーから苔翠と泥芹が抜けて、代わりにに宗波が加わったもので、おそらくこの日から遠くない時に集まって行われた興行であろう。
発句も、この時のことを思い出してのものであろう。
竹馬(ここでは「ちくば」と読む)は子供の遊戯の竹馬のことではない。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「竹馬」の解説」にある、
「② 江戸時代、ざるを中心に竹を四本組み合わせたものを二つ、棒の両端に天秤(てんびん)のようにさげ、中に品物を入れて運ぶのに用いたもの。大名行列の後尾につきしたがったり、行商人が用いたりした。
※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)三「侍供が十二人、やりもち、はさみ箱、ぞうり取、よいかよいか、かっぱかご、竹馬(タケうま)、つがう上下拾人あまりじゃ」
の方の竹馬であろう。
みんなが買い物の句を詠んだのに対し、路通だけが飯炊きの句になっているから、これではあたかも路通だけが買い物に行く隊列に取り残されて、一人留守番して飯を炊いていたみたいだ。だから、この竹馬の列に我も連れてってくれ、そこがこの発句であろう。
どこか芭蕉臨終の頃の支考の扱いにも通じるものが感じられる。この種の「いじり」は俳諧師の集まりでも常にあったのだろう。
路通はその後も一部の門人の間でひどく嫌われ、冤罪事件に巻き込まれて、一時は芭蕉からも破門される。理由はよくわからない。出自の問題があったのかもしれない。
四句目。
うち渡す外面に酒の飯ほして
鶴鳴きあはす旅だちのそら 芭蕉
(うち渡す外面に酒の飯ほして鶴鳴きあはす旅だちのそら)
干し飯を旅の携帯食にするのか。鶴の鳴き交わす中で旅立つ。この頃すでに来年の春の『奥の細道』の旅の計画も進んでいたのだろう。
十句目は路通の句。
生れ付みにくき人のうらやまし
親にうらるるしなも有けり 路通
(生れ付みにくき人のうらやまし親にうらるるしなも有けり)
貧しい家では女の子は遊郭に売られてしまう。醜かったら家に留まれたのに。
似たような句に、元禄四年秋の「安々と」の巻の三十一句目、
粟ひる糠の夕さびしき
片輪なる子はあはれさに捨のこし 路通
の句がある。片輪だったら売られることもなく家に残れる。
十七句目も路通ならではの句といえるか。
濁をすます砂川の水
よもすがらつぶねは月につかはれて 路通
(よもすがらつぶねは月につかはれて濁をすます砂川の水)
「つぶね」は奴という字を当てる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「奴」の解説」に、
「つぶね【奴】
〘名〙
① 召使。下仕えの者。しもべ。下男。〔十巻本和名抄(934頃)〕
② (転じて) 仕えること。奉仕。
※読本・雨月物語(1776)吉備津の釜「朝夕の奴(ツブネ)も殊に実(まめ)やかに〈略〉信(まこと)のかぎりをぞつくしける」
とある。
月見の宴が夜を徹して行われる裏には、一晩中働かされている下僕がいるものだ。
『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注は、
汲みてこそ心すむらめ賤のめは
いただく水にやどる月影
西行法師(夫木抄)
の歌を引いている。
下僕の立場からすれば何きれいごと言ってんだ、って感じだ。
同じ頃の「雪ごとに」の巻も同じようなメンバーで行われる。
芭蕉は第三を付ける。
けむらで寒し浦のしほ焼
さまざまの魚の心もとし暮て 芭蕉
(さまざまの魚の心もとし暮てけむらで寒し浦のしほ焼)
魚心あれば水心という言葉もあるが、いろいろな人の好意を受けながら今年も終わろうとしている。前句の「浦」に掛けて魚の心とする。
十一句目の路通の句は、
かたむく松に母のおもかげ
宿かりて頃日うつる三井の坊 路通
(宿かりて頃日うつる三井の坊かたむく松に母のおもかげ)
謡曲『三井寺』の生き別れの息子千満の、唐崎の松を見る心とする本説付け。
これに芭蕉の十二句目は、
宿かりて頃日うつる三井の坊
ちからもちするたはら一俵 芭蕉
(宿かりて頃日うつる三井の坊ちからもちするたはら一俵)
坊にいる稚児たちの力比べであろう。当時の大人は米一俵は当たり前に持ち上げられたというが、子供たちには大人に一歩近づく瞬間でもある。
二十七句目。
痩たる乳をしぼる露けさ
とはぬ夜に膳さしいるる蚊やの内 芭蕉
(とはぬ夜に膳さしいるる蚊やの内痩たる乳をしぼる露けさ)
前句の子を失い一人乳を搾り捨てる貧しい女に、哀れに思った男が、通えない日でも食事を差し入れる。
元禄元年の暮も押し迫る頃、
皆拝め二見の七五三をとしの暮 芭蕉
を発句とする興行が行われる。
七五三と書いて何と読むかというのは、時々クイズになる。答えは「しめ」。
伊勢二見ヶ浦の夫婦岩は二つの岩が注連縄で繋がれている。ここから見える富士山は東の洋上にあるといわれる蓬莱山に見立てられ、初日もこの方角から上る。
蓬莱に聞かばや伊勢の初便り 芭蕉
の発句は元禄七年になる。
正月飾りの一つにも蓬莱飾りとも言われているものがある。また、蓬莱山から来るという七福神の乗った宝船の絵を飾る。二見の七五三(しめ)は正月の蓬莱山の初日を望むものであり、年末の内からそれを拝んでおこう、と暮の挨拶の発句になる。既に来年は伊勢へ行くという計画もできていたのだろう。
十句目。
三弦を暁ごとにほつほつと
まくりて帰る榻のねむしろ 芭蕉
(三弦を暁ごとにほつほつとまくりて帰る榻のねむしろ)
「榻(しぢ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「榻」の解説」に、
「① 牛車(ぎっしゃ)に付属する道具の名。牛を取り放した時、轅(ながえ)の軛(くびき)を支え、または乗り降りの踏台とするもの。形は机に似て、甲板を一枚板または簀子板とし鷺足(さぎあし)をつけ、漆を塗り金具を施す。黄金具は大臣用、散らし金物(赤銅)は納言・大将用、黒金物(鉄)は納言以下が用いる。ただし、四位以下は使用が許されなかった。
※新撰字鏡(898‐901頃)「榻 志持也」
※蜻蛉(974頃)上「川のかたに車むかへ、しぢたてさせて」
② 腰かけ。ねだい。
※続日本紀‐慶雲元年(704)正月丁亥「天皇御二大極殿一受レ朝。五位已上始座始設レ榻焉」
とある。ここでは②で、古浄瑠璃を語る浄瑠璃師が仕事を終えて帰って行く所とする。浄瑠璃は最初は琵琶法師のように琵琶で語っていたが、江戸時代には三味線に代わっていった。
十五句目。
たふとや僧のせがきよむこゑ
侍の身をかへよとや秋の蝉 芭蕉
(侍の身をかへよとや秋の蝉たふとや僧のせがきよむこゑ)
僧の施餓鬼の声に武士の身分を捨てて出家したらどうかと秋の蝉が鳴いている。
西行法師も北面の武士だったから、その俤とも言えなくもない。
十六句目は、これに路通が答える。
侍の身をかへよとや秋の蝉
おひのうちにも夢はみえけり 路通
(侍の身をかへよとや秋の蝉おひのうちにも夢はみえけり)
「おひ」は笈で、前句を発心というよりも一所不住の旅への誘惑とする。芭蕉の『奥の細道』の旅立ちも近い。
二十四句目。
男なき妹がすだれを守かねて
なみだ火桶にはなかみを干 芭蕉
(男なき妹がすだれを守かねてなみだ火桶にはなかみを干)
「はなかみ」は必ずしも鼻をかむことではなく、涙をぬぐうことも言う。『冬の日』の「狂句こがらし」の巻十八句目に、
二の尼に近衛の花のさかりきく
蝶はむぐらにとばかり鼻かむ 芭蕉
の句がある。
干さぬ袖という言葉があるが、ここでは涙にぬれた鼻紙を干す。
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